Umi kakasi

自分が感じたことを思うままに表現してみたい。

空白の一日

2010-01-18 12:00:02 | 日記
阪神に電撃トレード
小林 繁氏 逝く
   

阪神のエース通算139勝 現役時代小林の存在を一躍有名にした「江川騒動」
小林 繁が57歳の若さで波瀾(はらん)万丈の人生に幕を下ろした。
小林氏は鳥取県生まれ。由良育英―全大丸を経て71年ドラフト6位で
巨人入団。76年から2年連続18勝、を挙げて長嶋茂雄監督の
リーグ連覇に貢献した。77年沢村賞受賞など頭角を現すも、
江川の巨人入団に伴う交換トレードで79年に阪神へ移籍。
巨人や江川が批判にさらされる一方、小林はその年22勝。
巨人戦では無傷の8勝を挙げた。同年22勝で最多勝。
83年まで8年連続2ケタ勝利を挙げ、同年に現役を引退した。
激しいショックを受けながらも、「12、13年しかユニホームを着て
いられないのだから、自分を商品と思い、できるだけ高く売ることが
得策だと考えた」と移籍を承諾。
同年に対巨人戦8連勝を含む22勝を挙げて、2度目の沢村賞を獲得。
83年に引退するまで悲劇のヒーローとして、阪神ファンのみならず国民的な
人気を博した。
その後はTBSで野球解説者、スポーツキャスターなどとして活躍。
当時では珍しく大リーグの野球を深く研究し、試合の流れを組み立てる,
中継ぎ投手の重要性を主張。
日本球界に「セットアップ(中継ぎ)」という言葉を、いち早く広めたのは
同氏だと言われている。
早すぎる旅立ちに31年前の電撃トレード同様、球界に再び衝撃が走った。

突然の訃報に江川氏は僕の中では終わっていません。
原因はこちらにある。小林さんが亡くなったからといって、『申し訳ない』という
気持ちは一生なくならないと思います」。江川氏は両目に涙をため、
永遠の別れを惜しんだ。
当時球界のみならず、社会全体を揺るがした「空白の一日」
江川は法大4年時の1977年ドラフトで、クラウン(現西武)の1位指名を
拒否して米国に留学。
1978年の11月22日のドラフト会議前日の“空白の一日”となった
21日に、巨人が浪人中の江川卓投手と電撃契約して起きた大騒動。
当時江川の交渉権は77年に指名したクラウン(78年10月から西武)にあっ
たが、巨人は野球協約上、会議前日はどの球団とも契約可能だとの
解釈を主張。セ・リーグの他球団は反発し、これを認めず、
鈴木龍二セ・リーグ会長(当時)は巨人の契約承認申請を却下した。
ドラフトでは阪神が江川の交渉権を獲得した。
金子鋭コミッショナーが2球団の間で超法規的なトレードを行うべきとする
「強い要望」を出した。これで一応“空白の一日”のけりはついた、
阪神が江川といったん契約して,巨人へトレードする案を提示。
両球団が応じ、巨人から交換要員として小林繁投手が阪神へ移籍した。
「世紀のトレード」から20年以上、互いに言葉を交わすことはなかったが、
清酒メーカー「黄桜」のCMで共演し2人は07年“再会”、江川氏が謝罪した。
『お互い大変だったな』と言われ、ホッとしたことを覚えています。
救われました。29年目の“和解”だった。
小林さんの控室で「元気でやれよ」と声をかけられた。それが2人にとって
最後の会話だったと、小林氏の早すぎる死を悼んだ。

球界のだれもが、「格好いい」のよく似合う、格好よすぎるコバさん、
若くして逝くのは早すぎると、多くの球界関係者、多くのフアンが残念だ、
と思いながら、亡き、小林 繁氏のご冥福をお祈りしましょう。

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