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事実証談 神霊部(下) 84~88 年神、秋葉山

(静居寺の牡丹)

事実証談の解読を続ける。

第84話
○城東郡笠原庄、治郎左衛門という者は、榛原郡より聟に来りしを、その親里一向宗にて有りける故、かの治郎左衛門親里のまゝに、禁火(いみび)の事、正しからざりしに、
※ 一向宗(いっこうしゅう)- 浄土真宗。主として他宗派からの呼び名。一向一念宗。門徒宗。「弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ。」といわれ、俗信などを無視する傾向にあった。

文化十二年(1815)二月朔日、朝飯を炊(かし)きたりしが、その色赤飯の如くなりし故、怪しみて卜者に占わせたりければ、十五日頃にはかならず災い有るべしと言いけるにより、主も俄かに驚き、萬(よろず)つゝしみたりしに、同月十五日、その家の娘つるといえるが、いく度も気絶して、大病を煩いしとなん。


第85話
○周智郡天宮郷、中村家にても、寛政年中(1789~1801)、火の穢れし事有りしを知らずして有りしに、その家の娘、気絶して悩みし事有りしは、上の件(くだり)と等しき事なりけり。

第86話
○城東郡平尾村、栗田家の下女、月役にて有りしを、隠して同火したりければ、囲炉裏の鍵より煤水流れ落つる事、上に水ありて洩り下るが如くなる故、怪しみよく/\見れども、上には何もしかるべき物なく、拭えども止まざりけり。神職家の事にて有りければ、火の穢れならんとよく糺したりければ、下女の隠せし事あらわれ、祓い清めたりければ、則ち止みしとなん。
※ 囲炉裏の鍵 - 自在鉤(じざいかぎ)のこと。囲炉裏やかまどの上につり下げ、それに掛けた鍋・釜・やかんなどと、火との距離を自由に調節できるようにした鉤。


第87話
○文化十四年(1817)正月、同郡赤土村、ある家にて、年神祭りとて、常よりことに火を改め物炊きけるに、朝夕の飯、赤色に変じ、茶飯にひとしくなりし故、怪しみ糺したりければ、下女月役にて有りしを隠し、同火せし事あらわれたりける故、萬洗い清めて炊きたりければ、それよりかわる事なかりしといへり。

第88話
○豊田郡前野村、鈴木常吉という者、寛政といいし初年の頃(1789)、十六歳のとき、一僕をつれて秋葉山に参詣せしが、甚く労(つか)れ、日暮れて麓なる旅宿に着きけるを、道にて火防(ひぶせ)の札を落せし故、驚きてとかく言いさわぎけるに、相宿せし旅人聞き付けて言いけるは、

我らも日暮れて山をくだりしに、道にて大なる人出ていいけるは、暫し先へ十六、七歳ばかりなる前髪下りしが、いたく労れしと見えて、御札を落したり。持ち行きて渡せと言いしにより、怪しみながら受け取り来たりしが、これなるやとかの札を出せしに、取り落したる札なりければ、悦びて受け取り帰りしが、闇夜といい、その拾いし大なる人というは、神にておわしけんと、則ち常吉の物語なり。
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事実証談 神霊部(下) 83 正月諸神

(静居寺の珍しいツツジ)

事実証談の解読を続ける。

第83話
○同郡原田庄、源五郎という者、文化九年(1812)十一月下旬、妻の伯父病死せりと、告げ来たりけるにより、そのまゝ氏神の神職の家に行きて言いけるは、我ら妻の伯父病死せりと告げ来たれり。他村とは異(こと)にて、伯父にても両親同様五十日の忌にてあれば、年内の忌明けにあらず。されば正月諸神へ鏡餅も備える事なりがたし。又そなえざらんも心がかりなれば、半減にて神祭りなどはなりがたきや、と問いけるに、

