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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

新潟県関川村の村八分

2007-07-07 09:24:32 | Weblog
新潟県関川村(沼川沿いの沼集落)の村八分問題が裁判沙汰になっています。

・「村八分」訴訟で分断続く新潟の関川村 夏祭りにも影(2007年7月6日朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200707050361.html
(略)「通りがまるで深い溝のよう。隣近所で毎日憎しみ合って、地獄に住んでいるみたいだ」
新潟県関川村。わずか36戸の集落は3年間、「村八分」をめぐって分断された。
きっかけはお盆のイワナのつかみ取り大会だった。04年春、「準備と後片づけでお盆をゆっくり過ごせない」と村民の一部が不参加を申し出ると、集落の有力者は「従わなければ村八分にする」と、11戸にゴミ収集箱の使用や山での山菜採りなどを禁じた。 村民11人は同年夏、「村八分」の停止などを求めて有力者ら3人を提訴。有力者側も名誉を傷つけられたとして反訴した。
新潟地裁新発田支部は2月、有力者側に行為の禁止と計220万円の賠償を命じた。しかし、有力者側は「村八分行為はしていない」と東京高裁に控訴した。(略)原告側住民は「どんな状況になっても、モノが言えない集落の空気を壊したかった」と訴える。村民の中には原告側に賛同する人もいるが、「代々の家や土地があって集落を離れることができない。自分も村八分になるかも知れず、それを考えると表立っては言えない」と打ち明ける。(略)

・「村八分」に賠償命令…新潟地裁支部判決(2007/2/28読売新聞)
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07022805.cfm 
集落の行事への不参加を理由に、回覧板を回さなかったり、ゴミ収集場を使わせなかったりして“村八分”にしたとして、新潟県関川村沼集落(36戸)の住民11人が区長ら3人を相手取り、計1100万円の損害賠償などを求めていた訴訟の判決が27日、新潟地裁新発田支部であった。松井芳明裁判官は「(原告は)生活上の不便を感じたのみならず、精神的苦痛を被った」として、区長ら3人に計220万円の支払いと、“村八分”行為を即刻やめるよう命じた。判決によると、原告住民は2004年、毎年8月に開かれている「岩魚(いわな)つかみ取り大会」への不参加を、不明朗な会計処理や多忙を理由に区長らに申し出た。これに憤慨した区長や実行委員長らは「集落のすべての権利を放棄し脱退したものとする」と通告、同年6月1日から、〈1〉ゴミ収集場の使用禁止〈2〉山菜などの採取・入山禁止〈3〉広報紙や回覧板を回さない〈4〉違反者には罰金3万円――などの“村八分”行為を続けている。


ブログで感想を書いている人も多いようです。
「ひどいな!」「ゆるせない!」というような人が目立ちます。
ちらっと見たところ、下記のような感想を書いている人がいました。

>あまりにも現代離れしてるよなあ。

>ブログ検索を掛けてみましたが、関川村の訴訟に関しては概ね冷静な意見、村八分と言う時代錯誤の報復行為に対して疑問を投げかけるものがほとんどでした。

>本当に酷い話ですよね。

>こんなイナカもあるんだよね・・・。

等々。村八分にした者に対して理解を示すような意見は見あたりません。


だけど、多くの人は現代の都市住民の価値観で物事を判断しているのかもしれません。
世の中にはいろんな価値観があります。
ある価値観を疑わずに、1つの価値観に沿って判断してしまうと、シンプルな反応になってしまいます。

「現代的な価値観を持つ自分は村八分なんてバカなことは受け入れられない。それはオカシイことだ」などと感じる人はこの機会に、自分の価値観はどのようなものなのか掘り下げて考えてみるといいかもしれません。
自分の脳にプログラミングされている判断基準を知ることができるのではないでしょうか。
自分の判断基準が、この世の中でいろんなことを見聞きするなかで培われた、一種の馴れ合いの中で習得した「常識」だと認識すると、自分の頭の中の馴れ合いに対しても、多少ツッコミを入れられるかもしれません。


