世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●孫正義という男 世界一の投資家か、それともばくち打ち?

2017年03月16日 | 日記

 

「公益」資本主義 英米型資本主義の終焉 (文春新書 1104)
クリエーター情報なし
文藝春秋


●孫正義という男 世界一の投資家か、それともばくち打ち?

 21世紀、筆者の目に、最も魅力的な事業家、投資家として映る人物は、ソフトバンクの孫正義だ。無論、ザックリと彼を評した場合の印象である。ここまで山のような借金を抱えても、それに応じる、金融機関や世界にかんたる資産家が存在する以上、ただのばくち打ちと妬けな気分で言い放っているようでは、孫正義を見誤るだろう。

 彼が、韓国系の日本人であるところに、一抹の寂しさを憶えるが、そんなセコイ情緒は、この際捨ておこう。逆に言えば、飽食の名残を賤しく貪りあっている日本的既得権益にしがみついている日本のエスタブリッシュメント層には真似のできない、壮大なロマンを世界の名だたる大金持ちに語り聞かせる宣教師のような才能がある。

 世界の名だたる金満家に取って、孫正義の思いもよらない壮大なロマン的事業構築は、思いもよらないが、多くの根拠を提示するデータを駆使している。そして、筆者も何度か聞き惚れた“プレゼンテーション”が天才的に上手なのだ。英語でも日本語でも上手なのだから、やはり天才と言えるのだろう。

 もう一つ彼が、その夢を語り、その事業構築に参加することは、損得を除外しても、次世代、次々世代、否、300年先の夢に投資した先見的エスタブリッシュメントとなる。その栄誉を得、且つ、孫正義の事業計画が日の目を見た場合、事業家或いは投資家として、巨額を富を得られる。仮に、大失敗したとしても、壮大な夢に投資した実績は残るし、失う富は、総資産の十分の一、百分の一なのだから、根拠のあるドン・キホーテの話に乗りたくなるということだ。

 筆者は個人的に、彼のような事業や投資が成功する世界を望んでいるわけではない。むしろ、現代のグルーバル資本主義や機能不全な三権分立を抱えた、米英型覇権主義など、早々に野垂れ死にして、国々が孤立主義に走り、地産地消する定常的チマチマとした世界が一旦訪れる方が好ましいと思っているだけに、孫正義の成功を望んではいない。しかし、彼の世界を股に掛けた、壮大な夢物語には、百パーセント拍手喝さいを送りたい。敵乍らあっぱれ、死にざまを見守ってやりたいところだが、小生も死んでいるし、おそらく、夢の途中で、孫正義も死んでいる。日経新聞の孫正義シリーズ1~3を参考掲載する。


 ≪ 10兆円ファンド 孫氏が発明したいもの  知られざるソフトバンク(1)
 ソフトバンクグループは近く、サウジアラビアなどと共同でつくる10兆円規模の投資ファンドを発足させる。社長、孫正義は投資家か、事業家か。トランプ大統領との会談や3兆円超を投じたアームの買収、米携帯スプリント問題など、知られざるエピソードをもとに、5回連載でソフトバンクの次を読み解く。

