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「執筆」か「打鍵」か

(6月7日、高野山ケーブルカー)

暑かった8月も今日で終わり、この1ヶ月は「四国お遍路まんだら再び」の執筆に多くの時間を費やし、ブログも真面目に書いてこなかった。第一稿を終えて、心に余裕も出来てきたので、9月からはブログもしっかりと書こうと思う。

執筆と書いたが、パソコンのキーを打っているのだから、執筆はないのかもしれない。民宿岡田のおやじさんに、今回も執筆するのかと聞かれ、執筆という言葉にしびれたことを思い出す。若い頃から、書きたい欲求は旺盛で、書くならば名文をと、当時、一級の文章を書くと言われた、小泉信三の文章を勉強しようと思い、全集をそろえたこともあった。今でも本棚の一角を占めている。

文章の書き方をどれだけ勉強しても、書きたい内容がなければ意味がない。そんな事を思う間に、仕事に追われて、日々書いているのは事務文章だけになっていた。

ワープロという道具が出来て、再び書くことに意欲が出て来たのは30年も前のことである。ワープロのキーを叩くという作業は、執筆とは全く違う作業になった。執筆は頭で文章をイメージして、それを筆にしていく作業だと思う。しかし、ワープロ作業はしゃべる作業に似ている。頭でしゃべりながら、そのままキーを打っていく。しゃべる場合、少々の間違いや論理矛盾があっても、しゃべりながら、説明を加えていくらでも直してゆくことが出来る。ワープロで最初に書いた文章は、その作業を無駄にする事無しに、いくらでも自由に変えることが出来る。

学生のころ、友人たちと夜を徹して話した。どこにそんなに話すことがあったかと思うけれども、自分と言葉と友人の反応に触発されて、考えてもいなかった発想が醸成され、言葉になってくることがしばしばあった。友人は自分を映す鏡であった。今の今までそんな事は考えていなかったのに、あたかもそれが持論であるようなしゃべり方をしていた。

ワープロからパソコンに移って、メイル、HP、ブログなどが始まり、学生の頃に体験したことが、今はパソコン上で起きている。昔、目の前にいた友人は、ネットの向こうかもしれないけれど、勝手なしゃべりはパソコン画面に、自分を映す鏡のように文字になって残り、自分の言葉の連想から思いが様々に飛んで行き、新しい発想となって、また画面に還ってくる。

何も話題がなくても、パソコンの前に坐れば、自分のブログノルマ、1000文字ぐらいはすぐに達する由縁である。今ちょうど1000文字を越えた。

だから、自分が今行っているのは、残念ながら「執筆」とは言い難い。執筆に変わる言葉はやはり「打鍵」なのだろうか。ならば最初の言葉は次のように変わる。

‥‥、この1ヶ月は「四国お遍路まんだら再び」の打鍵に多くの時間を費やし、‥‥
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御林、異国船、川浚い、御供人足 - 駿河古文書会

(6月6日、大窪寺山門、お遍路さんはこちらの門は余り使わない)

「御觸面書留帳」の続きである。短い御触れを四通記す。1通目は御林、領主地頭林の管理について。2通目は咸臨丸からの脱走者の探索のこと。3通目は巴川川浚いの件。四通目は旧小嶋藩殿様江戸出立の御供人足相談の儀、の4通である。

こういう御触れを読みながら感じるのは、江戸時代の行政は何事を行うにも、地方(じがた)の協力がなければ実施できなかった。それに比べて、現在の地方行政は、何から何まで行政に負んぶに抱っこで、地方税が高くなるのも無理からぬところである。無駄遣いは糾弾しなければならないけれども、安上がりの地方行政にしたければ、企画、立案、実施を住民たちが行う事業をもっと増やして行くべきである。

