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イチゴは野菜で、鬼は虎縞パンツ

(会社駐車場のハナゾノツクバネウツギ)

硬い話が続いたから、今日は柔らかい話を書く。

6月21日、日曜日は父の日。その頃、名古屋の娘夫婦からクール宅配便で果物セットが送られて来た。多分、父の日のプレゼントということなのだろう。あいにく父の日は自分の誕生日に近いから兼ねているのかもしれない。どちらにしても自分へのプレゼントであることは間違いない。

開けてみると、中から小振りの細長くて黒いスイカ(はちきんすいか)をメインに、プリンスメロン、モモ、ハウスミカン、ブドウ、サクランボ、ブルーベリーが出て来た。どれも小振りで、量は少ないが、一級品で糖度が高い。「お父さんの頂くね」と一応断わりながら、皆んなで食べてくれた。名古屋の娘夫婦には「感謝」である。特に小さいハウスミカンは色々食べ始めた掛川の孫、まーくんに、女房が薄皮まで取ってくれると、もっと欲しいといたって気に入った様子であった。

そのまーくんは今日も来ていて、14歩、歩いた。一週間位前から歩き始めたと聞いていたが、今日は自分が歩数を数えたから確かである。

話は戻るが、プレゼントで送られて来た果物セットの話である。

今朝、通勤途中にラジオを聞いていると、「鈴木杏樹のいってらっしゃい」という番組で、野菜と果物の違いについて話していた。色々な区分の方法があるらしいが、生産者側からいうと、一年で収穫出来る作物を野菜と呼び、何年か育って初めて収穫でき、その後は毎年収穫できる果実に代表されるものを果物と呼ぶのだと話していた。

それではイチゴは野菜か。父の日のプレゼントの果物セットに入っているスイカやプリンスメロンは実は野菜であったのか。その答えもその番組でなされた。生産者側で野菜と呼んでいても、果物屋に並ぶようなものは流通や消費の段階では果物と呼ぶのだそうだ。だから、イチゴ、スイカ、メロンなどは果物と呼んでも間違いではない。ウドやタラノメは野菜で果物とは言わないし、案外この区分は定義が難しいようだ。果物のように甘いトマトは果物の区分に入れてもよいのかもしれない。

雑学は注意して聞くと意外と面白い。今夜のドラマで聞いた雑学を一つ。

鬼退治の鬼は架空の動物であるが、どうして角が生えて、虎縞のパンツをはいているのか。これは方位が絡んでいて、丑寅(北東)の方角を鬼門といい、鬼が出入りする方角で、万事に忌む方角と考えられている。鬼と牛と虎のイメージが一つになって、鬼に牛の角を生やし虎のパンツをはかせたのだという。

江戸時代には、鬼門避けに鬼門の方角に桃の木を植えたり、鬼門とは正反対の方位の猿(申)の像を祀ったりしたという。鬼・桃・猿といえば桃太郎の鬼退治を連想するが、桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治に行くとき、お供に猿・キジ(鳥)・犬を連れたのは、鬼門とは反対の方角の申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)の方位の動物を連れて行ったという意味があるという。雑学って意外に面白い。
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今年は古文書3講座を受講

(掛川中央図書館「古文書入門講座」教材)

早く古文書がすらすらと読めるようになりたいと思っている。手書きの古文書は書き手ごとに書き癖、当て字など違っていて、書き手が変わるたびに解読しくせを覚えなければならない。解読能力を高めるには、出来るだけたくさんの古文書に接することだといわれる。そうすることで、文字をくずすときのルールを把握していくのである。昨年は一時間半10回の講座を、欠席1回したから9回受けた。今年も金谷宿大学の「古文書に親しむ」講座10回を受講する予定でいるが、それに加えて今年は掛川と靜岡の2講座を申し込んだ。

一つは掛川中央図書館で開催される「古文書入門講座(全10回)」である。キャッチコピーに「掛川の歴史を学びながら古文書をよむ講座」とある。すでに2回は済んでいるから、残り8回を何とか出席しようと思っている。毎月第2水曜日の午後1時30分から3時までである。出勤の帰りに寄ればよい。掛川中央図書館地下会議室Aで、講師は北原勤氏である。最初の出席は7月8日(水)となる。課題は、掛川市の榛葉家文書と静岡市大庭家文書で、すでに手元に取り寄せてある。講座までに過去2回分を自分で解読しておきたいと思っている。

