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話がいろいろと繋がって面白い

(善通寺御影堂[大師堂])

昨日午後、何とか観音寺まで時間内に行ける見通しが立って、大喜多といううどん屋に寄った。店内で色々指図しているおばあさんが、話しかけてきた。その最後に、あんまり無理をしないように歩きなよ、身体を壊しては元も子もないと、心配してくれる。後から考えると、そのときはよっぽど酷い顔をしていたのだろう。

夜、若松屋別館の女将さんも無理しないようにと心配してくれ、海抜900メートルの山登りも含めて、30数キロ歩いたことを言っているのだろうと思ったが、それもやはり顔に出ていたのではないかと思う。

若松屋別館の女将さんは娘が戻ってきたこともあって、旅館を半年ほど休んで、建て替えを考えているという。個人のお遍路さん相手の宿に特化して、いずれ娘にあとをやらせたい考えのようである。その時にはまた客になって来たいと話した。

今朝、財田川の土手を歩いていた。葦の河原からコヨシキリの一生懸命にして賑やかなさえずりが聞こえていた。昨日の雲辺寺に至る道ではカッコウが泣き、下ってきたところではサンコウチョウの目立つ声も聞こえた。

本山寺の納経所で、枯木地蔵の話を聞いた。本山寺の建設で山から木を運ぶ途中、天邪鬼がいたずらして、一本材木を途中で落としてしまった。それが現在の地で、木の上にお地蔵さんを祀っていたところ、材木はお守りにでもするためか、だんだん削られて小さくなってしまった。現在は格子の中に入って取り出せないようになっている。

枯木地蔵は奥の院ではなく、奥の院はこの先の妙音寺というお寺である。息子を別格の仙龍寺へ婿に出してしまい、妙音寺は住職がなくなってからは、おばあちゃん一人である。檀家も居るので息子が仙龍寺から通って勤めている。仙龍寺は檀家はいないで、信者だけで持っている。狭い世界で色々と関係があるのですね。婿が長続きせず、3度も離縁した寺もあるが、人のことは言えない、この寺の息子もまだ嫁さんを貰っていない。

その妙音寺に寄って見た。一人暮らしのあばあちゃんは、話し相手に飢えているのか、次々に話がとぶために、中々理解がついて行けない。この当りの一郭は寺の所有だったが、かつて安く分けてあげた人が、その10倍ぐらいで土地を売っている。このあたりも宅地化が進んで、そういう時代だからねえ。お寺の敷地から古い瓦が色々発掘されて、本山寺よりもはるかに古いお寺であることが解かっている。それらの発掘品は皆んな持っていってしまったが、どうなっているのかもう解からない。博物館などで保管されているのでしょう。窯場も敷地内にあるらしいがまだ発掘はされていない。そんな話が延々と続いた。

ところで、仙龍寺で甘茶を頂いた体型の丸い若い女性がお孫さんなのですね。音大を出てソプラノの声楽家だけれども、あんな体型でないと良い声が出ないらしい。妹も音大に在学中で、女ばかりで婿取りになるのだけれども。妙音寺のお孫さんが声楽家になるのは附合している。

話のわずかな切れ目をつかんで、お寺を出て来た。黙っておれば、お寺らしからぬ言葉が次々に出て来そうで、早く退散する方が得策と思った。

弥谷寺の門前の暗くて雰囲気のある茶店に寄り、冷たいものはと聞くと、中にトコロテンがあった。酢しょうゆか黒蜜かと聞くから、歩いているときは甘いものが良いから黒蜜を頼む。何日か前、NHKの取材で、モデル出身のタレントがやはり黒蜜をかけたトコロテンを食べて行った。前に八十場の水でも食べたというと、あそこはマーケットなどにも卸していて、量産だから機械で作っているだろう。家は手作りのトコロテンだという。何が違うのか、いまいち解からない。

天霧峠が越えられるか聞きたかったのだが、最近7寺参りのイベントがあって、手を入れたはずだから、通れると思うよ。お寺に聞くと駄目というけれども。若松屋別館の女将さんの言った通りだったので、納経所には内緒で通ってみた。峠から下る道はかなり荒れていて、山歩きをしたことのないお遍路ならちょっと困るかもしれない。もう夏の虫が出て歩く環境も良くない。草も生えてきているから真夏にはきつくなるかもしれない。だめという前に、少し手をかけることをしないと、遍路道はどんどん狭まっていき、面白味のない道をベルトコンベヤのように運ばれる歩き遍路になってしまう。

天霧峠から下って、海岸寺奥の院に行く。待ち構えるように住職が居て、時間が許せば本堂へ上がらないかという。時間が押しているので、遠慮した。奥の院は弘法大師が生まれた産屋のあったところに建っているという。苗字が出てこないが母親の実家の屋敷内であった。というよりこの辺り一体が実家の土地だった。当時は男性が女性のところに通ってくる通い婚の風習で、ここで大師は生まれることになる。善通寺はお父さんの実家のあとである。

