波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

チベットの人々に対して心を痛める

2008-03-16 11:29:32 | Weblog
私は中国が好きだ。中国出身の友人も何人かいる。中国のよくない面もそれなりに知っているけど、中国のことをフォローすることも多い。
毒餃子が話題のときも友人手作りの餃子をよろこんでいただいた。中国で起きる問題もそれなりの原因があって起こることだから、日本人の常識で判断するのは酷なことだと思っている。

私が中国について文句を言うことはめったにない。
ただ、友人に迎合するばかりが友人ではないと思っている。
「あなたはお友だちが嫌がることをしますか」と言った福田首相はせめぎあいのできない人だと思う。友人としての忠告もできず自分の意見を表明できない人は、中国では信頼に値しない人だと思われるだろう。



3月2日夜にビョークが上海でのコンサートで、”Declare independence!(独立を宣言せよ)”という歌を歌い、歌詞に「チベット」を入れたことが話題となった。
歌ったときの様子はyoutubeにもアップされている。
http://www.youtube.com/watch?v=ZEUFCK1qBMI
「チベット、チベット! 旗を掲げよう、もっと高く、もっと高く!」という下記のような歌詞が聞こえる。
“Tibet, Tibet..., Tibet, Tibet..., Tibet, Tibet...Raise your flag! Raise your flag! (Higher, higher! ) Raise your flag! (Higher, higher! ) Raise your flag! (Higher, higher! ) Raise your flag! (Higher, higher! ) Raise your flag! (Higher, higher! )

すぐに中国政府は法的に訴えることも辞さないという強い不快感を表明したが、ビョークに手出しをすることはなかった。
なんだかんだ言いつつ中国も以前よりはるかに開かれた国になってきている。
むかしは一般大衆が政府のやり方についてメディアで不満を述べるということは考えられなかったけど、今ではけっこう気軽に自分の感じたことを外国メディアに発言をする人も多い。

中国の役人や軍人が非常に腐敗しているというニュースが近年よく出てくるのもオープンになってきた証拠だと思う。10年20年前に日本の政治家の汚職が問題になっていた頃は中国の政治家の汚職なんて問題として表面化していなかった。実際はかなりの汚職があったのに、それが隠蔽されていた。
汚職が表面化してきただけ、浄化が期待できると思う。

今回のチベットの件にしても、かなり中国に遠慮している日本の新聞までもが1面にとりあげた。この問題もオープンになってきたのだと感じられる。

もう7~8も前のことかもしれないけど、朝日新聞の天声人語に「明治時代に中国人に変装してチベットに入った河口慧海は」というような文章があった。
朝日新聞にとってはチベットはむかしから中国の一部であり、「チベット人」という概念はすべて「中国人」に置き換えられることだったのでしょう。

河口慧海がチベットに入った明治後期から大正時代前期(1900年~1915年)は、チベットは中国(清、中華民国)の支配下にはなく、イギリスや日本の軍人を招いてチベット軍を訓練し、時には中国の軍隊と小競り合いを起こすこともあった。
チベットの住民は圧倒的にチベット人が多く、その中で中国人の格好をしてお寺に行っても、高僧に会ったり経典を見せてもらったりすることは難しかった。

中国人に変装して入国するはずがないのに、天声人語では堂々と河口慧海は中国人に変装して中国(チベット)に入国したことになっていた。その程度の認識だった。
このような中国政府寄りの見方では、弱者であるチベットの人たちの気持ちは理解できないだろうと感じた。

今回はビョークの記事が露払いのように報道されたせいか、3月10日から連日チベット各地で行われているデモとそれに対する発泡、3月13日にインドで足止めされたデモ(チベット亡命政府のあるダラムサラからチベットまでのデモ行進が行われていた)のことも大きく報道されている。

こう言ってはなんだけど、今回のデモで殺された人の死は無駄ではないと感じる。きちんと国際的に問題として取り上げられたから。
世界中どこにでもあることだけど、強権的な政府の下では声を上げても誰の耳に届くこともなく処分されてしまうことが多い。

チベットはその仏教精神に基づいた非暴力主義や、アメリカやヨーロッパに移ったチベット人僧侶の活動によってかなり共感者を集めていたから、有力な歌手によってチベットを支援するライブイベントなども行われ「かわいそうだ!」と思ってもらえるようになった。

チベット人と同じように独立や完全な自治を求める新疆ウイグル自治区のウイグル人たちは、この10数年だけでも何度もデモやテロ攻撃(民衆蜂起)を起こしている。最低でも10回の事件に関連して200人は死亡しているだろう。本当はその何倍もの人が捕らえられて人知れず殺されているかもしれない。だけど世界でなかなか注目されることがないから、無駄死にのようになってしまっている。