もう一つは、靜岡市立中央図書館で開催される「古文書解読基礎講座」である。これは7月16日(木)から毎週木曜日に全9回にわたって、夜6時30分から8時30分の2時間、夏季に集中的して行われる講座である。

先週の金曜日に場所の確認を兼て、靜岡まで申し込みに行ってきた。25日から申し込み開始で、まだ1日しか経っていないためか、定員80人のところ、まだ数人しか申し込みが無いようであった。場所は静岡市立中央図書館2階視聴覚ホールである。「駿河古文書会の先生方が、同会作成の豊富な教材で、分かりやすく教えて」くれるという。

静岡市立中央図書館は静岡大学の大岩校舎の跡地に有り、街中のため車の駐車が困難である。わずかにある駐車場も夜間は利用できないという。市外の人も受講は構いませんが、公共の交通機関利用で来れますかと、係りの女性がいう。駅からの循環バスがあるかどうか聞いたが、夜遅くあるかどうかは解らないという。何とかするからと、一応申し込んできた。後で、最寄のバス停に寄って時間を見ると、駅まで行くバスが8時39分と9時10分(最終)の2本、何とかあった。たまたまやってきたバスはコムニティバスのような10人ほどしか乗れない可愛いバスだった。

この三つの講座で27回受講することになり、去年の3倍の受講回数になる。これで古文書の解読力が飛躍的に伸びればよいがと思っている。
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外国人地方参政権

(阿蘇山、外輪山より-6月9日撮影)

昨日の記事を書いていて、二度の不運が襲った。一度目は12時ごろほぼ書込みを終えて、送信したところ送信に失敗、書き込んだ内容が消えた。いつもなら全体をコピーして置いて、送信失敗に備えるのだが、それを怠った。最初から書き直して2時近くに八割方書いたところで、マウスのクリックミスで消えてしまった。がっかりして何とか3度目の書込みをし終えた時はもう3時半になっていた。

時々書いたことを消してしまう事故があるが、同じ内容を思い出して書くのは精神的に耐えられないから、内容を変えて新しく書くつもりで取り組むようにしている。3回目で、しかも夜中に及んで、自分としては内容が少しエスカレートした。政治問題は出来るだけ書かないようにしていたのだが。書き加えた中で、外国人参政権についてコメントが入った。自分の記事が言葉足らずで誤解を呼んでいる部分もあるので、補足をしてコメントに対する答えにしたいと思う。

昨日の記事では外国人参政権について議論したつもりはなくて、民主党政権の可非の理由として、外国人参政権問題を持ち出すのはどうであろうかと疑問を投げかけたつもりであった。外国人参政権について是非を聞かれれば、考えが固まっているわけではなかった。

外国人参政権の問題は在日の扱いであろうと思うので、その点を考えてみよう。在日1世はともかくとして、2世、3世の人たちには日本語しか話せない人も多く、今さら韓国やまして北朝鮮に帰るわけにはいかない人がほとんどである。日本に帰化する選択もあったはずだが、国籍問題は単純に割り切れるものではない。議論は国政の参政権を与えようというものではなくて、地方の参政権を与えるだけである。いわば町内会に入れるかどうかという話である。その結果、地方行政が左右されるというのは話を大げさにしすぎである。仲間はずれにしておいて、彼らがお行儀が悪いと言ってみても解決にならない。

日本の歴史を振り返ってみても、日本人は決して最初から単一民族であったわけではない。北から南から色々な人種が入ってきて出来あがっている。特に朝鮮からは多くの帰化人が日本の各地に土着した歴史が残っている。人口減の時代を迎えて、今再び他民族の流入が始まっているようにも思う。日本文化は、それらを鷹揚に取り込み、同化して、自らの新しい色付けとしてきた。神経質に排他的にならなくても、日本人にはそのような知恵がある。

2世、3世がどうして日本人を選択しなかったのか。その理由に日本側の排他性があったのではなかろうか。
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「憲法と日本の再生」を読む