七寺参りはうちの住職が主になって行い、ボランティアを引き連れて天霧峠からの下り道を整備した。そう聞いて、あんまりしっかりした整備でもなかったという言葉は呑み込んだ。お接待にお供えの中から甘夏を一個取って、宿で食べなさいと渡された。甘かったが、もう我が家のもぎたて甘夏のような瑞々しさは無くなっていた。

別格18番海岸寺を打ち、仏母院へ回る。仏母院はお母さんの実家があった所。えな塚があり、隣りで保育園を経営しているのも似つかわしい。用があれば、保育園へ来るように書いてあったが、呼び出しに応じないことを確認して、納経印は断念した。

善通寺の手前に仙遊寺は大師が幼いときに勉強したところであったし、明朝登る捨身ヶ嶽禅定なども、幼い頃の大師ゆかりの地であり、いっぱいそういう地が残っているようである。

今夜は大師信仰の真っ只中、善通寺の宿坊に泊まっている。明日は捨身ヶ嶽禅定、満濃池、金比羅さんと、脈絡のない番外地を巡って、明後日に再び88ヶ所の遍路道に戻る予定である。そろそろゴールが見えてきた。今夜食事の向かいの人はあと3泊で結願だと話していた。
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今日はめちゃくちゃ疲れた

(雲辺寺本堂、前回は落慶したばかりであった)

白地荘の主人は魚市場(池田にも魚市場がある)に勤めていて、朝が早いから、朝食は何時でもよいというので、4時半に頼んだ。

今日のコースでは観音寺までは無理でしょうという、今夜の泊まり、若松屋別館の女将さんの言葉に奮起して、朝5時から歩き出した。雲辺寺の登りはほとんどが車の道路ながら、10kmほどある。これに3時間ほど掛かった。涼しいうちに登ってしまうというのは正解だった。

雲辺寺には民宿岡田から登ってきた人たちが何人かいた。お話をしたくても、先を急がねばならない思いが強くて、ゆっくり出来ない。納経を済ませると萩原寺への7・3kmが始まる。下り勾配がきつくてなかなかピッチが上がらない。途中ロープウェイ駅で予備の食料をすべて食べて、昼食代わりとした。歩き出して、いきなり勘違いから間違えて、往復で30分ほど無駄に歩いてしまった。おかしいと思いながら引返せずに進んでしまった。対向車の軽を止めて聞き、間違った道だったことが判り、引返した。歩き遍路が大興寺へ直接向かう近道だったようで、そのまま行けば萩原寺へは行けなくなるところだった。

萩原寺から大興寺までは6.9キロ、ここでも少し間違えた。大興寺から観音寺までは8.7キロ、何とか前回も食べたうどん屋に寄る時間があった。都合32キロほど、間違えた部分が3キロほどだとして、35、6キロ歩いたことになる。疲れて夕食が喉を通らなかった。この旅、2度目のことである。うどんと観音寺で食べたアイスクリームが応えていたのかもしれない。

明日をどのように歩くのか、まだはっきり決まらない。泊まりは善通寺の宿坊として、海岸寺へ参ることだけを決めておいて、後は時間の関係で翌日に延ばすことにする。これだけを決めて進もうと思う。とにかく今日は疲れたから寝たい。
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箸蔵寺は金比羅さんの奥の院

(箸蔵寺本殿、神社の範疇に入るという)

昨日から徳島県にいる。そう、長い愛媛県の遍路も終えて、つかの間の徳島県である。明日には香川県に入る。

民宿岡田の主人は元気であった。昨日夕方、部屋に来て、忘れたわけではないと、電話で即答出来なかった点を弁解した。昨夜本を読み直してくれたのだと思った。すぐにわかってもらえると思った自分の方が身勝手であった。3年前に一晩だけ泊まった客を一々覚えている方がおかしい。しかし、2度目の今度は頭に刻んでくれたと思う。今朝、出掛けに今度も執筆するのかと尋ねられた。原稿は毎日ブログに書いてそろっているから、書きたいと思っている。いつか判らないがまた来ます、それまでお元気で、というと、早く来ないとこちらの身が持たないとおどける。

今日打つお寺は、別格15番の箸蔵寺、ふもとまで15キロ歩き、2キロの登りが待っている。朝、リズミカルに歩いていると、向かいから熟年の女性が来る。おはようございますと声をかけると、手提げからペットボトルのお茶と一袋に小分けした甘露あめを出して、お接待と渡された。まだ飲料を買っていなかったので助かった。

旧池田町を抜けて行く。吉野川に沿った狭い土地にある町で、高校野球の池田高校のある町である。もう日差しが強くて暑くなってきた。10時少し過ぎたころ、箸蔵寺のふもとまで来た。庭先に玉ねぎとニンニクを乾しているおじさんが居て、一休みしていかんかという。この遍路道にはお遍路さんが一休みできる場所が全くなかった。腰掛けると缶のお茶とクッキーを接待して頂いた。歩き遍路の登り道を詳しく教えてもらった。説明の中であったうどん屋で腹ごしらえをして、登りはじめた。標高80メートルから、本堂のある、標高540メートルまで、標高差460メートルの山登りである。ほとんど毎日こりもせずに山登りに精を出している。


(箸蔵寺の長い石段が始まる)

ほとんどの参詣者やお遍路は標高500メートルまでロープウェイに乗る。歩いて登るのは自分ぐらいである。山道にはすでに夏山の虫たちが出ていて、のろのろ登っていると集ってくる。仁王門を潜ってから、長い石段が始まった。箸蔵寺は金比羅さんが神社になるまでは、金比羅さんの奥の院だった。今は金比羅さんの奥の院は金比羅さんの最上部に別にあるけれども、ここも昔どおり金比羅さんの奥の院と呼ばれている。石段の多いのは金比羅さんゆずりなのであろう。

標高500メートルに納経所があり、本殿と大師堂はさらに階段を登った標高540メートルにあった。そんな高いところなのに、境内は異常に広かった。打ち終わったときに、谷間全体にお昼のチャイムが鳴った。これだけの高さに来ると風が涼しい。サンコウチョウの声が聞こえてきた。納経帳の記帳を済ませ、休み処で民宿岡田のお接待のおにぎりを食べていると、納経所の男性が自分もお昼を済ませてくると、納経所の窓を閉めた。

下りはどうしてこんなに楽なのだろう。たちまち下ってしまった。虫たちも追いすがって来れないから、ほとんど存在を感じなかった。玉ねぎとニンニクのおじさんはもう居なかった。

残るは宿を予約してある白地まで8キロの戻りである。帰りはチェックポイントを覚えているから進みが早く感じる。中間あたりで、昨日無理に頼んで椿堂に泊めてもらった熟年女性とあった。ずうっと自分よりも遅れて同じコースを歩いていたようだ。これからロープウェイに乗り、箸蔵寺の宿坊に泊まるという。短い距離しか歩けないとコース取りが難しいが、自分の意思をはっきり通して切り開いていくたくましい女性である。

白地郵便局で、お金を下ろし、少し書類を送り返した。男性職員は今朝ほど箸蔵寺への道を聞いた男性であった。客も居なかったのでしばらく話をし、宿の白地荘の場所を聞いた。宿がある山の尾根近くまで最後の山登りに汗を流した。

明日は朝5時に出発して、雲辺寺を越えて、香川県に入る。
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花まつりの日、仙龍寺で甘茶のお接待

(仙龍寺)

昨日、15キロで我慢したのは、今日の歩きがあるからだった。三角寺を打って、奥の院の仙龍寺に行き、元の遍路道に戻って椿堂を打ち、民宿岡田へ入る、およそ31.4キロが本日歩く予定である。平地ではなく、三角寺への登りをはじめ、登りが何度かありそうで、土砂崩れの工事中の所もあり、未知の不安もあって慎重に時間を取った。

朝、大成荘の女将さんに朝食を早くしてもらい、6時過ぎに宿を出た。途中昨日延命寺で会った熟年女性は今日は仙龍寺へ向かうと聞いた。早く歩けないので、椿堂に宿泊を無理に頼んだという。その女性がすぐ前を歩いていたので、挨拶して抜く。石鎚くんはすでに戸川公園を出発したらしく、片付いていた。

今日のコースは孤独なコースになる覚悟はしていた。三角寺の納経所で道を聞くと、こだわりがなければ車の道を行ったほうが早く行けるという。昔の遍路道が通れないという話はなかった。自分はすでに車道を通ると決めていたので、何キロあるかと聞いた。8.2キロくらいで、2時間掛かるという。

車の道は山塊を避けて等高線に沿って右回りに回って、三角寺の反対側にある、別格13番の仙龍寺に至る。標高480メートルの堀切峠を越せば後は下りである。思ったより早く着いた。崖に沿って清水の舞台のような柱を組み上げて、その上に本堂が建っている。こんなところに寺院をよくも造ったものだと、昔の人の発想にはいつものことながら感心する。周りに村もなく、かつては峠越えの遍路道が唯一の道だった。大工は工具だけを背負ってやってきて、周囲に豊富にあった木を切って加工し、木組みを造って行ったのだと思う。

お寺が出来てからも、峠越えの遍路道が唯一の道で、参詣の人たちは峠を越えてやってきて、一晩泊めてもらい、翌日また同じ遍路道を帰っていくのがお参りのコースであった。これは境内の草取りをしていたおばさんの話である。

その峠のコースの様子がわかった。遭難騒ぎがあったりして、通らないように三角寺で止めていたが、お弁当を食べていたベンチの隣にいたおじさんは今通ってきたが、それほど荒れた様子は感じず、難しくなく通れたという。最近は携帯の発達で、SOSを発信すればすべてが遭難騒ぎになる。それで山道が次々と通行禁止になってゆくのは大変につらい。


(花まつり)