せっかく長い間命を繋いできたゴキブリや寄生虫を「キタナイ!」という価値観によって全部抹殺してしまえば、そこにあるのは「生物の進化」ではなくて「生態系バランスの崩壊」でしょう。
生命や価値観の進化を信じるよりは、生命や価値観の多様化(拡散)を感じるほうが自然の摂理には近いかと思います。

「自分の価値観から見てバカだったり犯罪者だったりするやつは全員抹殺!」と言うよりは、「自分の価値観から見るとバカだったり犯罪者だったりするけど、いるんだよな、こういうやつ。世の中が多様化してくるとこういうやつが出てくることもあるし、もしかしたら自分の存在がおびやかされることになるかもしれないけど、自分の居場所はどこに見つけようかな」というぐらいに考えたほうが、謙虚で平和的、共存的かもしれません。



田舎における集落()のありかたについては、社会学や民俗学、文化人類学等々幅広い多くの分野の知的研鑽を積んだ人々が言及してしました。
多くは田舎の閉鎖性やいじわる、無知やわがままに対して全否定はしていません。
学者、フィロソファーは、さまざまな時代を経て存在しているものに対して誠実に分析します。


たとえば、日本の農村を分析したきだみのるの名著「にっぽん」岩波新書(1967年)の中には次のような記述があります。
p8
の生活で根本的に大切なことは何か。それはが何事につけても一つに纏ることだ。これは協調、協同、協力、封建的な言葉で言うと和を予想する。如何にが小さく、お念仏でいうように日毎に、そして朝に晩に顔を見上げ見下ろしている親しさの雰囲気の中にあるといっても、すべての問題にすべての住民がすべての機会に同じ意見であり得ないことは明らかだ。したがってが一つに纏るには他に対する自発的服従或は自己制限が必要となる。こんな制限を自分におしつける原因理由(モチーフ)はどこにあるのか。この問題は対象のも出された課題もともに重要だ。それは人間が集まって作る一番単純な集団の中で組織はどうして生まれるか、支配と服従はどのようにして得られるかに関連しているのだから。

p82
(集落の有力者の発言)
――そらあ、多数決のほうが進歩的かも知れねえが議会にゃあ向かねえや。多数決つうなあ決選投票だんべえ。ここいらで決めるのはわが身の損得になる問題が多いんだわ。だから負けた方は論には負けるし銭はふんだくられるし、仲よしも向こうにつくでは、どのくれえ口惜しい解るめえ。だからその恨みが何時までも忘れられずに残らあ。それじゃあもうはしっかり行かなくなるんで部落会じゃあやりたがらねえのよ。部落会議じゃあ、村議会でもそうだが十中七人賛成なら残りの三人はのつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致になっちもうのよ。それに数が少ねえもの。が仲間割れしちゃあ少数派は元より多数派も茶飲みに行く家の数がへってうまかあねえもの。

p86
には掟がある。に育ちに住む者なら、このことは物心ついたら事ある毎に親たちにいわれて知ってもいるし、それに違反したら自分がどうなるか知っている。この掟、それは刃傷するな、他人の家をつん燃やすな、盗人するな、の恥を外にさらすなの四章だ。(略)ともかくもこの四章を破ったらづき合いから外され、八分になりに置いてもらえないことは誰もが承知していることだ。



経済人類学者、栗本慎一郎は「東京の血は、どおーんと騒ぐ」情報センター出版局(1983年)の中で次のように喝破しています。
p194
都市とは、人間にとって<自然>なのだ。これに対して農村は<文化>であり、秩序である。(略)田舎の山や川、または海は、一見ホッとできるようでいて、実はホッとできる人が限られているのだ。利用権は必ず共同体によって厳しく限定されていて、その保証のうえに立つ者はつねに安心して身を委ねられるが、漁業権もないのに、川や海の魚と遊ぶものは実に厳しく排除される。これこそ<文化>の意味なのだ。

p202
農村の青年が、都市に行けば自由があるぞ、ひょっとしたら幸せになれるぞと思うのはしかたがない面も多いが、ただヤミクモにそう思いこんではいけない。農村の人工的秩序の中で息苦しく生きているときには、敵というものが見えていて打倒や憎しみの対象がもてるということもあるのである。