( 百地章著「憲法と日本の再生」)

大学の友人の百地章氏から「憲法と日本の再生」という自著の本を送っていただいた。百地氏はこのブログでも取り上げたことがある、日本大学の憲法の教授である。氏が産経新聞の「正論」で時に際して発言してきた憲法に関する評論を主に、幾つかの論文を集めた本である。それほど難しい本ではないので、数日掛けて読了した。以下、その感想を書こう。

憲法学における氏の立場は千数百年以上続いた日本の文化・伝統を「国柄」として後世に伝えて行く。憲法はまさにその「国柄」を顕現させるものでなければならないと考える。その考え方は学生時代から全くぶれていない。学生時代には氏と自分の考えにそれほど違いがあるとは思わなかったが、この40年の間にいくつかの問題でズレが生じていることは否めない。

戦後、GHQによって押し付けられた憲法は早急に改正することが必要であるという点では同意見である。憲法改正の最大の問題は9条である。憲法9条は戦争の放棄を規定している。9条を改正して、現在存在する自衛隊を憲法が認知しなければならないことは確かである。しかし、我々の半生と重なる戦後60年間、毎日のように戦争や紛争で人が死んでいる中で、日本はどの国とも戦争をせず、自衛隊は他国民を一人も傷つけたり殺したりしなかった。これは奇跡的なことで、世界に誇るべきことである。もしかしたら9条のおかげかもしれないと思うこともある。ただ一方において、軍事面での国際貢献が出来ず、世界から軽んじられ、世界に対して有効な発言が出来ないことも確かである。この二つのことを天秤に掛けて、最低限の軍備が整えられ、国際貢献も出来るための、抑制された9条の改正でなければならないと思う。

氏は女系天皇問題については、日本の文化・伝統を守る立場から、真っ向から反対する。女系天皇問題が起きたのは、このままでは皇統が途絶えてしまうという危惧からである。その点について、氏は戦後排除された旧宮家を皇族の身分に戻す案を主張する。しかし、すでに一般庶民になられてから60年以上経っている。世代のすでに2世代、3世代を経ている。今さら戻そうといっても国民は馴染めない。ご本人たちも大いに迷惑であろう。現実離れした議論だと思う。男系を守るとして、今後女性でも新しい宮家が設立できるようにして、未来に向かって宮家の充実を計ろうと考えるならば、国民の理解は得られると思う。そういう提案は考えられないのであろうか。

もう一つ、氏は民主党が政権を取ったら大変なことになるという。その問題の一つとして、外国人[地方]参政権問題などを上げる。外国人といえども税金を納めている。自分たちが納めている税について、意見が言える地方政治の場を与えても問題ないと思う。問題があれば法を撤廃すればよい。やってもみないで大変なことになるというのでは議論にならない。それを理由として、これだけ国益を損ねている自民党政権に、無批判に政権をゆだねざるをえないというのでは民主政治ではない。

氏は40年間ぶれていないと書いたが、ぶれないために、都合のよい情報だけを拾い、都合の悪い情報には目をふさいで議論を進めることになってはいないだろうか。

自分の主張と相手の主張を考え、妥協案を見つけて、ことを進めるという仕事を長年やってきて、自分は相手の意見にも必ず理があることを知るようになった。それが解ってずいぶん視野が広くなったと思った。その分、視点がぼやけることにもなったが。
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解散総選挙以後を予想する

(熊本県小国町 鍋ヶ滝-6月9日撮影)

政治の季節である。遠くない先に衆議院の解散が迫っている中で、与野党の駆け引きだけではなくて、窮地に追い込まれている与党の中でも、思惑から様々な動きが出ていて、傍観者の身では大変面白い。

世論調査では直近の内閣支持率は17.5%で、このまま解散し、衆議院選挙に突入したら、与野党が逆転することは確実であろう。それどころか、民主党の圧倒的勝利に終る可能性もある。党派別投票率の差はわずかでも、議席数では大きな差となる。小選挙区制はまさにそういう選挙制度なのである。雪崩現象さえ起きる可能性がある。そうなれば、参議院とのねじれ現象も解消されて、スムースな国会運営となりそうに思うが、おそらく国会の混迷はさらに続くことになるだろう。