今日はお釈迦様の誕生日だから、甘茶を飲ましてもらえる。これも草取りのおばさんの話である。勤行は本堂に上がって行う。本尊は弘法大師である。納経所の若い坊さんは先に納経帳を寄こすように言う。納経帳に名前が書いてないけれど、というと、覚えて置くから良いという。他の札所の納経所では勤行してくる間に納経印をお願いしても、納経帳は預かれないと断っている場面も見ている。

勤行の後、小さなお釈迦様の誕生仏に甘茶をかけたあとで、ふくよかな娘さんに甘茶を頂いた。甘さの向こうに不思議な苦味がある。子供の頃に近所のお寺でも花まつりがあり、甘茶は飲んでいるはずだけれど、久しぶりで初めて口にする味に感じた。年一回の旧暦の4月8日、仙龍寺に来るまで、今日がその日であったことは全く気にもしていなかった。懐かしい経験であった。

戻りはダム湖に沿った道を歩き、少し登って長いトンネルを抜けて、半田休憩所のところで、通常の遍路道に戻った。午後は暑い日差しの中、きびしい歩きとなった。
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石鎚くんは漫画家だった

(五葉松食堂のシンボルツリーの五葉松)

今日は伊予三島の旅館大成荘まで16、7キロ歩くだけで、ゆっくり4時間で着いてしまう。だから五葉松の女将さんには朝食は8時で良いと話した。日曜日だから遅いほうがうれしいとの返事だった。それでも、身体が早起きに慣れて6時半には起きだした。荷物の整理をして、7時半には食堂へ下りた。朝食はすぐに準備してくれた。

食事をしながら女将さんと話す。部屋は三つ、自分が面倒見れるだけの限度である。ほとんどが歩き遍路で、一日20キロほどで刻んでいる方がほとんどで、たくさん歩ける人は素通りしていく。お遍路以外で車でくる客には、こんな家庭料理しか出せない宿ではなくて、立派な宿を紹介して、そちらへ行くように紹介している。ご亭主が勤めて稼いでくれているので、そんなに頑張らなくて良い。

色々な話についつい時間がたち、9時前になってようやく話を終えて出発した。はたして今日はこんな時間に出て、ブログに書くような出会いがあるのだろうか。しばらく国道を歩き、遍路道と交差するところで遍路道に入った。前方を行く青年の後姿に、一昨々日、コンビニの前で石鎚へ登るといっていた青年ではないかと思った。気になっていて、横峰寺の納経所でもそんな青年がいなかったかどうか、聞いてみたりした。あだ名はストレートに「石鎚くん」と決めていたが、再会でもしない限り、あだ名が生きることはないと思っていた。


(石鎚くんと話した延命寺境内)

金剛杖とストックを両手に持ち、ノルディックスタイルで歩いている。これがけっこう早くてなかなか追いつけない。別格第12番延命寺の少し手前で追い付いた。やはり、石鎚くんだった。次の延命寺に立ち寄るというので話しながら歩いた。

石鎚くんはやはり横峰寺で石鎚への登山を止められ、その足で下山した。翌日は雨で下のお寺を打ちながら西条へ向かった。西条の駅前で危ぶみながら野営していたら、案の定、お巡りさんに不審者と思われ職務質問を受けた。事情を話すと気をつけるように言われ、認めてもらえた。翌日は天気が回復し、バスでロープウェイ駅まで行き、ロープウェイに乗って、山頂まで登った。天気が良くて、2000メートルにも満たない山でこんなすばらしい山があるとは知らなかった。一部に雲海が見えてそれも良かった。生まれは鳥取で、高校では山岳部で、大山には何度も登ったのだが。

延命寺で休憩しながら、話は続いた。野宿は話す相手が居ないから、饒舌になるらしい。お近づきになれたからと、特製名刺を渡した。石鎚くんも名刺をくれて、売れない漫画家ですという。名刺にはペンネームで「つか ねじろう」とあった。時々商業誌に出るくらいで、漫画では食っていけないので、映像関係の仕事を手伝っている。

元々家は神道で、お遍路には縁がなかった。ある時、ゴルゴ13の「さいとうたかお」は仕事の前に筆で棒一を書き、精神統一をはかると聞いて、自分は手元に般若心経の本があったので、写経をすることにした。また、仕事が不安定な自分のことを一番心配してくれた伯母さんが最近倒れて、意識のない状態が続いており、おばさんはお遍路に何度も行き、道具などもあったので、病気平癒を祈ってお遍路へ出ることにしたのである。

仕事の電話がそろそろ入るようになってきたので、この後は大特急で結願して、高野山に行き、鳥取まで帰って伯母さんを見舞い、東京に戻らねばならない。

期待して注目しているから頑張るように言い、石鎚くんとはそこで別れたが、今夜は三角寺登り口の戸川公園の休憩所で野営すると言っていたから、明日早ければ三角寺の近辺で会えるかも知れない。
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お遍路に関心のある女将さんでなければ

(朝の石鎚神社本社)