神職家にて答えけるは、他所にては伯父の服忌、廿日、九十日なり。ここにては忌五十日の定めなれば、死穢に混ずる事なく、同火を堅く禁じ、神職同様につゝしみなば、三十日の日数過ぎし頃、身そぎはらいして、餅搗いてよろしかるべし、と教えければ、源五郎歓び家に帰り、妻諸共、かの方には行きしかど、喪の家に入る事を断り、則ち隣家に待ち居りて、葬送の時、会葬したるのみにて、同火せずして家にかえり、三十日の過ぐるを待ち、身そぎして、三十七、八日過ぐる頃、十二月廿六日、正月の餅搗かんと井楼(せいろう)にて蒸しけるに、湯気立ち上がるとひとしく、白米に赤色の筋、所々に出たる故、

驚き直ぐに神職の家に駈け行き、そのよし告げたりければ、神職もあやしみつゝ行きて見るに、たゞ暫しの間に、その赤筋大いに広くなりたりしかども、先ず搗きて見よとて、搗かせ見るに、赤餅となりける故、次の井楼を見るに、皆赤飯の如くなりたり。神職諸共、甚くあやしみ言いけるは、これは服忌にかゝりし事にはあらず。火の穢れなるべしとて、糺したりければ、

源五郎答えけるは、教えのごとく萬ずつゝしみたりしが、三十日の日数過ぎし頃、三十五日の法事有りけるにより、伯父の家に行き、同火せしかど、いまだ清火にもあらじと思いて、今朝、同村弥兵衛方へ行きしついでに、寺に立ち寄り喰放(くいばな)れせしなり。また葬送の砌りは、たばこは穢れともなるまじとて吸いたり。外には覚えなしというを聞きて、

神職言いけるは、穢れ火にてたばこ吸いたりしも誤りなり。又三十日の日数過ぎたりとて、忌中の家に行き同火せし事も誤りなり。喰ばなれとて、寺に行きて物喰いたりとて清まるにあらず。ことにその寺にては、昨日飛鳥村にて死葬有りて、行きて穢れ火なり。これは別火にて炊くといえども、火の穢れなる事、昭(あき)らけしとて、かの餅その外穢れ火に混じたりし物、残りなく川の辺りに捨てさしめ、家内を祓い清め、身禊なさしめて、翌廿七日に搗きしめたりければ、いさゝかも障りはなかりしといえり。
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事実証談 神霊部(下) 80~82 秋葉山

(静居寺のキバナシャクナゲ)

事実証談の解読を続ける。穢れと崇りの話ばかり続いて、いささか食傷気味である。これらの話を読んでいると、お葬式を、もっぱら寺院が請け負って、神社は避けられた理由がよく理解できる。

第80話
○周智郡天宮村、萬屋孫右衛門という者、同行四五人にて、寛政年中(1789~1801)、秋葉山に詣ずるとて、登山に臨みて、三十丁目より心地あしかりけるを押して、二王門の辺まで行きしに、歩行もなりがたき故、同行の者、助けゆかむとすれども、手足かゞまりて行かれざりしかば、これは何か穢れ有りての咎めなるべければ、参詣をはばかるべしと、敷石の上に助け上げられ、

さて同行の者ばかり参詣しける故、暫し休み居るに、手足も少しゆるみ、空腹になりけるにより、焼飯を出し食せんとすれば、また手のかゞまりける故、さては火の穢れならんと思いめぐらせど、心あたりの事もなければ、不審ながらも、同行に助けられて下向になりければ、手足も漸くにゆるみて、三十丁目に至る頃は(三十丁目より上は神山、それより下は百姓持山なる故か)常の如くなりて、
※ 焼飯(やきいい)- 握り飯を火にあぶって焦げ目をつけたもの。

家に帰り尋ねれば、隣家に病者有りしが、その日死して、家族弔いに行きて、家を穢せし故ならんかと言えり。その崇りなるべしと孫右衛門の物語なり。


第81話
○豊田郡森本村、近藤玄瑞という医師の家僕、万助という者、秋葉山へ主人の代参に行く。登山にのぞみて、十三丁目の茶店に休み、焼飯を出し食せんと、二つに割りたりければ、その焼飯、菜飯の如くなるをよく見れば、蚊を数多握り込みて有りけり。怪しみつゝ、また一つ割りて見れば、それも同じければ、