なぜならば、安定した政権を維持するため、与党となる民主党は社民党や国民新党と連立して政権を取ることになるが、右から左までこれほど極端に政策の違う政治家が集まって一つの政権を維持していくのは至難の業であろう。何も決めないならば維持できるだろうが、自衛隊の海外派兵、消費税などの財政問題に手を付けると、たちまち連立政権内で意見の違いが露呈し、まず社民党が連立から離脱し、次に民主党は右と左に分裂するだろう。

一方野に下った自民党も無傷ではすまない。大敗の責任追及に端を発して分裂が必死だと思う。常に与党であった自民党の世襲議員たちにとって、自党が政権から外れて一時でも利権から距離を置くことになることは耐え難いことである。かつて政権を奪取するために、社会党の党首を首相に祭り上げて、社会党と連立政権を作ったことさえある。あの時、社会党は名を取り、自民党が実を取った。社会党はそれ以後、自党のアイデンティティーを見失い、急速に党勢が弱まったように思う。

名を取って主義を捨てた社会党のその後を見て来たから、政党や政治家は自分の信条を曲げる政権には留まれないだろう。だから民主党中心の政権は出来ても一年と持たないような気がする。民主党、自民党ともに分裂して、政界再編が起きて、もう一度総選挙が行われることになるだろう。

解散、総選挙が秒読みになって、県や政令都市の首長たちが地方分権をスローガンに連携して色々な動きを始めている。大変注目している。今回絶好のチャンスと考えているのであろうが、今度の総選挙は予備選挙のようなもので、ここであせって変な旗色を示すと火傷をするような気がする。与野党に自分たちの主張の踏み絵をさせるのはよいが、旗色は見せないほうが良いであろう。本当の勝負はその先の政界再編の時だと思う。

以上、今後の政界を自分なりに予想をしてみた。しかし、こんな政争ばかりしていたのでは、日本は世界から見放されて、極東の小さな島国に戻ってしまいかねない。喜ぶのは今風当たりが強い霞ヶ関の住人だけである。政治家が政争にかまけておれば、霞ヶ関は自分たちの利権をさらに維持増殖していくだろう。
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「剱岳、点の記」を観る

(「剱岳、点の記」上映の藤枝のシネコン)

昨日、会社でI氏と話していて、BiVi藤枝のシネコンで、「剱岳、点の記」を観たという話になった。日曜日の午前に見ようと奥さんと出かけたが、満席で午後まで待つことになった。BiVi藤枝の中をぶらついたが、大きな市立図書館も入っていて、一度行ってみるといいという。映画は我々の年齢では1000円で入れるという。

家に帰って女房に話したところ、明日行ってみようという話になった。ネットで調べてみた。「BiVi藤枝」は藤枝駅南にあって、映画館(シネコン)、市立図書館、各種店舗で構成されるショッピングモールである。シネコンはその最上階で、№1~№7までスクリーンがあって、それぞれ別の映画を上映している。椅子の数は84席から267席まで色々だが、「剱岳、点の記」が上映される№7のスクリーンは最大の267席であった。朝10時20分、午後1時10分、午後4時および夜の8時50分の4回上映する。料金は一般が1800円、シニア割引で60歳以上は1000円、夫婦50割引で夫婦のどちらかが50歳以上であれば二人で2000円と優遇される。午後1時10分からの上映を見る事にした。

明けて今朝、昼食を早めて12時20分頃女房と出かけた。国1バイパスを谷稲葉インターで降り、まっすぐに南へ進み、旧国道、JR線の高架橋を越えて、すぐに左折すれば間もなく右側にBiVi藤枝が見えてくる。駐車場に車を入れながら、町の中をごちゃごちゃ走らないで、意外と短時間で来れたと思った。12時45分には指定席を購入していた。時間が余ったので階下の市立図書館を覗いてみた。広い館内に蔵書はまだスカスカだが、島田図書館よりも多いように感じた。窓口で聞くと島田市民へは貸し出しできるというので、さっそく図書貸出カードを作って貰った。

