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NMB48原みづき「努力は必ずしも報われるとは限らない」
http://akb48matome.com/archives/51814637.html
秋元康『努力は必ず報われるが、それがいつかは分からない』
http://akb48matome.com/archives/51814670.html
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まず、最初に言っておくべきことがある。
「努力」は必要だ。
人生のあらゆる局面で「努力」は、「現実」と「理想」のギャップを埋める最も有効な方法論である。
適切な現状認識と、適切な理想の設定は、現実と理想との結び引き付ける力である「創造的緊張(Creative tension)」を生み出す。
世の中で、達人や匠と呼ばれるような人たちは、この創造的緊張を自らの意思で創りだせる人々のことを言う。
しかし、一言に努力と言っても、その定義は様々だ。
努力というものについて、過去にエントリを書いたので参考にして欲しい。
「努力は必ず報われる」 高橋みなみ道
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/63fc307f92313690d76a5205a2b94607
さきほども言ったように、現実と理想の持ち方に限りはない。
私が「何も道具を使わずに自由に空を飛べるようになりたい」と理想を持つことにするのは自由だが、それが「適切な理想」だとはとても思えない。
おそらく、そこに創造的緊張は働かないだろう。
では、「適切な理想」とは何か?
無数にあるだろう。
人の数だけ理想はある。
人の中にも、いくつもの理想が共存している。
では、「適切な現実」とは何か?
とどまることがない。
「今」という状況は、人生の中で二度と再現されず、常にオリジナルである。
「現実」は刻々と移り変わっている。
つまり、理想と現実の組み合わせは、無限大である。
ということは、努力の報われ方も無限大だということだ。
それは、人生の可能性が無限大だと言われる所以だ。
「適切な理想」を求めるのは、間違っていない。
そこで「適切な理想」を見出すことができないと思うなら、
そこで「適切な現実」を受け入れられないと思うなら、
「適切な理想」と「適切な現実」を求めて、場所を変えるのは、賢い選択だ。
これは、競争戦略の中で「ポジショニング戦略(Strategic Position)」と呼ばれているものだ。
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競争戦略の中で「ポジショニング戦略」と双璧をなすのが、「組織能力(Organizational Capability)」である。
「適切な理想」と「適切な現実」があって、その2つを結びつける「創造的緊張」が発生したとしても、その力にも「質」がある。
どれだけ環境を揃えても、「能力」がなければ達成できない。
努力の質、そして、努力の結果としての理想の達成能力も重要だ。
たとえば、一流のプロ野球選手は、その試合におけるプレーだけではなく、試合のための準備となる練習においても、一流である可能性が高い。
少し説明しよう。
ある選手が今年の目標を「打率3割」に定めたとする。
昨年の実績からして、今年は3割を狙えると思ったのだ。
しかし、目標を「3割」に定めたら、その目標を達成できるのだろうか。
その選手はバッティングセンスとしては十分に他の3割打者としての能力を持っているが、精神的な弱さからバッティングボックスに立つと緊張して本領発揮できないタイプかもしれない。
その場合、その選手には、精神的な弱さを克服する準備が必要かもしれない。
能力と言ってもその意味は幅広い。
3割打者になるためには、3割打者になるためのあらゆる能力を磨かなければならない。
これは、そう簡単な話ではない。
だから、トヨタ自動車はどのメーカーよりも高い生産性を誇ることができる。
世界に誇るTPS(Toyota Production System)を他メーカーが形だけ導入しても、そう簡単に真似できるものではない。
自動車の生産に関するあらゆる要素に関する能力が求められているからだ。
たとえば、その中には頭の中身が含まれるかもしれない。
(プロセスは移植できても、人の心は移植できない。)
「ポジショニング戦略」と「能力」は二つで1つだ。
戦略を語る人々の中に、どちらかだけで議論を進めるものがいるが、それがたとえうまくいったとしても、それは偶然である。
この2つは両方考えなければならないことだ。
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さて、少し話題を変えたい。
これまで「努力」そのものについて語ってきたが、「努力が報われる」ということがどういうことかについて、あまり語ってこなかったので、その話をしたい。
(少し語っているが)
「ポジショニング戦略」と「能力」についての理解が深まると、完全ではないにせよ、ある一定のレベルで、その努力がどのように報われるかを理解できるようになる。
だが、あくまでも「ある一定のレベル」にとどまる。
理由は「不確実性」である。
馴染みのない人には難しい概念かもしれないが、不確実性で表現される未来というのは、単に「わからない」というレベルなのではなく、未来は本質的に「未知」なのである。
どれだけ将来予測のパラメータを増やしたとしても、そのパラメータの有効性自体が保証できないのだから、過去のパラメータから完全には予測できないものが未来なのである。
という意味で、未来は本質的に「未知」であり、不確実なのである。
(どれだけ優秀なスーパーコンピュータがあっても未来は予測できませんよ。と考えてもらってよい。この発想自体を証明することはできないが)
とはいえ、では我々が努力の報われ方を、どのように考えるべきなのか、という問いについて考えておくべきであろう。
努力の報われ方を知るための手段は、「経験」と「学習」しかない。
最も力強い学習は直接的な経験から得られる。
経験のない者に「理解しろ」というのは酷というものである。
(一を聴いて10を知ることができる人は稀である。)
私達が食べることやハイハイをすること、歩くこと、意思を伝達することを学んだのは、直々の試行錯誤、つまり、ある行動をとり、その行動の結果を見て、新たにまた別の行動をとることによってである。
だが、行動の結果を観察できないときには何が起こるだろうか?
行動の結果が表れるのが遠い先のことであったり、私達の営みを含めた、より大きなシステムの遠く離れた部分であったりする場合はどうなるのだろうか。
私たち一人ひとりに「学習の視野」がある。
つまり私たちは、時間的にも空間的にも、ある一定の幅の視界の中で自身の有効性を評価するのだ。
行動の結果が自身の学習の視野を超えたところに生じる時、直接的な経験から学ぶことが不可能になる。
ここに我々の前に立ちはだかる学習ジレンマの核心がある。
私たちにとって最善の学習は経験を通じた学習なのだが、多くの場合最も重要な意思決定がもたらす結果を私たちが直接に経験できないのだ
非常に重要な意思決定は、数年あるいは数十年にもわたって続く結果をもたらす。
たとえば、今日、学校でトイレ掃除をすることの意味を感じることができるのは、20年後、親となり子供の教育について考える時かもしれない。
たとえば、基礎的な研究開発における意思決定は、その結果を表すのに10年以上かかるかもしれない。
私たちは「学習の視野」を広げること、または「学習の視野」を超える視座を獲得することはできるのだろうか。
どのような方法によって、それが可能になるのか、当Blogでは考えていきたい。
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高橋みなみさんが「努力は必ず報われる」といい、原みづきさんが「努力は必ずしも報われない」といい、秋元康氏が「努力は必ず報われる、ただいつ報われるかわからない」という。
さて、あなたは、本エントリを読んでどう考えるだろうか?