世界は分けてもわからない
本屋を立ち寄って、「世界は分けてもわからない」というタイトルの本を手にとった。
なんとなく、本の最後を読んだ。
すると、
つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
という文章が目に入った。
そこで、つい惹かれてしまった。
読んでいるうちに、理系の人なのに、なんと文章が文系だろうと、感心してしまった。
と同時に、だいぶ前に、ブログで紹介した人だということが分かった。
その中で、下のような大変印象的な文章に出会った。
この文章が書かれる理由は、本を一読した方がよく理解できるが、そのままでも、大変説得力のある文章で、非常にインパクトのある考え方で、大変教えられるものがある。
見たと思ったものはすべて空目
かつて私は、私の本の若い読者からこんな質問を受けたことがある。
なぜ、勉強をしなければならないのですか、と。そのとき、私は、十分答えることができなかった。
もちろん今でも十分に答えることはできない。しかし、少なくとも次のようにいうことはできるだろう。
連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。
逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。
つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。
なぜだろう。
連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。
もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。
世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。
かつて私たちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。
しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。
ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
私たちは見ようと思うものしか見ることができない。
そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。
パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。
つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。
なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。
滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。
そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。
エピローグ
この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。
つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは担桶している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。
そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみる
と、供し手と受け手があるように見える。
しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原
因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。
つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
本屋を立ち寄って、「世界は分けてもわからない」というタイトルの本を手にとった。
なんとなく、本の最後を読んだ。
すると、
つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
という文章が目に入った。
そこで、つい惹かれてしまった。
読んでいるうちに、理系の人なのに、なんと文章が文系だろうと、感心してしまった。
と同時に、だいぶ前に、ブログで紹介した人だということが分かった。
その中で、下のような大変印象的な文章に出会った。
この文章が書かれる理由は、本を一読した方がよく理解できるが、そのままでも、大変説得力のある文章で、非常にインパクトのある考え方で、大変教えられるものがある。
見たと思ったものはすべて空目
かつて私は、私の本の若い読者からこんな質問を受けたことがある。
なぜ、勉強をしなければならないのですか、と。そのとき、私は、十分答えることができなかった。
もちろん今でも十分に答えることはできない。しかし、少なくとも次のようにいうことはできるだろう。
連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。
逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。
つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。
なぜだろう。
連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。
もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。
世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。
かつて私たちが身につけた知覚と認識の水路はしっかりと私たちの内部に残っている。
しかしこのような水路は、ほんとうに生存上有利で、ほんとうに安心を与え、世界に対する、ほんとうの理解をもたらしたのだろうか。
ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。
私たちは見ようと思うものしか見ることができない。
そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。
パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。
つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。
なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。
滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。
そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。
エピローグ
この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。
つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは担桶している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。
そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみる
と、供し手と受け手があるように見える。
しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原
因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。
つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係とよぶべきものもまた存在しない。
世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。