午後1時に入り指定の席へ座る。中央で少し前過ぎたかと思ったが、席に傾斜があって見やすい。椅子の背もたれが頭の部分まであってゆったりしている。これが今どきの映画館なのだと感心した。そういえば随分映画館に足を運んでいない。多分、20数年という単位で。

「剱岳、点の記」は6月20日に全国公開したばかりの作品である。木村大作監督は黒沢映画などで長年撮影技師をつとめていたが、初監督作品である。新田次郎の同名の原作はかなり昔に読んだことがあるが、映画に出来るようなドラマチックな小説ではなかった。スタッフ全員が小説の通りに実際に剱岳に登って撮影したもので、CGなどは一切使っていないと監督がテレビで話していた。さすがに山の映像には嘘は無いと思った。自分が劔岳に登ったのはこれも20年ほど前である。立山を縦走して剣沢に下りて一泊し、梅雨の明けた翌早朝、劔岳までピストンしてきた。素晴らしい山行は今でも思い出深い。

そのなじみの山々が次々に映画に出てくる。登山経験のある人には楽しい映像であるが、ドラマとしては特別のことがあるわけではない。陸軍測量部と民間山岳会との初登頂争いなど、ドラマチックにしようという努力が見られるけれども、余り成功したとは思えなかった。ただ自分としては劔の懐かしい映像をふんだんに見せてもらって大満足であった。

女房ははまりそうだと話していた。それはこういう映画館のシステムに対してで、映画評ではないようだ。高齢者に対する優遇もあって、平日の昼間の館内は熟年夫婦がほとんどを占めていた。100人ぐらいいたであろうか。高齢者優遇が効いているようだ。安くしてもらっていうことではないが、まともに払わなければならない若者たちは、それでなくても可処分所得が減っている上に大変だなあと思う。
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ヘンロ小屋プロジェクト

(ヘンロ小屋第1号、香峰のヘンロ小屋)

お遍路で歩いていて、各所にお遍路の休憩所がある。個人、地域、行政、お寺など、色々なところが作っていて、お遍路には大変助かるお接待の一形式である。ただ日陰を提供しているだけのものから、飲み物が準備されていたり、手洗いが使えたり、中には宿泊も出来る休憩所もある。

その中でも楽しいのは、建築家の歌一洋氏が提唱する「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」である。歌氏は徳島県海陽町生まれで、子供の頃からお遍路さんを身近に見ながら育ってきた。建築設計の仕事を生かして遍路道の各所にユニークなヘンロ小屋を作り、お遍路文化を後世まで残して行きたいと、プロジェクトを立ち上げた。

自ら遍路道を調査し候補地を探した。それぞれの場所に因んだデザインをして、徳島市で展示会を開き、プロジェクトの構想を発表した。反響は予想以上に大きく、構想発表から10年で、遍路道の33ヶ所にユニークなヘンロ小屋が出来た。設計以外は地元の個人、住民グループ、企業などがボランティアで、資材、労力、お金を出し合って建設された。

お遍路をしていて、見逃したものもあるが、幾つか目にし、何ヶ所かでは実際に休憩を取った。最初に目にしたのは徳島市内の「眉山のヘンロ小屋」で、阿波踊りの鳥追い笠の形をした有名なものである。6月6日に書き込んだ。


(阿瀬比のヘンロ小屋)

二つ目は徳島県阿南市の大根峠にさしかかる手前にあった、「阿瀬比のヘンロ小屋」である。道路脇の三角地に、村の縁側をイメージして作られたという。


(鉦打のヘンロ小屋)

三つ目は同じ阿南市で弥谷観音の手前の国道端にあった「鉦打のヘンロ小屋」である。空海ゆかりの「尻無し貝」をイメージして造られた。弘法大師が川を渡ろうとすると足に刺さるものがある。貝の尖った部分が刺さり旅人を悩ましていた。空海は加治をして貝の尻の尖った部分を無くし、ナツメのように丸い貝に変えてしまわれた。以来渡河の場所に棲息する貝だけが丸くて棘が無く、「尻無し貝」と呼ばれるようになった。ヘンロ小屋の周りには、お遍路さんの喉を潤そうと、かんきつ類などの果物の木が植えられいる。まだ実が生るほどには大きくなっていないようで、雑草に埋もれていた。