ちなみに、行政という目でみれば、1通目は営林、2通目は警察、3通目は土木、4通目は運輸のそれぞれ事業である。

1通目
御領分の内、これまで御林並びに領主地頭林の儀、追って沙汰これ有り候まで、その村々において精々心附け、不取締の儀これ無き様取り計らうべく、風折れ、根返りなども、これ有り候わば、その時々支配地方役へ申し立て、差図を受くべく候、万一心得違いのもの、これ有るにおいては、曲事たるべきものなり
 辰九月
右の通り御触れ出し候間、その意を得て、小前末々まで洩さざる様、触れ知らすべきものなり
 辰九月二十二日
    郡方役所
       安部郡
        村々役人
追って、別紙帳面ごと宿村受け印せしめ、この触れ出し、一同刻日をもって順達、留村より返すべく候、以上


2通目
咸臨丸と申す異国張りの船に乗り組み、脱走の者上陸いたし、所々へ散乱いたし候趣に付、厳しく探索、見当り次第差し押え、注進致され候、この廻状刻付をもって早々順達、留り村より相返すべきものなり
 辰九月十九日   
井宮役所         宮内村始め、北長沼村まで
 未中刻出す         十九ヶ村
                   右村々役人


3通目
急廻状をもって御達し申し上げ候、しかるは今般巴川通り、定浚い御普請の儀に付、組合村の壱村限り、村高取り調べ差し出すべき旨、御厳重仰せ渡され候間、三判持参、村々諸引高相知り候御帳面御持参、この廻状御披見次第、名主伝右衛門宅方へ御出会い下さるべく候
 九月二十一日      上土新田    組頭 大次郎
                下足洗新田     忠右衛門
         下足洗村始め  十一ヶ村
         南沼上村まで   名略す


4通目
殿様御供江戸人足の儀に付、相談申し上げたき儀これ有る間、明二十三日昼時まで、八幡屋方御出張下さるべく候、もっとも御繁多の中、御気の毒に御座候えども、殿様御出立の儀も、近々に相成り候ては御差し支え相成り、何とも恐れ入り候儀に付、御繰り合わせ、くれぐれも御出役願い上げ奉り候、以上
 九月二十二日       触れ元
        浅畑村々右略す
当日、右人足日雇壱人分、何程の身入りに候や、御問い合わせ、御申し出下さるべく候


   *    *    *    *    *    *    *

片雲さんがスペインのサンチャゴ後大聖堂への巡礼に出掛けた。その行動力にはいつも脱帽である。その模様は片雲さんのブログ「片雲の風に誘われて」で見ることが出来る。
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靜岡藩の御家来衆が来る - 駿河古文書会

(6月6日、西照神社)

「四国お遍路まんだら再び」(仮)という、2冊目の著書、その第一稿が今夜出来上がった。日数が増えただけ、原稿の量も3割増しほどになった。ここまでは料理で言えば材料が揃った段階に過ぎない。どんな料理方法で、味付けはどうするのか、熱いままで出すのか、冷やして出すのか、器をどうするかなど、課題は多い。これを間違えれば凡庸な旅記録になってしまう。これから2稿、3稿と納得の行くまで推敲を重ねて行く。

しばらく、古文書の復習のような書き込みでお茶を濁しているが、もう少しお付き合い願いたい。

徳川本家が駿府に移封になり、いよいよ大移動が始まる。受入側も大混乱があったはずであるが、日本史を読んでもそんな記述が出てくるはずがない。知るには古文書から読み取るしかない。以下、4通の御触れは、9月13日、15日、19日、21日のもので、1通目は、先ず御家来衆のための宿の調査である。2通目は、宿は寺院だけにして、百姓家は外すことと、御馳走は不要なことを記す。3通目は、20日に御家来衆が到着すること、部屋割りは畳一畳に一人当て、食事は手軽いものを用意して、清水浜まで案内を向けることを記している。4通目は、夜具が足らないから差し出すように、村ごとに割り当てている。どうにも泥縄式である。それだけ役所自体混乱している様子を示している。

1通目
回状をもって御意を得候、しかるは今般、江戸表より当御家来様、追々御引っ越し遊ばさせられ候、ついては御宿向など、多分御入用の趣、間数取り調べ、早々差し出し申すべき旨、私ども御呼び出しの上、仰せ渡され候間、御村々軒別間数、御取り調べ、明早朝御差し出し申すべく候、以上
なおもって、この回状、刻付をもって、早々御順達留りより、宮ヶ崎八幡屋格兵衛まで御戻し下さるべく候
 辰九月十三日          井之宮村   嘉平
                    安西方    政吉
                    外新田    又兵衛
 宮中村始め
 北長沼村まで十六ヶ村


