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豊後の国の三人の豪商の身代が傾いた 虹澗(こうかん)橋(きょう)

2011年12月01日 12時53分31秒 | 旅、風景写真



虹澗橋(こうかんきょう)は、大分県豊後大野市三重町と臼杵市野津町の間の大野川水系三重川に架かる石造アーチ橋。
通称、柳井瀬橋。国の重要文化財に指定されています。橋長:31.0m 径間(アーチの幅):25.4m 幅員:6.5m
石造りアーチ橋として、霊台橋(1846年完成)、通潤橋(1847年完成)について番目ですが、霊台橋の完成からさかのぼること20年。当時は日本最大のアーチ橋でした。



橋が架けられるまでは「柳井瀬の渡り」と呼ばれる最大の難所で、人や物資の往来の妨げとなっていたため、地元の豪商名(臼杵の甲斐源助、三重町の多田富治、後藤喜十郎)が私財を投じ年の歳月をかけ文政7年()に完工しました。



「虹澗橋」の「澗」は谷川を表しし、「虹澗」とは谷川にかかる虹という意味でゆるやかなカーブを描く欄干は「虹」をイメージさせます



この橋のおかげで交通はきわめて便利となりましたが、年もの歳月と完成間近の橋の崩落など、莫大な出費により人の豪商は家運を傾けたといいます。



この大規模な石橋の建設には余名の大工・石工が参加。石工の棟梁は臼杵の大野織平、支保工は磯五郎という飛弾の匠の技術をもった大工が中心となって作ったとされています。
彼らの実績はもちろん彼らがどのようにして石橋の技術を身につけたかは全く不明です。



深い谷にかかる美しく大きな石橋。そして架橋のエピソードや虹をイメージさせる橋。地域の宝ものとして、これからも大切に残して欲しいと願っています。