■首相随行をドタキャン
 ファンド設立にかける孫の執念は、その足取りをたどると浮き彫りになってくる。
 昨年9月3日、東京・赤坂の迎賓館。孫はサウジの副皇太子、ムハンマド・ビン・サルマンと会談した。2人が話しあったのが、孫が提案した10兆円ファンドの構想だった。ムハンマドは初来日に合わせて数々の財界人と面会したが、孫とは特段に意気投合したようで、同行したサウジ国営通信に2人が談笑する写真を配信させている。
 実はこの日、本来なら孫はロシアのウラジオストクにいるはずだった。日ロ首脳会談に臨む首相の安倍晋三に随行し、ロシア電力大手トップと会う予定だったが、直前になってキャンセルした。首相に同行する財界人がドタキャンするのは異例中の異例だ。孫はそこまでしてムハンマドとの会談を選んだのだ。
 そして1カ月余り後の10月13日、孫はサウジの首都リヤドに飛んだ。ファンド設立の合意書にサインするためだ。孫は閣僚たちとの握手を済ませると足早に空港に向かい、プライベートジェットに乗り込んだ。向かう先の東京で待っていたのは、米アップル最高経営責任者(CEO)のティム・クックだった。  CEOとして初来日したクックは文字通り分刻みのスケジュールをこなしていたが、孫は直前になってクックに頼み込んで会食の時間をずらしてもらっていた。
 今回はドタキャンは避けたもののアップル側は突然の予定変更に慌てた。だが、食事を取りながらの会話は孫のファンド構想で盛り上がり、クックはファンドへの参加を快諾した。
 日米政財界の大物を翻弄してまで設立を急いだ10兆円ファンド。孫はなんのためにそんなものをつくったのだろうか。常々「私は事業家」と主張する孫がなぜ「投資」なのだろうか。

■ポートフォリオも作らない
 その謎を解くカギが孫が言う「群戦略」だ。孫流投資の真意が一般に理解されず「ソフトバンクは投資会社だ」と言われる理由はここに集約されると言える。
 孫流投資の特徴をまとめると次のようになる。あくまで投資であり英アーム・ホールディングスのような完全買収は別になる。
 将来有望だと見たベンチャー企業に出資を通じて資本関係をつくる。ただし、孫がより重視するのは「同志的結合」だ。経営者同士の信頼関係と言い換えられるだろう。
 信頼関係を結ぶためには長期間の資本関係が前提となる。ソフトバンクの株式保有期間は平均で13年半に及ぶ。
 少額だけ出資して事業価値が上がれば売り抜けるような手法は取らず、一般の投資ファンドのようにリスクを最小化するためのポートフォリオをつくることもない。もちろん空売りなどの投資テクニックは使わない。株の売買でキャピタルゲイン(値上がり益)を得ることが目的ではないからだ。
 孫は原則として投資先の筆頭株主になる。経営はそのまま任せるが、孫は「自分が経営するつもりで考える」。その過程で孫の言う同志的結合が生まれるというのだ。
 では、なぜ投資を通じて同志的結合をつくるのか。孫の言葉を借りれば「300年以上続く企業グループをつくるため」だ。ちなみに「300年」には、孫が尊敬する坂本龍馬など維新の志士が倒した江戸幕府より長続きする企業をつくるという野望が込められている。
 孫がフィールドにする情報産業はとにかく栄枯盛衰が激しい。ひとつの事業に頼り過ぎると時代の変化に取り残される。ならば投資を通じて緩やかな企業群をつくり、次の時代に勝ち残れる事業をつくろうという超長期の生き残り策が群戦略だ。そのための打ち出の小づちがサウジとの投資ファンドというわけだ。
 興味深い話がある。7年ほど前にソフトバンクの戦略担当チームが実際に調べて孫に報告した話だ。

■競走馬とサケ  
  「なぜ一時期、英国は競馬で勝てなくなったのか」  競走馬のサラブレッドが最初に定義されたのは1791年といわれる。英ジョッキークラブが認定した456頭で、その血統は「ジェネラル・スタッド・ブック」に記録された。20世紀初頭、英国ではこの本にすべての先祖が記録された馬しかサラブレッドと認められなくなった。その後、競馬新興国のフランスや米国の馬にどうしても勝てなくなった。
 英競馬界の衰退の原因は行き過ぎた純血主義だ――。こう結論づけた孫は、異なるDNAを取り込んでこそ馬も会社も強くなると考えた。
 かといって、勝ち残るDNAを探すのは簡単ではない。この点、孫が好んで使うのが「サケのふ化理論」だ。
 メスのサケは一度に2000~3000の卵を産むとされるが、その中で生き残るのはオスとメスの1匹ずつだと孫は考える。1匹より多すぎると川がサケであふれるし、少ないといずれ絶滅するからだ。その中で生き残る1匹を見抜けるか。いかに名伯楽の孫でも答えはノーだ。
 現代は人工知能(AI)の発達がいよいよ加速する時代に差しかかる。孫はAIが人類の知恵の総和を上回る「シンギュラリティー」が30年以内には到来すると予想する。「そうなるとあらゆる産業が再定義される」。フィールドは際限なく広がり、勝ち残るサケを見つける作業はますます困難になるだろう。