2通目
廻状をもって啓上仕り候、しかるは先だって、相触れ申し候、御宿の儀、百姓家の儀は、農業渡世の差し障りにも、相成り申すべく候間、御宿の儀、御用捨成り下され、寺院ども分、御宿仰せ付けられ候間、左様御承知成られ候、御宿の儀はその御村々にて御取り賄い申すべき旨、仰せ渡され、もっとも御馳走の儀は御心配に及ばず、味噌、梅干、香のものなど御用意成られべく候
右の趣、御役所より仰せ渡され候間、この段、御達し申し上げたく、この廻状早々御順達成らるべく候、以上
 辰九月十五日   井の宮村    嘉平
      宮内村より始め
      北長沼村まで
       右村々御名主中様
この廻状、留より八幡屋まで御返し下さるべく候、以上


3通目
明二十日東京より御家来の向、到着に付、その村々寺院へ、止宿割り渡し候間、その意を得、同日夕七時までに、村々より壱人ずつ案内の者、清水浜へ向け、差し出し置き、出張役人差図受け申すべく、人数の儀は、寺院間取りに応じ、畳数壱枚に付、およそ壱人ずつのつもりをもって、兼て相達し候通り、賄い方用意いたし、差し支えなき様に、取り計らうべく候
この廻状、刻付をもって早々順達、留りより相返すべきものなり
※ 向(むき)- 人、お方
 辰九月十九日   
   郡方役所    出張役人
             中嶋兵蔵
             小板用三郎
追って、賄い方の義、菜は梅干、香の物に限り、手軽に取り賄い申すべく、右入用は申し立て次第、下げ渡し申すべく候間、この段も相心得べく候、以上
                   柳新田
                   南村
                   有永村
                   羽高村
                   東村
                     右村々役人


4通目
今般、上様御入国為られ、御役々様方御多勢御着きに付、夜具差し支え相成らざり候様、郡方御役所より御達しこれ有り候に付、今日中に新谷町御用会所まで、早々御差し出し成らるべく候、以上
 九月二十一日     町会所   夜具方
別紙割り付け通り、相違なく差し出し成らるべく候、以上
      一 時ケ谷村    夜具三十組
      一 南村      七十組
      一 有永村     三十組
      一 東村      六十組
      一 羽高村     二十組
      一 北村      六十組
      一 池ヶ谷村    二十五組
      一 唐瀬村     十五組
この儀は相改め申し候


この後、家族やら、江戸のまで含めて大量にやって来て、混乱は大きくなっていく。
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東京行幸についての御触れ - 駿河古文書会

(5月31日、本山寺五重塔)

さらに「御觸面書留帳」が続く。移封があって、去る人、来る人、てんやわんやで、まだ定まらない時期に、明治天皇が東京へ行幸になるとの通知が来て、以下の御触れとなった。慶応から明治へ改元されたのが九月八日、御触れはその二日後の日付になっている。

新政府と旧幕府側の争いが続き、東国の民衆は多大な苦難を味わった。天皇はこれら東国の民衆を慰撫したいと願われ、九月二十日に京を立ち、十月十三日に東京に入られた。この道中では各地で、老人、家業出精の者、親孝行ものを表彰しながら、ゆっくりと進まれた。十月四日に藤枝に宿泊、翌五日、府中では、孝子6名、忠婢1名が表彰された。以下の御触れは、行幸の際の表彰の下調べも兼ねていた。

今度、東京へ行幸に付、御道筋へ近在、近郷より拝しに罷り出候儀、勝手次第たるべき事
一 水災のために流失いたし候者、これ有り候わば、取り調べ、来る十五日まで差し出すべく候
一 御当日、遠方より継ぎ立て人足、二、三泊にて、宿方へ罷り出で候者これ有り候わば、取り調べ、差し出すべく候
一 七十才以上の者、並び親孝行の者、家業出精の者、これ有り候わば、取り調べ、来る十五日までに差し出すべく候
右の通り相心得、この回状村下へ請印せしめ、早々順達留り村より、井宮村松寿院仮役所へ、相返すべきものなり
 九月十日   地方役所

