臨済宗大本山建仁寺 塔頭 秋の特別公開に正伝永源院へおじゃまして。20240309155002
正伝永源院と言えば織田有楽斎と細川家ゆかりのお寺です。過去に永青文庫にお邪魔した時のスレッドはこちらです。
由来
(以下、青字は正伝永源院のHPから引用させて頂いた物です。)
当院は、元々『正伝院』と『永源庵』の統合から生まれ、いずれも臨済宗大本山建仁寺の塔頭でした。明治時代には廃仏毀釈政策が行われ、その影響で仏教排斥運動が起こり、建仁寺領も四分の一に縮小されました。
当時、永源庵は不運にも無住であり、即座に廃寺となりました。しかし、永源庵が建仁寺の真北に位置していたため、堂宇の取り壊しを免れ、代わりに本山の北東に位置していた正伝院がその地に移りました。この時、寺名も「正伝院」と改められました。これが明治六年の出来事ですが、詳細な経緯についての資料は、当院や本山には残っておらず、かえって当時の動乱の激しさを物語っています。
断片的な資料から見ると、「永源庵」は細川家の始祖である細川頼有およびその後の八代にわたる菩提寺であり、多くの菩提寺の中でも最も重要な寺でした。廃仏毀釈の影響で一時的に霊牌などを引き取り、関係を整理しましたが、細川侯爵は「永源」の名前を残すことを望み、「正伝永源院」として寺名が変更されました。
歴史
鎌倉時代中期、文永年間(1264-1275)、大覚禅師の法嗣である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって、正伝院が開山されました。
一方、南北朝時代の正平年間(1346-1370)には、永源庵が建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって開山されました。永源庵は初めは東山清水坂鷲峯下にあり、細川頼有が出家し住持になりました。細川家と永源庵の縁は深く、のちに建仁寺塔頭に列しました。
室町時代年間(1398年〜)、永源庵は現在地に移ります。しかし、天文年間(1532-1555)の京都での戦乱により、正伝院は荒廃しました。
江戸時代(1618年)、正伝院は織田有楽斎により再興され、有楽斎の没後には正伝院に隠居所が寄進されました。
1 織田信長の弟である織田有楽斎と所縁の正伝院と細川家と所縁の永源庵。
2 正伝永源院のHPに記載されている二つの家紋。元々『正伝院』と『永源庵』を表し、左の家紋は『細川九曜紋』で肥後細川家の定紋。細川家の独占紋。ただし、この紋の登場は江戸時代中期以降で、忠興は使用していない。
右の家紋は『木瓜紋』で信長の父、織田信秀が主君の尾張守護の斯波氏から賜ったとされる。(朝倉氏という説もあり)通常の『五瓜に唐花』に比べると花弁が細い。
3 花見小路を通り建仁寺に向かう所を右にそれて、特別公開最終日前日にお邪魔する事ができました。スケジュール調整は京都大好きな家内です。
4 紅葉も少し終わりかけていましたが、写真では綺麗に写っていました。
5 織田信長の弟で、豊臣家としても、そして徳川家にも使えた茶人の有楽斎です。六本木ミッドタウンのサントリー美術館で開催されたいますので、時間が取れればお邪魔して見たいです。
6 正伝永源院に入ります。
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8 織田有楽斎のお墓です。(次はHPからの引用です。)
織田有楽斎の墓
茶道三昧の生活を送ったが元和7年に75歳で没した。
有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、
昭和38年秋、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移された。
現在各地に有樂流の茶道が受けつがれている。
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15 門を潜った先のすのこの所で靴を脱いで入りました。
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22 平成25年3月には、第79代内閣総理大臣である細川護熙氏が揮毫(きごう)した襖絵24面が奉納されました。細川家ゆかりの美術館「永青文庫」の永は永源庵に由来しています。
23 細川護熙氏が揮毫した襖絵です。
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25 室内で説明を聴いた後にお庭に出る事ができました。
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28 樹形や黄葉の仕方からドウダンツツジと思います。
29 国宝の茶室・如庵は愛知県の犬山市に移築されている。光線の影響で如庵と記されている扁額の所の明り取りの出窓が開いています。この開いている、出窓をみて歌舞伎の「双蝶々曲輪日記~引窓」を思い出しました。
30 如庵の解説文が記されています。こちらの如庵は平成八年十月に完成したそうです。
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