さっき、TBSの「情熱大陸」でミャンマーの吉岡秀人医師の特集を見ていた。
吉岡医師のことは、ミャンマーの日系旅行会社「ヤンゴンナウ(サネイトラベル)」のサイトで見たことがある。
すごい人がいるものだとずっと気になっていた。
番組を見た後、吉岡医師のブログを見てみた。
考えさせられる記述があった。
・発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い
http://japanheart.exblog.jp/
> 第二次世界大戦当時のミャンマー(ビルマ)での戦争19万人以上の日本人が
> 死に、その遺骨が残っている。
>
> あるとき何かの番組で、どこかの島に未だにほったらかしにされている日本の遺骨
> がたくさんあり、その回収にお金が必要だということになったとき、現在も困っている
> 人たちはたくさんにいるのだから、そんなお金があれば今困っている人たちに使った
> ほうがいいというコメントを出す人もいた。
>
> もし、日本のために自分が命がけで何かをなさねばならないとき、しかし、後世の
> 人たちがそれを少しも評価もせず、自分の亡骸さえほったからしにするということを
> 知っていたなら、誰が自分の国のために命をかけようと思うだろうか?
> 国のためというのは、すなわち自分のため、家族のため、かわいい子どものため、
> 故郷のため、父母のため、自分を育ててくれた、植物や自然のためということだろう。
> そのために、命をかけたのだ。
>
> 過去を大切にすることは、未来を大切にすることだ。
> 未来の子どもたちを大切に思うならば、過去の人々を大切に思うことだ。
> 不思議なことに、私にとっては当たり前だが、それは同じだけ成果となって現れる。
登山家の野口健さんも、海外で戦死した日本兵の遺骨を収集する活動に力を注いでいる。
吉岡秀人医師も、遺骨は収集すべきと考えているのだろう。
ぼくは、去年の10月にミャンマーを訪れるまで、ミャンマーに30万人以上の日本兵が展開し、19万人以上が亡くなったことを知らなかった。
祖父も曽祖父も戦死していないから、遺骨収集のことを特に意識したこともなかった。
(祖父の兄は南洋で撃墜されて亡くなったので、遺骨は探しようがないらしい)
仏教遺跡で有名なバガンに行くと、自転車をこいで日本人慰霊碑に向かい、黙祷した。
客引きの子どもたちも、じっと慰霊碑に向かうぼくには声をかけない。
慰霊碑に日陰をつくる大きな木の上には、黒い鳩が何羽もたたずみ、亡くなった兵士の無念がさ迷っているかのような風景だった。
灼熱の太陽と容赦ないスコールに体力を奪われ、現地の疫病に倒れた日本兵。
彼らはミャンマーのリゾートで楽しい思いをしたこともなかったのだろう。
ヤンゴンからは西へ向かい、パテインという町で一泊。
翌日、数十年前の日野自動車のバスで海沿いの山脈を越え、グエサウンというビーチリゾートへ行った。
ベンガル湾に沿った小さな村にリゾートホテルが立ち並ぶ。
村はずれのレストランで食事をしていたら、現地のおじさんが興味深いことを言ってきた。
「この村には、日本の兵隊の襟章がある」
「私の母親は日本名がある。日本の兵隊にハナと呼ばれていた。ウシ、ウマ、などの日本語も覚えている」
そうか、こんな辺境の地まで日本兵は来ていたのか。
この美しい海を見て、心安らかに深呼吸した人もいたのだろうか。
おいしい魚や貝を食べ、水浴びに興じた兵隊もいたのだろうか。
補給もなく、弾薬もなく、背走を重ねた日本兵は現地の人々から穀物や牛馬を略奪したこともあった。
極限の中で、何の希望もなく亡くなった人も多いだろう。
日本に帰ってから調べると、ヤンゴンからベンガル湾にまで日本兵は歩いて行ったらしい。
しかも、実家に近い地域の人たちが多くミャンマーに出兵し、亡くなっていた。
ぼくが見たヤンゴンやパテインの町並みも、チークの木(現地の人はティーク、と言っていた)も、海沿いの町も、65年前に眺めていた日本人がいた。
グエサウンの美しいビーチを眺めたなら、病んだ日本兵も心やすらかになれたのではないだろうか。
そんな兵士がいたであろうと思いたい。
・「一兵士の戦争体験 ― ビルマ戦線 生死の境」小田敦巳著
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/index.htm
吉岡医師のことは、ミャンマーの日系旅行会社「ヤンゴンナウ(サネイトラベル)」のサイトで見たことがある。
すごい人がいるものだとずっと気になっていた。
番組を見た後、吉岡医師のブログを見てみた。
考えさせられる記述があった。
・発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い
http://japanheart.exblog.jp/
> 第二次世界大戦当時のミャンマー(ビルマ)での戦争19万人以上の日本人が
> 死に、その遺骨が残っている。
>
> あるとき何かの番組で、どこかの島に未だにほったらかしにされている日本の遺骨
> がたくさんあり、その回収にお金が必要だということになったとき、現在も困っている
> 人たちはたくさんにいるのだから、そんなお金があれば今困っている人たちに使った
> ほうがいいというコメントを出す人もいた。
>
> もし、日本のために自分が命がけで何かをなさねばならないとき、しかし、後世の
> 人たちがそれを少しも評価もせず、自分の亡骸さえほったからしにするということを
> 知っていたなら、誰が自分の国のために命をかけようと思うだろうか?
