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「浜松御在城記」の解読 10


(かき分けてキズイセン)

庭の鉢のキズイセン、先の伸びた葉をかき分けて花が咲く。

夜、区の班長会に出席する。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。

一 信玄方、秋山伯耆守信友((異本)に晴近(はるちか)と作る)、信州伊奈より人数を出し、遠州愛宕の郷へ出、見付の国府に陣を張る。犬居の城主、天野宮内右衛門藤秀は、去る永禄九年より、信玄方へ内通仕り候故、この時出勢、秋山と示し合わせ、国中の士を招集の由、聞こし召す。
※ イ(い)➜ 異本の語句を傍注する時に用いる符号。

遠州向坂の住人、向坂六郎五郎、始め、秋山方へ往きて、向坂の宗嗣(しゅうし)と名乗(なの)る処、同名十左衛門、次に往きて、我ら宗領と争う。六郎五郎、先に立ちて、秋山が陣屋の木戸に待ちて、十左衛門を伐り殺し、直(ただち)に権現様の御陣へ参り、秋山は所行を申し上げ候由。向坂、かの末流(まつりゅう)は誤りて匂坂と書き申し候えども、本字、向坂。
※ 宗嗣(しゅうし)➜ 跡継。相続人。
※ 宗領(しゅうりょう)➜ 元々の領地。
※ 末流(まつりゅう)➜ 血筋の末。子孫。

信玄と国切り約束の上に、その方出勢は何事ぞ。速(すみやか)に引き取りまじきかと、御使遣され候えば、畏(おそ)れ伏し奉り、早々月見里(やまなし)引き入り、直に高山へ上り、原川の谷を経て、倉見、西郷を通り、小夜の中山より駿州へ入り、信玄と一手に成り申し候。
※ 国切り約束(くにきりやくそく)➜ 大井川を挟んで、信玄は駿河、家康は遠江を切り取る約定。
※ 月見里(やまなし)➜ 袋井市山梨。
※ 引き入り(ひきいり)➜ 引っこむ。引き退く。ひきさがる。

一説、早速引き入らず、正月まで遅滞仕り候故、権現様より、山岡半左右衛門、植村与三郎、御使として、信玄へ仰せ遣わされ、その後、引き退き申し候。

一説、御家人衆、秋山を手込めに仕り、駿河地へは遣(つか)わさず、信州へ返すと有る説。然るべからず存じ奉り候。
※ 手込め(てごめ)➜ 手荒い仕打ちをすること。力ずくで自由を奪い、危害を加えたり物を略奪したりすること。

一説、御味方の衆は、秋山遅滞せば、押し寄せ、討ち捕り、美濃衆をも引き附け申すべきものをと申され候由。これまた、誤りの説にて御座候。秋山が美濃国岩村の城主掛け持ちは、後の事にて御座候。
(「浜松御在城記」の解読つづく)
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「浜松御在城記」の解読 9


(忘れずに、ヒヤシンス/家の庭)

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席する。「前方後方墳」の勢力を、「前方後円墳」のヤマト族が駆逐して行く、古墳時代の攻防が想像されて、興味深かった。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。 

一 同月十八日ニ、権現様、遠州安間村び御陣を居せられ候処に、(同近所、端輪村(半場村?)にては、妙忍寺の法花寺に御宿陣の由、参上仕り候て、委細承合すべき事)引間の臣、江間安芸守、同加賀守を殺し候えば、加賀守家来、小野田彦右衛門、安芸守を切り殺し申し候。この段、早々御注進申し上げ候えば、早速御乗り込み、御静め成され候。
※ 承合(しょうごう)➜ 問い合わせて知ること。

