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波打ち際の考察

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波屋山人

「改訂版 実例・差別表現」堀田貢得著(ソフトバンククリエイティブ)について

2008-06-09 22:11:47 | Weblog
まとまりなくメモしただけです。後日加筆修正再構成するかも。恐縮です。



差別関係の本は何十冊も持っています。
出版社にいた人が出した本は、資料としては興味深いものもあるのですが、共感できるものに出会ったことはあまりありません。

かつて小学館で差別表現問題に取り組まれた堀田貢得さん(68歳)は、多くの実例を集めた「改訂版 実例・差別表現」(ソフトバンククリエイティブ)を出版されたそうです。
堀田さんによると、「差別表現」とは「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませるような表現」とのこと。
誰もが持つ基本的人権(自由と平等の権利や人間らしく幸福になる権利)を侵害するような表現だそうです。

むかしからそのように定義する人が多かったのですが、元来理科系を志望していた私からすると、あいまいな定義に見えて、しっくりとこないのです。
文学的というか情緒的というか、仮想の定義のように思えます。
70~90年代はそこのような定義でも世の中の雰囲気に合っていたのかもしれませんが、現代の価値観ではその定義に違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
そういった人に対して説得力を持つためにはもう少し具体的な定義が必要となります。

「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませること」を差別と定義するのであれば、まず、「人権」とは何でしょうか。
「人間性」とは何なのでしょうか。
人権と言われているもの、人間性と言われているものがどういうものなのか、できるかぎりその構造を指摘し、イメージをきちんと定義すべきではないでしょうか。
「人権」や「人間性」といった言葉を大事なものと認識して思考を停止し、経典か本尊のようにあがめる必要はないのではないでしょうか。

また、差別されるとなぜ苦しむのでしょうか。
なぜ嫌がるのでしょうか。
ひとつには、「差別されている人もそこに価値を見出せないから」ということがあるのではないでしょうか。
商人が見下され、官僚が尊ばれる価値観が支配的な社会では、官僚の知り合いから商人扱いされることは、苦しく悲しいことでしょう。
(ビジネスマンが偉いとされ、公務員が税金どろぼうだと認識されている社会では公務員め、と言うのが差別的になるでしょう)
細い目が価値が低いとされ、丸い目が人気のある社会では、細い目を真似するような行為は侮蔑的に感じ、傷つくでしょう。
(かつて強者であった渡来人は目が細いことを奥ゆかしいもの、品がよいものとして誇りにし、目鼻立ちのしっかりした縄文系の人々を粗野だと見下しましたが)

なぜ嫌がるのか、なぜ不満に思うのか、などといったことを考える視点は必要です。
かつて非差別者がなぜ差別的待遇を受けても反乱を起こさなかったかといえば、自分たちと差別者を同等の者だと認識していなかったからです。
むしろ、芸能に関わる人々や被差別職能民たちは、社会秩序に取り込まれた農民たちみたいになろうとはしませんでした。
現代のミュージシャンや編集者が暑苦しい時にスーツを着てがまんしている人たちをうらやましく思わないのと同じように。
ミュージシャンや編集者は、スーツ姿の人たちから「あいつらネクタイもしないで」と見下されたところで、「差別だ!」と言ったりしません。高級料亭に入れなくても「不利益をこうむった」などとは言いません。


バカにする人、否定する人、価値がないと言って見下す人はどこにでもいます。
そういった人を無くすためには、あらゆるところに価値を見出せる人を増やせばいいのではないでしょうか。
差別者に対して、バカにすること、否定することをやめさせるというのは、バカにするような発言をやめさせることと同じではありません。

差別者が差別的な意識を持ったままで何か差別的なことを言うのをやめたとしても、すぐにまた他のことに関して差別的なことを言います。バカにしたようなことや見下したようなことを言います。
差別語を問題視して糾弾したところで、差別問題の解消にはつながりません。
だいいち、差別者を糾弾している者だって、差別者に対してずいぶん差別的な言い方をしていませんか。否定して、見下していませんか。


差別を研究する学者達にも大きな責任はあるでしょう。
名前を挙げてもいいのですが、この数十年間、差別論はあまり進歩してきませんでした。
長い間、人権や平和を唱える社会運動家が影響力を保ってきましたから。

しかし、ネットで自由に広く意見を交わすことができる時代になり、人権や平和を唱える人たちが必ずしも知的なことを言っているのではないと感じる人たちも増えました。
今こそ、一般人が差別とは何なのか、人権とは何なのか、平和とは何なのか、自由な思考であらためて思考を再構築してもよいのかもしれません。


人の嫌がることをやめよう、と言うのは善意に基づくものだと思います。
しかし、「なぜ人はこういうことに関して嫌に感じるのだろう」「なぜ人は人がいやがることを行ってしまうのだろう」ということについて考えないで行動しても、何も本質的なところは解決できません。
結局、良かれと思って活動をしても、対立する人をバカにしてしまったり、見下してしまったり、攻撃的になってしまったりします。
そうなると、自分の心が差別者や暴力者と同じような境地から抜け出せていないということに気づくのではないでしょうか。
(右翼と左翼の言い合いや正義感の強い人の悪人に対する姿勢、クレームを行う人の姿にもそういうことを感じることがあります)