四つ目は鯖大師の先、海陽町の街中にあった「香峰のヘンロ小屋」である。徳島県海陽町は歌氏の故郷で、ヘンロ小屋第1号である。


(香我美のヘンロ小屋)

五つ目は高知県香南市にある「香我美のヘンロ小屋」である。この地に昔からある土佐凧をイメージして造られている。ここにはクーラーボックスに缶飲料が冷やしてあったので1本頂いた。小屋の管理者がたまたまやってきて小屋建設の話を詳しく聞いた。

六つ目は高知県香美市の松本大師堂である。ここは元あった大師堂が改築されてヘンロ小屋を兼ねていた。5月19日当日に書き込んでいるが、その時はヘンロ小屋の一つであるとは気付いていなかった。


(蒲原のヘンロ小屋)

七つ目に高知市に入る直前、コンクリート壁と道路のわずかな余地に造られた「蒲原のヘンロ小屋」である。道のすぐ上の会社社長が率先し、社員が全員で間伐材を使って作り上げたユニークな小屋である。携帯が鳴って、何のようだったか忘れたが、会社のS氏から電話があったのはこの小屋で小休止している時だった。

この七つ以外に、徳島県勝浦町の宿泊した金子やのそばと、徳島県最南端の宍喰(ここでも一泊した)にもヘンロ小屋があったようだが、コースがわずかに外れて見ることなく先へ進んでしまった。
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13日30ヶ寺、お遍路の検証

(お遍路を行く)

お遍路に出かける前に自分なりに決め事をした。再度書いてみる。

 1.全ルートを徒歩にて、歩き遍路で行く。(区切って歩くことになる)
 2.お遍路としてのしきたりは極力守る。先を急いでも手を抜かない。
 3.すべてに感謝し、腹を立てないこと。理不尽なことも修行と考えよう。
 4.物事にこだわらないで、成り行きに任せる自然体で居よう。
 5.毎日の去来する思いをブログに書く。これだけは成り行き任せにしない。

5項目の決め事がその通りに出来たのかどうか、検証してみよう。

第一に、全ルートを歩いて踏破することは出来た。約320キロメートル、13日間を乗り物に一切乗らずに踏破した。第2に、すべての札所で勤行を行った。中身はとにかく、手を抜くことはしなかった。第3に、感謝が出来たかどうかは別にして、腹を立てることは無かったと思う。四国は腹を立てる必要の無いほど居心地のよい天地であった。13番大日寺を出たところで、近所の遍路宿の親父に付きまとわれて、色々根掘り葉掘り聞かれて、唯一閉口したことがあった。この親父は今夜の泊り客に誘いたいのだろうと思った。しかし大日寺はその日の最初の札所で泊り客にはなれない。早く去れと思っていると、腹を立てる前にあきらめて戻って行った。第4に、自然体で成り行きをもっと楽しもうと思ったが、A型の悲しさであろうか、先へ先へと仕切ってしまい、成り行きに任せることにはならなかった。道に迷うこともなく、道草もしないで、毎日を前日に計画した通りに踏破してしまった。たくさん読んだ遍路記録のように、思い出深いハプニングもまったく起きなかった。第5に、ブログへ書く作業は毎日行った。ただ、ネットへの接続が当初ままならず、何日か分をまとめて上げることになり、その間、家族に心配を掛け、ブログの読者にはお遍路を途中で切り上げて帰ってしまったのかとの憶測を呼んだりした。

30ヶ所の札所で行った儀式「勤行」について少し記してみよう。

札所のお寺に着くと山門を入る手前で一礼する。境内に入るとまず日陰を見つけてザック、菅笠、金剛杖を一箇所に置く。金剛杖立てのあるお寺は多いけれども、バラバラに置くと忘れる危険性が増すと思い使わなかった。歩いている間、邪魔になるためザックに括りつけてあった頭陀袋を右肩から袈裟懸けにし、輪袈裟を取り出し首にかける。これで参詣のスタイルが出来上がる。手洗い場に行き、両手を洗い口を漱ぐ。これは時々忘れた。

