波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

ニセ科学を超えて

2010-07-25 19:35:19 | Weblog
中高生の頃、いろんな本を広く浅く読んでいた。
密教やヨーガ、アーユルヴェーダや神道や山野草。
超古代史や超心理学や占いや新宗教。
のちにトンデモ本大賞が有名になった時に、自分が多くのトンデモ本を読んでいたことを自覚して笑った。

トンデモ本は、エロ本にも似ている。
秘められた世界が垣間見え、わくわくする。
だけど、エロ本を見て育ちエロ本編集者になる人が少ないように、トンデモ本を見てトンデモ理論を商売にするようになる人も少ない。
トンデモ本は読み物としてはおもしろい面もあるけど、学問や社会の発展にはあまり役立たない。

実話誌やエロ本のエロ話の多くがライターによる作り話であるように、トンデモ本に記載されている内容も信頼性が高いとは言えない。
大人になると、エロ本やトンデモ本の世界はリアルの世界とは違うのだということがわかり、距離をおいて付き合えるようになる人が多い。

ぼくはトンデモ本に深く入れ込むことはなかった。
最初は学術的に価値のないものが書籍になっているとは知らなかったので、帯や表紙に書いてあるように、ほんとうに今までの科学や歴史学をひっくりかえすような発見があったのかと思って読み込んでいた。
どの本も文章は平易で、ぼくみたいに読解力に乏しい人間でも楽に読み進めることができた。

だけど、アインシュタインを批判している工業高校卒のライターが現代物理学を知らず、
関西人の霊が憑依しているはずの大川隆法さんのしゃべり口調が「何々や」ではなくて「何々じゃ」だったり。
ヒヒイロカネという不思議な鉱物の元素記号が何なのか示されていないし、地図帳で海嶺やプレートを見ても巨大なムー大陸は存在し得ないように思えた。

高校3年間は理数専門のコースで、物理や化学や地理を学んでいた。
理数系の知識がなければ、トンデモ本の世界に疑問を持たず、もっと深入りして楽しめたかもしれない。

ぼくは人間の感情も神秘的な現象も、究極的にはすべて数式で記述することができると考えている合理的な人間だけど、大槻義彦名誉教授のような現代科学信奉者ではない。
現代科学にはまだまだ解明できていないことも少なくないと思っている。
電気や重力や心など、身近なものでも原理がよくわかっていないものも多い。
現代医療だって今後どんどん姿を変えるだろう。

超能力とよばれるものはすべて非科学的だと思われているけど、もしかしたら、離れた場所にいても何か感知する力は存在するのかもしれない。
ぼくには霊感も特殊な能力もないけど、たまに友人のことがふと頭をよぎると、直後にその人からメールが届くということがある。

アイヌの人たちにも、今日は誰が訪問してくるか当てることができる人がいたという。
そういった、現代科学で解明できていない何かを、否定する気はない。

だが、新説を唱えるのであれば、あくまで現代の物理化学や医学や歴史学などを理解したうえで論理的に述べなければ、学術的な世界からは無視されてしまう。

それにしても、アカデミックな世界で研究にいそしんでいる人たちは、科学を知らない人による珍説を無視し、関わりを避けすぎだ。
明らかに珍説に基礎的な認識が欠落していても、正面から批判する学者は少ない。

アカデミックな世界からの批判が弱い分、ニセ科学者やニセ博士が堂々と科学的にありえない説を述べ続けることができる。
そのような行為を許しておけば、やがて単純な計算ができない学生が増えているように、基礎的な物理化学の原理が理解できない大人が増加するかもしれない。

そうなると、日本における科学研究の重要性も低下するだろう。
科学者はニセ科学者を避けて歩かず、注意する勇気を持つべきではないだろうか。


久々に、政木和三(まさきかずみ)さんの本を読んでみた。
1916年(大正5)生まれ、2002年(平成14)に亡くなられた人。20~30年前にはメディアにもときどき登場し、一部の人たちの間ではよく知られていた存在だ。
さまざまな発明を行い、超常現象や前世について広く語っていた。

近頃、斉藤一人さんや船井幸雄さんをはじめ、「過去完了形でものごとを思えば、その思いは現実化する」と唱える人は多いけど、それを言いはじめたのが政木さんではなかっただろうか。

プロフィールはすごい。
> 大阪大学工学部で航空工学、通信工学、精密工学などを学ぶ。同大医学部で
> 神経の研究に携わるとともに低周波治療器を開発。元・工学部工作センター長。
> (略)林原生物化学研究所参与。工学博士。

