2回目となりますが「人間として一流を目指す」(上甲 晃著 モラロジー研究所発行)より、転載させていただきます。私は、日々の生活の中、効率のみ優先、知識偏重になっていないか、人間として大切なことは何か、そんなことを考える機会となりました。(以下転載)
本当に何かを求める心があれば、すべての体験が学びの機会になる一例として、「お茶くみ」について話してみたいと思います。
「お茶くみ」といいますと、今日では「なぜ私がそんなつまらない仕事をしなくてはならないのですか」と言われるくらい、まったく尊敬されない仕事になってしまいました。しかし、お茶一杯でも「あなたの入れてくれるお茶はおいしいね」と、本当に人を喜ばせ、感動させようと思ったならば、並たいていの努力ではできないのです。
私は、多くの訪問先でお茶をごちそうになりますが、色だけついた、味も素っ気もないお茶があります。それは、「お茶くみはくだらない仕事だ」と思ってお茶を入れている証拠です。私は、その価値観が間違っていると思っています。本当は、お茶くみ一つにも達人の域があるのです。
先般、お茶くみが非常に重要な勉強の仕方だということを教えられました。
それは、警視庁捜査二課にうかがったときのことです。警視庁捜査二課というところは、経済犯罪を数多く扱っているところです。そこで、ある刑事さんと話していましたら、大変よいことを教えてもらいました。
その刑事さんは、最近の新米刑事について次のように話してくれました。
「今の刑事は、理屈とか理論とかを教えられるから、一応の知識はある。しかし、知識だけでは泥棒は捕まえられない」
つまり、いろいろと知っていることと、実際にできることは違うというわけです。本来は、”できる人間”にならなければならないのです。しかし、多くの場合は”知っている人間”でとどまっています。今日、日本全体でも検挙率が下がってきています。知識や理論は分かるけれども、泥棒の正体が分からないのです。ですから、泥棒がなかなか捕まらないのです。
知識の偏重と、検挙率の低下との因果関係は明確には分かりませんが、何らかの影響があることは確かだと思っています。
その刑事さんは、こう言いました。
「昔は難しい理屈なんか、あまり教えなかった。けれど、実際に役に立つ知恵を教えてきた。そのための一番大事な教育方法はお茶くみだった」
不思議ではありませんか。昔の刑事さんは、お茶くみでもって刑事を訓練したということなのです。私は、どういうことなのか耳を傾けました。
話の概要はこうでした。
新米刑事の研修は、まず、先輩の刑事さんが6~70人ぐらいいる大部屋のお茶くみから始まります。先輩の使っている湯飲み茶碗は、みんな違います。新米の刑事は必ずといってよいほどこう聞くのです。
皆さん持っている湯飲みが違うので、誰がどの湯飲みなのかを一覧表にしてもらわないことには、お茶の入れようがありません。
先輩は、「自分で考えなさい」と言うだけです。
すると、新米刑事は、あくる日から、とにかく誰がどの湯飲みを持っているかを徹底して覚えることから始めるのです。
たかがお茶くみですが、よく考えると、これは刑事としての最も基礎的な訓練なのです。人の特徴、持ち物の特徴を一つひとつ覚えていくのです。“あの人は、体も丸いけど、湯飲みも丸いな”とか、“あの人は、湯飲みは小さいけれど体は大きいな”とか、あらゆる意味において持ち物とその持ち主の特徴を覚えるという、刑事として最も実際に役に立つ力を訓練することになるのです。
お茶くみをしていると、中にはこういう先輩刑事がいます。
ちょっと口をつけて、無言で水飲み場へ行って、お茶をザーツと捨ててしまうのです。そして「飲めるか」ということで、お茶を入れた新米刑事の机に空になった湯飲み茶碗をポンと置くのです。当然、新米刑事は聞きに行きます。
「すいません、何かお気に召しませんでしたか?」
すると、先輩刑事は「自分で考えろ」と言います。
そうすると新米刑事は、お茶を捨てた先輩がお茶を入れ直している様子をじっと見るわけです。どこが自分の入れるお茶と違うのか、じっと観察して、そして真似をしながらお茶を入れていきます。そうしていくうちに、やがて先輩刑事はお茶を飲んでくれるようになるのです。
あるいは、お茶の葉の在庫が切れます。当然、買わなくてはならないのですが、どうやって手に入れるのか分かりません。そこで新米刑事は、出入りの業者さんをずっと見比べながら、どの人がお茶屋さんかを見極めるわけです。
考えてみると、これらは全部「たかがお茶くみ」です。しかし、刑事としての最も大事な人を見分ける、あるいは人の特徴をつかむという力は、全部お茶くみを通して養われるのです。
新米刑事は、こうしてお茶くみから、自分で考えて苦労しながら刑事としての力を身につけて一人前になっていくわけですが、これはあらゆる職業に通じることだと思います。
自分の目の前にあることすべてを研修だと思い、みずから問いを発し、みずから答えを得ていく中で、人は育っていくものと思います。「たかがお茶くみ」と言い出したときから、日本人は、ものの本質を見る力を失ってしまったのではないかと思います。