本堂の前に立ち、念珠を右手中指に掛け、一捻りして左手人差し指に掛けて、手を合わせ念珠を擦るように礼拝する。ロウソク立てに火を点けたロウソクを立て、お線香3本に火をつけて線香立てに差す。堂上に上がり納め札を所定の箱に入れ、お賽銭(10円玉)を投げ入れる。あとは、般若心経を読む。般若心経の前後には真言や願文が付く。お経を読み終えたら軽く本堂に礼をして終る。

次に大師堂に行き、本堂で行ったと同じことを大師堂でも行う。

納経所へ行き、納経帳に記帳してもらい、御真影を頂いて、300円を支払う。あとは次の札所までのコースを地図帳で確かめる。このあと本堂・大師堂をデジカメに撮り、そのお寺の特徴的な施設などをデジカメに納める。ここまで30分ほど掛かる。


(お遍路姿-出発前に5品目チェックを必ず行った)

出発前には必ず5品目を数える。つまり、菅笠、金剛杖、頭陀袋、リュック、眼鏡を所持していることを確認するのである。この5品目チェックで忘れ物を一度もしなかった。逆に言えば、忘れ物ハプニングのチャンスの芽を摘んでいたとも言える。
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第二十九番 国分寺 ~ 第三十番 善楽寺


(第二十九番札所 国分寺 本堂・大師堂)

いよいよ今回の遍路最終日の5月19日である。この日のこともすでに書き込んである。

民宿きらくで一緒だったおじさんは自分より幾つか歳が上のように見えた。階下の喫茶店で夕食時に少し話をした。いがぐり頭と無精ひげに6割ほど白髪が混じり、げっそりと痩せて草臥れきった顔つきであった。歩く姿を見たわけではないが、遍路道を力なくとぼとぼと歩くといった印象だった。友人と二人で歩いてきたのだが、相手が疲れて昨日お遍路から脱落して行った。今日初めて一人で歩いたと話す。二人で歩くとペースを合わせるために二人とも疲れてしまう。お遍路は一人で歩くものである。同行二人は、金剛杖に姿を変えたお大師さんと二人で歩くということで、つまりは一人なのだ。朝食を断わっていたから、朝早くに自分のペースで歩いて行ったのだろう。


(「地蔵渡し」のお地蔵さん)

第二十九番札所 摩尼山 国分寺までは9.2キロメートルであった。国府寺の手前で国分川を渡る。渡った側の土手に屋根の掛かったお地蔵さんがあった。案内板によると、明治30年(1897)に国分橋が架けられるまで、国分と南方の交通は、国分川の「地蔵渡し」を徒渉するしか無かった。「地蔵渡し」はすぐ北側にある国分寺に通じる遍路道でもあった。堤防上には文化7年(1810)の刻のある、花崗岩の地蔵菩薩像がある。このお地蔵さんが渡しの名の由来となり、お遍路さんの道しるべにもなっていた。

国分寺は天平十三年聖武天皇勅願により全国に創建された官寺で、土佐は現在の国分寺の寺域にあった。今でも創建当時の土塁が残っていて、国の史跡に指定されている。鎌倉時代から戦国時代にかけ幾度も戦禍や災害に遭い荒廃した。

現在の本堂(金堂)は長曾我部元親が永禄元年(1558)によって再建されたもので、国の重要文化財となっている。大師堂は文化二年(1804)に第十代藩主の山内豊策により再建されたものである。国分寺は緑に包まれた静かなお寺であった。


(第三十番札所 善楽寺 本堂・大師堂)

第三十番札所 百々山 善楽寺までは6.9キロメートルある。善楽寺の手前で高知市に入って最初の札所である。古くは桓武天皇の頃に弘法大師が土佐一の宮の別当寺として善楽寺を建立したとあるが、明治初期の神仏分離で廃寺となった。30番札所は一時高知駅の西1キロメートルにある安楽寺に移された。昭和になって善楽寺が再興されて、札所が2ヶ所並立となり、その正統性が争われた。平成5年、安楽寺を善楽寺の奥の院とすることで決着して札所が2ヶ所ある状況は解消された。
※「別当寺」… 神社に付属して置かれた神宮寺の一つ。別当が住した。


(土佐一宮の土佐神社)

