進化する魂

フリートーク
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気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

【AKB48】マス時代の終わりとアイドル戦国時代、そしてAKB48ネットワーク

2012-04-30 23:56:45 | AKB48_アナリシス
GW中にも関わらず全く考える時間がなく・・まとめるのを放棄してちと思うままに書かせて頂きます。
(まとめるのを放棄した時点で当Blogの価値は0に近いかもしれませんが・・)

しかし、うまくまとめることのできない時のストレスはたまりませんね・・
まだうまく解釈できていないということなのだと思いますが。
その分、文章がとても長くなります・・。

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突然ですが、ドラッカーを。

ドラッカーは15世紀に起きたグーテンベルクによる印刷革命が300年後の18世紀における「国民国家」というイノベーションに繋がったとしています。
聖書の大量印刷が宗教改革・戦争を、世俗的な文学や近代演劇を生み、社会革命が起きたと。
IT革命による次なる社会イノベーションが何であるか、それが「ネクスト・ソサエティ」だというのです。

また、これまでの1,000年を振り返るならば、西洋の歴史は多元主義が確立され、衰退し、蘇生した歴史であったといいます。
ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』から、少し長いですが部分引用してみます。(ところどころ端折っています)


 南は地中海から東はギリシャにいたる西洋社会は、紀元1000年ころにはかなりユニークな社会になっていた。それは封建社会と名付けられていた。その中核にあったものが人類史上初の無敵の戦闘マシーン、甲冑に身を固めた騎士だった。

 この戦闘マシーンは、一人の騎士、3頭から5頭の馬と同数の馬丁、戦死率の高さから5,6人に及ぶ補充としての騎士見習い、高価な甲冑から成っていた。この戦闘マシーンを維持するには、100家族、500人の農民が必要だった。古代ローマの職業軍人、あるいは日本の武士が必要とした農民の50倍だった。

 西洋の騎士は、自らの土地を持ち、政治的、経済的、社会的な支配権を握る存在となった。それにつれて他のあらゆるものが自立した権力組織となった。国王や教皇など中央の権威に払うものといえば社交辞令ばかりで、税の類までは納めなくなっていた。それらの権力組織は、貴族、司教、修道院、自由都市、ギルド、大学、職業団体に及んだ。

 1066年に、征服王ウィリアム1世の勝利でイングランドに封建制が確立されたとき、西洋は隅々まで無数の権力組織から成る多元社会となった。全ての権力組織が自治と強力な権力、支配下にある全てに対する政治的、社会的支配権、そして裁判権、軍事力、貨幣鋳造権を求めた。

 その結果、1200年には、西洋社会はそれら無数の利害集団に占領されつくされた。それら利害集団のすべてが、自らの目標をもち、自らの権勢、富、力を追求した。社会全体の利益を考えるものはなかった。こうして社会から社会全体を考える能力が雲散した。

 俗世界において多元主義の蔓延に対する巻き返しが見られたのは、リヨン公会議の100年後だった。1350年ころにウェールズ人が発明しイングランド人が完成した長弓が、戦場における甲冑の騎士の優位性を崩した。さらに中国人が開発した火薬による火砲が、難攻不落の封建領主の城を攻め落とすようになった。

 その後500年間、西洋の歴史は、主権国家すなわち社会における唯一の権力組織としての国民国家の発展の歴史となった。 軍隊をもち戦争を行うことが国民国家の独占となり、私兵が禁じられたのが、30年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約だった。

 諸々の利害集団は次々に自治を奪われた。ナポレオン戦争以降は、ヨーロッパ中で国民国家が勝どきをあげた。聖職者さえ公僕とされ、国によって監督され、給与を払われ、主権者たる国王あるいは議会に従うべきものとされた。

 唯一の例外がアメリカだった。

 19世紀の半ば、ヘーゲルをはじめとするリベラルな政治思想家の多くが多元主義の永遠の死を高らかに宣告した。

 ところが、まさにそのとき、完全に死んだはずの多元主義が生き返ってきた。事実上の権力と自立性を最初に必要としたのが、人類史上前例のない存在として1860年~1870年にかけて生まれた「近代企業」だった。その後続々と新しい組織が生まれた。そして、いずれも社会的支配力を行使する独立した存在となった。労働組合、終身雇用の官僚機構、病院、大学だった。いずれも800年前の多元主義のそれと同じように利害集団だった。同じように自治を求めて戦った。

 それらのなかで全体のことを考えるものはなかった。第二次大戦のさなか、戦争遂行能力を損なうことを恐れて炭鉱ストの回避を呼びかけたフランクリン・ルーズベルト大統領に対し、労働組合指導者ジョン・L・ルイスはなんと答えたか。「大統領は国の為に働く。私は炭鉱労働者の為に働く。」だった。この言葉こそ、あまりに率直であったが、今日あらゆる種類の利害集団のリーダーたちの信念となり、かつ彼らに期待されていることの表白である。

