波打ち際の考察

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波屋山人

朗読

2008-11-09 13:30:04 | Weblog
もし、見る、聴く、話す、触る、匂う、などといった能力のうち、何かを失ってしまうとしたら
ぼくは迷うことなく「話す」を選ぶ。

ぼくはあまり話をしないし、頭で考えていることを文字化して声に出すプロセスがなめらかにつながらない。
即興的にすらすらと言葉を出す人を見るとすごいなと思う。

もしかしたら、共通語のネイティブ話者でないことも影響しているのかもしれない。
関西にいた頃は流れるように関西弁を操っていたけど、今は訥々としたリズムで話すことが多い。

関西におるときは、気流の中を舞うように、なめらかに関西弁を操っりょったんやけどなぁ。
まあ、関西弁ゆうても播州弁やから、大阪や神戸の言葉とはちょっとちごとったけど。

ぼくは不器用だから、一度標準語に移行してしまうと、地元に帰っても関西弁をしゃべることができない。
無理してしゃべると、わざとらしい関西弁になってしまう。


それはともかく、先日、詩や短歌の朗読を聴いた。
こういうのもありだと思う。

声は表情豊かだから、文字を元に、広い表現を行うことができる。
書道に似ているかもしれない。書道も文字を元に、表情を付加している。

だけど、そこで思い出すのは、元NTTドコモの夏野剛さんの言葉だ。
「手書きの文字よりも活字のほうが読み取りやすい」
というようなことを講演会でおっしゃっていた。

活字には明朝やゴシックをはじめ、いろんな形があるけど、基本的に統一感のある記号として使われている。
書道の文字と違い、表情で多くを語ろうとはしていない。

ぼくみたいな自称合理主義者は、文字で勝負するんだったら文字だけで勝負してもいいんじゃないのかと思う。
文字に不自由を感じて、そこから逃げ出すように写真や映像とコラボしたり、朗読をしてみても、けっきょく制約から逃げ切れないんじゃないかと思う。

だから、ぼくは当面文字だけで表現を行ってみるつもりだ。
記号の示す構造とバランスだけで、やれるところまで勝負してみたい。
制約を意識してこそ、構造やバランスを追求し、最大限の表現ができると思う。

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