■「いずれ理解するだろう」
 孫は新ファンドを使って将来は投資先を5000社にまで増やす構想を掲げる。その5000社はいずれも孫が見込んだ起業家たちが率いる。選び抜いた起業家たちがDNAを交差させ、勝ち残る1匹のサケを見つけるのだ。
 「実は『群』がなくても30年はやっていける。30年でピークを迎えるような成功を目指すならね。でも300年を考えればそれではダメだ」
 そこで必要なのが群戦略と言う。
 「孫正義は何を発明したか。チップでもソフトでもハードでもない。たったひとつ挙げるなら300年成長し続ける組織構造を発明した。(後生の人に)そう言われるようになりたい」
 これこそが投資家・孫正義の真の狙いだ。なかなか理解されないのは本人が一番よく分かっている。
 「ソフトバンクってただの投資会社かという批判をよく受けますが、腹の中ではこう思っていますよ。いずれあなたがたも理解する時がくるでしょう。300年以内にはね」 =敬称略 (杉本貴司)
 ≫(日経新聞)


 ≪「孫さん見損なったよ」 右腕がキレた日  知られざるソフトバンク(2)
 2014年8月、東京・汐留のソフトバンク本社26階。朝8時に開かれた役員朝食会で孫正義は宮川潤一に声をかけた。
 「今日はお前が真ん中に座れ」
 長細い楕円形のテーブルで、宮川はいつも端に座っていた。最高技術責任者(CTO)ながら最年少役員のためいつもは遠慮していたという。

■米スプリント再建の任務  
「きょうはお別れ会だ」。そう切り出した孫は宮川に告げた。
「あさってから米国に行ってこい」
「俺、英語ができないんですけど」
「そんなもん行けばなんとかなる」
 宮川が大役を任された瞬間だった。使命は赤字にあえぐ米携帯子会社スプリントの再建だった。
 宮川は孫の右腕として知られる存在だ。16年前に孫が見いだしたそのキャリアは異色だ。
 本来なら愛知県犬山市にある実家の禅寺を継ぐはずだった。技術陣のトップながら実は文系。しかも仏教学科の出身だ。もちろん実家を継ぐためだが、宮川は嫌で仕方がなかったと言う。「35歳まで好きなことをやらせてほしい」と父親と掛け合い、大学を出るとゴミ焼却炉の製造、販売を始めた。
 だが時はインターネットの黎明(れいめい)期。「これからはネットの時代だ」と見た宮川は、ネット接続プロバイダーにくら替えする。社名はももたろうインターネット。全く門外漢の宮川は岐阜大学に頼み込んで学生の手を借りて事業を立ち上げた。地元名古屋でそこそこの成功を収めていた宮川に、孫は突然電話した。
 「君は名古屋で終わる気か? 俺ともっと大きなことをやらんか」。2001年6月のことだ。NTTに挑戦したブロードバンド、「泥船」とまでいわれた英ボーダフォン日本法人買収による携帯参入――。通信業界の再編の波の中で、孫とともに修羅場をくぐってきた。

