波打ち際の考察

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波屋山人

サムライじゃない

2008-03-31 20:50:07 | Weblog
藤原正彦氏のエッセーにはウィットがあり、心地よく読み進めることができる。
ちょっと力を入れて見せたりするのもひとつのポーズで、押し付けがましい感じはしない。

ただ、私にはちょっと実感がわかない記述もある。
藤原家は諏訪藩の武士の家系だ、という意識。
武士道は騎士道にも通じる、という意識。

私の父方の祖先は普通の農民。母方の祖先は坊さんだった。
父方の先祖をさかのぼっても一説には公家だったという話があるくらいで、武士の話はまったく無い。
直系の先祖で、戦争で亡くなった人もいない。
だから靖国神社に対して特に感じるものもない。
武士っていうよりも、坊さんとしての遺伝子を感じることのほうが多い。


しかし、家を継いだ祖父の兄にあたる人が飛行機に乗っていて撃墜されて亡くなったという話を聞いたことがある。
家を出て軍での出世を願ったその人は、あまり学歴はなかったけどがんばって昇進し、将官になったけど南洋で撃墜され、遺骨は戻らなかった。

むかし、実家近くの我が家の墓地のスペースの一角に、木の柱が立っていた。
それが祖父の兄の墓標だった。
家を三男(私の祖父)に継がせて家を出て行った人だから、特に先祖として手厚くまつられることはなかったけど、他の自然石のお墓と同じように、榊を添え、菊を添え、砂糖菓子も供えていた。
子どものときから、私はお墓参りのたびに手を合わせていた。

隣町に住むその人の娘や家族も時々参っていたみたいだけど、我が家に立ち寄ることはほとんどなかった。

だけど、もう2000年より前の話だろうか、ある時木の柱が無くなっていた。
墓を守っていた我が家にことわりを入れることもなく、隣町の親族はどこかにお墓を持って行ったらしい。
内心、なんて失礼な人たちなんだ、と家族は感じていたかもしれないけど、特に言及することはなかった。さみしくは感じていたかもしれない。

その後、戦争で無くなった人の奥さんも娘さんも亡くなり、隣町の△□家は消滅したらしい。
そのことも、わが△□本家には伝えられなかった。
戦争で亡くなった人の娘さんの息子は健在なのに。

私の祖父の兄の孫は、奇遇にも私の大学時代の指導教官だった。
ほとんど指導されたことないけど。

こんどの7月に、大学の同窓会があるらしい。
そこで先生に会ったら、聞いてみようかな。
「先生、先生のおじいさんは今どこにまつられているんですか。おじいさんをまつっていた私たちに何の伝言もなく、墓標を持ち去ったのはどなたですか。昭和天皇の戦争責任を追及されるのも結構ですけど、先生のご実家はいろいろ責任を拒否していませんか」と。

もう一度、祖父の兄に手を合わせたいと思う。

ふと、野口健さんがセブ島での遺骨収集にも取り組んでいるということを知って、そんなことを思い出した。

・野口健「遺骨調査団に参加して」
http://www.noguchi-ken.com/message/b_num/2008/0323.html


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