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嫉妬の地獄

2025年06月14日 | エッセー
 アイデンティティいう、わかるようでわけのわからない言葉がある。日本語だと自我だそう。岸田秀さんは、この自我が曲者だそうで、『現実的根拠のない幻想である自我を支えるためには、自分は優れているとか、価値があるとか、尊敬されているとか、ある人に愛されているとか、社会的に必要とされている・・・などと信じることができなければならない。自我は決定的に安定することはなく、自我を安定させる努力は永久に続けなければならない。』と言っている。
 人間は一人では生きていけないが、そのために最大の妨げになるのが嫉妬である。集団を形成し、維持するためには、人々の嫉妬をできる限りコントロールしなければならない。しかし、また、嫉妬は個人が自我を守るための防衛策でもあるから、否定してしまえば自我の存在が危うくなる。
 嫉妬は、抑制しなければならないが、否定してしまってもならず、非常に扱いにくいのである。
 そういうわけで、嫉妬をどうするかは、人類の歴史が始まって以来のきわめて重要かつ困難な問題であったと思われる。社会階級の形成は、そのための策の一つであった。
 しかし、現代はなんでもかんでも平等と唱える時代となった。運動会では、同じような足の速さの子たちでかけっこをするという。え~~、それじゃあ、お勉強はいまいちだけど、足の速い子の幸せを奪うようなものだから、かわいそうって感じた。それこそ、足の速い子のアイデンティティが不安定になる。

 階級制度が崩れて野放しになった嫉妬をどうするかは現代の最大の問題の一つであると岸田さんはいう。

 ほ~~~う。
 嫉妬とアイデンティティという切っても切れない関係という視点で、アイデンティティを考えたこともなかった。衝撃だった。
 ヒンズー教とか士農工商という身分制度に対しては、現代に、日本に生まれてよかったと心から思っていた。
 現代は、個人が、嫉妬の問題をすべて自ら引き受けなければならなくなった。
 人間は、自分に現実的損害を与える者よりも、自我を脅かし、嫉妬を感じさせる者を、もっとも憎み、もっとも激しく攻撃するからである。
 われわれの敵とは、要するに、我々に嫉妬する者である。
 嫉妬されるほど、恐ろしいことはない。
 従って、敵を作らないために、もっとも重要なことは、嫉妬させないことである。
 嫉妬は、卑劣な者だけが持つ衝動ではなくて、ごく普通の者が持つ卑劣な衝動である。
 実は、嫉妬をする者にとっても嫉妬は苦しい。
 嫉妬していることが、劣等感を強め、強められた劣等感が、さらに、劣等感を煽るから。
 われわれは、この悪循環の地獄から逃れようとして、嫉妬を正当化し、相手を悪人に仕立て上げ、悪人に対して正義を下さんとするが、相手はそれは自己欺瞞だとわかるので、その自己欺瞞にすがる見苦しい我々を相手はますます軽蔑し、そう感じてわれわれはさらに劣等な状態に追い込まれる。

 嫉妬の地獄から、脱出する特効薬はない。
 嫉妬をしていることを素直に認めることである。意識的に引き受けている限りは、嫉妬をある程度コントロールすることができる。
 一番愚かでかつ危険なのは、自分は嫉妬なんか持っていないと思っている人である。
 みんなに嫉妬される者とはその集団のなかで優れた才能である。みんなの嫉妬で真っ先に追い出される。そうすると、その集団は必然的に劣化し、戦争においても事業、科学研究、商売などにおいても、必然的にほかの集団に敗北するであろう。集団の和を重んじるか、他の集団に勝って、生き残ることを重んじるかは二者択一の問題である。
 身の程を知ることすら、自由とか人権とかの名で否定され、誰でも無限の可能性を持っているなどとおだてられたりすると、現代の嫉妬はますます荒々しいものになるのではなかろうか。


 私の心の中にも、しっかり、嫉妬する気持ちは存在する。
 あ、今、私、嫉妬しているなって感じる。いかんいかん、って、己の邪心を💩だと思って、便秘にさせないようにしているつもり。
 自分が大事にしていることで、自分より優れているなと感じた瞬間に、嫉妬心が私の気持ちを覆う。二面性があるのが人間だと本気で思えているから、邪心は苦しいけれど、素直に受け入れられる。
 思春期は、無意識に自分の心に潜む正邪の二面性に葛藤して荒れ狂う時代だと思う。
 そして、その正邪のどちらも自分であると認められた時に、思春期を卒業するのではないだろうか。
 そうすると、自分の正義と他者の正義は同じとは限らないということも受け入れられて、生きることが楽になると思う。

 自分の心の中に犇めく認めたくない醜い心が表出し始めるのが思春期。そして、その暴れ馬を悪とみなさず、上手に乗りこなせるようになることを大人になるということなのかもしれない。

 筆者は、特効薬はないけれど、嫉妬心を認めるということが、認め合うということが救いの道であると言っている。

 自分は、正しい。相手は間違っている。
 と本気で思っている人とは、分かり合えないので、できるだけ距離を置くようにしている。
 だって、おそらく、そんな人は、自分の嫉妬心を意地でも認めないだろうから。まだ、思春期を乗り越えていないから。
 最近、心の病を患う人は、もしかしたら、自分の心の中に潜む邪心を無意識だけど、認めたくない(きれいな心でいたい)。でも、だからと言って、他者が間違っているという思考ではないがゆえに、自分の心の中で正邪が闘って、でも、邪心をどうしても受け入れられずに、心が崩壊してしまったから、病にまでなってしまったのではないかという思いを感じ始めている。
 邪心というか、ほんとうの気持ちとアイデンティティを支えるこうあるべきという価値観の乖離というか。本当に気持ちを偽って限界になってしまってか・・・。
 









































 





























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