「弱者」という定義もあいまい。
まるで、「弱者」という守られるべき存在があるかのような言い方です。

自分たちを「弱者」という安全圏に置いて発言する場を得るようなものです。
しかし、弱者だからといって、強者に対していつも正義でいられるわけではありません。

私の認識では、強い者が弱い者に対して侮蔑的な言葉を吐くのも、
弱い者が強い者に対して侮蔑的な言葉を吐くもの、同じ構造があります。
弱い者が弱い者に対して侮蔑的な言葉を吐く場合も同じです。

強いものが弱い者に対して卑怯な搾取を行うのも、
弱い者が強い者に対して卑怯なサボタージュや横領を行うのも、同じ構造があります。
弱い者が弱い者に対して詐欺や知らん振りをする場合も同じです。

差別論に関わる人の多くはマルクス主義の影響を受けた人が多いので、差別問題を経済的な問題や社会的地位とからめて捉える人が主流でした。
しかし、貧乏でも視野の広い優雅な心持の人はいますし、お金持ちでも視野の狭いそそっかしい人はいます。どんな経済状態の者にも社会的地位の者にも差別心はあります。

いたらない点もあると思いますが、私の定義では、「差別」は下記のようなものになります。
・差別とは、ある存在に対し、価値がないと認識し、見下すこと。
・差別には差別的構造と差別問題がある。
・社会問題化していなくても、様々な価値観により様々な差別的構造が存在している。
・社会の価値観の衝突や変化により、社会問題化したものが差別問題。
・不利益をこうむったと認識した者が問題化したのも差別問題。
・差別語を否定するのも、犯罪人を否定するのも一種の差別。


私は、差別的な人を見下すことや、差別的な言葉を否定するのもまたひとつの差別だ、と認識しています。
暴力を否定するために怒るのもまた暴力であるように。

「差別語を使用する者は犯罪者だから、見下されるべき」と言う人は差別者と思考回路はたいして変わりません。
もし、ほんとうに差別的思考から超越している人であれば、犯罪者のことも見下しません。

ある社会組織を維持するために、例えば身分制度が整えられていました。
少なくとも、その社会を維持する上では身分制度は不適切なものではなかったのです。
むしろ、その制度を壊そうとする人は社会組織を維持するのにそぐわない者として価値がないと認識され、見下され、排除されました。制度の維持にたいして価値があると思えない芸人たちも見下されていました。

そういった身分制度が崩壊した後、こんどは人権や平和が尊重される時代となりました。
人権や平和といった価値観で調和を保っている社会組織において、人権や平和を疑う者は社会の敵です。人権や平和を旗印にまとまっている社会に相容れないものとして、批判され、見下され、蔑視されるようになるおそれがあります。

ただ、身分制度の時代も、人権平和の時代も、社会組織とその外側を自由に行き来する人たちがいました。芸人だとか芸術家とか被差別民とか。
現代社会は、社会的ルールに束縛されるだけではない人、社会的秩序の中で高く評価されることだけを望まない人、社会的善悪に必ずしもとらわれていない人、といった芸術家的な人々が増加している時代です。
だからこそ、人権や平和といった言葉に物足りなさを感じる人や疑問を感じる人も増えているのかもしれません。

差別について考えるならそういうことも考えないと、思考のサーフィンはむずかしいな、とあれこれ方向性なく考えるこの頃です。
冗長なまとまりない文ですみません。


今日のまとめ。
「差別は無くさないといけない」と認識するのは差別者と同レベルの思考。70年代的思考。社会組織の秩序を作ろう、守ろうとする姿勢。
「差別は興味深い」と認識するのは差別を超越し、世の中の構造や人々の価値観を認識し、視野を広める思考。2000年代的思考。社会組織の秩序を知ろう、超越しようとする姿勢。
「差別をなくそう」と言っても差別はなくならない。様々な物事を認識し、価値を見出せる人が増えなければ、差別の解消につながらない。

(大杉栄だったら2000年代のほうに共感するのではないかと思うのですが)

下記のニュースのコメント欄に批判的な言葉が並ぶのも、従来の「人権」「平和」といった運動の価値観の、ひとつの行き詰まりを示しているのかもしれません。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080609-00000054-zdn_n-sci
■差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚
6月9日15時30分配信 ITmediaニュース

改訂版 実例・差別表現

 ブログやSNSが普及し、個人が自分の考えをネット上で表現する機会が増えている。その一方で、差別表現を知らずに書き込んでしまい、他人を深く傷つける可能性も増している。これまでブログが“炎上”したケースでも、差別意識を露呈した表現が問題視されたことが多い。

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 「ブログの発展が一番恐い。これまでテレビや映画、新聞が差別を拡大再生産させてきたが、もっとひどいことが起きてしまうのでは」――小学館で差別表現問題に取り組み、多くの実例を集めた「改訂版 実例・差別表現」(ソフトバンククリエイティブ)を出版したジャーナリストの堀田貢得さんはそう危ぐする。

