つい最近、叔母(母の一番下の妹)が、『あなたのお母さんは、あなたの妹が結婚する時、その相手が〇〇大学なんですーーー。ウフフ。と嬉しそうに紹介したことを覚えている。』と、母のことを語った。
私自身は、育つ過程で、自慢話的な話をしいている母の姿を見たことはない。他人に対しては、むしろ、控えめであったような記憶しかない。
でも、叔母の一言で、母は、実は、結構エリート意識が高かったのに仮面をかぶって本音を隠し、骨の髄までぶりっこだったのかもしれないと空恐ろしくなった。
エリート意識に優越感を感じる、その気持ちはわかる。そりゃ、娘の夫が有名大学卒業って、単純にイヤな気持ちはしない。
でも、他人には言わない。
それを他人に言った時点で、母は実は、人間性とか品性とか優しさとかそんなことよりも、優秀であるか否かが、意外と大きな物差しになっている人なんだということを証明したってことになる。
日頃から、そんなことを言っているのなら、わかる。
でも、日頃は抑えていて、あまりにも嬉しくて抑えきれなくなって、叔母につい言ってしまったのだろう。
だから、母は普段、本音を言わないぶりっこだと思うにいたった。
そう。母は、私が子育てで一番大切だと痛感している『ママは自分の気持ち実況中継アナウンサー』という思いの正反対にいる人だった。
母なりの持論である『子どもの前では喧嘩をしない。』は、祖父母のお互い一歩も引かない夫婦喧嘩を見て育ってきたせいだと言う。母は、両親の激しい夫婦喧嘩を反面教師として学んだ。子どもの前では夫婦喧嘩をしないとことを鉄則として守り抜いた。
しかし、その結果、私は、『怒りの感情が未分化です。だから、自分を守る力が弱いです。』と心理カウンセラーの先生から指摘されるような、残念な人間に育ったと思う。自分を守る力、つまり、防衛力のなさは、決断力のなさとなり、本当に必要な時に決断し行動しないといけない時に、ズルズルとなってしまいがち。事実、その優柔不断さで、離婚に踏み切れず、子どもたちに本当に申し訳ないことをしてしまった。今、自分の蒔いた種と向き合わされて、すまない気持ちで、日々、胸を締め付けられるような思いを抱いて、でも、前を向かなきゃと深呼吸しながら、生きている。
父は父で、頑固な側面のある母とは、話し合いができないと諦めていたのだろう。成人してからのことだが、私が、母にちょっと反抗的なことを言おうとしたとき、ノンノンって感じで首を横に振って『それ以上言うな。言っても無駄だ。』みたいなしぐさをした。
ってな感じで、私は、両親の生の感情の交流を感じないまま、見せかけの凪という家庭で育ってしまった。
自分の気持ちを全然実況中継してくれない父と母の元で育った私は、怒の感情を発達させることができず、苦労した。
イヤな仕事もノーと言えず、サービス残業というしわ寄せが押し寄せて、育児時間を削られて、結果、こどもとゆったり過ごすまったりした時間をもてず、もちろん、だから、自分の気持ち実況中継なんかする暇もなく、子どもたちも忙しそうな母に遠慮してしまいがちになり、こどもも自分の気持ちを実況中継なんかできず・・・。
負の連鎖だ。
夫婦喧嘩の是非について
最近は、子どもの前での夫婦喧嘩を面前DVという。
面前DVは、実際に親が子に暴力をふるったり暴言を吐くことよりも、子どもの脳の発達へのダメージがはるかに大きいということが、最近わかってきた。
だから、子どもの前での夫婦喧嘩をやめようと厚労省もキャンペーンを始めた。
昔は、夫婦喧嘩は犬も食わないって言われていた。
でも、今では、力や言葉の暴力よりも、子どもに悪影響があると言われ始めた。
自己主張的な夫婦喧嘩はいいのかな?
お互いに罵り合う夫婦喧嘩はアウトなのか?
夫婦喧嘩を見たことがなかった私は、親が何を感じているのかさっぱりわからないで、だから、自分の中の怒りとかイヤだという感情つまり、自分を防衛するための自己主張を明確に表出することができない大人になってしまって、苦労した。
本当にこどもの前での夫婦喧嘩はアウトなのだろうか?
おそらく、どちらも一歩も引かない場合が、アウトなのかもしれない。両方が一歩も引かないと、最後は、罵り合いで終わるしかない。お互いがお互いの欠点や過去の過ちをあげつらって、罵声だけが行き交うようになっていく。激しくなっていく。
大方の夫婦喧嘩は、途中でどちらかが引く。つまり、折れる。否、我慢する。耐える。
それも、なんだか、けんかのお手本としては、いかがなものか。