茶店の亭主に物語けるに、それは穢れ有りし知らせなるべければ、その焼飯を捨て、身禊して登山すべしと言いける故、その辺りなる犬に喰わせ見るに、犬だに喰わざれば、深く怪しみ身禊して登山しけるに、つゝがなく参詣して家に帰り、尋ねければ、その家の下女、月役にて有りし傍輩の下女を頼みて、その焼飯を握らしめたりしなりとぞ。これは則ち万助の物語なり。
※ 傍輩(ほうばい)- 同じ会社に勤めたり,同じ主人に仕えたり,同じ先生についたりしている仲間。同僚。同輩。


第82話
○佐野郡上西郷村、善助という者、秋葉山登山に臨みて、焼飯食せんと取り出し見るに、その色茶飯の如く変りし事有りしが、これもいさゝか、火の穢れ有りししらせにて、有りしといえり。
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静居寺の牡丹と長島ダムのシバザクラ

(静居寺の牡丹)

金曜日、朝、思い立って女房と静居(じょうこ)寺に牡丹を見に行った。その朝刊に満開の記事を見つけたからである。静居寺は国1バイパス、島田の旗指ICを降りて北へ入った山の麓にある。

山門を入って、境内に至る途中の参道の両側に、大きな花をたくさん付けていた。白、赤、赤紫、ピンクなど色とりどりであった。幾重にも重なる花びらは紙細工のように見えたけれども、触ってみると、確かに生ものだと判った。平日で、参詣者のほとんどは我々の年代で人たちであった。

本堂左手奥で「笑いヨガ」の講座が開かれていると、案内標識があった。また、参詣者が「八角堂を見に行く」との話が聞こえたので、気になって、本堂左を入って行くと、突き当りの日本家屋で、どっと笑い声が聞こえた。「笑い」も「ヨガ」も健康によい行為である。無理に作った笑い声だが、人は無理でも声を上げて笑ってみると、自分の声に釣られて、本物の笑いが心底から湧き上がってくるものである。


(静居寺の説夢堂)

本堂の裏手に、八角堂があった。傍らに「説夢堂碑銘并弘」という碑が立っていた。「夫當山者東海駿國之勝境也‥‥」で始まる擬漢文体で書かれ、石碑の文字は薄くて、しっかり解読できなかったが、この八角堂は「説夢堂」と呼ばれ、禅僧が修行をする堂宇のようである。格子窓から中を覗くと、堂の中央に大きな六角形の行燈状の厨子(?)があって、お堂の内側に壁に沿って1.5メートル幅の床が張られている。修行僧たちはそこで座禅三昧の修行をするのであろう。ただ、使われなくなって長い時が経っているようであった。(「説夢堂」は正しくは「経堂」であった。詳しくは後日。)


(長島ダムのシバザクラ)

出てきたついでに、川根本町の長島ダムにシバザクラを見に行った。井川線の長島ダム駅前の駐車場に車を停めると、眼前に長島ダムが見え、足元から下る斜面一面にシバザクラが満開で咲いているつもりであったが、この何年かの鹿の食害で、シバザクラもまばらになっている。その斜面には鹿の侵入を防ぐために通路も含めてネットが張回されて、見物客もシャットアウトしている。中央に斜めに下る車道のゲートが開けて入れる、と表示があったので、開けて入ってみた。中央辺りにたくさん咲いている場所もあったので、上手に撮ってみたのが上の写真である。

あと、長島ダムのふれあい館に寄って、来客がなくて所在なさそうにしていた館長さんから、色々と話を聞いた。食害を受けたところの一部は最近捕植されたが、全部というわけにはいかなかった。今が満開ぐらいで、GW中は花が見られる出あろうという。

帰りに千頭駅前で、とろろそばを食べて帰った。夕方ムサシの散歩で、北の方が雷雲で真っ黒になって、時おり雷が聞こえた。ニュースによると、天気の良かった川根本町では夕方に雹が降ったという。
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事実証談 神霊部(下) 78、79 山名神社、秋葉山

(森町飯田、山名神社)

事実証談の解読を続ける。

第78話
○周智郡飯田村(この村は寺社御朱印は周智郡、村方は山名郡と称す。山名の庄の転(うつ)りたるが、今天王社という山名神社なりといえば、もと山名郡にて周智郡に入りしか、未詳)、

