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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

タブー

2014-06-02 22:37:59 | Weblog
言論の世界にはいくつもタブーがある。
世の中で支配的になっている価値観に異議をとなえると、
非常識な人や邪魔な人だと思われて迫害され、不利益をこうむることがある。
だから、周囲の目を気にする人は沈黙してしまう。

ただ、メディアによる言論支配が崩れてきて、
ネット上にさまざまな情報が公開されるようになると、
特定の価値観で世の中をコントロールすることがむずかしくなってきた。

ぼくが子どもの頃は、平和や人権について授業や映画などで教え込まれた。
もっと上の世代は、忠誠や勤勉について刷り込まれた。

だけど、現代の子どもたちに何かを刷り込んでも、すぐに異なる情報が目に入る。
一方的な視点が世の中を覆い尽くすことむずかしくなってきた。
広い視点で物事を考えることができる時代になったのではないかと、前向きにとらえたい。


そんな中で、タブーについて、ふと脳裏をよぎることがある。

たとえば、最近も話題になっていたけど、関東大震災のとき、多くのコリアンがまったく根拠のないデマによって撲殺された。
災害に乗じて暴動を起こしたというデマが流れ、自警団などの人が襲い掛かった。
悲惨で残念な出来事として、多くの人に記憶されている。
だが、「まったく根拠のないデマだった」ということを証明した人はいるのだろうか。。。

また、被差別の人は異民族の末裔であるという何の根拠もないマイナーな俗説がある。
だが、「異民族に由来するというのは何の根拠もない説だ」ということは誰が証明したのだろうか。。。
(被差別は、水害に遭いやすく日あたりもわるい場所に位置していることが多い。被差別者は、その土地に後から来た人たちなのかもしれない)

歴史が繰り返されるということを考えると、
抑圧された少数民族が天災などに乗じて騒乱を起こす可能性はゼロではない。
圧迫された少数民族が隣国へと逃れ、差別的な境遇に置かれる可能性もゼロとは言えない。
(朝鮮半島が戦乱に荒れた時代には、多くの人が日本列島に渡ってきた)

関東大震災のときに、何百人ものコリアンが撲殺された(何千人と言う人もいる)。
撲殺を行った自警団の多くは被差別民だったと言う説もある。

もしかしたら、古い難民の子孫が、新しい難民を殺すという悲劇的状況だったということもありえるのかもしれない。
だけど、そんな想像をすることすら、不届きなこと、タブーだとして恐れられる可能性がある。。。


被害者に不利益を生じさせるおそれのある言論は、生理的に遠ざけられがちだ。
ただ、正義を楯にできるという点では、被害者も一種の権力者となりえる。
学問として、事実関係を謙虚に追究しようとする姿勢ですら、圧力を受ける場合がある。

政治的に「正しいこと」が定められるというのは歴史の常だけど、
事実関係として正しいことを明らかにしなければ、論理的思考や科学的見地を養うことはできない。

幸いにも日本は科学が発達し、客観的事実が重視されている。
第二次世界大戦で負けたおかげで、過剰な自意識からも解放された日本には、事実を追究する自由もあるはずだ。

権力者や被害者や隣国や自分にとって不利益なことでも、淡々と事実を認識すればいい。
それは周りの人々をおとしめる行為ではない。研究者として、歴史に誠実な態度だ。

政治的に定められた「正しい歴史」というものは、コンプレックスを感じがちな国民的自意識を補完するものになりがちだ。
心の傷を隠すために、偉大なストーリーを作り上げて、夢を見る。
それで心は癒されるかもしれないけど、神話や空想は、事実ではない。
事実を隠して自分たちを正当化する人がいても、それは事実ではない、といい続ける研究者がいてもいい。

しかし、そういう人は、事実を不快に思う人々からレッテルを貼られて存在を否定され、一種の被差別民のようになってしまうかもしれない。
それでも、そういう人がアウトサイダーになりがちなのであれば、誇りあるアウトサイダーという立場もわるくないと思う。



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