上記の文章は、農村の集落の特徴についてするどい指摘があります。
農村はひとつの共同体ですから、正論を主張して筋を通せばいいというものでもありません。
助け合い、関わり合い、つながりあっていますから、自分の都合で周囲の人に迷惑をかけると、周囲からいっせいに非難される場合もあるのです。
農作業の繁忙期や冠婚葬祭の時に1軒だけ何も手伝わずに旅行に行くのは難しいでしょうし、自分の意志を貫く場合は予想される反発や報復を覚悟すべきでしょう。あるいは穏便にすませるために根回しでも行うべきでしょう。

現在でも、田舎のほうに行けばおじさんや主婦が、ひそひそ話をしているのを耳にすることができます。
「あの人はあんなことして、どう思われるか考えとらへんのかなあ」
「最近外からきた住民は権利ばかり主張して集落に対して何もせえへん」

これは農村的な価値観の住民と、都市的な価値観の移住者との価値観の違いが問題意識を生じさせているのかもしれません。
価値観と価値観がぶつかって問題が発生するというのはどこにでもある自然なことです。


ただ、日本の各地の地域や組織に、農村的なもの、満場一致的なもの、組織の体質に相容れないものは排除する、といったものは潜在しています。
論理ではなく根まわしで影響力を広げる政治家、コミュニケーションの取り方が難しい外国人に対する意味のない愛想笑い、労働組合のポリシーなき満場一致や不明朗な会計に対するあいまいな承認、勤務先の飲み会へ参加することを拒否しにくい雰囲気、差別的でない語源の言葉でも嫌がる人がいれば差別語と認定してしまう事なかれ主義、どれも論理よりも馴れ合いが影響力を維持しています。
都会にもまだまだ農村的なものが多く息苦しい。

それなりに、農村的な価値観は、あるべくしてあるのかもしれません。
誰でも多かれ少なかれ、農村的な馴れ合い、ねたみ、疎外、等々といった姿勢を抱えているのかと思います。



私は、きだみのるが住んでいた14戸の集落と、村八分問題がおきている36戸の集落の中間サイズの集落で育ちました。集落には表(おもて)の川、裏の山があり、山すその集落は標高の高いほうが上(かみ)、下のほうが下(しも)と呼ばれています。
隣近所でのおすそ分け、回覧板のやりとり、婦人会や子ども会のイベント、等々が残る田舎の集落です。
大事なのは世間体とか、常識。まわりの人に理解されないことをすると変な目でみられてしまいます。
自分の考えを好き勝手に貫くことはむずかしいので、ちょこちょこと噂話をして憂さ晴らしをします。

私みたいに周囲の雰囲気に流されるのを好まない、噂話を好まない人間からすると田舎は居辛いところです。
もし田舎で「圃場整備事業によってコンクリートの水路にされた小川を整備しなおし、石を積んで砂を敷いて水草を植え、メダカやタナゴを呼び戻そう」とか「せめてインターネットの高速回線が使える環境にしよう」「ねばねば料理で町おこしをしよう」「上郡町でカキ氷祭りをしよう」などという運動をしようとしても、住民に理解を得るのはたいへんです。
田舎の人は変化を好まない人も多いですから。自然が破壊されても、町が倒産しそうになっても心に痛みを感じない人が多いですから。

私は故郷の風景を心の中におさめ、田舎を離れました。
東京は気楽です。夜中に散歩しようが、私服で会社に行こうが、選挙を無視しようが、とがめられることはありません。
都心にも蛍の見られる施設があり、インターネットの高速回線は充実。各地の名店ラーメンよりもおいしいラーメン店が競い合い、渋谷も代官山も神楽坂も銀座も連日祭りのように人を集めます。実にすごしやすい。

田舎には、旅人として盆と正月に帰るくらいが気楽です。
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21 コメント