経歴はすごいけど、研究者ではなく、本物の博士でもない。
政木和三さんは戦前に関西工業学校(現・大阪工業大学)を卒業した後、大阪帝国大学の研究生として講義を受けた。
熱心にさまざまな講座を受けるうちに、工業学校で培った工作技術を買われ、工学部工作センターの技術職員として雇われた。
実験機器などを工作するスタッフとして活躍し、さまざまな研究者や学生の手助けを行った。
学歴がないので、後にディプロマミルから博士号を購入したけど、本当は博士でも学士でもない。

廣済堂出版(こうさいどうしゅっぱん)から1993年に発行された『驚異の超科学が実証された』という本を読んでみた。
副題には「精神エネルギーの奇跡・その真実」と書いてある。

むかしであれば感心しながら食い入るように読んでいたかもしれないけど、今読むといろんなページに疑問を感じる。
担当編集者は何も疑問を持たなかったのだろうか。

p53
じつはその前に福岡の福田順子さんという方が岡山へ来られて、一目会った瞬時に二人は抱き合って泣き、古いインド語である梵語で語り合ったことがありました。4千年前に二人はインドで夫婦であり(略)
→→梵語(サンスクリット語)は、4千年前にはまだ成立していなかったはず。文字としては紀元前1500年くらいにまでさかのぼるのが精一杯。文法が体系付けられたのも紀元前4世紀くらいではなかっただろうか。いったい何語でしゃべっていたのだろうか。

p104
彼女の言語は古代の英語に変わり、「なつかしいお父様よ。お母様はいまどこにいますか」と語りかけてきました。
そのとき横から誰かが、「この英語は何千年か昔の英語です」といいました。
→→何千年、ということは少なくとも2千年か3千年だろう。だが、古代英語は1500~1600年前までしかさかのぼれない。それ以前、現在のイギリスの地域にはケルト系やラテン系の人が住んでいた。どんな言語のことを言っているのだろうか。

p105
人間の遺伝子のなかには前世、前々世の記憶のあることも、研究によって判明していますが、何千年前、何万年前の記憶は、生命体によるものだと私は思っています。
→→そのような研究が学術誌に発表されたことはない。どんな研究のことを言っているのだろうか。

p118
(略)ネパールの娘さんが来室しました。私は3千年前にネパールに深い縁がありましたので、そのお話をしました。
「私は3千年前、ネパールのハン大王のところにおりました。そのハン大王は、現在、日本で大きなホテルの経営をしております。いまでも尊敬をしながら、お付き合いをしております」
三千年前のハン大王は、大きなお城をつくり、白の入り口からの通路には金銀財宝を敷き詰め、栄華を極めた人です。そのために財政運営に困ることになりました。
現世のその人にこの話をすると、その人は「私は新婚旅行に、そのネパールの城に行きましたよ」と、いうのです。やはり自分の前世の記憶が残っており、大王の城まで新婚旅行に行ったものでしょう。そのネパールの娘さんは、ハン大王のつくったお城の写真を持って来ていました。「これです」とみせ、「このなかに宝石がいっぱいあります」と教えてくれました。
→→ネパールには3千年も前の城は残っていない。3千年も前の王朝の存在も証明されていないのでは。伝説上の王にもハン大王という名前はない。いったいどの城のことを言っているのだろうか。

p221
私自身も、1万2千年前は、アトランチスに、4千年前には、インドのどこかにいて、梵語で話をしていたことがあり、ムー大陸にいたことも、西村治美さんとの古代英語による会話によって証明されております。
→→アトランティスもムーも存在は確認されていないし、4千年前の梵語も数千年前の英語も存在していない。百歩譲って、古代英語による会話で何かが証明されたというのであれば、古代英語で話をしたというテープを提供してもらえないだろうか。こちらで検証してみたい。


歳をとると時代考証の甘いファンタジーに付き合うことがむずかしくなる。
ついつい、些細な点に疑問をもってしまう。
政木和三さんと親しかった船井幸雄さんや林原研究所の林原健社長は、よほど純朴な心をお持ちなのではないだろうか。

それにしても、あきらかに事実と異なることに目をつむり、真実だと言って宣伝できるメンタリティーは理解しづらい。
悪気はないのかもしれないけど、何か自分に嘘をついているところがあるのではないだろうか。
何かを信じるのもいいけど、ひとつひとつ検証しなければたどり着けないものもあるはずだ。