安芸守、加賀守、喧𠵅(けんか)相果て候儀は、安芸守は秋山伯耆守信友方へ内通、甲州一味然るべしと申し、加賀守は、権現様、最前(さいぜん)より御懇志(こんし)の儀に御座候えば、弥(いよいよ)御忠節仕るべきと申すに付きなり。加賀守子孫は、御家に召し出され、後、紀伊大納言様へ御付き成され候て、荒井に指し置かる、江間与右衛門なり。
※ 懇志(こんし)➜  親切で行き届いたこころざし。ねんごろな心。厚志。

一説 浜松をば、豊前守(飯尾連竜)後室(お田鶴の方)、これに拘(こだ)わるにつき、権現様より、後藤太郎左衛門、松下与右衛門を御使に成され、城を開け渡すべく、然らば、御扶持下さるべきの処、家来は本領安堵を忨(むさぼ)り、後家、御意に応じず候故、御押し寄せ成らさせられ候処、極月廿四日夜、塩市口より切り出し候えども、御味方大軍なれば少しも動転(どうてん)なく迎え討ち、翌日、二、三の丸攻め破り候えども、この時、御味方手負い、死人、三百人に及び、城中の兵も二百余人討死申し候。豊前守後家も侍女を左右に引き連れ、切って出、十八人一所にて討死仕り候由。
※ 動転(どうてん)➜非常に驚いて平静を失うこと。驚きあわてること。

この説、板倉殿書に御座候えども、時代違いに御座候。これは大河内兵庫助の合戦の事、時代相違申し候。案に御味方、手負、死人三百人も御座候らわば、名有る衆の十人も廿人も、討死有るべき事なり。終(つい)に、引間城攻め、討死の姓名を、聞かざる儀にて御座候。殊に、豊前守妻は今川親類なるを、二股左衛門執り持ちにて、祝言相済むと申し候えば、然らば、人質として、駿府に有るべき事に御座候。自然は、安芸守妻など切り出で候や。一と穿鑿仕るべき事に存じ奉り候。右書、加えの通りにて御座候。

塩市口と申すを、所の者も存ぜず候。追手御門の筋、塩町に、毎月塩市立ち申し候由、承り候えば、追手御門筋を申すにて有るべく御座候。塩町、昔は高町にて御座候。塩市口は榎(えのき)御門にて御座候。
※ 高町(たかまち)➜ 祭礼、縁日など人の混む所。高市ともいう。
(「浜松御在城記」の解読つづく) 

読書:「酔狂の剣 八丁堀剣客同心 17」 鳥羽亮 著
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「浜松御在城記」の解読 8


(水車も廻る/22日、あらさわふる里園 )

久し振りの雨だが、山火事の続く関東までは届かないようだ。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。

今度、遠州に入るに就き、最前両三人、忠節を以って、井伊谷筋案内せしめ、引き出るべきの由、感悦(かんえつ)の至りなり。その上(故)、かの忠節に付いて、出し置く知行の事。
一 二股左衛門跡職(あとしき)一円の事。但し、これは五百(貫)文の事。
一 高薗曽子方事  一 高梨  一 三木賀之郷
一 かんまの郷  一 まんこく橋詰め場  一 山田
一 川合  一 めや場  一 国領  一 野邊
一 かんそう  一 あんまの郷  一 人見の郷、並び、新橋小沢渡
※ 感悦(かんえつ)➜ 非常に感動してうれしく思うこと。
※ 跡職(あとしき)➜ 相続の対象となる家督と財産。家督。遺産。