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ひどい (村十部)
2007-10-11 06:59:18
あまりひどい話でびっくりしています。これは、まだ、11軒がなかよく手をつないでいるので、少しは良いとおもいます。でも、一人だけ、学校で仲間外れをされたのと同じ状態です。なぜ、大人の社会でもこんなことがまかり通るのでしょうか? 村八分にされた人たちは、住民税をはらっていないのですか? それなら、しょうがない。でも、払っているのなら、その村八分にされる権利はない。冷静にかんがえてみたら、おかしいことだとわかるのに。としよりだけ、同じ住民だけでは、村の発展なんてかんがえられない。外国の人がたくさんはいってくると、いろいろな考えがでてきて、よい方向にいくように思います。村八分は最低の人間の行為だと思います。
Unknown (村零部)
2007-10-11 12:43:48
初めまして。

あなたは『ゴキブリや寄生虫を「キタナイ!」』と例えてらっしゃいますが、奴らは正に寄生虫なんですよ。
多額の補助金を国から受け取り、下の連中には威張り腐る害虫。
税金を投与してまで生かしておく必要なんて、私には考えられません。

・・・よく考えたら、餌を貰わずとも必死になって生きているゴキブリのほうが「有力者」よりもマシかもしれませんね。
Unknown (㎡)
2007-10-19 12:57:00
その岩魚つかみ取り大会に参加しました。
子供たちは大喜び、私達も楽しく 岩魚もおいしかったです。その後でこんな事になっていたとは・・・!
前後がどうであれ、一生懸命に準備して当日もせっせと動いていた方々に感謝しています。
私は関川村出身ですが、お盆くらい忙しくていいんじゃないですか?あの子供たちの顔を見れば、誰もがまたやろうと思うはずです。中途半端に参加しているから、やらせられているとの人々は思ってしまうのでしょうね。私もあの特別な上下関係は嫌いです。
ですから田舎に戻るつもりはありません。
村八分 (村鉢)
2008-10-03 20:37:30
私も今村八分にされております。村には行政区条例があり、参加が義務付けられております。行政区に参加するしないは個人の意思で決めるべきです。
田舎の人には法律やモラルを訴えても、話し合いになりませんから、裁判になることもありますね。
今回の判決は賛同できますが、村役場はどういう意見なのでしょうか?
やめてほしい (ゆるせない )
2010-04-27 14:40:40
やめてよそんなことは
Unknown (Unknown)
2010-05-14 22:47:22
俺達は全うな人間なんだ!!って、声高々に宣言するなら助成金受け取んなよw
言動が矛盾してんだって!!
受け取ってる「助成金」の意味を知れ!!

阿呆か!!!
Unknown (Unknown)
2010-09-04 04:30:59
くだらねえブログ
あんたが率先してこの品性下劣な田舎者と
交流すればいいんじゃね?
引用ばっかで中身がねえしwww
わかります (D岡でも・・・。)
2010-09-07 22:47:51
わかります。この事例では11戸が同集落で距離も近いためこうした現状に対して拒否的な行動がとれて、その後の村八分のいやらしい圧力にも抵抗ができたと思います。でもこれが一戸、個人であったら、圧倒的多数の村人を相手にはどんな強い人でも肉体的、精神的に持たないでしょう。そして、全国には孤独に戦っている人が多数おられると思われます。今はインターネットがある時代、これは個人でも世界に向けて情報を発信できる強力な武器になります。報復を恐れずに田舎の閉鎖的で封建的で排他的なムラ社会と闘ってください!応援します。
Unknown (Unknown)
2012-03-30 01:19:41
 関西(大阪では)ではこの手の話は聞かないですね....
根底を見よう (しまじ)
2012-10-04 09:26:54
村八分にかぎらず、そのたもろもろの掟が世の中に存在します。誰が得し誰が損するのかと考えれば、合法非合法問わず、いわゆる有力者といわれる人達であり、彼らに近いことが得をするという仕組みなので、ずるい人達はその掟を行使するがわに立ち、自分の身の安定を図りたがる。その掟が崩れるときには、一瞬にしてその有力者の立場も無くなってしまう。しかし、そのとりまき達はそのにおいを嗅ぎ付けて反対側に寝返りを打つ。
不合理な権力行使に立ち向かうならば徹底的に立ち向かわなければならない。今回の件は良い現象と考えます。

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