波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

ゆらぎのむこうの中沢新一

2010-07-14 23:28:53 | Weblog
的外れかもしれないけど雑感を少々。

最近、文字や国家を持たなかった人々に興味がある。
かつては野蛮な人たちだと思われ、あまり価値を見出されていなかった人々だけど、意識的に文字や国家を避けていたのかもしれないと想像している。

愛、平和、戦争、人権、国家、民主、犯罪、自由、そういった言葉を使う人は、そういった語の示す構造の組成をきちんと認識しているのだろうか。
抽象的な言葉を使って、あたかもそこに何かが存在すると思っている人は多い。
だけど、言葉の指し示すものがどういった構造をもつかはっきりと理解しないで、幻想を見ているだけかもしれない。

現在でも東南アジアの市場に行くと、ほとんどの商品に値札などは付いていない。
そこには、商品の価値は値札などというもので示せないという意識があるのかもしれない。
売る人と買う人がやりとりをしなければ、価値は定まらない。
値札を見て買い物をすることがあたりまえになっている人たちは、価値や交換についての意識が鈍くなっていないだろうか。

文字を持ったり国家を作ったり、大規模な農業を行ったり学校教育を行うためには、自分の意識に何かうそをつかなくてはならないのかもしれない。
何かを排除したり、見ないことにする必要がでてくる。
それに違和感がある人たちは、組織的な行政や秩序のある教育を行うこともなく、蛮族扱いされて取り残されたのかもしれない。

文字になるものやならないもの、社会常識に合うものや拒絶されるもの、秩序になるものやならないもの、見えるものと見えないもの、そういったレベルを意識して思考している人は、現代の日本にはどのくらいいるのだろうと思う。
少なくとも、中沢新一はその一人だろうと感じる。

中沢新一にしろ岸田秀にしろ夏石番矢にしろ、ぼくが高く評価している人たちは、意外に批判の声も多い。
一般的な価値観の中で良き市民として生活している人から見れば、常識とか社会的善悪といった価値観から超越した思考は理解しにくいのかもしれない。
理解できないものに対する反発もあるだろう。
だけど、一般人の価値判断基準で捨て去るには惜しい知性が、そこにはある。
高度な思考を行う人は、そんなに一般人を痛めつけるようなことをしない。
ときには非常識に見える受け入れがたい話でも、彼らが何を言おうとしているのか耳をかたむけてもいいのではないだろうか。
とても興味深いアイデアを得ることも多いはずだ。


そういえば、中沢新一が何かを批判している言説を目にした記憶がない。
彼は、何かを否定することよりも、意味を見出すことに関心があるのだろうか。
それは、対立や攻撃をのりこえた、未来的な知性の特徴なのかもしれない。

得体の知れない思考パターンに戸惑う人が、中沢新一を批判するのももっともだ。
一般的な価値観からいえば、排斥されるべきものに共感を覚える中沢新一は、危険な存在に見えることもあるだろう。
危険なものを媒体にしておもしろいショーを見せてくれると言っても、多くの人は尻込みする。

だけど、中沢新一の芸当を高く評価している人も多い。
社会秩序を維持するために機能している価値観ですべてを判断してしまうことなく、さまざまな存在に意味を読み取り、豊かな思考をはぐくんでいる。

中沢新一に対する批判を目にして、こう考える人もいるだろう。

「パイレーツオブカリビアンを見て、実際の海賊とは違う、と文句を言う人だっているかもしれない。野球を見て、どこが感動的なのかわからない、と言う人もいるかもしれない。中沢新一批判はそれに似ているかもしれない。中沢新一はひとつの解釈の妙を見せているだけだ。「こういう見方がスリリングなんだよ」とおもしろい話を教えてくれる人に対して、それは事実ではないとかそれは価値がないなどと言っても、視点が根本的にことなっている。理解できないことを否定しても、あまり意味はない。なぜおもしろいと思えないのか、その理由を把握してから批判したほうが知的ではないだろうか」

中沢新一を否定する根拠が「絶対的に否定されるべき存在のオウム真理教を擁護したから」ということだとしたら、すこし淡白だ。
絶対的な悪とは何か、秩序から拒絶される悪とは何か、否定とは何か、といった仕組みについて意識的でない人が何かを否定しようとするとき、自分には感知できない豊かな思考が相手の発言にひそんでいるかもしれないと想像する余裕があってもいい。
実際、中沢新一の発言は単純なものではない。

中沢新一がオウム真理教や共産主義やレーニンや憲法9条を礼賛している、肯定していると認識することには誤解がある。
華やかさのないタレントや気が触れたような芸人、傲慢な司会者やカルトな人気を誇る役者や道ばたの野良猫を取り上げ、そこに興味深い視点や斬新な解釈を示すようなやり方が、中沢新一のスタイルではないだろうか。
そこには権威とか先入観とか価値観による反射的反応を克服した柔軟な発想や軽やかな姿勢が見て取れる。

もしかしたら、中沢新一は砂糖たっぷりの資料飲料水やタールたっぷりのタバコや危険な麻薬さえ否定しないかもしれない。
健康に与える害はよくわかっている。それでも、コーラやタバコやドラッグにおもしろい見方を見出してみるという姿勢は、フィロソフィーや芸術に関心を持っている人から見れば、全否定されるべきものではない。

世の中には、人々に受け入れられることも拒絶されることも存在している。そして、人々がいくら拒絶しても、人々が拒絶しようとする姿勢にすら、何らかの意味はある。
そういった世の中の仕組みを把握しようとする中沢新一の思考パターンは奥行きが深い。

共産党や社会主義がきらいな人も、中沢新一の本を読んでみればいい。
ありきたりの進歩的文化人のような、まわりくどいことや単純なことは書いていない。
柔軟でおもしろい未来的な視点がそこにはある。
それはきっと多くの人に受け入れられるものだと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする