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甲州鰍沢温泉「かじかの湯」

(甲州鰍沢温泉「かじかの湯」)

まだ恵林寺に居る。お昼をかなり回ったが、恵林寺境内で商う「一休庵」という蕎麦屋に入った。昼食にとろろそばを頼む。そういえば土曜日、日曜日と女房が留守の食生活は薄ら寒いものがある。土曜の朝-菓子パンと牛乳、昼-焼きそば、夜-冷凍のチャーハン、今朝も菓子パンと牛乳(なお夜は冷凍のお好み焼)である。

帰る途中にもう一ヶ所、塔に寄ろうと思った。資料では南アルプス市に妙善寺の多宝塔がある。そこへ寄り、温泉に入って帰ろうと予定した。地図はカーナビだけ、住所も飯野という地名しかわからない。妙善寺はカーナビには載っていない。地名の飯野だけを頼りに来て見たが、結局それらしいお寺が見つからず、日が傾いてきたので断念した。今度はしっかり調べて来よう。

残りは温泉である。このあたりは日帰り温泉が何ヶ所かあるから見つけ次第入ろうと思った。久し振りの温泉である。標識に「かじかの湯」が出て来た。今までも街道を通っていて何度か看板は見た。ここにしよう。右折して山側に3kmほど入った所に甲州鰍沢温泉「かじかの湯」があった。

「かじか」と聞くと、2種類の動物が思い浮かぶ。一つは「鰍」と書く淡水魚で、ハゼのような魚である。ウロコが無くて体長15センチメートル位、きれいな水の河川に住んでいる。もう一つは「河鹿」と書くカエルである。谷川の岩間のすんでいるカエルで、暗褐色で四肢に吸盤がある。雄は美声を発する。町名の鰍沢町は魚名だが、この温泉のキャラクターは河鹿カエルである。どちらもそばを流れる大柳川渓谷に生息する生き物なのだろう。実際に町名の「カジカ」にも2説あるらしい。

脱衣場に入るとロッカーが無く、脱衣籠がずらりと並んでいた。財布もあるし、どうするかと迷う。まあいいかと、脱ぎかけて、「貴重品はコインロッカーをお使いください」との注意書きがあった。脱ぎかけた服を着て、コインロッカーを探すが、脱衣場にはない。廊下へ出て向かいにガラスで素通しの部屋にロッカーが並んでいるのをやっと見つけた。大変てこずらせた。

温泉はわずかに褐色で少し塩味がした。「かじかの湯」は1500万年前に活動していた海底火山で、地下1400メートルから湧出する、高濃度のナトリウム塩化物泉で、その効能から「療養泉」と呼ばれている。入湯料500円の、37湯目の日帰り温泉であった。「かじかの湯」を出るともう夕闇がせまっていた。
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心頭滅却すれば、恵林寺の三重塔

(恵林寺の三門)

長禅寺の後、甲州市(旧塩山市)の乾徳山恵林寺(えりんじ)に回る。ここにも三重塔があるからである。恵林寺は武田信玄の菩提寺で信玄の墓もあるとあって、長禅寺とは打って変わって、境内は観光客でにぎわっていた。

四脚門(赤門)というのが国の重要文化財になっているが、駐車場が奥にあって、参道の途中から入ったので、三門から入った。これも県の文化財に指定されている。

三門の左右に有名な「安禅不必須山水」「心頭滅却火自涼」という看板が掛かっている。

「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ら(おのずから)涼し」と読み下す。

案内板によると、
天正十年(1582)四月三日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門へ集め火をつけた。

火を掛けられた快川国師は先の言葉を言い放って、火中で壮烈な死を遂げた。日本歴史上、最大の「やせ我慢」である。三門脇に「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」と刻まれた碑が立っていた。僧侶たちの遺骨が埋葬されているという。


(恵林寺の三重塔)

恵林寺の三重塔は三門を入った左手の方、木立の中に建っていた。昭和48年建立というから、由緒ある建物の多い中では目立たない存在である。観光客も遠目に見ることはしても、そばに寄る人は少ない。立て札があり、「仏舎利宝塔(納骨堂)第二次申込み受付中 開山夢窓国師・武田信玄公菩提寺である恵林寺で三重塔の下、安らかなる永眠の場所をお求め下さい」と書かれていた。

純木造で彩色はされておらず、一辺3.42m。屋根は銅板葺である。各重に白壁が塗られ、荘厳さには欠けるが、お寺の建物を三層に積み上げたという、親しみ易さがある。初重が位牌堂、地下が納骨堂になっているようだ。
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並び立つ長禅寺の三重塔・五重塔

(三重塔と五重塔は並立)

(前日の続き)
信玄は京都や鎌倉に習って、5つの寺院を「甲府五山」と定めた。長禅寺はその筆頭寺院で、他には、東光寺・能成寺・円光院・法泉寺がある。


(長禅寺の南大門)

住職の方針なのだろう、長禅寺には案内板が一切無い。立派な建物が立ち並ぶが、歴史のある建物は無いのだろうか。正面の大きな門は何とも変った門であった。最近作られたものだろうか。屋根はしっかり葺かれているが、屋根の下は円い柱が剥き出しのまま立っているだけである。まだ未完成のようでもあり、一体どんな目的で造られた門なのだろう。案内が一切無いので何も解らない。「千社札禁止」の立て札だけがあった。(ネットでみると、この建物は「長禅寺南大門」で1993年当時、建設中であったという)


(長禅寺の変わった鐘楼)

右手から回り込むと不思議な鐘撞堂があった。細長い大きな鐘が下がった鐘楼にくっついて、撞木(しゅもく、鐘を突く棒)を収納する屋根が別に付いている。本堂は塀で囲われ、正面に造られた門が閉じていて近づけなかった。塀の外に三重塔があった。三重塔の向こうには五重塔も見えた。


(長禅寺の三重塔)

三重塔は昭和53年(1978)に完成。長野県の大法寺三重塔を模したという。和様の木造塔で、落慶から30年経って、施された彩色は早くもほとんど色あせていた。各層の屋根は銅板葺で、総高18.6m、一辺3.57m。建立の目的は大型仏塔建立の技術研究というが、どうしてどうして本格的な三重塔であった。


(長禅寺の五重塔)

塀に沿って進んだ、本堂左手の空き地に五重塔が建っていた。先の三重塔はこの五重塔を造るために試しに造ってみたのだろうか。五重塔はさらに新しく、平成元年(1989)に完成した。白木本格木造、屋根は銅板葺で、総高31.8m、一辺5.0m。空き地が十分無くて写真がなかなか撮り辛い。塀の中に入って、本堂から望むと上手く撮れるのかも知れない。

五重塔の手前には信玄の母堂大井夫人の霊廟の御堂もあった。観光客が来ないといっても、見学している間に三々五々訪れる人があった。閉鎖的な割りに南大門といい、2基の塔といい、お寺を訪れた人に見せる建物を建てている。矛盾しているようにも思える。
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富士山と甲府の長禅寺

(朝霧高原の富士山)

台風20号が太平洋沖を北東に進み、伊豆諸島から関東沖を抜けた。日曜日、雲を根こそぎ引き連れて去ったあと、さわやかな秋晴れとなった。女房は班の旅行で長野に出掛けて不在、思い切って一人で山梨へ塔を見に出かけることにした。

東名を富士川SAスマートICで下り、富士川を渡り、山越えをして富士宮に出る。朝霧高原では富士山がこれ以上ないほどくっきりと見えた。昨日の雨が山頂では雪だったようで、雪を頂いた富士山はやはり富士山らしい。雪の無い富士山は、表現は古いが、クリープを入れないコーヒーみたいである。通はともかく、一般人には物足りない。

精進湖のそばを通り、北へトンネルを抜けて甲府盆地に下る道からは、南アルプスの北部の山々や遠く八ヶ岳まで山頂辺りに雪を頂いて青空の下、くっきりと見えた。なるほど、山梨県は山国であった。


(甲府の長禅寺)

長禅寺は甲府駅近くで愛宕山を北に背負って建っていた。ここでは目的の三重塔と五重塔が並列して見られる。NHK大河ドラマ「風林火山」のブームの中、武田信玄の母堂の大井夫人(ちなみに「風林火山」では風吹ジュンがつとめる)の墓所といわれながら、観光コースにはなっておらず、訪れる人は少ない。聞くところでは長禅寺の住職は観光客を好まないという。修行の邪魔になるとか、汚されるという理由で拝観を断わる寺院がある。宗教のあり方からすれば、どこか違うと思う。物乞いでも何でも、来る人を拒まないのが宗教のあり方だと思う。観光客に心を乱されるような修行では意味が無い。

長禅寺の開山は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)、信玄の学問の師であり、出家した際の導師を務め、「機山信玄」という法号を与えたことで知られる。元は長禅寺は南アルプス市鮎沢にあった。信玄は甲府に新たに長禅寺を造営し、岐秀元伯を住職として迎えた。鮎沢の長禅寺は「古長禅寺」と呼ばれて今も存在する。(続く)
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労使協議会慰労会の席で

(朝霧高原から見た富士-28日日曜日)

金曜日の夜、掛川駅裏の料理屋で労使協議会の慰労会を行なった。再度挨拶の機会を与えていただいたので、こんな話をした。

22歳で会社に入ってから39年、会社の一線から退くことになり、これからの人生を考える中で、ふと気付いた。100歳まで生きるとすると、今からちょうど39年あることになる。つまり、会社で過ごさせていただいた39年と同じ年月が自分にはまだ残っている。これはけっこう長い時間だよ。そんな長生き出来ないと言われるかもしれないが、故郷の親父は95歳で亡くなったし、お袋は98歳で元気な声を聞いたばかりだから。不可能って訳ではない。

会社人生を続けてきて、会社勤めゆえに出来なくて保留してきたことが、たくさん溜まっている。だから、やりたい事が溢れかえらんばかりで、多分後半の39年も退屈している暇はなさそうである。

この2年、ブログを書きつづけている。毎日約800字、もう650回をほどになる。色々なことを書いてきた。一日一テーマ、集中して調べて書く作業をしているといろいろなことが見えてくる。その作業は推理小説を読むような “わくわく感” がある。もし私のことを思い出して、「どうしているかなあ」と思ったら、「かさぶた日録」をのぞいてみてほしい。元気なうちは書き込みを続けたいと思っている。書かなくなったら頭がボケちゃったかと思ってくれていい。このブログが皆さんがリタイアするときの何かの参考になれば良いと思っている。

そんな風に話した後、皆んなにブログのアドレスを印刷した名刺を配った。料理を前にしていたから、話を端折って十分話せなかったが、本当はこんな風に話したかった。

今までやりたくてやれなかったことがたくさんあると話したが、あとで具体的に考えてみた。

1.100名山登山 (体力に自信がなくなり断念した)
2.女房と五つの旧街道踏破 (旧東海道は終り、現在旧中山道の中間まで来た、あと甲州街道、日光街道、奥州街道)
3.故郷に一年間住む (子供の目で見た50年前の故郷と、還暦の目で見た21世紀の故郷を比べて見たい)
4.四国八十八観音霊場の巡礼 (完全に徒歩で一度に50日かけて踏破する)
5.歴史、文学を学び直したい (出来たらどこかの大学で講座を聴講する)
6.各種全集を含めて、大量の本が買ってある(少しずつ読み進みたい)


その他、趣味の話まで含めるとまだまだあるが、いずれこのブログ上に書き込むことになるであろう。
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今月でキリをつける

(落日は美しいか)

今月で会社の第一線から退くことにした。思えば39年間、長いようであっという間に過ぎ去ってしまった。昨夜は最後の労使協議会に出た。月一回の定例の労使協議会に会社側として出席するようになって10年になる。会社にとって波乱の10年であった。最後に労働組合の人たちに次のような話をした。話し足らなかった分も含めて書いておこうと思う。

最近起きたM製作所の倒産劇はまだ記憶に新しいところであるが、情報を見るとM製作所には組合が無かった。自分は組合が無かったことが倒産の一因では無かったかと思う。

会社側にとって組合の存在はわずらわしいものである。質問を受ければ答え難いことにも答えてゆかねばならない。継続的な経営の中で、ここ一番、脱税や粉飾をしたくなる瞬間が何度か訪れる。脱税なら税務署にしっかりチェックを受けるから、めったなことは出来ないが、粉飾だと外部の人の目を誤魔化すぐらいはそれほど難しいことではない。ただ、会社の内部にいる組合の目を誤魔化すことは大変難しい。

組合の皆さんが、経営側が何をやるのか、しっかり見て質問したり、注文を付けたりすることが会社を健全に保っていくことになる。経営側を追い詰めれば、場合によっては、リストラの決断を促すことになり、組合側に不利益として還ってくることになるかもしれない。しかし、結果的にはそれが会社を健全に保っていくことになる。是非とも追及の手は緩めないでもらいたい。

10年間、労協をやって来て、何ごとも隠さずに話そうと実践してきたつもりである。ここだけの話としてと断わった上で、かなり突っ込んだ話もしてきた。そんなことまで話してと、後で上から文句が出たこともあった。しかしお互いの信頼感が無ければ何ごとも上手くいくはずはないと思い、そんな方針でやってきた。組合にはかなりシビアな話もして、無理な話を呑んでもらったこともあった。組合と会社側の立場は違っても、この会社で飯を食い、何とかいい会社にして行こうという目的は同じであるから、話し合いが出来たのであろう。今後も、会社側も出来るだけ隠し事無く、一般に話せないことであれば、オフレコにしても率直な話し合いをしていってほしい。

そんなような話をした。
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みそユニバース受賞?

(自家製味噌)

息子から風邪をもらって、昨日、1日風邪でダウンしていた女房が、帰ると起きていた。医者へ行って薬をもらってきたけど、今朝から忙しくて、バタバタしていて風邪を忘れてしまったという。何時まで経っても体育会系だとあきれる。それは薬が効いているからじゃあないのかと思ったが、口には出さない。

夜になっても女房の活動は止まず、台所から呼ぶ。味噌樽が開いていて、自家製味噌の写真を撮れと言う。去年は旨み成分の水分が樽から溢れて出てしまい失敗だったけれども、今開けてみたら今年は大成功だ。見事な出来栄えだから写真に撮れと言う。多分ブログにも載せろということなのだろう。今放映中のカップヌードルのコマーシャルではないが、 “みそユニバース受賞” の勢いであった。

昨日は寝込んでいたのだから、早めに休んだ方がいいんじゃないと思ったが、これも口に出しては言わない。さっそく味噌樽を写真に撮った。

農家でもないのに、女房は農協婦人部へ入っている。その婦人部の活動で、この何年か、味噌作りをしている。農地を借りて自分たちで大豆をまくところから始め、無農薬の大豆を作り、この2月に町の施設を借りて仕込んだものである。

本当はもう一、二ヶ月早く開ければもっと白い味噌になっていたが、少し濃くなりすぎたと、一応は反省するが満足そうである。しかしこんなにたくさんの味噌をどうするのだろう。見ているとタッパーウェアを出してきて、スプーンで小分けにし始めた。聞けば娘たちをはじめ、あちこちに配るらしい。まあ、無農薬で添加物も加えていない。もちろん遺伝子組換えの大豆などではない。純日本製でこれほど安全、安心な味噌は無いわけで、きっと喜ばれるだろう。たぶん。

自分が寝てからも、女房は遅くまで何やら作業をしている風だった。この土日には班の旅行で出掛ける予定もあるようだし、だいじょうぶかなあ。
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「赤福」の行方

(夕焼けがきれいなのは空気が濁っているというが)

「赤福」の製造日改竄事件はその後も広がりを見せている。どこまで続く泥沼であろうか。誰も赤福を食べてお腹を壊した訳でもないし、古くてカビが生えていたわけでもない。この事件には直接的被害者はいない。にもかかわらず、ここまで叩かれる。「赤福」の社長さん、苦労なしに老舗を引き継いだぼんぼんのように見えるが、毎日引きずり出されて頭を何度も下げて、気の毒になってしまう。

この事件、製造日についての管理が余りに杜撰といえばその通りなのだが、無期限営業停止に当るほどのことなのだろうか。製造日の改竄は何十年もやってきたことだと思う。もともと食品に製造日を入れるようになったのは何時からであろう。おそらく「赤福」はそれ以前から営々と商いを続けてきた。食品の衛生管理面ではトップレベルを維持してきて、その結果、何百年もお伊勢さんの門前で商いが続けてこれたのだと思う。歴史の新しい新参の法律が何を言うか。そんな感じで経営がされていたのではないだろうか。保健所だって衛生面では問題なしと永年保証してきたのではなかったか。

一昔前なら、その通りであった。摘発されても指導ぐらいで大事にはならなかった。しかし、時代が変っている。雪印、不二家、白い恋人、ミートホープ、赤福、比内鳥、こんな風に並べてくれば、今、行政が何を目指しているか、理解しない方がおかしい。摘発される前に徹底した製造日管理に手が打てておれば、たとえ何十年改竄をやってきた事実があからさまになっても、これだけの大事にはならなかった。

今、行政には余裕が無くなっている。それだけ追い詰められている。行政が永年いい加減に手を抜いてきたことが、今、一斉に糾弾されはじめてきた。追求の矢を逸らすためには、違反業者を出来るだけセンセーショナルに摘発し、厳罰に処することである。だから摘発された業者はいずれも業界では目だった存在であった。泡沫な業者を摘発してもニュースにならない。「赤福」は危機管理に失敗してその餌食になってしまった。マスコミもまんまと行政の策にはまって、手抜行政への糾弾の矛先が鈍ってはいないだろうか。毎日のような過度の騒ぎ方を見ていると違うんじゃないかと思う。

「赤福」はうみはすべて出し、早く販売を再開して欲しい。お伊勢参りのお土産から赤福を外すことは出来ないのだから。駅で赤福を土産に買うつもりが、無くて「御福餅」を買い、「御」をボールペンで消し「赤」と書いて、これで赤福だと面白がっていた若者がテレビに映っていた。赤福のファンがたくさんいるのだから、是非とも問題を速やかにクリアして生産を開始してもらいたい。だって自分も赤福が食べたいのだから。
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台車の効用に気付いてしまった

(庭のコスモス)

マイリーフカップの手持ち在庫が無くなって、倉庫に取りに行った。台車に載せて車まで運び、台車を元に位置まで戻そうと倉庫の中を転がしながら、ふと大変なことに気付いてしまった。

両手で台車の取っ手を掴み、体重の一部をあずけるように押していくと、何と歩くのがたいへん楽になる。お年寄りが乳母車を押しながら歩いているのを良く見かけるが、荷物も積めて便利なんだろうぐらいにしか感じていなかった。ところが台車を押しながら歩くと足が軽くなり、足の運びがスムースになる。そんなことに気付いてしまった自分が怖い。人に話すとそんな歳ではないでしょうと笑われる。気付くということは立って歩くことに意識があることになる。最近疲れているのだろうか。