■諦めようとした孫
 米カンザス州オーバーランドパーク。宮川がそこで見たものは「死んだ会社」だった。キャンパスと呼ばれるスプリント本社は全く活気がない。赤字を垂れ流すことになれてしまっているように、宮川には感じられた。
 技術統括として指示を出しても何も進まない。そう指摘すると「OKとは言ったけどやるとは言っていない」と返事が返ってくる。それに英語で言い返せない自分がもどかしかった。
 「このまま行ったらチャプター・イレブン(米連邦破産法第11条による倒産)だぞ」。スプリント最高経営責任者(CEO)のマルセロ・クラウレに忠告してもラチがあかない。
 単身赴任の寂しさから、やめていたたばこにも手を出した。気づけば体重は半年で12キロも減っていた。それでも課題のネットワーク改善は少しずつ前進していた。
 東京の同僚から妙な噂が聞こえてきたのは、そんな時だ。「もうスプリントには見切りをつけて売るらしいぞ」。しばらくすると宮川自身にもあるファンドから声がかかった。「もし当社がスプリントを買ったらあなたは残ってくれますか」。14年末のことだ。
 「冗談じゃない」。宮川は東京・汐留の本社に戻り、役員陣の前で、孫を問い詰めた。「スプリントを売却するって本当ですか?」
 場が静まりかえる中、孫ははっきりと言った。
 「失敗は失敗で認めるべきだ。俺の失敗。俺の責任だ。タダでも持って行ってくれるヤツがいたら持って行ってほしいくらいだ」
 宮川は怒りをおさえながら「それは捨てセリフだと理解してあえて言いますよ」と前置きし、言葉をつないだ。
 「孫さん、俺はあなたを見損ないました」  役員陣の視線が一斉に宮川に集まる。皆が押し黙る中で宮川が続ける。

■もう一度強気に
 「ここで売却なんてしたら俺らはもう一生、アメリカに出て行けませんよ。我々が今まで事業で成功してきたっていう看板も下ろさなければいけない。ここは苦しくてもやるべきです。俺にやらせてください」  孫は黙って腕を組んだまま聞いていた。
 しばらくしたある日、孫が会議でこう宣言した。「俺がチーフネットワークオフィサーだ。責任を持ってやる」。スプリント再建の最前線に自ら飛び込むと宣言したのだった。この日から孫はスプリントにつきっきりとなる。「何度言ったらわかるんだ」。早朝と深夜に開くスプリント幹部との電話会議では毎回のように机をたたいて怒鳴り声も上げた。
 「事業家のプライドに懸けてスプリントを再建してみせる」。孫はこんなことを公言するようになっていた。
 「これがマイ・ニュー・ワイフです」。宮川が小さな鉄塔に抱きつく写真をシカゴから送ると、孫は早速反応した。「これでやろう」。それは日本で使うような小型の鉄塔で、2006年に買収した英ボーダフォン日本法人の電波網を改善した時に使ったものとそっくりだった。
 電波網改善の方法も日本で使ったものだった。アプリなどから得られるビッグデータを解析し、地図上につながりやすさをプロットしていく。データを駆使して改善を要するエリアを見える化していくのだ。  「スプリントはもう一度攻めに出る」。16年に入ると孫の言葉にいつもの強気が戻っていた。

■再び売却報道
 今年2月、ソフトバンクがスプリント売却を検討していると、米国で報道された。今は米国で電波の入札が行われており、通信事業者間での接触が禁止されているが、それが終われば売却する可能性があるとしている。孫はこれに対して何も語ろうとしない。いつもこんな言い方をする。
 「ボクサーがリングに上がる前にどんなパンチを打ちますとか言わないでしょ」
 ヒントになるのは、孫が一度諦めかけた時の、宮川のあの言葉かもしれない。「あなたを見損ないました」。それは16年前、孫が宮川に突きつけた言葉だ。ソフトバンクに引き抜かれた宮川を待っていたのは通信会社の体を成していないブロードバンド事業の前線基地だった。まともに顧客管理もできていない。その問題点を指摘した宮川に、孫が言い放った。
 「俺はダメな理由なんか聞きたくないんだ。お前、見損なったぞ」
 宮川は改革案を提示し、「これで納得できなければ俺をクビにしてください」と言い返した。もちろん、孫も覚えている。宮川の挑発にはこんな伏線があったのだ。
 事業家としてのプライドを傷つけられた孫がどう出るか。ある別の幹部はこう話す。「これまでの孫さんとの付き合いから考えれば答えは明白だ」 =敬称略 (杉本貴司)