 かくして再び800年前と同じように、今日多元主義が公共の利益のための政策を無効化し、社会の存在を危うくするにいたっている。

 しかし今日の多元主義と800年前の多元主義の間には大きな違いがある。甲冑の騎士、自由都市、商人のギルド、特権を与えられた司教区は、財産と権力を基盤としていた。他方、企業、労働組合、大学、病院など今日の組織は、それぞれの機能を基盤とする。それらの組織は、まさに単一の機能に焦点を絞ることによって成果を上げる。

 主権国家による権力の完全掌握というスターリンの壮大な試みは、つまるところ、企業や病院はもとより軍を含むあらゆる組織が、まさに自律性を奪われて機能不全に陥ったためについえた。

 実は、今日諸々の組織によって行われている仕事のほとんどが、つい昨日までは家族の手にゆだねられていた。家族の教育は家族が行っていた。老人や病人の面倒は家族が見た。家族の仕事は家族が見つけた。もちろん、19世紀の手紙や一族の言い伝えからも明らかなように、家族の手によってそれらの仕事が十分に行われていたわけではない。それらの仕事は、国やコミュニティから完全に独立した真に自立した組織のみが立派に行うことができる。

 したがって、これから始まる新たな1000年、あるいは100年における我々に課された最大の課題が、それら諸々の組織の自立性を保ちつつ、しかもグローバル企業にあっては主権国家の管轄さえ超えた自立性を保ちつつ、今日では戦時以外は失われてしまった社会の一体性をいかにして回復するかである。とはいえ、我々はいまのところ願うことしかできない。われわれは、いかにそれをなすべきかを知らない。

 しかしこの望みをかなえるためには、これまでに経験したことのないあることが必要となることだけは明らかである。それは、あらゆる組織が、それぞれの機能への絞り込みを厳しく保ちつつも、社会全体のために協同し、各々の政治機関と協力する意思と能力を新たにしていくことである。新たな1,000年を前にした先進国に対し、これまでの1,000年が遺した気の遠くなるほど大きな課題がこれである。


期待させるだけさせておいて、最後に問題をぶち上げるだけぶち上げて投げっぱなすというのが如何にもドラッカーらしさといえば、らしさなのではなかろうかと思いますが、問題提起の能力「取り組むべき、考えるべき適切な問題を設定できる」のは重要なことです。


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で、これで思い出すのが昨年(2011年)の夏に放映されたNHKスペシャル「圓の戦争」だ。

NHKスペシャル 圓の戦争
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110814.html

300兆円の4割をまかなった「圓」の戦費調達メカニズムと通貨戦争の側面を特集。
大陸での「現地調達」という名の強奪をどう金融システムとして正当化するかで、関東軍が編み出したのが圓。
アメリカは銀行の残高などから、日本に戦争を継続する力はないと見ていたが、当時の世界三大為替銀行だった横浜正金銀行がNYの隠し口座に大量(石油3年分)の資金を貯めこむなど、そして圓のシステム化により戦争継続が可能であった。
英米は日本の力を削ぐ為に大陸での圓の浸透を防がなければならず積極的に元を支援した。

つまり、日中戦争は通貨戦争(ドル+ポンド+元 vs. 圓)でもあって、通貨という名の信用(覇権)をどちらが握るかの勝負であった。
単純には信用を担保する力こそ国家なのだと言われるが、目的論的に捉えると、国家による通貨というよりも、通貨のための国家というややこしい関係性が見て取れる。
結局起きたのは圓の3万倍のハイパーインフレで日本は通貨戦争(信用獲得競争)に負けた。

しかし、この構図は結構本質的で、例えば民間企業で考えると、企業によるブランドなのではなく、ブランドのための企業という関係性を見い出せやしないだろうか。
難しく考えなくてもドラッカーやビジョナリーカンパニーと同様に目的論的な捉え方をすると、企業という組織は基本理念という名の存在意義を乗せる器であって、企業のために基本理念が存在しているわけではない。
ドラッカー風に「社会に機能を提供する社会的機関としての企業」を考えてみても、答えは同じだろう。
その機能を提供するために企業が存在するのだ。

その意味で、企業のためにブランドがあるのではなく「ブランドのために企業が存在する」と考えた方もできると思う。
企業が力を失えばブランドはインフレを起こすし、スタートアップだとかベンチャーだとか現況と関係なく、その企業に力があると思えば割引現在価値的にブランドは高くなる(時価総額も高くなる)。


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この記事も同様の視点で語られている気がする。

札束を積むより信用を築け!
~FacebookやTwitterがつくる21世紀の“信用主義経済”をよりよく生きるコツ~

http://diamond.jp/articles/-/13320

貨幣は『ショートカット(中抜き)』される時代へ
お金を介さない価値交換を実践しよう

http://diamond.jp/articles/-/13499

世界は三層構造でできている
「国家」「企業」より重視したい所属先は?

