波打ち際の考察

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波屋山人

否定することってどういうことだろう

2011-08-02 22:54:16 | Weblog
生活している中で、つい何かを否定したり拒絶したりしてしまうことがある。
「すぐに意見の違う人を拒絶するあの人って嫌だね」とか
「人をバカにする人ってサイテーだね」などと
否定的な感情を持ってしまう人は、もしかしたら
自分もまた意見の違う人を拒絶したり、
人をバカにしているのかもしれない。

「陰口を言わないでその場で言ってほしいもんだよ」と
仲間に言っている人は、もしかしたら
自分もまた陰口を言っているのかもしれない。

「あいつらは極右だ、極左だ」と
過激に言っている人たちは、もしかしたら
自分もまた極端なほうにいるのかもしれない。

「あいつはエロい」とか「あいつは卑怯だ」とか
「あいつは傲慢だ」とか「あんなやつはぜんぜんダメだ」
と言う人自身にも、いくらかはエロくて卑怯で
傲慢でダメなところがあるかもしれない。

「あの人は謙虚だ」とか「あの人はふところが深い」とか
「あの人はやさしい」とか「あの人にだっていいところはある」
と言う人には、いくらかは謙虚でふところ深くて
やさしくいいところがあるのかもしれない。

初期仏教の影響の強い東南アジアの一部では、
声を荒げて怒鳴ったり、ふてぶてしい態度をとることは、
みっともないことだと認識されている。
不快なことがあってもそのような様子を見せない人がいる。

きっと、世の中の仕組みを把握したようなえらいお坊さんは、
誰かを攻撃したり、おとしめたり、辱めたり、拒絶したり
しないのではないだろうかと想像する。

もちろん、言葉を使用したり組織の中で生活する上で、何かを拒絶し、
何かを追いやらざるを得ないこともあるだろう。
意図していないことを曲解され、対立を起こしてしまうかもしれない。
ときには、理解のない人の攻撃によって排除されてしまうことだってあるかもしれない。

だけど、どこかに、細々と心やさしい人が息づいていることを夢想する。
人に自分の領域を侵されても、自分の心身を侵されても、
尊厳を失わない、知的で寛容な人たちが存続することはありえるだろうか。

弱者であれ強者であれ、人は、自分と方向性が異なるものを排除して、
自分の存在を維持しようとするのかもしれない。
気に食わないものを排除しようとするときの論理は、結局
「自分たちの生命の維持に支障をきたす恐れがある」
というところに集約される。

韓国の人が猛烈に日本人議員によるウルルン島訪問を拒絶するのも、
中国共産党政府がウイグル人の蜂起を絶対に許さないのも、
多くの人が原発に反対するのも、原発反対に反対するのも、
一部の人が韓流に反対するのも、韓流に反対する人に反対するのも、
ぜんぶ、突き詰めていけば、自分たちの生命の維持や
自分たちの所属する組織の存続をあやうくする恐れがある要因を
排除しようとしている行動にすぎない。

韓国の国土を死守することによって韓国民のアイデンティティや生命は守られるし、
中国共産党による支配体制を維持することによって支配層の生命は存続する。
自国民中心主義だと人々が暮らしを維持できなくなると考える人もいるし、
自国のシステムを守らないと侵略されて崩壊してしまうと考える人もいる。

安全や平和や民主主義や言論の自由を守ろうとするのも、
突き詰めていけば、それが自分の生命や、自分が所属する組織の維持に役立つと考えているからだ。
それに対立するものは、「悪」とか「犯罪人」とか「バカ」とか「クズ」とか
「カルト」とか「極右」とか「極左」とか、「変態」とか「妄言」とか「軍国主義者」とか、
マイナスの価値しかないというレッテルを貼られ否定される。


ぼくらは、どうどうめぐりのように何かを拒絶して、自分を守り、自分の居場所を確保しているつもりでいる。
だけど、ほんとうは何も確固としたものなど確保してないのかもしれない。
色即是空でもないけど、実体があるように見えるものは、幻にすぎないのかもしれない。

世の中には、怒りや反発を肯定する人もいて、
そういう人にとっては、不満を発散させることもやりがいの一部なのかもしれないけど、
いろんなものにストレスを感じ、怒りを感じ、文句を言って
憤死してしまいそうな人を見ると、偉大さよりも悲しさを感じてしまう。

ほんとうは、自分を慕うチベットの人々が何万人も殺害されたとき、
ダライ・ラマ十四世は憤怒の表情をうかべてもよかった。号泣してもよかった。
中国共産党を憎み、全否定してもよかった。

ところが、ダライ・ラマ十四世はそのようなことをしなかった。
彼は中国共産党を憎まず、人民解放軍を憎まず、チベットの人々に復讐を説かず、
寛容な態度を維持した。
それは何かを信じているからではない。
世の中の仕組みを把握しようとする思考の結果、そこにたどりついたのだ。

多くの人が、彼のような思考と態度を身につけたら、どうなるだろう。
世の中はいっそう美しく楽しいところになるだろうか。
あるいは、自己中心的な強大な勢力が略奪をくりかえす場所になってしまうだろうか。

ぼくは、何も否定しないで生きていくことは、ありえるのではないかと考える。
ダライ・ラマ十四世は、暴力的なことも性的なことも否定して我慢しているのではない。
そういったことに衝動をおぼえないだけだ。

否定したり拒絶したりすることから遠ざかれば、どんな世界が見えてくるのだろう。
ぜったいに守らなければいけないものってあるのだろうか。
ぜったいに否定されなくてはいけないものってあるのだろうか。
少なくとも、否定ばかりしているけどなぜ自分が何かを否定しているのか
あまり自覚的でない人よりは、心穏やかな世界にたどりつけるのではないだろうか。

(以上のように言っても、否定ばっかりしている人のことを否定しているわけではない)


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