ウイグルの人たちは彫りの深い顔をしているせいもあるけど、にこやかな表情をしているように見える人は少ない。子どもたちは実にいい顔で笑うんだけど、大人はどこか秘めた思いを心にかかえていると思う。日ごろはとても慎み深い様子だけど、激高すると心の底に隠していたものをあふれさせる。きっと、大人しいウイグル人でも耐えられないことはあって、強い中国人(漢民族)に立てついてしまうのだろう。

世の中は薄情で、どうしようもなく弱者が蹂躙されることもあり、声も上げられず殺される人も多い。不合理なことは世界各地で行われている。それが厳しい現実であり、自然の摂理であるのかもしれない。

アメリカはアメリカの都合の良いように行動する。一部の国を専制的だ非民主的だと言って攻撃しても、アメリカに従うサウジアラビアやクエートのような非民主国家のことは黙認する。
侵略や戦争や政府の抑圧を批判する市民団体や政治政党も、隣の家で行われている暴力や抑圧にはそ知らぬ顔をする。

中国政府も日本や欧米列強が中国を侵略したことは許されないことだと言うけど、チベットやウイグルやモンゴルを支配することは侵略ではないと言う。
封建的で腐敗したチベットを解放してやったのはいいことだったと言うけど、もし北朝鮮の腐敗を理由にアメリカが北朝鮮を「解放」しようとしたら中国は絶対に許さないだろう。

今、中国は壮大な「中国」という形をなんとか維持しようとしている。
中国人の世界観、中国人の常識、そういったものはなかなか変わらないだろうけど、今後、中国が欧米各国ともうまくつきあって行こうと思えば、ある程度欧米各国の価値観に配慮することも必要になっていく。
そうしないと、中国という形を維持しようとして泥沼に陥り、破綻してしまうことも考えられる。

そもそも、現在も中国政府は「中華民族」という意識を持とう、と中国国民に呼びかけているけど、漢民族という意識ももともとはいろんな民族を一つにまとめた概念だった。
中国の北の方の人たちと南の方の人たちは同じ漢民族でもかなりDNAに違いがある。ドイツ人とイタリア人くらいの違いはあるのではないだろうか。

北の方の漢民族は、モンゴル系やツングース系の民族が中国北部を支配したときに、やってきた人たちの子孫も多いから、モンゴルっぽい顔の人が多いのだろう。
彼らはもともとはモンゴル系やツングース系の言葉をしゃべっていたけど、そのうち被支配者と同じ中国語をしゃべるようになった。

南の方の漢民族は、もともと違う民族が住んでいたところに漢民族がやってきて支配層となり、原住民も漢民族化していった。
日本も東北九州などと近畿ではDNAがちょっと違うし、韓国でも中央部と最南部ではちょっと違う。だけどそれぞれ1つの民族としての意識を持っている。

私は別にアイヌや沖縄の人が独立したいということであれば独立していいと思うけど、DNA的にはアイヌや沖縄の人のほうが原日本列島人とでもいうべき古モンゴロイドの特性を持っている。近畿周辺の人は渡来人的な新モンゴロイドの特性があるから、日本列島人としての本質はアイヌや沖縄の人のほうにこそあるのではないかと思う。
アイヌや沖縄や九州や東北の人が日本の中枢をにぎり、渡来系の人が多い大阪あたりが独立国家を作ってもいい。大阪のあたりはちょっと関西の中でも異質な感じがするし。

あるいは、日本が中国に占領されてしまっても仕方がないかと思う。
チベットが占領された時、チベットの民衆が立ち上がった時、チベットの強制収容所で政治犯が拷問を受けた時、チベット民衆が自動小銃で殺され、装甲車で轢かれた時、私たち日本人の99%は何の意思表明もせず、黙殺した。
弱者を救おうと主張する新聞も政党も、チベットを蹂躙する中国政府の顔をうかがって腰が引けていた。
そんな人たちは自分たちを守ることもできないだろう。誰かの助けを求めることも望めないだろう。

チベットでの悲劇に手を合わせる。
そして、いつか私たちが彼らと同じような目に遭うかもしれないということを意識する。
その時私たちはチベットやウイグルの人たちに助けを求めることはできないということを覚悟する。



■追記 ダライ・ラマ14世の呼称について思うこと
なぜ新聞報道では最初に「ダライ・ラマ14世」と書いてそのあとは「ダライ・ラマ」と呼び捨てなのだろう。「ダライ・ラマ14世法王」とは書かないのだろうか。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトを見ると「ダライ・ラマ法王」と書いてある。ダライ・ラマ法王という表現を避ける理由でもあるのでしょうか。
ローマ法王のことは「ベネディクト16世」「ベネディクト」などと書かない。
ロイター通信などは「ラマ氏」などと書いたりしてるけど、「ラマ」はチベット語で「グル」「師」に値する語だから「師氏」みたいなことになってしまい不適切。

コメント
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