夜、宵寝をしていて、目覚めのタイミングに “すぎもとまさと” の「吾亦紅(われもこう)」という歌を聞いた。団塊の世代に人気があって、この歌を聞いてお袋のお墓参りに帰郷する、定年、還暦の男たちが多いとか。歌はしみじみと心に訴えてくる。聞き終わった時にはすっかり目覚め、起き上がっていた。

故郷のお墓参りに行った実体験をそのまま詩にしたという。作り物で洗練された歌は心にスムースに歌詞が入ってくる。ところがこの歌、ところどころでつかえる。「さらさら揺れる 吾亦紅 ふとあなたの吐息のようで...」どうして吾亦紅が吐息なのだ。「それでも母を 生き切った 俺、あなたが羨ましいよ...」何を羨ましいというのか。「今はいとこが 住んでる家に」実家にいとこが住むようになるには、複雑な事情があるのだろうか。「ばか野郎と なじってくれよ」母親は「ばか野郎」などといわないだろうし、「ばか野郎」はなじる言葉ではない。「形見の言葉」言葉が形見になるのだろうか。そして最後に「あなたに 威張ってみたい 来月で俺 離婚するんだよ」急に現実に戻されてドキッとした。

歌詞が荒削りな分、作り物でない臨場感があって、心に訴えるものが大きい。その辺りが、海千山千の団塊の世代の気持を、鷲掴みにする所以なのだろう。この歌を聞いて、故郷へ墓参に帰ろうと行動を起こしてしまうのも判るような気がする。かく言う自分も目頭が熱くなった。自分も墓参に帰ろうか。いや、お袋は98歳で、故郷から電話をくれたばかりだった。一時気力を失っていた写経の日課も、今日から再開したと兄貴の言葉も弾んでいた。この調子なら100歳まであとわずかだ。
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北山本門寺の題目杉

(題目杉の一本)

北山本門寺正面の仁王門に「本門寺根源」と金文字で書かれた扁額が掲げられていた。これが正式の寺名だという。仁王門を潜って左手に進んだ緑地に「題目杉」と呼ばれる巨杉群がある。題目の文字数7本植えられたものが、現在三本残っている。北山本門寺には「巨木巡礼」の旅で10年前に訪れたことがある。そのときの記録をたどると、

『北山本門寺のスギ』は開祖、日興上人が「南無妙法蓮華経」の7文字になぞらえて、永仁六年(1298年)に植えたものと伝えられ、通称『題目杉』と呼ばれている。かっては7本あったが、明治中頃1本落雷で失い、昭和初期の台風で2本倒壊し、昭和53年と昭和55年に相次いで枯死、現在は3本が残るのみである。境内の隅、樹林中の人の入らない草地の奥に3本並んでそびえ立っていた。20数年前に仲間が枯死したのが信じられないほど樹勢があった。

三本残ったという杉は手前から「南無妙法蓮華経」と7本並んでいたとすると、「法」「華」「経」の三本が残っている。よくみると枯れた場所には4本の幼木が補植されていた。はたして「南無妙法蓮華経」と並んで見えるようになるには何年かかるであろうか。

「題目杉」は県の天然記念物に指定され、幹周囲6メートル~6.6メートル、樹高40メートル~42メートル、樹齢推定700年と案内板に書かれていた。


(題目杉、右から「法」「華」「経」?)

このあたりは、今は道路が縦横に走り開けてしまったが、かつては「重須(おもす)の森」と呼ばれ、鬱蒼とした深山であった。7本の「題目杉」も何百年もの間、林の中で守られていた。今ではすぐそばまで本門寺の駐車場が迫り、題目杉も遮るものも無い裸の状態になってしまった。明治になってから、落雷、台風、枯死と立て続けに仲間を失っていったのは象徴的である。
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