Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

RIP Bobby Womack

2014-06-30 09:12:45 | その他のライブ
Bobby Womackの訃報を受けて、2013年2月に書いた"Bobby Womack Unsung"
再び掲載させていただきます。

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"Unsung"(世に知られていない、充分に評価されていないの意)
昨日アップしたブログのアイザック・ヘイズの逸話、
今日見るとyoutubeの映像が既に消去されている。
いくつか残っているとMichikoさんから教えていただいた旧シリーズの内、
スライ&ファミリーストーンズ、アトランティックスターも消えてしまっていた。
これでは動画が観られる内に少しでもエピソードを書き留めておきたいと思い、
残っていたボビー・ウーマック分に慌てて目を通す。

ボビー・ウーマックの生涯は"Across 110th Street"の歌詞そのもの、
「生き残るには強くなれ、生きるか死ぬかを選ぶのは自分だ。」
栄光と挫折の繰り返し、絶望から音楽を通して何度も立ち上がっていった姿に感動した。
ボビーにとって音楽は至福であり、苦難から脱出する手段でもあった。
最後のソウルマンと言われるボビーだが、
いろいろなジャンルの曲にソウルフルなテイストを加えたという点で、
最初のソウルマンだったとも言われる。
ソウル、ポップ、R&Bのシンガー、ソングライター、プロデューサー、ギタリストだった。

ボビー・ウーマックはオハイオ州クリーブランドで5人兄弟の真ん中として
1944年に生まれる。
父は聖職者で両親は教会のコーラスで歌っていて子供達も加わる。
その後、他のコーラスとも組みゴスペルグループとして演奏活動をするようになる。
ツアーではやはりゴスペルを歌っていたアレサ・フランクリン、
マーヴィン・ゲイ、サム・クックとも一緒になった。
50年代終わりに兄弟5人で独立することになり、このことは父を悲しませる。

ウーマック・ブラザーズではヒットがなかったが、
グループ名をヴァレンティノズに変えた後、アルバム"Do It Right"の中の
"I'm Looking for Love"がヒットチャートに上る。
「急に女の子たちに追いかけられるようになってびっくりしたよ。」
とボビーは懐かしそうに笑う。
"It's All Over Now"はローリングストーンズがカヴァーしヒット、
初めてボビーは多額のチェックを手にした。

64年、サム・クックがダウンタウンLAのモーテルで射殺死体となって発見される。
サムの謎の死に衝撃を受けながらも彼の家族を慰めている内に、
サムの未亡人、バーバラへの同情が愛に変わる。
サムの死から4か月後、21歳になったばかりのボビーは29歳のバーバラと結婚した。

このことはファンや業界のひんしゅくをかった。
多くの人からのバッシングを受け、仕事も追われた。
過激に反応したサムの身内からバーバラと共にホテルの一室に呼び出され、
危険な状態にまで追い込まれたが、バーバラの機転で事なきを得た。
スランプからコカイン、最初は少しだったが、だんだんと依存するようになる。

他のアーティストに楽曲を提供しながら3年が過ぎた頃、
"California Dreaming"でボビーは返り咲いた。
「木の葉はブラウン、空はグレー、こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る」
この時のボビーの気持ちそのままのような曲。
「とうとうサム・クック未亡人の夫ではなく、『ボビー・ウーマック』
として人から認識されるようになった。」

1971年、ボビーは5年連れ添ったバーバラと別れる。
その別離を基に書いた"That's the Way I Feel About Cha"
この曲でボビー・ウーマックは70年代ソウルシンガーとしての立場が確立された。
後にジョージ・ベンソンがカヴァーしてヒットする"Breezing"など
精力的に楽曲を制作していく。
左利きのギタリストとしてもボビーは独特の持ち味を出している。

1972年、初めて映画のテーマ曲"Across 110th Street"を書き、
自分でも歌った。
この曲は後にタランティーノ監督の映画「ジャッキー・ブラウン」
リドリー・スコット監督の作品「アメリカン・ギャングスター」でも使われる。
実体験に基づく重みがこの曲に彼の声に込められている。