 ≪トランプ会談の真相、孫氏と政治との距離  知られざるソフトバンク(3)
 ソフトバンクグループ社長の孫正義は14日、来日中のサウジアラビア国王サルマンと会談した。25分の会談では孫がヒト型ロボット「ペッパー」を贈り、サルマンがペッパーに「歓迎する」と語りかけた。サルマン、トランプ、プーチン……世界の要人と事もなげに会う人脈の源泉と、その狙いはどこにあるのか。

■36歳、最初のM&A
 少し古い話になる。1993年秋、米ラスベガス。当時世界最大のコンピューター展示会だったコムデックスに、36歳の孫正義が訪れた。視察もほどほどに、孫はこの展示会の運営企業のトップに会いに行った。貧困ユダヤ人家庭に生まれ、一代で財を成したシェルドン・アデルソンという人物だ。ノーネクタイでアデルソンの前に出た孫はこう切り出した。
 「コムデックスを買いたい。いずれ僕が持つことになります」
 驚いたアデルソンは「君にそんなカネがあるのか」と聞いたが、孫はこう返した。「今はないけどいずれ作ります。それまで売らないで下さい」
 その一年後、再びアデルソンの前に現れた孫は、同席する役員たちに退室を求めた。アデルソンと一対一で話がしたいと言う。
 「僕はコムデックスを値切るつもりはない。一発勝負です。あなたが売りたい価格を一度だけ言って下さい。ダメならあきらめます」
 「8億ドルだ」
 「分かりました」
 孫が右手を差し出すと、アデルソンが握りかえした。これが、その後数々のM&A(合併・買収)を仕掛けることになる孫のデビュー戦だ。

■「トランプと会ってみないか」
 2016年冬。孫の元に突然連絡が入った。「トランプと会ってみないか」。米大統領への就任が決まっていたドナルド・トランプとの会談を仲介するという、その声の主はアデルソンだった。
 アデルソンは孫にコムデックスを売った8億ドルを元手に次々とカジノリゾートを建設し、今ではカジノ王と呼ばれるようになった。3つのビルの上に船が浮かぶ奇抜なデザインで知られるシンガポールの「マリーナベイ・サンズ」もアデルソンが建てたものだ。
 アデルソンは共和党支持者でトランプ個人にも党にも多額の献金をしている。20年以上前に見た孫の印象が残っているようで、トランプとの会談を持ちかけてきた。アデルソンにとっては、日本のカジノ解禁をにらんだ地ならしというメリットがある。
 そこで孫が急いで作った「お土産」が、北米での500億ドルの投資と、5万人の雇用創出だった。16年12月6日、ニューヨーク5番街にあるトランプタワーのロビーに現れた孫は、トランプとおそろいの赤いネクタイをつけていた。赤は共和党カラーだ。
 「マサはすばらしい男だ」。45分ほどの会談の中でトランプにニックネームで呼ぶように頼み込んだ。二人は初対面だったが、これだけで親密さをアピールするには十分だった。
 急ごしらえで作ったお土産には、社外取締役の二人がかみついた。日本電産会長兼社長の永守重信と、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正だ。「取締役会にひと言もなく、何事だ」。もっともな指摘にさすがの孫も平謝りだったが、トランプとの電撃会談が世界中にインパクトを与えたのは間違いない。それをどう生かすかは今後、孫自身が結果で示すしかない。