鈴木才次郎という人、享和年中(1801~1804)、秋葉山に参詣せんとて、同行五、六人にて行きしに、登山に臨みて三十丁目のあたりより、心地あしく全身すくみ、その上、行く先に幕を張りたる様に見えて行きがたく、茶店に休み居り、同行の者のみ登山なさしめ、下りを待って伴い下りしに、心ち常の如くなりし故、如何なる故の咎めならんと思い廻らすに、

その日、道の傍らに鹿の皮の乾して有りしを、同行の者はそこを除(よき)て通りしに、才三郎は心なく、その下を通りしのみならず、その血の道にこぼれて有りしを踏みて通りしが、かくとも知らざりしを、同行の者、あとより見たりし事を思い出して語りければ、その咎めなるべしと、麓なる旅宿にて修験をたのみ、祈願なさしめて、翌日また登山せしに、いさゝかの障りもなかりしと、才三郎の物語なり。

第79話
○周智郡森町村、油屋市兵衛という者、江戸鎌倉川岸、矢野某の忰の故有りて、当国に来りしを、ある者の世話にて養子とし、その名を市太夫と改め旅籠屋になり、瓢箪を目印に出し置きければ、その頃、人皆、瓢箪油屋と言いけり。

主の生国江戸なる故にや、江戸より秋葉山参詣の者、数多尋ねて宿りける故、江戸講中を始め、その外秋葉山の旅人を進め、金燈籠の建立にかゝりけるが、如何なる手支え有しにか、かの半ば造りし金燈籠を、同村古手屋勘兵衛という者の方へ質物に渡し、金子三両借り請けけり。

その後程もなく、市太夫故有りて離別し、行方知らずなりし故、燈籠建立の事も止みければ、勘兵衛方に預かり置きしに、寛政十一年(1799)に至りて、勘兵衛の家に怪しき事の有りければ、かの燈籠を油屋へ請け替えさせんとすれども、建立の主、離別せしによりて、取あえざる故、なお建立の事を江戸講中へ言やりしかど、その頃出火有りて、講中仲間焼失せしかば、金壱両送りて断りけるにより、為方(せんかた)なく、とかくする程に、なお怪しき事数多有りける。

中にも隣村の者、古夜着を求むとて、三つ重ね置きたる中なるを引出し見れば、火の付きて有りける故、甚(いたく)驚きけるを、亭主は驚く色なく、この程はかゝる事の度々有れば、見る者のわざとは思わず、驚き給うことなかれとて、打ち消しとなん。また隣郷、天宮村佐助娘、袷(あわせ)を求めんとて、積み置きし袷を引き出しけるに、これも同じく火の付きて有りしと言えり。またある夜は、家の鳴動する事、地震の如くなりける故、隣家に怪しみ尋ねしかど、その家にては知らざりしとなん。

さて度々かゝる事のあるは、いずれ、かの燈籠の崇りなるべしとて、同村梅林
院という菩提所の寺に預けんと言いたりしを、かく火の崇りあるもの故、断りければ、せん方なく質物の金三両を寄附金として、町内の家々に頼みて、金十三両取り集め、かの燈籠建立せしかば、件の崇り速やかに鎮まりしと言えり。
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事実証談 神霊部(下) 76、77 秋葉山

(島田、静居(じょうこ)寺の牡丹)

第76話
○敷智郡浜松庄、鈴木家の主、明和七年(1770)の頃、鹿肉を喰い、日を経ずして秋葉山参詣に出で立ちしに、その夜、そのわたりなる己之助という者、その家の辺りを通りけるに、空高く火の玉飛び来りて、その家の屋根に落ちし故、光物かと驚き逃げ去り、その辺りなる家に入り、しかじかの物語して在りし程に、火事/\と呼び騒ぎける故、立ち出で見れば、その家より出火して焼失しは、かの穢れの崇りなるべしと言えり。
※ 光物(ひかりもの)- 光を出して恐れられるもの。鬼火・人だまなど。


