Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

「反哲学入門」 木田 元

2012-08-21 21:22:12 | 私の日々
病を得た筆者が編集者を相手に語った内容が単行本として起こされた。
それはまさに名教授から生き生きと語られる講義を聴いているような一冊となる。

古代ギリシャから近代に至るまでの哲学の流れと共に垣間見る筆者の情熱、
学生時代に卒論で取り組んでから執筆当時まで哲学に対しての熱い想いをずっと絶やさず、
燃やし続けていることに感銘をまず受ける。

各々の哲学者についての考察は他者に委ねよう。
私が感じたことは筆者が古代ギリシャ語、ラテン語、独語、仏語、英語に精通し、
原書と翻訳書も熟読した上での全体像を説いていることだ。

自分自身もかつて古代ギリシャ語の原典の解釈に挑み、
論文に取り組んだ昔を懐かしみつつ、
翻訳書よりも原書の方が読み易いという意見には我が意を得たりだ。
翻訳書は文脈の意味を理解しないまま、翻訳者が各々の単語の訳を繋ぎ合わせたのみで、
全く日本語として意味不明の文と成り得る。
難解に思えた仏語、英語の原文が返ってわかりやすかったりすることを自分も経験した。
また明治以降日本に紹介されてきた哲学書の傾向として
あえて難しげに語られてきた風潮があったことは否めないとする。

哲学をカント以前と以後に分け、カントの時代までは一般的でもあり得た「哲学」
という考察する分野がカント以降は大学で学ぶ専門分野となっていったので、
より大衆離れした学問となってしまったと語られている。

ここ数年、仏語の学習を再開しているせいか、デカルトの著書に対しての説明は、
特に興味深かった。
デカルトの「方法序説」は哲学書の中で最も平明で分かりやすいもの、
とされているそうだ。
小林秀雄が「方法序説」は本来「方法の話」と訳すべきと考えていたことが紹介されている。

有名な「我、思うゆえに我あり」これは仏語では"Je pense, donc je suis"
意訳になるかもしれないが「考えている、それが私」位で良いのではないだろうか?
英語では"I think, therefore I am"とされているが、
これも"therefore"でなく"so"のニュアンスだと思う。
しかしながらここにおいて認識を新たにしたのは、このラテン語訳、
"Cogito, ergo sum"(コギト・エルゴ・スム)
この簡潔なラテン語の響きからこの説が有名になったとされる所以だ。
語感の良さというものは日本では余り尊重されないかもしれないが。

日本語に訳すと「理性」となってしまう「レゾン」という言葉についても、
「良識」(ボン・ソンス)あるいは「自然の光」(リュミエール・ナチュレル)
「神から人間に与えれれた認識能力」と説明されている。
翻訳という作業がその人物、言わんとすることを捉えた大きな視野で全体を見ないと、
本来の意味を伝え得ないということが察せられる。
仏語において"raison"(レゾン)と言う言葉は普通の会話の中で当り前に出てくる。
「理性」というような堅苦しい意味ではない。

その他、哲学と言う分野とキリスト教との関係の深さ、
また筆者がハイデガーを論理としては認めても人間的には、
どうも納得しえないという本音の部分も覗えて、これは面白かった。
内容に惹かれてどんどんと読み進んでしまったが、
この中に現代に至る哲学、日本においての哲学研究の分野についてのそれぞれの流れ、
すべてが収められている。
もう一度、時間を掛けて読み返してみたい。
愛読書と言える一冊になりそうだ。


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