■時に対立、時に利用  いつの頃からか孫には「政商」とのイメージがつきまとうようになった。孫自身はこの呼ばれ方を嫌い、自身を政商呼ばわりしたある起業家に公衆の面前で「たいがいにせい!」と一喝したこともある。
 だが、もとは政治に無関心な経営者だった。元民主党議員で2005年から8年間、社長室長として孫に仕えた嶋聡は、「孫さんはむしろ政治音痴ですよ」と話す。
 孫は、携帯電波の割り当てを巡って監督官庁の総務省を提訴したこともある。2004年のことで当時の総務大臣は麻生太郎だった。「だんだんムカムカしてついにプッツンした。麻生さんは以前から顔見知りでなんの恨みもなかったけど」と孫は振り返る。
 孫は「天下りは今後100年受け入れない」とまで宣言している。政官界を敵に回したように見えるが、そのスタンスに固執しているわけでもない。09年に民主党が大勝して政権交代が起きると、元民主党議員の嶋が側近として仕えていたこともあり時の政権に急接近する。孫が総務大臣の原口一博(当時)にたきつけた「光の道構想」だ。孫は光ファイバー網を全国に行き渡らせるためには設備を握るNTTのアクセス部門を分離させるべきだと主張した。結果的にこの働きかけは失敗するが、孫にとって政治との距離は、目的を達成するための調整弁なのだ。

■金大中氏に訴えたブロードバンド政策
 原点は韓国での経験だ。1998年6月、孫は盟友のビル・ゲイツとともにソウルの大統領府・青瓦台を訪れた。当時の韓国経済はアジア通貨危機が飛び火してどん底だった。二人を迎えた大統領の金大中は率直に聞いた。
 「韓国経済が立ち直るには何が必要か」
 先に口を開いたのが孫だった。「三つあります。一にブロードバンド、二にブロードバンド、三にブロードバンド」。隣のゲイツも「100%賛成です」と同調した。ブロードバンドが何か知らなかった金はそれでも二人の意見を聞き入れた。韓国はその後、全国に高速通信網を整備し、ブロードバンド先進国となった。
 「俺は社長を辞める」。11年3月11日、東日本大震災が発生し、被災地を視察した孫は、脱原発に専念するため1年間、社長から降りると言い出した。柳井がいさめて撤回したが、電力事業にまい進し始めた。
 孫の電力事業は奇想天外なアイデアに行き着いた。アジア・スーパーグリッド構想だ。モンゴルの風力やインドの太陽光、ロシアの水力で得た電力をアジア中を張り巡らせた電線で供給し、日本にも持ってこようというものだ。
 電力は国家の事業だ。スーパーグリッドの手始めにロシアの水力発電をサハリンかウラジオストク経由で日本に持ち込もうと構想した孫は12年夏、ロシア大統領のウラジミール・プーチンと会うと言い始めた。

■プーチン会談実現
 この時は政商批判を警戒した柳井の反対で実現しなかったが、16年6月にサンクトペテルブルクでついに会談にこぎ着けた。それから半年後の同年12月。来日したプーチンが東京・大手町の経団連ビルを訪れた際、待ち構えた孫が話しかけて肩を組む二人の様子がテレビで中継された。孫の電力事業は「関心がなくなったのでは」とも言われるが、水面下で動きつつあるのだ。
 孫が尊敬する坂本龍馬は、暗殺するはずだった幕臣・勝海舟の門人となった。佐幕か尊皇攘夷かの二元論ではなく、龍馬はもっと遠くを見ていたはずだ、と孫は語る。志のためなら、彼我の置かれた立場の壁を無視する龍馬の生き方に打たれたのだと言う。
 今のところ政治に接近する孫の行動はこれといった実を結んでいない。だが、これからも孫は「政商」の横顔を我々に見せるだろう。政治に近づくことそれ自体が、孫の目的ではないからだ。 =敬称略 (杉本貴司) ≫(日経新聞)


 

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