追って、御役所取り建つまで、当分の内、本文の通り、安西井宮村松寿院借り受け、仮役所にいたし、明十一日より取り扱い候間、諸願い、諸届け、同所へ差し出すべく候
一 その村々高札面へ、これまでの代官、領主、地頭などの名前これ有り候分は、右名前だけ早々紙にて張り置き候様、致すべく候

追って順よく継ぎ立つべく候
         安倍郡
            北長沼村始め
            上土新田
            同外二ヶ村受新田
            浅畑沼新田
            川合新田
            川合村
            南沼上村
            北沼上村
            浅畑新田
            東村
            北村
            羽高村
            有永村
            池ヶ谷村
            柳新田
            北安東村
            南村
            宮内村
             右村々役人


最後の一つ書きは、旧の代官、領主、地頭などの名前は、紙を張って、名前の部分だけ紙を貼って消しておけという内容である。
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靜岡藩御領国の民政御改正 - 駿河古文書会

(5月29日、箸蔵寺麓、店先にタマネギ、ニンニクが並ぶ)


「御觸面書留帳」の続きである。この文書も1868年、戊辰の年の九月に出された御触れである。

江戸幕府が終焉し、徳川家は駿府70万石へ移封となった。その御領国に対して、民政を改正する御触れである。三つの点が記されている。

第一点は、今まで請願によって、その土地を不良・不作の土地と定めてもらい、定率の石代納が認められている土地があった(安国代)。今後は安国代を廃止し、年々の作柄によって引き方を決めるようにする。

第二点は、郡方役所に名主が年番で出て、郡中入用を徴収していたが、今後は郡中入用の徴収を廃止する。

第三点は、第二点に伴ない、郡中惣代(名主の年番)を廃止し、諸願い、諸届けは、直に地方役所へ持参する。その際、村役人が付き添ってくる。

先前(さきざき)より違作の年柄、その所、仕癖にて不相応安石代相願い候儀もこれ有り候処、今度、御領国、民政御改正に付、凶年違作にはその作柄に寄り、事実の引き方、不相当の御取箇これ無き様、地方役へ申し渡し置き候間、向後、安石代願いの義は、一切御差し上げこれ無き条、兼ねて小前末々まで申し含み置き候様、致すべく候
※ 仕癖(しくせ)- ある一定の仕方が繰りかえされて、型になった傾向、習慣、性質など。
※ 安石代 - 江戸時代、土地の不便、地味の不良・不作などの事情から、請願によって行なわれた低率の石代納のこと。
※ 取箇(とりか)- 江戸時代、田畑に割り当てた年貢のこと。


一 これまで陣屋許(もと)へ、名主ども年番を以って罷り出居り、郡中入用取り賄い候由の処、今度御入国に付、百姓入費を厭いさせらる由、一方役宅の儀は御入用を以って御取建て、その余りすべて、御入用または自分入用を以って、取り計らい候、郡中入用一切取り懸けず候条、その旨、相心得べく候

一 これまで郡中にて給分差し出し、惣代の者相定め置き候趣に候処、以来、郡中惣代の儀は相廃し、諸願い、諸届けなど、その村役人直に地方役所へ持参致すべし、小前願い筋、または訴えなどこれ有り候筋は、村役人の内、壱人差し添え罷り出で、すべて下情相通じ候様にとの御趣意に候間、諸事手軽るに取り扱い候様、致すべく候、

右の趣、御領分村々小前末々まで、洩さざる様、相渡すべく候
 辰九月

追って、別紙帳面へ宿村ごと受印せしめ、この触れ書、一同刻付を以って、順達留り宿村より相返し候、以上

右の通り御触れ出し候間、その意を得、小前末々まで、洩さざる様、触れ知らせるべきもの也
 辰九月九日  郡方役所
              安倍郡
                宿々
                村々役人
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元小嶋藩殿様江戸へご発途 - 駿河古文書会

(5月31日、海岸寺方面から、左から天霧山、天霧峠、弥谷山)