比較的新しい善楽寺には建物などに見るべきものはない。成り立ちで判るように、隣りに土佐一宮の土佐神社があり、こちらの方は歴史のある神社である。地元では「しなねさま」と呼び親しまれている。「しなねさま」の意味は不明。


(国の重要文化財、土佐神社の太鼓楼 - 慶安二年(1649)年、二代藩主山内忠義の建立)

次回のお遍路は、高知駅に近いという30番札所奥の院安楽寺からスタートしようかと考えている。
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第二十七番 神峯寺 ~ 第二十八番 大日寺


(27番神峯寺 本堂・大師堂)

5月17日は雨模様の中、ホテルなはりを出る。この日の記録は5月17日および5月24日に書き込んだ。

第二十七番札所 竹林寺 神峯寺は雨と霧の中に溶けていた。本堂は納経所を通り過ぎて、石段を登った最も上にあった。本堂も霧の中で、バスツアーのお遍路さんの、声を揃えた勤行だけが聞こえてくる。そばに寄ると雨を避けて本堂の縁側にたくさんの人が登って勤行をしていた。自分も反対側の縁側の上で勤行を行う。これだけの雨に降られるのは初日以来であった。大師堂は右手へ山道を少し歩いたところにあった。


(お接待の小物)

納経所に行くと、歩き遍路だと確認して、「地元のお年寄りから、歩き遍路の方にお接待で差し上げてくださいと頼まれてまして」と、ビニール袋に入った小物を頂いた。中からお年寄りの念のこもった手作り小物がぞろぞろ出てきた。お遍路の励みになるお接待である。

神峯寺の山から降りたあたりから、雨脚が繁くなって途中で合羽のズボンもはいた。余りに雨が激しくなって、安芸市下山でしばらく農協の建物の軒下を借りて雨宿りした。その農協に胸像が一体あった。刻まれた碑文を読んでみると、施設園芸の導入に尽力したことを称えたものであった。高知県はかつては施設園芸が盛んで、高知空港に何度か降りたが、高知県には地上にハウスがびっしり並んで白く照り輝いていたことを思い出す。この後、同様の碑を幾つか目にした。

雨の中を一日歩いたが、履いているウォーキングシューズには、全く水が入って来なくて、不思議なほどであった。足がぐしゃぐしゃする気持悪さは過去何度も経験しているから、このウォーキングシューズには感謝である。


(28番 大日寺 本堂・大師堂)

明けて5月18日、気持ちの良いお天気となった。道中の話はすでに書き込んだ。第二十八番札所 法界山 大日寺へは最後が山道になって石段下に出た。松山の男性が何日か一緒だったと話していたカナダ人と日本人の二人連れと大日寺の石段下で会った。再会に松山の男性と陽気に声を掛け合っていた。


(大日寺 六角堂)

大日寺は石段の上に、左から鐘楼、大師堂、本堂、六角堂とぐるりと並んでいた。勤行を終えて、松山の男性と石段を下るところで、福岡から来たおじさんがようやく追いついてきた。

この福岡のおじさんと出会ったのは、琴ヶ浜の先で松山の男性と一緒に歩いていると、「やっと追いついた」と合流してきたのが最初だった。荷物がけっこう多く菅笠などかなり痛んで、長く歩いているように見えた。

昨夜はごめん・なはり線の西分駅から高知まで電車で行ってホテルに泊まり、先ほど、西分駅に着いて追いついたという。話を聞いていると、その歩き遍路スタイルは全く自由で、野宿をしたと思うと町に出てホテルに泊まったり、福岡から来て松山の石手寺から始めたのだが、今まで何度か所用で福岡に帰って、仕事が済めばまた戻るという繰り返しでここまで来た。行き先々で道草が多くて、スタートからもう2ヶ月以上経っているという。

福岡のおじさんとは「道の駅やす」まで一緒だったが、信号は無視してどんどん渡ってしまうし、昼飯にお酒を頼んだりするのに呆れて、そこに置いて松山の男性と出てきた。あの後、海岸線が景色が良かったのでどんどん歩いて行き、途中で気付きやっと大日寺に着いたと話す。おそらく今夜の宿も決めてないはずである。お遍路のコースも何も気にしていないようだ。ある種うらやむべきお遍路スタイルかもしれない。
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