第77話
○山名郡二宮庄にて、ある人鹿肉を喰い、日を経ずして、隣家の者と伴い、秋葉山参詣に行きたり。かの隣家の者、ある人の鹿肉喰いたる事を聞きしかど、ふと打ち忘れて伴い出て、道にてその事思い出しかど、道遠く伴い来て帰らしめんもいかゞと思い、そのままにて登山しけるに、食穢も何もなき、かの誘ひし者の方、山怪(やまけ)有りて登山なり難く、山小屋に倒れ臥したるゆえ、鹿食いたる人ばかり登山して、帰りしとなん。

この事は豊田郡森本村、近藤伝八と言いし人、二宮庄に縁者ありて、その物語にて、かの秋葉山参詣したる両人の名も委しく覚え居りて、物語りせしを、伝八の実子太郎左衛門という者の物語にて、おのれは聞きて、実(まこと)に正しき事なり。されど、おのれいまだこの撰集はせざりし頃にて、その名を洩らせり。今は伝八も世になき人ゆえ、問う人もなし。

さてかの太郎左衛門はこの物語を証しとして、神社参詣に禁火(いみび)の事を、かれこれもどき言いたりしを、ある時、村中の代参に、同村斎藤伊兵衛という者と両人、秋葉山へ参詣したりしに、この伊兵衛も同じ心成る者にて、神仏などいうは人々の心に有りて、心清きは則ち神仏なりなどゝ、心得居りて、両人ともに神仏尊信の心なき者なりしが、
※ もどく(擬く)- さからって非難する。また、従わないでそむく。

道にて相模国の人とて、年齢六十歳ばかりの者と、十五、六歳なる者と、両人道連れになりて登山せしに、相模人は先に手を洗いて石坂を登りしに、登り果てむとする頃、かの老人転びたりしが、それより石坂を転び落つる事、人有りて刎ね落すが如くにて、一度は絶倒せしを、森本村の両人驚き駈け寄り、助け起して、いかにやと尋ねれど、その故は知らねども、覚えぬ罪穢れの有りて、かゝる御咎め有りしならんと言いしと、則ち太郎左衛門、伊兵衛の物語りなり。
※ 絶倒(ぜっとう)- 極度の驚きや悲しみなどのために、倒れそうになること。

かの両人、これを見しより、神仏尊信の心出で来て、秋葉山の事は殊にかしこみて、時々の物語りなり。
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事実証談 神霊部(下) 75 三嶋明神社

(森町三嶋神社)

事実証談の解読を続ける。

第75話
○周智郡森町村、三嶋明神社は離れ山にて、町並みの東、太田川の岸にて、常盤木生い立てりける社なり。文化十年(1813)より、その社の松、檜どもの大きなる十本ばかり立ち枯れになりけり。一本、二本は自(おのず)から枯るゝ事も有りべけれども、かく十本に及びて枯るゝは、ゆえ有る事ならんと怪しみけるに、それより次々に植えし苗木の、五、六尺ばかりに生い立ちし若木、三年ばかりに数百本、立ち枯れになりしは、(その数はしらず。凡そ馬に四、五駄も立ち枯れになりしと、八十八という者の物語なり)如何にともその故を知られざりしに、
※ 常盤木(ときわぎ)- 常緑広葉樹林のこと。


(第75話の挿絵)

その社の鍵取、太田文三郎の養子、嘉七という者、文化十二年(1813)三月廿三日、城東郡平川村に行きて、その村の辺りなる川を渡りけるに、怪しき人いづくよりともなく出で来たり、故なく嘉七を川中へ打ち入れたり。嘉七驚き周章(あわて)て、汀(みぎわ)にはい出れば、また水中へうち込みて、幾度も悩して大いに労(つか)れし頃、かの異人、行方知らずなりけり。

往来の人も有りなば、助け送られんと待つほどに、日暮れければ、往来の人もなく、せん方なく苦しみながら、平川村に行きて、知るべの方へ尋ねよりて、しかじかのよし物語りけるに、驚きつゝその村の医師本間春城を迎え、治療を加えたり。けれども速やかに直らざる故、件の子細を嘉七の家へ言いやりければ、家族驚き駕籠もて迎え取りたり。