昨日に引続き「御觸面書留帳」からの触れ書控えである。「辰」は1868年慶應四年(明治元年)、つまり戊辰戦争のあった年である。ちなみに、会津が降伏したのが9月22日だという。

触れ書は2通は、いずれも元小島藩に関するもので、1通目は殿様がお酒を下さるので集るようにという通達である。おそらく別れの宴といったところであろう。2通目は元小島藩殿様御発途に当り、餞別などについて相談したいので集るようにという通達である。いずれも役所から出たものではなく、触れ元名主などから出されたものである。

元小島藩は駿府の東側から富士川の西側に至る2万石が領地で、郡名では安倍郡、有渡郡、庵原郡のそれぞれ一部が入っていた。殿様は上総国金ヶ崎藩(のち桜井藩に改称)に移封となった。

昨日読んだ御触れでも判るように、靜岡藩の役人たちは次々にやって来て、支配体制を着々と固めている一方で、元藩主がまだ移りきれていないといった、混乱が各地であった。元小島藩が移れないのも、移封先の上総の準備が整わないからであろう。ある種、革命としての明治維新は急ぐ余りすべてを同時進行で行わねばならなかった。(戊辰戦争もまだ終わっていない)

御廻状をもって、啓上仕り候、しかるは、元御領主様、御酒下され候間、明後五日正四ツ時までに、遅刻無く御当役壱人ずつ、小嶋龍津寺へ御出で成らるべく候、もっとも、触れ元衆始め、御銘々羽織袴にて、御勤め成らるべく候、かつ不参これ無き様、成らるべく候、右の段、御通達及ぶべき旨、仰せられ候間、御達し申し上げ候、早々御順達、留り両宿の内へ御返し成らるべく候、以上
 辰九月三日    八幡屋 格兵衛
          柏屋 長右衛門
      右村々 御名主中

※ 啓上(けいじょう)-「言うこと」の意の謙譲語。申し上げること。手紙に用いる。

廻状を以って御意を得候、しかるは殿様御儀、近々の内、江戸表へ御発途遊され候に付、御餞別その外諸事、御相談申し上げたき儀、御座候間、来たる十四日四ツ時に刻限違わず、御自身、名代でなく、御出張下さるべく候、当御時節、御銘々御繁多の儀に御座候間、遅刻の御方御座候ては、御一同御迷惑に御座候間、この段御承知下され候、くれぐれも早々御出張成らるべく候、まずは御意を得、萬々申し上げたく、かくの如く御座候、以上
 辰九月十一日      触元
       右村々 御名主中様

※ 発途 - 出発すること。出立。
※ 名代(みょうだい)- ある人の代わりを務めること。代理。
※ 萬々(ばんばん)- 十分に。よくよく。
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靜岡藩支配の触れ書 - 駿河古文書会

(5月31日、香川県三豊市高瀬町の溜池)

お遍路に出掛けている間に、駿河古文書会を6回欠席した。予め、休む予告はしておいたのだが、長期の欠席に退会したのかと思われていた。その欠席した6回分の教材を今、読み進めている。今日取り上げるのは、幕末から明治に掛けて、駿府周辺の村々に回った御触れ書の控え、「御觸面書留帳」である。

この御触れは慶應4辰年8月に出されたもので、同年9月には明治と改元される、その直前である。同4月に江戸城開城、5月には徳川家達は駿府城主に移封された。大混乱の末、駿府に引越しが行われ、支配体制が8月にようやく整って、以下の御触れとなった。

内容を見ていくと、とりあえずは旧支配関係を踏襲するところから始めていることが分かる。幕府直轄、小島藩など支配関係が細かく分かれていたところが、一括で靜岡藩の支配となった。

   地方役    多田銃三郎
   同添役    吉田佐五左衛門   支配
   同下役    関根勘十郎

その村々、この度書面、地方役以下、名前のものへ支配仰せ出され候間、御年貢その外、諸納物は勿論、諸願い筋など、すべて右役所へ申し立て、差図受くべく候、もっとも当田方検見の儀、富士、駿東両郡は吉原、沼津両宿辺りへ、検見掛りの者、出張の上、取り調べ候筈に付、その意を得るべく候
 但し、支配の未だ着き、これ無き分は、諸願い筋など、当役所申し出るべく候