昨夜、二泊目のビジネス旅館小松の夕食、水炊きの中身が自分だけ海産物であった。この日の泊り客は乗りが悪く、そそくさと部屋に引き上げてしまった。10人ほどいる客の誰とも親しくなるところまで行かなかった。今夜の宿、五葉松食堂までは30キロ弱、一人旅になるかと思った。それならば自分なりのお遍路にしようと思う。


(石鎚神社御朱印)

4.5キロ先の前神寺、その手前に石鎚神社本社がある。ここへ参って石鎚山へ登れなかった代りにしようと思った。神社は堂々たる構えで、拝殿まで石段をたくさん登り、小高いところにあった。社務所に行くと、小さな町の役場ほどあった。早朝ゆえ、当番らしい巫女姿の女性が御朱印の依頼を受けてくれた。係りの男性が出て来て、朱印帳に記載してくれた。その後、昨日横峰寺へ行き、星ヶ森にも行ってきたが石鎚山はよく見えなかったと、昨日写したデジカメを見せた。この峰のもっと左側に石鎚が見えるはずという。自分の想像は間違っていなかった。

前神寺で宿で一緒だった男性二人と出会った。その一人の男性とはこの後、一日一緒に歩くことになる。彼を最初に見たのは横峰寺であった。合羽なのか、ポンチョなのか、大仰な雨具に、一瞬潜水服かと思った。詳しく聞けなかったが、その姿で星ヶ森へ向かう姿も見ているし、白滝では納経所の脇を歩いて行くのも見た。だから潜水さんと名付けておこう。

前神寺でもう一人の男性が休んでいるのを尻目に、今日は伊予土居駅前の旅館まで進むのに、少し気が急いている潜水さんと歩き始め、どちらともなく同行することになった。話をするうちに、旧伊予街道を歩きたいと思っていたが、ところどころ解かり難いところがあって、一人では国道11号線を行くしかない、そして疲れたらバスに乗ってしまおうかと考えていた。よいナビになってもらい有難いと言う。地図も持ち下調べもしてあって、問題なく行けると思うのだが、70歳という年齢には勝てないのだろうか。

6年前から毎年この時期にはお遍路をすると決めて、区切り打ちで2順目になる。一回目はこのあたりはバスに乗って通り過ぎたという。ここを歩くのは2度目だから、自分は歩けば、3年前のことを次々と思い出す。だからナビの役目は十分果たせるが、潜水さんにそれが良かったのかどうかは判らない。楽は出来たのかもしれないが、その分、お遍路の醍醐味を失ったのかもしれない。自分は宿が潜水さんより4キロほど手前なので、ペースは潜水さんに合わせた。

潜水さんはかつてはコンピュータのSEの仕事をされていて、その分野ではかなり草分け的な存在ではなかったかと思う。パソコンも使いこなすと聞き、自分のブログの話をし、特製名刺も渡した。

お大師さんは遍路の形式にこだわる必要はないとおっしゃるだろうから、バスに乗るのもそんなに抵抗はないという。自分がすべて歩くと決めてこだわるのは、それを妥協して崩せば、ぐだぐだになってしまう。それを恐れてこだわっているのかもしれなあいと話す。

途中でうどん屋にも入り、関の戸への登りではアップアップになり、道路を渡ってバス停の椅子でしばらく休憩した。そして最後のひと頑張りで峠を越えると、涼しい風が吹き、ほっとできた、。潜水さんは関川郵便局角で、ブログのコメントを入れることを約して別れて行った。

旅館五葉松食堂では女将さんに迎えられ、食堂でさっそく今後のお遍路コースに付いて、検討会の形になった。普通、宿に入ると部屋へ案内から始まると思うのだが、不思議な時間であった。不思議なことは大いに結構である。民宿岡田へ連泊して、一日で箸蔵寺へ往復するは少しつらい。いくら荷が軽くても、標高500メートルのお寺まで登り、加えて34キロを打ち戻るのは辛いと話すと、それなら途中にかんぽの宿が模様替えをした「あわの抄」という温泉に泊まれば良いという。最近行ってきたようであった。そこへ連絡してみると7950円で予約できた。一方、民宿岡田さんには一泊だけにしてもらうように頼んだ。まだ4日先のことだから、困ることにはならないだろう。

女将さんは一人の客のために食事の間、付き合ってくれた。お遍路の情報もお客さんから聞いたと、話してくれた。お遍路にとってそんな時間が最もうれしい。まずは女将さんがお遍路に興味を持ってくれていることである。食事や設備は二の次だと自分は思う。

話の中で、お遍路さんが前神寺の駐車場の脇にザックを置いていたところ、荷を盗まれたという。この話はどこかで聞いた。どこであったか思い出せないが、そのお遍路はこの宿に泊まる予定であったという。警察やら何やら始末をして、電車でやってきて泊まり、そんな話を詳しく聞いた。翌日はもう一度前神寺へ戻り打ち直してここまで来て連泊して行ってくれた。ザックには現金も20万ほど入っていたというが、それほどお金に困る人ではなかったので良かったと思うと、女将さんは話した。