さて家に帰りてより、その悩みは暫しにて治(じ)したれども、平心ならず、己が家にも居がたく、物に狂いけるゆえに、親類ども見るにしのびず、いづれ物の崇りならんと糺しけるに、文化十年の頃、人しれず氏子の中に鹿、狐の類いを食い、その郷の火をけがせし者ども有りし噂聞えける故、その崇りにやあらんと、かの社の大木、小木かれし事も思い合わせられて、文化十三年(1814)の五月、卜者に占わせしに、火の穢れによりて、則ち本社並びに末社のうち金山彦社の崇りなるよし云いけるを以って、
※ 平心(へいしん)- 平静な心。落ち着いた心。


文三郎縁者の鈴木八十八というもの、天宮社神主の家に来て祈願の事を乞いけるにより、六月十五日、天宮の御社中にて清祓(きよはら)いをなし、社家を以って、三嶋山をはじめ、鍵取文三郎が家内、残りなく祓い清めさせ、和(なご)めまつりければ、それより快方におもむきけり。まことに穢れによりての神の荒びなるべけんとぞ思わるゝ。かの天宮社にて清祓いせしときの祝詞を左にしるす。
(この後に続く「祝詞」省略)

かゝる御荒びを、氏子皆知らずや有りけん。萬ず禁(いみ)謹しむよしなければ、いかなる崇りかあらんと、一宮神主、天宮神主、近き郷にて有ければ、その事を歎き、それとはなしに両御社にて清祓いして、祓串を施し、祓いしめたりしを、しか思いてしむる事もなかりし故にや、文化十四年の冬の頃より、疫病の気起り悩む者たえず、
※ 祓串(はらえぐし)- 伊勢神宮で祓に用いる玉串。細い木に細かく切った紙片をつけたもの。
※ 悩む(なやむ)- からだの痛みなどに苦しむ。また、病気になる。「悩死」は病死のこと。


文政元年の夏の頃には、いやましに家々に悩死する者多く、家数三百六十軒ばかりにて、一日に病死する者、三、四人づゝにて、只しばしの間に百余人ぞ死(うせ)たりける。されどもなお、神の荒(あら)びとも知らで、和(なご)めまつる事もせざりけるに、誰か言い出しけん、村中の人々こぞりて祓せん事を思い寄り、一宮神主、天宮神主両家へ、村中こぞりて乞いけるによりて、

六月廿六日、氏神三嶋明神社中にて清祓して、村中家々を祓わしめたりしかば、いみじき御荒び故、すみやかには鎮まらざりしかども、漸くにその悩み薄らぎ行きて、鎮まりしは、いとゆゝしき崇りにて、恐るべきは火の穢れにぞ有りける。後に密かに聞けば、食穢(しょくえ)にて、穢せし者は皆、始めの程に死(うせ)たりと言えり。
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事実証談 神霊部(下) 74 年神

(裏の畑のシュンギクの花、島田のOさんから頂いた苗が育って、
食べきれなかった分が花を咲かせた。昨日撮影。)

事実証談の解読を続ける。

第74話
○文化十年(1813)の冬、雨降ることまれにて、国々旱魃の聞えありて、村々なる井の水かれて、水乏しかりしに、佐野郡幡鎌村は原ノ谷川の西渚(みぎわ)に有りながら、山添いの村にて、水ことに乏しく、川水汲むにも瀬切りて、只こゝかしこに残れる溜り水を汲みて、物炊(かし)ぐ水としけるに、
※ 瀬切り - 水の流れをせきとめること。

十二月廿八日、隣郷の狩人、その川原に鹿を追い出し、打留め、その皮を剥ぎ取り、その肉をその村の水汲み辺りに捨て置きたりしを、犬数多寄り集り、咬み散らして、その骨の類い、水の中へ入れしを、外に求むべき水のなければ、家々にてその水を汲みて、正月の餅つきに用い、なおその水にて飯をも炊き、年神祭りなどせし崇りにや有りけん、
※ 年神祭り - 年神(としがみ)は、毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によっては、お歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。

