Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

アイザック・ヘイズの真実

2013-02-01 17:44:23 | Weblog
アメリカに住むMichikoさんからテレビプログラム"Unsung"について昨年教えてもらった。
取り敢えずタミー・テレルの回だけじっくり観てブログにも書き、
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20120827
後はゆっくり一つづつ観ようと思っていたところ、いつのまにか
youtube上では放送された番組が削除され、短いプロモーション映像のみ残されていた。
その新シリーズが始まったとMichikoさんから連絡をいただく。

アイザック・ヘイズ、亡くなったのは2008年8/10。
ちょうどこの頃、行きつけのソウルバーでDJが追悼の気持ちを込めて
アイザックの曲を掛けていたことを覚えている。
アイザック・ヘイズというとまず思い浮かぶのは"Shaft"「黒いジャガー」のテーマ。
1971年の作品、2002年にはサミュエル・L・ジャクソン主演でリメイクされている。

"Unsung"の映像を観ながら改めてIsaac Hayesの生涯を知り、
そのスケールの大きさ、1942年生まれでもこんな苦労があったのかとも思った。
しかしそれをばねにしながら自分も思った通りの生き方をし、
世の中のためにも尽くした。
アフリカ系アメリカ人として初のアカデミー賞を作曲家として受賞したことも知った。

アイザック・ヘイズは1942年8/20、テネシー州で生まれる。
父はなく母の死後、妹とともに祖父母に引き取られる。
メンフィスに移ったのは6歳の時。
貧しい家庭で綿花栽培を家族でしながら生活する。
タレントショウで歌い注目を集めたこともあったが、
生活のために学校を休学し綿を摘む仕事を数年続けた。

復学し奨学金を得て音楽の道に進むとともに同級生と結婚する。
60年代ではスタックスレコードのプロダクションチームに入り、
Sam & Dave"Something Wrong With My Baby"
"Hold On I'm Coming""Soul Man"を世に送り出した。
アイザックはサム&デイヴに多くのヒット曲を提供した。
"Soul Man"この映像を観ながらアフリカ系アメリカ人の人達にとって
音楽としてだけではなく、精神性も示していたものだったと気づく。

1968年に自身のアルバムを出すが、それほどのヒットにはつながらなかった。
それでも地元のクラブのパーフォーマンスで女性に絶大な人気を誇った。
その結果としてその後、リリースしたアルバム"Hot Buttered Soul"
のヒットにつながる。
"Walk On By"などの曲が映像で紹介される。
この頃に新たな女性と再婚をする。
"Never Can Say Good-bye"の映像が流れるが、
独特のファンキーでありながら自然体の持ち味がある。

1971年に「黒いジャガー」"Shaft"がヒットし、アカデミー賞を受賞した。
自分のしてきた苦労から他者に対しての援助も大切にし、
地域の恵まれない子供たちの生活や学校教育の充実を助ける。
そして自分自身も贅沢なものが好きで洋服、車、バイク、
次々と欲しい物を手に入れていった。
一時期はピンクの服ばかり、オレンジや赤も好きだったそうだ。

下着のようなぴったりとしたステージ衣装、これも女性たちを喜ばせた。
その後「黒いモーゼ」の名のもとに素肌にチェーンを巻き付けて歌ったりする。
体を鍛えヴィタミン剤を何種類も取る。
ここにR&Bアーティストの原点を観る思いがするが、
その根底には貧困の子供時代を過ごしたことで、
自分に対しての自信のなさや不安な気持ちが拭い去れなかったとされる。

1975年スタックスが倒産しアイザックも破産した。
映像は子供達、妹、妻たち、関係者で語られ進められていくが、
頂点を極めたところから家や物を売らなければならないという状況にまで追い詰められた。
お金がある時には寄ってきた人も誰も助けてはくれない。
この時は立ち直れないかと思うほど彼は落ち込んだと2人目の妻は語る。
音楽活動を精力的にこなすことでアイザックはここから立ち上がっていく。
ディスコ調の曲"Don't Let Go"をリリースし、プロモーション映像も作る。

子供たちへの援助は国内に留まらずアフリカへと向けられる。
学校を作り、奨学金の制度を設ける。
度々訪れたガーナで現地の若い女性と知り合い、2005年に結婚することになる。
アイザックは7人の女性との間に11人の子供をもうけた。
2005年の感謝祭ではすべての今までの妻たちと子供たちが共に集い、
一緒に料理をし語り合ったという。
最後の妻は「アフリカでこういう大家族の在り方は普通のことよ。」

テレビアニメ「サウスパーク」で声の出演をし人気が出るものの、
番組がアイザックの信仰するサイエントロジーをギャグにしたことが納得できず、
この役を降りたとされるが、これは本人の意志ではなく、
サイエントロジーの信奉者だった当時のマネージャーの画策ではないかとも語られる。
このため収入が減り、またツアーに出ることになるが、
2006年に起こした脳梗塞のために以前のように歌ったり演奏したりすることに
困難をきたした。

2008年、妻が食料品を買って家に戻ると
自宅でランニングマシンが動いていて、その横に倒れているアイザックを発見する。
救急車で病院に搬送されるが帰らぬ人となる。心臓発作だった。
65歳、早い旅立ちだったとも言えるが、実はもっと年上だと思っていた。
それだけR&B史において古き良き時代のアーティストという印象が強いのと、
今のアーティストと違いアフリカンアメリカンの王道を行くような生き様を感じる。

娘の一人が最後に涙しながら「親の死に準備ができている子供などいない。
それでも父の残した曲を聴きながら懐かしく思い出すことができる。」と結んでいる。

Unsung - Isaac Hayes