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大井河源紀行 15  3月19日 田代、岸、小長谷城址

(庭のキンギョソウ)

昨日、島田市市長、市議会議員選挙があり、初の女性市長、染谷絹代氏が選ばれた。現職の桜井氏を破っての当選であった。染谷氏はまだ未知数であるが、島田市民はその未知数に賭けた。

誰がやっても長期政権になると、色々な歪みが出てくる。市民の意思を汲み上げて政策に反映するのが、負託された市長の役割であるという事を、いつの間にか忘れてしまう。政権が長期になると、自らの考えがイコール市民の意思であるような錯覚に陥るからである。いつの間にか、市民の意思とは別のところで政治を行っている。そして、ある日、市民からNOを突きつけられる。市長は最長八年が限界だと思う。八年掛かっても達成できない事は、延長しても出来るはずはない。

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三月十九日、六日目、藤泰さん一行は青部を出発、大井河原に出て、十五六町ほどで、坂京の河内川を渡る。大井川の支流で、その川上には、上藤川の枝郷、坂京、小猿郷、幡住、という小里がある。渡った先に峠があり、右の方に坂京道がある。この道には入らずに、田代の方へ進む。この際にも柳瀬、三杯という、上藤川の分れの里がある。

そして田代村に入る。青部より半道ほどで、家数三十五戸。産神、大井の神、天満宮。曹洞宗の徳林寺という小院がある。本尊は弥勒仏。こゝより、岸村まではわずか十町ほどである。

村を抜けて小坂を登り越し、沢川にかかった橋を渡って岸村に至る。家数三十二戸。小山と云う所に、下野国より勧請の日光権現の小祠がある。曹洞宗の昌岸寺という小院がある。本尊は延命地蔵。この里の紺屋で休憩し、昼食を摂った。

この後、読み下し文で示す。

あるじの話に、田代と岸との際に椿沢川という所、この下流大井河に落ち注ぐ所を大釜と唱う。水渦巻なす渕あり。さし出たる大岩を頭巾(ときん)岩と呼ぶ。筏を下せる難場にて侍る、と語る。

その処へは寄らず。村落を出て左右に折れて過ぎ行きたるに、遥かに水音高く聞ゆ。坂を少し下れば、青巌錐立ちたる幽谷に、一条の素練巌に落ち掛かり、その響、霹靂の如くして、峻崖あたかも玉を砕くかとあやしまる。水烟は四方に散りて、霧かとうたがう。こなたより、かなたへ投げ渡せる、一本の橋を打ち渡りて杉の村(群)立たる坂にのぼりぬ。この沢、鳴沢と呼ぶ。泉の源は岸村の杉山の奥より出るなり。
※ 素練巌(それんいわ)- 白い練絹のような岩
※ 練絹(ねりぎぬ)- 生糸で織った織物を精練して、柔軟性と絹独特の光沢を出させた絹布。


この坂、右に廻れば傍らに花表あり。この地はこれ古城跡にて、むかし小長谷氏の拠(よ)れる所なり。かの花表の内に入りて見れば、牛頭天王の社なり。岸、田代、藤川の惣鎮守とかや。社の棟に七曜或いは瓜の内に橘の紋をうちたり。賽謁(さんけい)して所々見廻りしに、土手一重の外、入口より右のかたに古筒井の跡あり。臨み見るに、中央埋りけれども、たたみ揚げたる石垣損せず。
※ 花表(かひょう)- 華表、神社の鳥居。

地理を察するに、大手の方は堰河の岸にて、数丈の巌石聳えたり。からめ手の方は谷深く、谷水漲(みなぎ)り、前の岸の方に渡せし一本橋かゝれる方も、谷深く切れたり。城地平面、から(空)堀あり。ここは上藤川下組、源左衛門組の内なり。この城跡の後の段を森平と地名す。こゝより丑寅に下り村落なり。


小長谷城址は現代の地図にも載っている。南北朝時代、近くの徳山城を本拠として周辺を治めていた土岐氏の一族、小長谷氏によって築かれたとされる。室町時代には、今川氏に属して、引き続き治めていたが、今川氏の没落すると武田氏の統治下に置かれる。さらに、武田氏滅亡により没落、小長谷氏一族は各地に分散して帰農したという。この後に、一族の末裔という家が出てくる。
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