http://diamond.jp/articles/-/13597


これからの時代は、信用創造が多極化する分散型信用主義経済という話。
信用を担保するものが国家から企業、個人に変遷してきており、特にソーシャルネットの広がりがこれを加速している。
ゆえに本質的にネットと貨幣は競合関係にあって、今後は貨幣を中抜きした直接的な交換と交配が広がりを見せるという点は実に鋭い指摘だなと思うし、企業の立場として考えると信用、ブランドがあれば信用創造と同じことができる、つまりルールメーカーになれるということだと思う。


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ものすごくまえおきが長くなったが、ようやく本題に入ろう。

「戦国時代」の意味が質的変化を遂げたと思うのだ。

マス・アイドル時代が終焉を迎えて、ドラッカーが言うように機能に焦点を絞ったニッチなアイドルが多く現れた。
アイドル多元主義の時代だ。

その意味では、「戦国時代」とは言うものの、各アイドルの関係性は競合関係というより、住み分けられた別個のものと考えた方がいいかもしれない。
そういう意味では「戦国時代」という表現は不適切である可能性が高い。
「アイドル戦国時代」というより「アイドル多元主義時代」の方が意味的にはしっくりくるだろう。


その上で、注目すべきは、完全に死んだはずの封建主義が姿を変えて生き返ってきたように見えることだ。

この流れの主役は、もちろんAKB48だ。
AKB48を起点とするSKE48/NMB48/HKT48/JKT48/TPE48/SNH48といった地域に根差した「地域性」を持ち、ある一定の限界はありながらも「顧客参加型(しかし、決して民主主義ではない)」という側面を持つアイドルの誕生である。

ヲタと呼ばれるファン達は、それぞれのグループにおいて自分たちの領土(意見や関与)が認められることを求め、または自分たちの存在感を示さんとして日々闘う。
その結果として、ファンはゆるく組織化されることになる。
これを見て、新しい時代の封建主義を連想せずにはいられなかった。
多元主義時代の多元主義によって雲集霧散するのではなく、多元主義時代の封建主義によって一体性を確保するのだ。
自己組織化を誘引するメカニズムとしての封建主義なのだ。

AKB48とファンとの関係性は、形は違えど「信用創造が多極化する分散型信用主義経済」を利用した「領主と家臣の関係性」のアナロジーで説明づけられはしないだろうか。
昔の封建制度が「土地」を媒体とした主従関係であったのは、土地が信用を表す第一のものであったからだが、AKB48における土地は「推しメン」に関連するあらゆるコトであろうか。
(そういう意味ではメンバー1人ひとりが領主様なのだ・・)

あえていえば、「封建主義的な要素を持つアイドルによる多元主義時代」だろう。

これを単純にソーシャル・ネットワークの広がりと言うにはもったいない。
私には、信用創造の担保を地域性や物理的緊密性、顧客参加型という「リアル」に置きながら、そこを起点にネットワーク効果で何倍ものレバレッジをかけるようにバーチャルにとてつもなく大きな世界(ここでは「AKB48ネットワーク」と呼ぶことにしよう)を構築しているように見える。
信用創造の担保としての拠点がジャカルタ、台北、上海...と次々に増えていくことによって、このAKB48ネットワークはそれらを乗算するように大きくなる。
驚異的なスピードとネットワーク的な拡がりを見せているこの経済を何と呼ぶべきなのだろうか。
それこそ、以前から当ブログで主張している「東アジア・アイドル経済圏」の先鋭的な形が見えてきた気がするのだ。

またAKB48グループそのものが、異なる事業体の緩やかな連合体となるであろう。
それらを全てひっくるめて『AKB48』というブランドをグループ全体での一体性の確保のために使うのだ。

『AKB48』とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/af87f1dafba669f391cb2f4b218cfd2b


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ここまで書いて思うが読み手に伝わる気がしない・・
こりゃ書き直すことになりそうだ・・(汗

少し解説しておくと、企業の中は封建主義的ですよね。
経営陣と従業員の関係が。
でもAKB48とファンはそういう関係にないですよね。

しかし、広い意味では、顧客と企業は価値を共有しているんですよ。
顧客価値と企業価値(利益、従業員価値、株主価値、etc..)はセットですからね。
言うなれば、顧客のゴールと企業のゴールは異なるものになるかもしれないが、方向性は合わせられるということです。

その1つの手段として、AKB48とファンの間で自己組織化を起こすことがあると思うのですね。
そのやり方として、メンバー1人ひとりを領主様とした封建主義的なやり方があるのかもしれないなと。
いや、強引なのはわかっていますけどね。

なんだ、たった数行で書けたじゃないか・・