一 当辰、御取箇の儀、定免村々は勿論、検見村方に候とも、前年通り上納いたし候分は、別段致さず、かつ、元私領にて請免の分も、前年取米に居(すえ)置き候はずに付、その旨、相心得申すべく候、もっとも定免並び請免村々ども、格別違作にて、昨年御年貢上納致しがたき分は、その段早々申し出で、取り調べ請け申すべく、定検見村々は別段申し立てに及ばず、仕来りの通り、内見帳、耕地絵図とも、相仕置き、検見向く以前、差し出すべく候
※ 定免 - 過去5年・10年・20年間などの田租額を平均して租額を定め、一定の期間内はその年の豊凶に関係なく、定額を徴収したこと。特別に違作があったときは、減免することもあった。
※ 検見 - 米の収穫前に、役人を派遣して稲の出来を調べ、その年の年貢高を決めること。
※ 請免 - 稲の植え付け前に、その年の免(租率)を定めて、村方に上納を請け負わせる年貢。定免の一種。


一 当夏中、川々出水にて、損地出来(しゅったい)候村々小前帳の儀、追々差し出し候分もこれ有り候えども、その後、地所立ち直り候分もこれ有りや、に付、これまで差し出し有無に拘わらず、絵図面、一同早々差し出すべく候

右の通り相心得申すべく候、この触れ書、早々順達、留り村より、相返すべきものなり
 辰八月  郡方
       御役所 印
             右村々
              庄屋
              組頭
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海野弥兵衛信孝日記(8) - 駿河古文書会

(5月29日、徳島県池田町辺りの吉野川)

このところ、連日、古文書講座の復習のような内容で、興味のない人(大半がそうであろう)には、まことに恐縮である。暑さから外へ出る気にならないのは事実だが、この間に、実はお遍路記録のまとめに入っている。ブログには、その日その日で印象深いことを拾って書いたから、書いてないものがまだたくさんあった。それを拾えるだけ拾いながら、まずは第一稿をまとめている。残るはあと十日分である。800字詰原稿用紙にして200枚くらいになるであろうか。第一稿は素材のようなもので、さらにそれから稿を重ねることになるが、忘れないうちにそこまではやっておきたい。ちなみに、前著は800字詰原稿用紙にして150枚ほどで出来ている。

そんな訳で、今日も海野弥兵衛信孝日記の1月14日分である。

地脇の者(近所の百姓たち)が、海野家の行事の面倒を色々見ているらしい記述が時々出てくる。十四日には2項目出てくる。一つは「“けずりかけ”をいたす」とあるから、けずりかけを作ってくれたのであろう。けずりかけは今の御幣の代りである。ネットで見ると、「正月十五日前後に作り、門戸につるす。邪気を払い福を招来するとした」とあるから、十四日に作るのは時期が合っている。

昔、靜岡の洞慶院で見た「おかんじゃけ」という玩具を思い出す。似ているようであるが、「おかんじゃけ」は竹の縦の繊維を残し髪の毛のようにしたもので、制作方法も用途も違う。ちなみに「おかんじゃけ」は「お髪竹」が鈍ったものだといわれる。

もう一つの記述は、地脇の者が松かざりを片付けてくれた、というものである。いよいよ正月行事も終わりである。

十四日
一 地脇の者来たり、例の通りけずりかけいたす
  但し、もち遣わす
※ けずりかけ(削り掛け)- ヤナギやニワトコなど色の白い木の肌を薄く細長く削り垂らしたもの。紙が普及する以前は御幣(ごへい)として用いられた。削り花。
一 おぜん御造酒上げる、すべて例の通り
一 文右衛門方へ酒五升代払う、使い七右衛門
一 去る暮申し付け候、豆腐ひきちん、喜左衛門方へ払う、使い七右衛門
一 草深利右衛門年始礼に来たる、年玉として佐束壱状、到来候
  但し、酒呑ませ候、外に金弐朱、歳暮分差し遣わし候事
一 新次郎呼び寄せる、品々相咄す
  但し、来たる二月、当家無尽金、同人方へ入金に相成り候わば、差し繰りくれ候段、品々申し談じ候、追って申し来たる筈
一 地脇の者来り、例の通り、松かざりおさむ
一 新五郎へ縫兵衛方借財きんの儀に付、品々申し聞き候事
  但し、縫兵衛口入金の儀に付、同人と申し合い、日延べ致すべき段、品々申し付け候事
一 長五郎へ府中行きの儀、申し付け候
  但し、来たる十七日頃、自分府中へ罷り越し候に付、供の儀、申し付け候事
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海野弥兵衛信孝日記(7) - 駿河古文書会