春過ぎる頃より、その村に疫病起り、家々にて悩み死ぬる者多けれど、隣郷にはさらに悩む者なきを怪しみ、卜者に占わせしに、食穢によりて穢し、火の穢れによりての崇りなりなど言いけるにより、僧修験に乞いて祈願なさしめ、村こぞりて祈願怠らざれども、しずまらず、月日をかさねて、やまざりしを、祈願のしるしにや、夏過ぐる頃より漸く薄らぎしが、その村に限りてしかありしは、いかなる崇りにか有りけん。
※ 食穢(しょくえ)- 肉食による穢れ。
※ 僧修験 - 修験僧。山野や霊山・霊地で苦行を積み、霊験のある法力を身につけた僧。

そのわたりの人々の噂には、鹿の肉を犬の咬み散らし、穢せし所の水を汲み、神祭りせし崇りなりともいい、またその肉を食せし崇りなりとも、またその十二月初の頃にや、氏神の社より狐出でしを、打ち殺せし崇りなりとも、その狐の肉を食せし崇りにやなども云いしは、いずれが誠なりけん、さだかならねど、かゝる事は皆火の穢れによりてなれば、火の穢れの崇りなりといえるこそ実(まこと)ならめ。
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「四国遍路・外国人差別貼り紙」のニュースに一言

(富士宮の上井出歴史広場のスズランスイセン、4/13撮影)

今朝の静岡新聞の朝刊に、「四国遍路・外国人差別貼り紙」という見出しで、遍路休憩所など30ヶ所に貼られていた「貼り紙」のことが出ていた。遍路経験者として、「気持ち悪いシール」というのに、あゝ、あのことかと思い当たるものがあった。

歩き遍路にとって、歩くコースに貼られた赤矢印で方向を示すシールは、大変貴重なもので、それを頼りに歩けば誰でもお遍路ができる。ルールさえ覚えれば、日本語は判らなくても、進む方向は理解できる。多くの外国人はそれで十分お遍路が出来ている。貼られた機関のご苦労には頭が下がるばかりである。

ところが所々にハングルの書かれたシールが張られていた。韓国人のお遍路さんも多いから、貼ってあるのだろうと思って見すごしてきたが、遍路道にハングルは、違和感を感じながら歩いてきたことも確かである。四国の田舎道に意味が分からないハングルが書かれたシールを見ると、「気持ち悪いシール」の感覚もわからないわけではない。

「差別貼り紙」は論外であるが、「日本の遍路道」にハングルのシールをペタペタ張る感覚が、日本人にはよくわからないのは確かである。貼った人は日本で公認された韓国人の先達だというが、そんな感覚を理解しない人に、先達の資格はないと思う。

赤いシールだけでこと足りるものを、わざわざハングルのシールを貼る必要は全くない。四国の人たちは優しいから、そんな些細なことに目くじら立てる人はいない。しかし、お遍路も国際化して、たくさんの国からお遍路に来るようになっている。それぞれの国の人々が、それぞれの母国語でシールを貼りだしたらと考えると笑ってしまう。

赤いシールに案内地図があれば、だれでも安全にお遍路できる。もし迷っても四国の人たちは放っておいてくれない。言葉は通じなくても、目的が分かっているから、方向を示してくれる。雲辺寺のそばで迷った韓国の女性お遍路さんを、30分ほど離れた宿まで車で送ったという話も聞いた。そんな中で、中途半端なシールは見苦しいだけのものと思う。

ここまで書いてから、ネットで少し詳しく見てみた。何か、思っていたのと随分違う方向へ話が進んでいるようである。火を付けたのは、マスコミが韓国人の女性先達が遍路シールを貼っているという、プラス思考の記事に、「差別貼り紙」側が反応したようにみえる。最近のシールからはハングルは外しているようだ。

遍路シールは先に歩いた人が、後に続く人のために、自然発生的に貼られたもので、思い思いに貼られて、今では景観を害するほどになっている。本当に欲しいところには少なく、もういらないというところにべたべた貼られている。どこかで共通マークを決めて、すっきり出来ないかと思う。共通デザインを皆んなに配って、貼る作業だけをボランティアでやればよい。本当にお遍路さんのためというならば、それぞれの機関が独自デザインにする必要はない。そうすれば、今回のような問題の起こる余地はない。
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事実証談 神霊部(下) 71~73 天宮神社