明日は歩く距離が高々15、6キロ、午前中には着いてしまいそうなので、朝食は8時にしてもらった。その分今日はたくさん時間を掛けてブログが書けた。
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小雨の中、横峰寺へ登る

(雲の中から石鎚か、横峰寺奥の院、星ヶ森より)

小雨が降り続く中、ふもとのビジネス旅館小松に連泊し、荷を宿に大部分置いて、横峰寺を打ってきた。といっても標高745メートルの山登りをしてきたことになる。途中で申し合わせたように、定年退職後の初遍路の二人に会った。先を進むことだけに一生懸命で、3年前の自分と同じだと思った。

横峰寺はこんな天気にもかかわらず、バスツアーのお遍路さんでいっぱいであった。先に奥の院の星ヶ森にお参りに行った。600メートルほど登った先にある。そこから天気が良ければ石鎚山が見えるという。今日は雲で隠れていたが、その一部が見えた。石鎚山へ進む道は、はっきりと通行止の看板で塞がれていた。

横峰寺へ戻ってきたが、まだ境内はバス遍路であふれていた。小型バスで山道をピストンして、バス遍路を送り込んでくるから、境内にお遍路さんが途切れることがないのであろう。皆んなが差している傘がさらに境内を狭くしている。

遍路休憩所の建物が出来ていた。3年前にはなくて、寒くて弁当も食べずに下った覚えがある。納経所の話では2年前に出来たという。荷物を休憩所に置いて、バス遍路と少し距離を取って、小さくなって勤行した。

納経印を貰いながら、昨夜、横峰を越えて石鎚へ登るという青年が、お寺でテントを張らせてもらったはずだが、今朝石鎚へ向かったのかと聞くと、自分は通いだから知らないが、お寺ではそうと聞いたら、必ず止めたはずだ。台風などの影響で登山道がかなり荒れていて、去年遭難騒ぎも起きた。通るにしても大きく迂回しなければならないという。あの青年がどうしたのか知らないが、これで自分ははっきり諦めがついた。


(香園寺の奥の院、白滝)

遍路休憩所で宿のおむすびを食べて下山した。雨は小降りになり、平坦な部分が多い遍路道は気持ちよく下れた。香園寺の白滝奥の院に寄った。まず滝を見に向かう。水量は少ないが、白滝では滝行が出来る。滝の岩場に不動明王と制多迦(せいたか)童子と
金伽羅(こんがら)童子の像が据えられている。

納経所のおじさんの話では台風で鉄砲水が出て、白滝の像の1体が流され、下流の用水池で見つかったが、砕けていた。頭部だけは残してお堂に安置されている。今あるのは新しく作られたものだという。一度目で沢は土砂で埋まったが、2度目でそれが下流に流されて、元のようにきれいになったなどと話す。

石鎚への登山路は若いときには使ってよく登山をした。ロープウェイが出来て使わなくなってしまったから、登山道も荒れ放題なのだろう。滝行は今でも遠くから来る。瀬戸内の漁師が1月に滝行をし石鎚山へ登るのが、テレビで放映された。申し込めば滝行は誰でも出来る。夏なら滝行をやってみたいなどと、話が弾んですっかり話し込んでしまった。もちろんその間誰もお参りには来ない。

3時ごろにはビジネス旅館小松に着いた。この雨では連泊を決めたのは正解だった。この後、さらに歩くのはつらいところであった。
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こんなに頂いて良いのかしらん?

(興隆寺へ向かう道、背後の山は石鎚山系)

今日は横峰寺へは登らずに、その北側に広がる平野をあっちへ行ったりこっちへ来たり、20数キロを歩いて回った。メインは別格札所の興隆寺と生木地蔵である。

その興隆寺(海抜275メートル)から下りて来て、久妙寺という番外霊場に参り、出て来て、生木地蔵の方角が合っているかどうか、誰かに聞こうと歩いていると、道端のおばあさんがお遍路さんと呼ぶ。千円札をのばしながら、お接待という。こんなに頂いて良いのかしらん? お接待で頂く、今までの最高額である。

自分も平成元年、63歳のときにバスでお遍路して、また行きたいと思いながら、ハウスが始まったので忙しくて行く余裕がなかった。その後、太龍寺にもエレベーター(ロープウェイのことか)が付いて楽に登られるようになったとか。身体が少し不自由で行く事は諦めているように聞こえた。計算すると、87歳の高齢である。おばあさんの期待が加わり、さらに一層、まじめにお遍路をしなくてはならないと思った。

宿を7時頃に出て、日切大師、実報寺、興隆寺、久妙寺、生木地蔵までの前半は、札所から外れ、ほとんど歩き遍路は行かないコースで、遍路マークもほとんど付いておらず、地図を見ながら歩き、時々自分が歩くコースが間違いないか、地元の人に尋ねながら歩くお遍路である。もちろん、遍路姿の人は自分以外には見当たらない。しかし、天下御免のお遍路姿、誰もいぶかしげに見る人はいない。挨拶すれば答えてくれる。

