波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

高齢労働者

2011-08-03 23:16:42 | Weblog
ダイヤモンドオンラインに興味深い情報が載っていた。
日本の高齢者は働いている率が高いというのだ。

元資料らしきデータを見ると、日本人男性の60~64歳男性の76.5%が、働いているらしい。
65~69歳でも49.4%。
そんなに働いているのか。
70~74歳でも30.0%。女性は同何代の男性の半分強程度。
フランスやイタリアでは、もっと気楽。
55~59歳の男性の3分の1はもう働いていない。

・第2-11表 性別・年齢階級別人口・労働力人口・労働力率(2009年)
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/2011/02/p067-075_t2-11.pdf

若年人口が減少し続ける日本社会では、高齢者が働かないと世の中が回っていかないのだろうか。
そうしたら、ぼくはいつまで働き続けないといけないのだろう。
70歳? それはきついなー。
身体が動くうちに世界中の見たことがないものを見に行きたい。

電通が先月発表した調査結果では、65歳時点では83%が、70歳時点では26%が働いていることを希望している。
働くのが好きなのだろうか。
手持ちの資金に不安があるのだろうか。
ほかにしたいことはないのかな。

・電通ニュースリリース(2011.07.14)
http://www.dentsu.co.jp/news/release/2011/pdf/2011082-0714.pdf

樋口教授の分析は興味深い。
http://diamond.jp/articles/-/13413?page=4
■なぜ震災後も新卒採用は衰えなかったか 団塊世代の大量引退で到来する「2012年問題」 の深刻 ――慶應義塾大学商学部・樋口美雄教授 (2011.08.02)
 OECDの国際比較調査によると、日本における60~64歳男性の労働力率(人口に占める労働力人口の割合)は非常に高く、約7割の人々が働いていることがわかる。それに対して、フランスの労働力率は約20%、ドイツに関しても約40%に過ぎない。
 こうした日本の高い高年齢者就業率に対して、働くこと以外に遊びを知らないからだ、と文化的な側面を指摘する人がいるが、私はそれだけが理由ではないと考えている。実際、フランスやドイツは以前から労働力率が低かったわけではなく、実は1960年代における高齢者就業率は70~80%で、日・仏・独間でそれほど大きな差はなかった。
(以下略)


今後、日本では65~69歳の人も労働人口にカウントされるようになる可能性がある。
もしかしたら、20年もたたないうちに日本国民の平均年齢は50歳代に突入し、
50歳女子会が各地に生まれ、60歳以上のロッカーが各地のフェスを席巻し、
60代になった織田裕二や鈴木保奈美が40年ぶりに恋愛ドラマ(東京エルダリーラブストーリー)を演じ、エル(エルダリーの略)がトレンディな高齢者をあらわす流行語になり、
70歳を前に退職後の生活を楽しみにする人が増え、
80代の日本人女性が大挙してフル介護対応の海外旅行を楽しむ、
というような時代が来るかもしれない。

それにしても、70歳まで過酷な条件下で働くのはきついなぁ。
50歳まで我慢をしてもいいけど、50歳以降は好きなことだけやって動きたい。
50歳で隠居して、73歳で亡くなるまで好きなことして過ごしていた伊能忠敬のように。


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一票の平等

2011-08-03 22:21:36 | Weblog
国政選挙において、都市部と農村部では一票の価値に差があることが多い。
農村部では広い地域から1人の議員を選出しても、有権者が20万人しかいない場合がある。
ところが、都市部では100万人の人口に対して議員は2人しかいないかもしれない。
そうすると、農村部と都市部では1票に2.5倍の価値の差が生じてしまう。

そういったことに不公平を感じて是正運動をしている人たちの意見広告をときどき目にする。
憲法とか法律を厳密に適用すればそうなのかもしれないけど、なんだかしっくりこない印象も受ける。

もし、国連で各国に各一票が与えられることなく、厳密に人口によって各国の票数が定められたら、人口の多い国の意見が圧倒的に通りやすくなってしまう。

地域性というものを考慮する余裕があってもいいのではないだろうか。


川上に大きな集落があり、川下に小さな集落がある町があったとする。
町議の多くが川上出身であれば、農業用水の使用について、川上の集落に有利な決定をする可能性がある。