(富士宮の上井出歴史広場のナルキッスス・ブルボコディウム、
4/13撮影、ヨーロッパ原産)

事実証談の解読を続ける。

第71話
○周智郡天宮郷、中村氏の家に瀧蔵という者、妻諸共にゆえありて、一季奉公勤めしに、親里遠く正しからざる者にて有りければ、たゞ一季にていとまを出したりけれど、速やかに立ち越さん方もなく、その隣家喜代助という者の稲屋を借宅として、暫く居りしに、
※ 一季奉公(いっきほうこう)- 江戸時代,一年間の奉公をしている人。

二月廿五日は天宮御祭礼にて、人皆参詣するに、かの瀧蔵夫婦は参詣に行べき躰もなくて有りける故、人皆怪しみたりけるを、その日、竈(かまど)とせし所の屋根に、火つきて燃え上りしに、人々驚き打ち消したりしが、かゝる者に貸し置きなば、いかなる事のあらんも、計りがたしと、喜代助方にても、その日、追出したりしに、

その後、粟倉村より瀧蔵を尋ね来たる者ありけれども、例の家にはあらざりければ、喜代助方へ立ち寄り、瀧蔵が事を尋ねる故、何用にて尋ね給うと、問いければ、堕胎の薬代を取りに来たれるよし答えけるを、その薬買たりし月日をきけば、祭礼の頃にて有りしを以って、さてはかゝる不浄を隠し、火を穢せし崇りならんと、人皆言えり。これは寛政四年(1792)の事なり。


第72話
○敷智(ふち)郡浜松庄、市郎兵衛という者の妻、妊娠にて有りしを、いかなる故にか、四月めに流産せしかば、(これは国の風儀にて四月流産のものは、いみじき穢れと、ことに禁(いみ)きらうことなり)祓い清むべきを、深く隠して有りしに、故なくその家の二階の天井、丸く焼け抜けし事有りし。ここも同じ例にて、天宮のも屋根丸く焼け抜けしのみなりしと言えり。

第73話
○豊田郡池田庄に村持ちの社二社ありて、往古より氏子順番に一年限り社役を勤め、若し穢れある時は、次番の家へ送る定めなり。然るを、寛政十二年(1800)、惣十、松蔵という者、両人当番なりしに、その年、惣十家には、産の穢れあり。松蔵家には死の穢れ有りけるを、いかゞ思いてか、定めを背きて社役を勤め、

古例の如く祭礼の濁酒を造りけるに、(この濁酒を造るに、上手なる者有りて、社役年番の家にては、いずれも雇いて造らせける故、三十年余、年々造るにそこないし事は、さらになかりしとなん。かの酒つくる者の物語なり)その味変われる故、占わしめければ、火を穢しける故なりと言いけるに、驚き畏みて祓い清め、祭礼を済ましけるに、

その頃よりその村にのみ、疫病起り、残り少く煩いけるに、なお怪しきは、遠き所に在る者といえども、その氏子たる者は皆煩いける故、かの穢れによりて神の崇りなるべしと、両家ともに社役を止め、その翌年の当番のもの、例よりもことに祓い清めて祭をなせしかば、疫病の気は速やかに鎮まりしが、

かの惣十、松蔵両家にては、疫病煩わざりしかば、一人の村長言いけるは、かくなべて崇り有りしに、その穢れをなせし家にのみ崇り無し。かく罪有るを置いて、罪なき者を悩ませる、筋なき神をいつき(斎)まつるべき謂れなし。両社ともに打ち砕きて、天龍川に流すべしなど、罵りしは、誠に神の御上の事は、測り知るべからざる事を、弁まえ知らぬ痴人にて、悲しき事になん。
※ 痴人(しれびと)- 理性のない者。愚か者。

さて後暫し有りて、松蔵は壮年にて病死し、惣十が家には病難、また種々の凶事ども、ありしと言えり。
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