> 国のためというのは、すなわち自分のため、家族のため、かわいい子どものため、
> 故郷のため、父母のため、自分を育ててくれた、植物や自然のためということだろう。
> そのために、命をかけたのだ。
>
> 過去を大切にすることは、未来を大切にすることだ。
> 未来の子どもたちを大切に思うならば、過去の人々を大切に思うことだ。
> 不思議なことに、私にとっては当たり前だが、それは同じだけ成果となって現れる。
登山家の野口健さんも、海外で戦死した日本兵の遺骨を収集する活動に力を注いでいる。
吉岡秀人医師も、遺骨は収集すべきと考えているのだろう。
ぼくは、去年の10月にミャンマーを訪れるまで、ミャンマーに30万人以上の日本兵が展開し、19万人以上が亡くなったことを知らなかった。
祖父も曽祖父も戦死していないから、遺骨収集のことを特に意識したこともなかった。
(祖父の兄は南洋で撃墜されて亡くなったので、遺骨は探しようがないらしい)
仏教遺跡で有名なバガンに行くと、自転車をこいで日本人慰霊碑に向かい、黙祷した。
客引きの子どもたちも、じっと慰霊碑に向かうぼくには声をかけない。
慰霊碑に日陰をつくる大きな木の上には、黒い鳩が何羽もたたずみ、亡くなった兵士の無念がさ迷っているかのような風景だった。
灼熱の太陽と容赦ないスコールに体力を奪われ、現地の疫病に倒れた日本兵。
彼らはミャンマーのリゾートで楽しい思いをしたこともなかったのだろう。
ヤンゴンからは西へ向かい、パテインという町で一泊。
翌日、数十年前の日野自動車のバスで海沿いの山脈を越え、グエサウンというビーチリゾートへ行った。
ベンガル湾に沿った小さな村にリゾートホテルが立ち並ぶ。
村はずれのレストランで食事をしていたら、現地のおじさんが興味深いことを言ってきた。
「この村には、日本の兵隊の襟章がある」
「私の母親は日本名がある。日本の兵隊にハナと呼ばれていた。ウシ、ウマ、などの日本語も覚えている」
そうか、こんな辺境の地まで日本兵は来ていたのか。
この美しい海を見て、心安らかに深呼吸した人もいたのだろうか。
おいしい魚や貝を食べ、水浴びに興じた兵隊もいたのだろうか。
補給もなく、弾薬もなく、背走を重ねた日本兵は現地の人々から穀物や牛馬を略奪したこともあった。
極限の中で、何の希望もなく亡くなった人も多いだろう。
日本に帰ってから調べると、ヤンゴンからベンガル湾にまで日本兵は歩いて行ったらしい。
しかも、実家に近い地域の人たちが多くミャンマーに出兵し、亡くなっていた。
ぼくが見たヤンゴンやパテインの町並みも、チークの木(現地の人はティーク、と言っていた)も、海沿いの町も、65年前に眺めていた日本人がいた。
グエサウンの美しいビーチを眺めたなら、病んだ日本兵も心やすらかになれたのではないだろうか。
そんな兵士がいたであろうと思いたい。
・「一兵士の戦争体験 ― ビルマ戦線 生死の境」小田敦巳著
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/index.htm
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