カントリーソングだったジム・フォードの"Harry Hippe"
これを最初にカントリー調に歌い、そこにソウルなフレーヴァーを添えて
自分の曲にしていく映像が挿入されている。
ヒッピーな生き方をするハリーの歌、これを人々はボビーと一緒に組んでいる弟、
ハリーのことを歌ったのかと思ったそうだ。

1974年、またしても悲劇がボビーを襲った。
ある晩、弟のハリーが突然訪ねてきたガールフレンドと争いになり刺殺されたのだ。
場所はボビーの自宅で病院に搬送される途中にハリーは息を引き取った。
ラジオのインタビューがオンエア中にこの知らせを受けたボビーは、
その晩の演奏はとてもできないと中止し、ツアーもキャンセルした。
クリーブランドの両親をLAに呼び寄せ、悲しみを分かち合い、
共に過ごすことでお互いの傷を癒そうとする。

その後、ボビーはドラッグにますますはまっていった。
カントリー&ウェスタンのアルバムを制作したが、
レーベルからは評価されなかった。
1975年、ボビーはハリウッドをドライブしていて、
歩いていた女性レジーナに声を掛ける。
メキシカンレストランで語り合った後に
いきなりプロポーズし、2人は結婚。
2年後に子供を授かるが突然死という不幸にみまわれる。
これも夫婦でコカインさえやってなければ避けられたとボビーは話す。

70年代でキャリアが終わったかに思われたボビー、
81年に"If You Think Your Lonely Now"
妻と電話で喧嘩になり、電話を一方的に切られる様子を歌にした。
アルバム"Poet"は高い評価を持って受け入れられる。
デビッド・T・ウォーカー「彼はいつも困難からそれを歌にして立ち上がっていく」

3年後、アルバム"Poet Ⅱ"をリリースし、
パティー・ラヴェルとのデュエット"Love Has Finally Come At Last"
はR&Bチャートのトップ10入りする。
ツアーではアルトリーナ・グレイソンと組み、この曲を歌った。
映像が素晴らしい。
私生活でも妻との間に娘と息子を授かり、
前妻との間の息子ヴィンセントも二人を可愛がった。

しかしながら90年代に入り、
レーベル間の争いに巻き込まれ音楽活動に支障をきたす。
また21歳だった息子ヴィンセントは自殺してしまう。
抑うつからのピストル自殺だった。

20年間ドラッグを用いそれを隠すこともなかったボビー、
「とうとうドラッグに自分の人生を乗っ取られてしまった。」
ジーナとは離婚、「2人ともドラッグ漬けで
このままではお互いにダメになると思った。」とジーナ。
「自分は強い人間だと思っていたけれど、今度ばかりは打ちのめされ、
とてもステージには立てない。
もう何もする気になれないと感じた。」とボビー・ウーマック。

映像は2011年のレコーディング風景へと変わる。
15年振りでボビーは新しいアルバムの制作へと挑んでいる。
ある女性との間に二人の幼い息子もできた。
家族と音楽が彼を支え、糖尿病や二回の前立腺癌の手術も乗り切った。

別れた妻や子供達とも家族としての交流は続いている。
前妻のレジーナ「彼が私を必要とすることがあれば、
喜んで手助けをするわ。だってずっと私達にそうしてくれて来たんだから。」
ボビーも「今までかかわった女性のことは肉体的には一緒にいなくても、
決して縁を切ったつもりはない。何かの時には力になるつもりだ。」

「音楽を通して人と触れ合うことができる、
人の心の中に自分の魂が生きることで、
自分も生かされ、生き残っていくことができる。
音楽はすべてを一つにすることができるからね。」とボビー。

昨年の来日後も癌で手術をしたと聞く。
あらたな病も見つかったと今年になってニュースが入ってきたが、
ボビーは負けないはずだ。
あの時はボビーのことを何もわかっていなかった。
このドキュメンタリーを観た後で
昨年のボビー・ウーマックの来日を迎えたかったと思っている。

ACROSS 110th STREET by Bobby Womack at Billboard Live Tokyo 1st show 2012/02/23


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