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リタイアーのよもやま話

世界は分けてもわからない

2009-10-23 22:34:13 | 読書
世界は分けてもわからない



本屋を立ち寄って、「世界は分けてもわからない」というタイトルの本を手にとった。

なんとなく、本の最後を読んだ。

すると、

つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。

世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

という文章が目に入った。

そこで、つい惹かれてしまった。

読んでいるうちに、理系の人なのに、なんと文章が文系だろうと、感心してしまった。

と同時に、だいぶ前に、ブログで紹介した人だということが分かった。


その中で、下のような大変印象的な文章に出会った。

この文章が書かれる理由は、本を一読した方がよく理解できるが、そのままでも、大変説得力のある文章で、非常にインパクトのある考え方で、大変教えられるものがある。





見たと思ったものはすべて空目

かつて私は、私の本の若い読者からこんな質問を受けたことがある。

なぜ、勉強をしなければならないのですか、と。そのとき、私は、十分答えることができなかった。

もちろん今でも十分に答えることはできない。しかし、少なくとも次のようにいうことはできるだろう。

連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。

逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。

つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。

なぜだろう。

連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。

もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。

世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。

かつて私たちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。

しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。

ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
私たちは見ようと思うものしか見ることができない。

そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。

世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。

パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。

つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。

なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。

滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。
 
そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。




エピローグ


この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。

つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは担桶している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。

そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみる
と、供し手と受け手があるように見える。

しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原
因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。

つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。

世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。





神の見えざる手

2009-10-23 21:48:17 | 読書
Newsweek(日本版)の2009年9月9日のLettersにあった記事である。




だいぶ前の話だが、今まで、当たり前だという話しがそうでなっかたという記事があって、びっくりした。


以下、その記事である。


強欲と資本主義の関係を問い直す

国際版編集長ファリード・ザカリアの「新・資本主義宣言 モラルある強欲こそ」(6月24日号を読んで、資本主義だろうと共産主義だろうと君主制だろうと、舵取り役の人々が節度を保ち、やり過ぎを慎めばその国の経済は繁栄すると私は考えるようになった。この基本原理さえわきまえていれば、どんな経済モデルであっても失敗に陥ることはないだろう。
     J.V.V.Murthy(¥ンド)
       ★

 この記事のように資本主義について読者を啓蒙する意図で書かれているにもかかわらず、真の「資本主義宣言」であるアダム・スミスの『国富諭」にまるで触れていない文章に出合うと、私は驚きを禁じ得ない。

スミスは個人による利益の追求と、行き過ぎた強欲をはっきり区別していた。

強欲は資本主義にとって脅威であり、資本家たち白身から最も大きな危険は生まれると考えていた。

彼はこう説いている。

富と相関関係にあるのは個人ではなく社会であって、社会は一定の環境を維持するために資金(累進課税による税金)を必要としている。

そして教育や公共施設はその重要性から、自由市場に任せることはできないのだと。
 
だがアメリカやイギリスで目にする資本主義関連の記述の多くは、スミスの考えと懸け離れている。

強欲は善であり、税や規制は資本主義を損なうもので、自由市場がすべてを解決すると説いている。
Steven Telleen(カリフォルニア州)
       ★


アメリカ建国の父のI人、ベンジャミン・フランクリンはこう言った。「安全のために喜んで自由を犠牲にする者は、安全にも自由にも値しない」。現在のアメリカはまさに、この言葉の指し示す方
向へと向かっている。

政府への依存心が強い人々は、周期的に集団自殺するといわれる動物レミングのように、他の人間を道連れに崖へ向かって突き進んでいる。私たちに必要なのは、政府による不要な介入を減らす一方で、民間による事業と資本主義が富や雇用を生み出すプロセスを促進することだ。
 
Lyle Halstead(インディアナ州)

       ★
ザカリアの記事は、いかなる経済システムも完全ではないことを思い出させてくれた。ドライブに事故の危険が付き物なのと同じだ。

 Katherine Mancuso(fバダ州)


欧州で左派が後退した真の理由

 「左派の夜明けはなぜ来ない」(6月24日号)の筆者であるデニス・マクシェーン英下院議員は、ヨーロッパの左派は再生すると言いたかったようだが、説得力に欠けていた。伝統的な左派はすっかり中道寄りになり、もはや右派との区別はほとんどつかない。おまけにエリート層向けの「金持ち社会主義」をでっち上げ、信頼性も失ってしまった。マクシェーンの属する労働党がいい例だ。
 
先頃の欧州議会選挙で左派が振るわなかったのは、ヨーーロッパにおける社会民主主義政権の復活が難しいことを示している。
    Karl H. Pagac(フランス)



「神の見えざる手」について、アダム・スミスの本来の考えとは違う喧伝があったことが知らされて大変ためになった。