平地に大きな町と、山の上に小さな町が合併して新しい市ができたとする。
市議会議員の多くが平地の大きな町出身であれば、町の開発は平地の人が主導し、
農産物を作ったり森林資源を守ったりしてきた山の上の町は廃れていくかもしれない。

強大な国と、周辺の小さな国が大きな連邦国家を作ったとする。
だけど、人口比によって連邦議会の議員が選ばれ、
過半数が強大な国出身者で占められたら、
小さな国は独立性を失い、強大な国の方針に従わされ、やがて合併を強いられるかもしれない。

そのような一方的な圧力をさけるために、国連は人口の多寡に関わらず各国に一票を与えている。
ECにおいてASEANにおいても各国が一票もっている。
日本国内でも、各団体の全国大会では、各県代表者や各団体代表者、各社代表者は一人一票を持つ。

もしも、アジアが連合国家を構成し、住民すべてに一人一票を与えたら、
連合国家議会の議員の過半数は中国出身者に占められるだろう。
そして、中国の利益のために行動する議員は、弱小国の意見を無視し、辺境国の独立性は切り捨てるかもしれない。

高校野球の代表校数が各都道府県の人口に比例して選ばれることになれば、
大都市の学校ばかりが勝ち上がることになるかもしれない。

同じようなことが日本での国内政治についてでも言えないだろうか。
農村部の人口は少ないが、かつては文化形成、交通、農林水産業などで重要な位置をしめていた。
現在でも日本の国土面積の半分以上は農村部で、そこの伝統行事や環境を守り続けている人たちがいる。
農村部は人口が少なく、経済活動も活発ではないけど、伝統文化の多様性や維持している自然環境の広さは都市部を圧倒する。

都市部は人数は多いけど、似たような格好をして、同じような言葉をしゃべり、画一的な行動をしている人が少なくない。
文化的には、農村部ほどの多様性は持たないのではないだろうか。
古くからの農村部における1万人規模の集団で見られる言語や思考や行動の多様性は、
都市部のベッドタウンでは10万人くらいの集団でも確認できないかもしれない。

新しく開発された住宅地に集中して住み、数だけ多い人たちが、
古くからの歴史を持つ広い土地に分散して住んでいる人よりも、
文化的多様性が豊富だとは言えない。

さまざまな文化圏に住む人の意見を尊重するのであれば、
必ずしも一人一票である必要はないのではないだろうか。

100万人も県民がいない高知や鳥取や島根は、
500万人以上の県民をかかえる兵庫ほどの発言力は得られないのだろうか。
兵庫の人が10回意見を言うときに、高知や鳥取や島根の人はそれぞれ1~2回しか意見を言わないということが、
人口比から見た平等な状態なのだろうか。

一票の平等の観点から言えば、兵庫から10人国会議員が選出されるのであれば、
高知や鳥取や島根からそれぞれ1~2人しか選出されないのだろうか。
だけど、それぞれの県から2~3人くらい選出されても、兵庫県民は不公平に思わないだろう。

そのあたり、一票の平等を求める人たちはどのようにお考えなのだろう。

みんな平等、一人一票が正しい、というのは
民主主義におけるルールなのかもしれないけど、
それは民主主義において仮定されているひとつのルールであって、
絶対的に肯定されるべき正しいこと、というわけではない。
一人一票が絶対に正しい、ということはだれも数式で証明できない。

判断力のある人には2票を与え、判断力のない人からは票を没収する、というルールがあったら、
政策決定における判断力を高めるためには有効なルールになりえるかもしれない。

社会組織の存続や発展を目的に選挙制度を考えた場合、
一票の平等にこだわるよりも、もっと大事なことがあるのではないかと思う。

・権力志向の人ではなく、人々の役に立つ人が立候補しやすくなる制度。
・人気者ではなく、政治的実力のある人が当選しやすくなる制度。
・地方の活性化をはかりやすくなる制度。

そういうことを考えないで一票の平等を追求するのは、ちょっとシンプルに感じる。

・一人一票実現国民会議
http://www.ippyo.org/index.html



コメント (3)
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