(4月28日、大岐海岸を歩いた)

海野弥兵衛信孝日記の続きである。今日は1月12日~13日の分である。

この辺りでは、伊勢参宮から帰った人たちが、次々に挨拶に来ている。お土産も種々到来しているが、おそらく伊勢から持ち帰った土産は御札だけではないかと思う。佐束壱状、まんじゅう十、手拭壱筋、小風呂敷壱、酒壱升など、ほとんど近辺から調達したものであったと思われる。まんじゅうが「赤福」だった可能性は全く無い。

「ぞうじ」に出た料理も届いている。吸もの、硯蓋、さしみ、酒壱升、そば切りが出てくる。「硯蓋」とは形が硯の蓋に似た器で、口取り肴(今で言えばオードブルか)を盛った。さしみが出てくるが、海の魚ではなく、川魚だったのだろう。料理を示されると、ぞうじの雰囲気も知れる。今と違って、御酒は、ぞうじのような行事でも無ければ、めったに口にすることが出来るものではなかった。

十二日
一 栄蔵方より酒持参候処、宜しからざる品に付、返し候事、使い善之丞
  但し、酒取替に付、かくの如し
一 善之丞をもって、酒尋ねさせ候事
一 下屋敷よりさと来り候に付、於喜代さまへ、有り合わせに付、あげもの少々進(まいら)し候事
一 酒五升、文右衛門より借りる、使い善之丞
一 酒壱斗、右久蔵へ遣わし候事、使い善之丞
   但し、五左衛門、伊勢参宮に参られ候儀に付、遣わし候事
一 銭弐百文、使い善之丞、
  右斧蔵方伊勢参宮に参られ、帰宅、ぞうじ致され候由に付、見舞として差し遣わし候事
一 久蔵来たる
  但し、ぞうじ致され候由をもって、品々到来候事、左の通り
    一 吸もの
    一 硯蓋
    一 さしみ
    一 酒壱升
一 丹六方より土産として左の通り到来候
    一 佐束壱状
    一 まんじゅう十
    一 御札一
一 和助方より土産として左の通り到来候
    一 佐束壱状
    一 手拭壱筋
    一 御札一
一 佐五右衛門方より御造酒少々、そば切り到来候、もっとも同人方にて、伊勢参宮に参られ帰られ候に付、かくの如し
  但し、同人方にて伊勢へ出立のみぎり、自分留守にて、無沙汰いたし候に付、銭弐百文見舞として、右使いの者へあつらえ遣わし候事、使い瀧右衛門
一 銭弐百文
  右は新五郎儀、ぞうじいたし候由に付、これを遣わす、もっとも久蔵方より相届けべく段、申し付け、則ち久蔵へ渡し候
一 口坂本村与四兵衛来たる、もっとも池ケ谷村七兵衛、同伴来たり候事
  但し、七兵衛土産として、佐束一状、持参到来なり、吸物、年酒遣わす、それより右両人とも、ほか用向きこれ有る由、村方へ参られ候事