右、かの書き立ての分、何れも不入(ふにゅう)として 、相違なく、永く私領として、出し置く所なり。並び、この地の田、厚きにおいて、三百貫文出し置くべきものなり。井伊谷領の外、以この書き立ての内を以って、弐千貫文、住み堅地(かたぢ)出し置くべきなり。若し、甲州より、如何様(いかよう)の申され様事候とも、起請文を以って申し定むる上は、進退(しんだい)に掛けて、相違なく出し置くべきなり。その上、縦(たとい)何方(いずかた)へ成りとも、何様(なにさま)忠節、先(さき)判形を以って出し置くとも、於この上においては、相違有るまじきものなり。委細は、菅沼新八郎方申すべきものなり。仍ってくだんの如し。
   十二月十二日 家康
      菅沼次郎右衛門殿
      近藤石見守殿
      鈴木三郎大夫殿
※ 不入(ふにゅう)➜ 年貢徴収や検注のために朝廷や幕府の使者が荘園内部にはいるのを拒む特権。 ※ 例(れい)➜ れい。
※ 厚(あつし)➜ 富んでいる。金持ちだ。
※ 堅地(かたぢ)➜ 堅い地面。
※ 進退(しんだい)➜ 職を辞めるかとどまるかという、身の去就。
※ 何様(なにさま)➜ どんなふう。いかなるよう。

今度、井伊谷、調儀(ちょうぎ)走廻(そうかい)の段、本望(ほんもう)至極候。然れば、吉田郷の儀、半分の納、百姓ども相違なく、これを進じ候。かの半分の相当として、養父の郷、五拾貫の方、相添え分け置き候ものなり。この上は、向後(きょうこう)、別而(わけて)、御等閑(なおざり)に、前々の趣意(本字(あざ)のみ)にこれ無く、互(たが)いに、真実申し合うべく候。今度、岡崎より出され候知行方の儀、少しも偽(いつわ)り有るまじく候。拙者、証人立て候上は、虚言(きょげん)有るまじく候。若しこの旨、偽りに付いては、梵天、帝釈、四大天王、別而、富士、白山、愛宕の地蔵、阿弥陀仏、御罰、今生、後生、深く蒙むるべきものなり。仍ってくだんの如し。
   永禄十一年極月十三日   菅沼新八郎定盈
                今泉四郎兵衛延傳
       近藤石見守殿
       鈴木三郎大夫殿
※ 調儀(ちょうぎ)➜ 出陣して攻めること。攻撃すること。
※ 走廻(そうかい)➜ 奔走して尽力する。
※ 本望(ほんもう)➜ 望みを達成して満足であること。

右三人の衆、並び大津の戸田三郎右衛門、本坂の後藤角兵衛ら、御案内仕るに付いて、井伊谷、刑部之城、御手に入る。刑部の城には、菅沼次郎右衛門家来、同名亦左衛門を入れ置かれ候なり。
(「浜松御在城記」の解読つづく) 

読書:「遺恨の譜 勘定吟味役異聞 7」 上田秀人 著
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「浜松御在城記」の解読 7


(梅の古木も、樹齢90年/22日、あらさわふる里園)

ラインで、掛川のまーくんの学生服姿が送られてきた。この春から中学生で、学生服の試着に行ってきたという。3年まで持たせるので、今はだぶだぶ。また弟のあっくんの、初ホームラン(ランニング)のニュースもついていた。新背番号は13番。コロナも収まって、よい春を迎えたいものだ。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。

一 今泉四郎兵衛、菅沼新八郎(後、織部正定盈と号す)、才覚を以って、菅沼次郎右衛門、近藤石見守、鈴木三郎大夫を御味方に仕り、則ち、御案内仕り候につき、同年極月十三日より御出勢、十五日、井伊谷筋へ御出馬の由。この時、何れも方へ下され候御書、
※ 何れも方(いずれもかた)➜ 皆さんがた。