●差別表現とは

 同書によると差別表現とは「他者の人権を侵害し、人間性を深く傷つけ、苦しめ悲しませるような表現」。誰もが持つ基本的人権――自由と平等の権利や人間らしく幸福になる権利――を侵害するような表現だ。

 差別意識が向けられるのは「弱い」人たち。日本では被差別出身の人々や、さまざまな障害を持つ人、在日外国人、アイヌ民族、女性、老人、子どもなど。世界に目を向ければ、少数先住民族や黒人などが、いわれのない差別の対象になってきた。

 出版やテレビ業界は、差別表現について、1960年代から人権団体の激しい糾弾を受けてきた。人権団体が番組や記事、広告などで差別表現を見つけると、責任者を呼んで糾弾会を開き、根底にある差別意識を厳しく問いただす。場合によっては謝罪広告を出したり、書籍や雑誌の場合は絶版になるなど、経営的にも痛手を受けることになる。

 糾弾の経験を経て学習したマスメディアでは、自主規制が進んだ。堀田さんが小学館在籍当時にいた部署も、自主規制の最前線。差別表現に関するレクチャーを開いたり、編集者からの差別表現に関する問い合わせに対応し、「なぜその言葉がダメなのか」を、納得するまで説明していたという。

 堀田さんが心配するのは、そういった経験のない一般個人が、ブログなどを通じて、自由に情報発信するようになった現状だ。SNSの日記やケータイ小説、バナー広告の宣伝文句――ネットが広げた表現手段すべてに、差別表現の危険がひそむ。

 「テレビでも雑誌でもネットも同じ。表現者は、何が特定の人を傷つけるかに思いをはせ、表現するための知識を持たなくてはならない。それを全く意識せずに発信している人がいるとしたら、強い危ぐを感じる」

●ブロガーも糾弾のターゲットに

 人権団体は最近、ネットを注視しているという。「人権団体はネットを“難しいメディア”ととらえ、真剣にウォッチし、ターゲットにしている。差別表現や問題のある記述は、発見される可能性が高い」

 以前は文書で郵送されていた抗議文がメールで来るケースが増えるなど、差別表現の指摘にもネットが使われ始めた。例えば、週刊誌に掲載された漫画で、ホームレスに対する差別表現があったケース。一般読者名でメールで抗議文が来たが、「編集長が木で鼻をくくるような回答をしてしまった結果、相手を怒らせ、話がこじれてしまった」。

 問題を最小限にとどめるには、メールで指摘が来た場合でも、直接会って話すことが大切という。この週刊誌の場合は、メール対応の後、ホームレスを支援するNPOなどの連名で抗議文が届き、担当編集者、漫画家、編集長を交えて何度か協議。雑誌とWebサイトに謝罪文を出すことなどで決着したしたという。

 糾弾の対象は企業だけではない。作家の発言や、一般人が公的な場で発言した内容が問題になり、糾弾会が開かれたこともある。ブロガー個人が糾弾の対象になる可能性は、決してないとは言えない。

●「人権感覚」を醸成するには

 どうすれば差別表現のないブログを書くことができるだろうか。「この言葉はOK」「この言葉はダメ」というマニュアルがあれば便利のようにも思えるが、堀田さんは「マニュアルには意味がない」と指摘する。「マニュアルを作り、言葉を言い換えるだけでは、人権感覚は醸成されない」

 単なる言葉の言い換えで満足するのはなく、差別とは何かを理解・整理し、差別による不幸を認識し、人権感覚を醸成する必要があると堀田さんは指摘。そのための良書として、島崎藤村「破戒」を推奨する。

 破戒は、被差別出身の若者を主人公にした小説。発表と同時に差別文書としてから批判を受けたが、歴史的事実と差別問題に関する詳細な解説を入れて出版するという妥協点を見い出した。解説と併せて読むことで、差別問題を根本から学ぶことができるという。

●差別は人間を不幸にする

 編集者が作家に差別表現を指摘し、修正を求めると、「言葉狩り」と反発したり、「表現の自由」を盾に修正に応じない人も多い。だが堀田さんは、井上ひさしさんの発言を引いて言う。

 「井上ひさしさんは『表現の自由はあくまで、権力に対する表現の自由。弱者に対しては、担保されていない』と指摘した。差別は人間を不幸にする。表現者は、差別とそれによる不幸を認識し、言葉による痛みを和らげる配慮を持つべきだ」

【関連キーワード】 ブログ | ブロガー | 謝罪

元の記事

最終更新:6月9日17時53分



■メディア倫理なきブログ「炎上ならまだいい」 ジャーナリスト堀田氏に聞く(上)
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080607/biz0806071610006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080607/biz0806071610006-n2.htm
■「人権団体が一番恐れるのはネットだ」 倫理なきブログ、堀田氏に聞く(下)
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080608/biz0806081529001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080608/biz0806081529001-n2.htm





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