※ 年酒 - 新年を祝う酒。また、年賀の客にすすめる酒。

十三日
一 米搗き女弐人、かの、平右衛門女(むすめ)代りの者来たる
一 佐右衛門方より伊勢土産として左の通り、到来候事
    一 御札一
    一 佐束壱状
    一 小風呂敷壱
一 丹六来たる
  但し、兼ねての證文、返し来り、受け取り候事、品々相咄し候
一 孫七来たる、品々相咄す
一 薬沢角右衛門方にて、伊勢参宮参られ候由、もっとも帰りぞうじ致され候由に付、銭弐百文、これを遣わす、使い林右衛門
一 縫兵衛方より、伊勢土産として、左の通り到来候
    一 御札一
    一 酒壱升
    一 小風呂敷一
    〆(以上)
一 伊之助方より、そば切り、御造酒到来候、使い五郎左衛門忰
  但し、伊勢参宮に参られ帰り候に付
一 新五郎儀、そうじ致され候由、左の通り到来候、使い常吉
    一 硯蓋一
    一 そば切り
    一 酒壱升
    〆(以上)
一 斧蔵方より、そば切り到来候、使い七兵衛
  但し、伊勢参宮に参られ、かへり候に付

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海野弥兵衛信孝日記(6) - 駿河古文書会

(4月27日、お遍路を招く、うどん屋田子作)

引き続き、海野弥兵衛信孝日記で、1月11日の部分である。

伊勢参宮から次々に帰ってくる記事がたくさん出てくる。その中に、平かなで「ぞうじ」という言葉が出て来た。予習では分からないまま、会の当日になった。講師の説明では、「ぞうじ」は雑事と書き、行事等の後の簡単な宴会のことで、神事の後のなおらいとか、現代の慰労会などもそうであろう。年配会員の若い頃、何かというと、「ぞうじにしよう」という言葉が、一杯飲みに行こうという感じで使われていたという。地域性のある言葉であろうか。伊勢神宮参拝は、代表して参拝しているので、簡単な宴会を開いて、参宮の報告や土産話をしたり、土産物を配ったり、場合によっては伊勢で覚えた伊勢音頭の唄と踊りを披露したりした。海野家では、そういう集りに、こまごまと祝儀を出している。

十一日
一 蔵びらきなり
一 米半荷、新蔵方より借りる 使い七右衛門
  但し、三、四日の内返し候積り
一 今十一日田地へ起し初めに七右衛門遣わし候事
一 塗木具弐つ、善六へかし遣わす
一 白木具弐つ、久蔵方へかし遣わす、使い長五郎
一 下屋敷養父へ手紙遣わし候事、使い圓二
  但し、村方伊勢参りぞうじ致され候者への、これまでの取り計い方、聞き合わせの事

※ ぞうじ(雑事)- ここでは、行事等の後の簡単な宴会のこと。なおらい。代表で行った伊勢参宮の報告会のようなものが行われた。

会では、「五左衛門、新五郎、小作、久吉、伊之助、只今帰り候由をもって、来たり候事」という一文が、意味不明だと説明があった。帰ったのか来たのか、分からない。この記事も伊勢参宮がらみの話と解釈すれば理解できる。つまり、「(伊勢参宮から)只今帰り候由をもって、(御礼に)来たり候事」と解釈すれば、意味不明ではない。

一 草深吉蔵来たる、もっとも年礼年玉として、のり到来候
  但し、酒呑ませ候、外にすずき魚持参候に付、買う、代三百五十文払う、
五左衛門、新五郎、小作、久吉、伊之助、只今帰り候由をもって来たり候事
一 丹六忰、同断来たる
一 養父来たる、品々相咄し候事
  但し、過刻、手紙をもって申し候儀、聞き合わせいたす
一 久吉来たる
  但し、同人方へ過日銭弐百文遣わし候礼、申し聞けられ土産として酒壱升、佐束半状、到来候、もっとも御札壱枚相添え、到来候事
一 和助方よりそば切り到来候、もっとも同人忰、伊勢参宮に罷り越し、帰られ候に付かくの如し
  但し、同人伊勢へ出立のみぎり、自分留守にて無沙汰いたし候に付、銭弐百文見舞として右使いの者へあつらえ遣わし候事、使い安兵衛
一 燈油弐合、常吉方より借りる、使い七右衛門
一 栄蔵宅へ七右衛門遣わす
  但し、兼て申し付け置き候酒、来たり候哉、聞き合わすなり
一 伊之助、ぞうじ致され候と申すに付、見舞として、銭弐百文遣わす、使い七右衛門、序(ついで)に付、遣わし候事
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