地図上のコンビニがことごとく閉店している。もともと人口の少ない田舎ばかり、すぐに見切られてしまうのであろう。正午過ぎに、ようやく国道11号線沿いのファミリーマートに寄った。横峰寺へ登る人たちが必ず食料調達をしていくコンビニで、自分も前回食料を調達した。

店の横のベンチで、食事をしている若者に声を掛けた。今から横峰寺へ登り、それを越えて石鎚山へ登る予定でテントや3日分の食料など持ってきたという。自分も本来なら遍路途中に行きたかったコースである。登山道は荒れていて、入山禁止になっているが、長い年月たくさんの人に踏まれてきた道である。登山で行くならば歩けると思うと若者が話す。テントを持っていれば問題ないだろう。但し、立ち木が倒れて塞いでいるところがあれば、障害物競走になるよ。横峰寺への登山口には良い水場があり、休憩舎では野宿も出来る。問題は水をどう確保するかなのだろう。今夜は横峰寺へテントを張らせてもらう予定でいる。気をつけて行ってらっしゃいと、半分はうらやましげに聞こえただろう。残念ながらテントを担いで登る元気は自分にはない。

コンビニでドライバー用の白手袋を買った。レジではさみを借りて10本とも指先を切った。レジの女性はもったいないという。切れないはさみでは大変時間が掛かった。持っていた指出し軍手のを興隆寺のぼっとんトイレに落としてしまったので、窮余の一策であった。お遍路姿でいると、何をやっても異常に見られることはなさそうである。

横峰寺と香園寺は明日に回して、先に宝寿寺、吉祥寺を先に打とうと向かった。そこで横峰寺から下りてきた宿修行さんともう一人見覚えのある顔に逢った。聞けば桃李庵で後から来た二人組み、「同行二人」さんの一方、髭の男性であった。コンビの一方は足のマメも癒え、先へ進んで行ったという。コンビが解消されたようだ。コンビとして頭に入っていて、片方だけだととっさに出て来なかった。後で謝って、名刺を渡した。


(霊跡芝之井)

3人で吉祥寺を打って、帰りに芝之井を番外霊場のサンプルとして見せて、ビジネス旅館小松に入った。今夜は経営がもともと肉屋さんで、肉をたくさん使った水炊きで、銘々に食べきるのがやっと位の量があった。明日は天候が気になるので、荷が軽いから急いで登って、午後早いうちに連泊のビジネス旅館小松に戻ろうと思った。後は休養に当てる。三角寺から仙龍寺へ向かう日に備えて、その朝泊まる町は決まっているので、先を急いでも待ち時間が増えるだけである。
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泰山寺納経所で質問攻めにする

(泰山寺納経所の犬、一匹になっていた)

朝一番で泰山寺を打つ。納経所で今朝はまだ暇そうな住職がいたので幾つか質問をした。まず、納経所にいる犬は3年前は2匹だったが、一匹はどうしたのか。去年死んだ。犬の毛はもっと長かったが。夏向きはカットする。3年前奥さんにみかんのお接待を頂き、島のみかんで頂き物ですがといわれた。その島は何島なのかずっと疑問に思っていた。それは多分「比岐(ひき)島」だろう。近所のお宅で今は住んでいないが、別荘みたいに使っているお宅があって、その方がそこでみかんを作っていて、毎年のように頂く。船で15分ほど行ったところだ。

さらに、奥の院のことを聞いた。龍泉寺は先代の時代にそちらの住職から龍泉寺を奥の院にしてほしいと頼まれて承諾し、印も先代が作った。当時、こちらで納経印も受けたが、その娘さんの代になり、向こうに渡して、以後はこちらでは納経印は扱わない。今なら向こうでいただけると思う。その龍泉寺へ向かった。本寺と奥の院の関係の一例が解かった。


(龍泉寺の鏝〈こて〉絵)

龍泉寺に行くと、鏝絵の十一面観音がお堂の正面上部にあった。この地域では珍しいとして、テレビにも紹介されたと、掲示されていた。お参りを済ませ、すぐ下の自宅に声を掛けると、紫の作務衣を着た派手な年配の女性が出て来て、お堂で納経印を押してくれた。

静岡から来たが、静岡の伊豆では鏝絵では長八さんが有名で、美術館などもある。そのことはよく知っているようで、まだ見に行ったことはないという。珈琲をお接待させて下さいと、下の喫茶室へ案内し、珈琲を入れてくれた。

話の流れで、昨日の青木地蔵のおじさんの話や、一昨日、松山の太山寺の奥の院で見た話などをした。

太山寺の奥の院へマメ名人と一緒に登ると、草叢に女性が居た。一瞬まずいところへ来たかなと思ったが、出て来た中年女性が問わず語りに話した。その女性の亡くなった母親がお大師さんの信者で、度々お寺などにも連れて行ってもらった。自分は特に信者というわけではないけれども、見晴らしの良いここが好きで良く来る。ここから自宅も見える。そのうち草が丈高くなり、景色が見えなくなるので、時々誰に断るでもなく鎌を持ってきて草刈をしている。先ほどは鎌を草と一緒に放り投げてしまい、探していた。