コメント (3)
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ナチュラル

2010-07-25 18:26:47 | Weblog
昨日は女物のショートパンツをはいて三軒茶屋を歩いた。
一人でキャロットタワーの展望室に行って、遠くの調布の花火を眺めた。
短パンというのだろうか、何というのだろうか。
ベージュ色の、薄手の、膝下くらいほどの長さの夏用のパンツは軽くてはきやすい。
先週もその短パンをはいて小田原の町を散策していた。

ぼくの彼女は小柄だけど、腰周りはぼくとあまり変わらないから、ときどき彼女の短パンを拝借する。
肩幅もたいして変わらないので、シャツを借りることもある。
さすがに、腕の長さは合わないので、シャツの袖をまくって、出社。
ボタンの位置が男物とは違うけど、誰も気がつく人はいない。
女物といっても、ナチュラルな色合いのシンプルな柄で、男が着てもあまり違和感はない。

学生の頃から、ときどき女物のセーターなどを着ることがあった。
くびれがあるすその長い女物のコートがほしかった時期もあるけど、ぼくには絶対に似合わないのであきらめたこともある。

どうも、女物のほうが、柔らかで明るい色が多い。
シャツやパンツのラインも、繊細な曲線が魅力的だ。
男物のほうが、くすんだかたい色が多いように感じる。
もっと明るい色の男性用シャツが多くてもいいのに。

表紙のデザインを決める時に編集部で意見を集めると、女性はやわらかく、あかるいデザインを選ぶ場合が多い。男はちょっとかための寒色系のデザインを選びがちだ。
ぼくの感覚は、どちらかといえば女性に近いことが多い。

だけど、男性の中ではやや女性寄りの感性かもしれないけど、男か女かといえば、あきらかにぼくは男だ。
女装趣味もないし、男性に性的魅力を感じることもない。ひらひらした少女趣味もない。
いくらのど仏が隆起していなくても、体毛が薄くても、ぼくは明らかに男で、やさしい女性が大好きだ。

ただ、汗臭い若者たちが集団でいると、息苦しさを感じる。
キャバクラやコンパに熱心な男の感性にも近づきにくさを感じる。
ごつごつした男に性的魅力を感じる男性や女性の感覚はあまり理解できない。

どちらかといえば、声が大きくないけど存在感を示している、穏やかでナチュラルな人たちに親しみを感じる。
ナチュラル系の人は世界各国男女を問わず、広く各地に分布している。

多くのファッション誌が部数を減らし、広告収入も激減して苦しんでいる中、宝島社の「リンネル」、主婦と生活社の「ナチュリラ」、農文協の「うかたま」など、肩肘を張らない自然なスタイルのファッション誌やライフスタイル誌が共感者を増やしている。

人と競い合うような派手なファッションやライフスタイルから、無理をしない中で美や価値を楽しむセンスの良い視点へと、人々の関心が移ってきているのではないだろうか。

ぼくの彼女も「うかたま」や「■■■」などを読んでいるみたいだ。
ロック好きとナチュラル系好きは、矛盾しない。
ぼくは、激流の中をしなやかに泳ぎ渡るような、轟音の中に美しいメロディーを泳がせるような、グランジロックのような強さと感覚のするどさをナチュラル系に感じている。

ナチュラル系の人たちは、脱力系の静かな逃避者なのではない。
いろんなファッションやライフスタイルも経験した上で、いろんな知恵を蓄えた上で、あえて控えめなスタイルを選択しているのだ。
アピール力が弱くても、派手さがなくても、魅力がわかる人には伝わるセンスの良さがそこにはある。

<参考>出版不況の中、ナチュラル系雑誌が好調 2009年4月2日
http://www.excite.co.jp/News/product/20090402/Economic_eco_090401_900_1.html

追記
「編集会議 2010年6月号別冊」は編集長も編集室長も女性なのに、なぜか表紙も本文レイアウトも男性的。硬質な印象。さまざまな雑誌を分類したマップが見開きページで紹介されているけど、今をときめくナチュラル系雑誌がまったく紹介されていない。そのようなセンスで、現代の雑誌を語ることができるのだろうか。広告会社の意向を重視して動く雑誌は、大事なものを感知し損なうおそれがあるのではないだろうか。
http://ec.sendenkaigi.com/products/detail.php?product_id=1477


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