自分は2度目のお遍路だが、1度目で四国の人々がお接待の心をもって、お遍路さんをもてなしていただいていることは良くわかった。2度目に来てみて、お遍路さんの通る道々、寺々がその地域の自発的なボランティアでもって、きれいに歩きやすく、お参りしやすく整備されていることを知った。これは間接的な立派なお接待だと思う。そんな話をした。

栄福寺、仙遊寺と、また宿修行さんに会い、しばらく一緒に歩いたりした。番外の竹林寺へ行く自分と途中で別れたけれども、また国分寺で会った。けっこう縁があるようだ。食事をするので、国分寺の前で別れたけれども、またあすの夜はビジネス旅館小松で会うことになる。宿の予約を同じ電話でしたから。

今日は少し早めに敷島旅館に入った。今日予定していた番外霊場を二つほど明日の朝にした。おかげで二日分のブログが書けた。
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青木地蔵のおじさんに感謝

(「シーパMAKOTO」からの風景)

昨夜の宿、北条の「シーパMAKOTO」、日帰り温泉で宿泊も出来、お遍路さんは特別価格で泊めてくれる。宿が限られた北条ではユニークな宿である。部屋ごとに海の見える風呂があり、湯が満たされている。温泉の方へ入ったので、こちらの湯は利用しなかった。もったいない話である。値段は入湯税まで含めて2食付で5950円、但し、休みの前は高い価格になるようだから、確認して予約する方がよい。

一つ難は洗濯機もコインランドリーも無いこと。自分は部屋に付いた風呂で洗った。「究極の野宿遍路」さんから聞いた方法を試してみた。湯を汲み持っていた洗剤を入れ、洗濯物を2時間ほど浸しておいて、ゆすぐだけで十分汚れが落ちる。あとはしぼって乾すだけ。靴下が最も乾かないから、バスタオルで水を吸い取ると良い。

(本日の書き込み、通信トラブルで書き込んだデーターが消えてしまった。書き直す時間がないので、本日はこのままとする。でないと寝る時間が無くなる)

(5月23日夜、続きを書く)

前回は雨の中びしょぬれになりながら歩き、半日で切り上げて大西駅前の宿に逃げ込んだ、つらいコースであった。今日は晴天で雨の心配は全く無い。日差しは暑いが海に近いので風が涼しい。前回は気付かずに海沿いの国道を歩いてしまった。今回は鎌大師を通り峠を越える道を進んだ。

鎌大師で勤行を済ませたところに、地元のおばさんがお参りに来たので、納経印がもらえるかどうか聞いてみたところ、よい坊さんが居たのだけれど、引き抜きに合って、たかなわ寺に移ってしまい、ここは無住になったので、納経印はもらえないという。移ったことは桃李庵で聞いていたから驚かなかった。まだ新しい坊さんが見つからないようだ。

遍照院を過ぎて石油コンビナートの先に、青木地蔵がある。道路の下に見えたので下りてみた。参道を竹箒で掃除していたおじさんが、お参りと知って案内してくれた。ここは昔から良い清水が出て、弘法の御加持水として、多くの人が汲みに来た。最近はこの上に住宅団地が出来たりして、清水もほとんど枯れてしまった。


(青木地蔵)

青木地蔵のおじさんはパン二つと缶コーヒーを出して、お接待とくれた。おじさんのお昼じゃないのですかというと、自分のはまだあるから良いという。食事をするところが無くて、まだ昼食を取っていなかったから、有難くその場で頂いた。

自分もお遍路に8回ほど回った。自分の場合は自転車で回った。野宿やお堂などにも良く泊まった。その中でこの青木地蔵の施設が大変に気に入って、一週間居続けたこともある。(そこへ手押し車を押したおばあさんが登場)このおばあさんともそのときに親しくなって、身体を壊し歩けないおじいさんを見舞いに行ったこともある。

松山に住んでいるのだが、電車で通って青木地蔵のお掃除を今もやらしてもらっている。信心ではなくて、自分はここが好きだからきれいにしておきたいのだ。

青木地蔵のおじさんは四国はもういいと思い、今は九州の88ヶ所の霊場めぐりをしていて、昨日帰ってきたばかりだと話した。色々な意味で青木地蔵のおじさんには感謝である。おじさんは10歳年上の75歳である。お掃除の続きをおばあさんとやり始めたおじさんに声を掛けて、青木地蔵を後にした。

この日の泊まりは今治の笑楽旅館であった。逆打ちで別格を回っている高知に住む自動車遍路の夫婦と、定年退職して遍路に出た男性の4人が泊り客であった。老夫婦が賄ってくれる。遍路道にあって歩き遍路には貴重な旅館だが、このままではそんなに長く続かないかもしれない。
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