今度、忠節に付いて、遠州本地(ほんち)、川合の郷、並び、高部、相違なく、これを出すべし。この上は、段錢(たんせん)棟別十二坐、諸役、不入(ふにゅう)として、これを知行有るべし。はたまた、新地として、自ら、河西にて五百貫文、東にて千貫文、出し置くべきの上乗せ、相違有るまじきものなり。手先、弥(いよいよ)馳走せしむべきものなり。委細は今泉四郎兵衛申すべきものなり。仍て件の如し。
十月十三日     家康
    菅沼新八郎殿
※ 本地(ほんち)➜ もとの土地。本知。
※ 高部(たかべ)➜ 注に「本書、郡ト有。アヤマリカ」とあり、言べんに「阝(おおざと)」の文字となっている。見慣れない文字で、正しくは「部」ではないかと判断した。ちなみに「郡」も「言べん」も「部」もくずすと同じ形になる。現、袋井市で川合の隣に「高部」という地名が残っている。
※ 段錢(たんせん)➜ 鎌倉~戦国時代、臨時に田に対して、段別に賦課された税。
※ 棟別(むねべつ)➜ 棟別銭のこと。中世、家屋の棟数別に賦課された税。
※ 十二坐(じゅうにざ)➜ 座役のこと。中世、商工業者の座に対して、幕府・領主などが課した課役。十二座あったのだろう。
※ 不入(ふにゅう)➜ 年貢徴収や検注のために朝廷や幕府の使者が荘園内部にはいるのを拒む特権。
※ 馳走(ちそう)➜ 世話をすること。面倒をみること。

右の御證文、拝見仕り候らえば、菅沼新八郎、今泉四郎兵衛は、辰の夏始め、冬を掛けて、遠州へ走り廻り、井伊谷衆、御味方にすすめ申され候と、存じ奉り候。

   敬白起請文の事
今度、両三人、馳走(ちそう)をもって、井伊筋遠州へ討ち出るべきの旨、
本望なり。その所々に就き、出し置く知行分の事、永く相違なく、扶助なさず畢(おわ)んぬ。もし甲州より、かの知行、如何様(いかよう)と申され様候とも、進退に引き掛け、見放(みはな)し申すまじきなり。その外の儀は申すに及ばず候。右の旨、もし偽(いつわ)るにおいては、梵天、帝釈、四大天王、別ては、富士、白山、惣て日本国中、神祇(じんぎ)の御罰(ばつ)を蒙(こうむ)るべきものなり。仍て件の如し。
  永禄十一年十二月十二日 家康
       菅沼次郎右衛門殿
       近藤石見守殿
       鈴木三郎大夫殿
※ 敬白(けいはく)➜ うやまい謹んで申し上げるの意。
※ 起請文(きしょうもん)➜ 平安時代末期から江戸時代までの古文書の一つ。自己の行動を神仏に誓って遵守履行すべきこと、違反した場合は罰を受ける旨を記した文書。
※ 本望(ほんもう)➜ 望みを達成して満足であること。
※ 扶助(ふじょ)➜ 力添えをして助けること。援助。
※ 神祇(じんぎ)➜ 天の神と地の神のこと。
(「浜松御在城記」の解読つづく)
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「浜松御在城記」の解読 6


(しだれ梅も、一昨日、あらさわふる里公園 )

朝、約束した十時に、10年前に、K子会社で事務員だったTYさんが来宅。懐かしい顔に、自信と貫禄が備わったなあと思う。この十年の積もる話を聞く。苦労したようだが、その経験が現在の仕事に生きているようだ。S生命でファイナンシャルプランナーの資格を取って、ライフプランナーとして、余裕のある勤めだという。お客様に寄り添って、その悩みや望みを聞き、アドバイスしていく。その中で保険商品が有効ならば紹介してゆく。いわゆる保険のセールスレディとは全く違うやり方で、成績を上げているようだ。客の話を聞くのが七割、話すのは三割と言いながら、随分たくさん話してくれた。積もる話がそれだけ溜まっていたのだろうと思う。

会社に行ってきたとの話に、知った顔ばかりで、10年前とそんなに顔ぶれが変わっていなかったという。退職してから一度も顔を出していないというと、元気でいることだけは皆んな知っていましたよ、ブログを見ているから。退職してから、全く別の世界の住人になってしまったと思う。

そういえば、YSさんが一年ほど前に倒れて、今リハビリ中だと聞いた。退職して、これからは農業をやると、はるみやデコポンを新しく植えたと聞いたのはいつ頃だっただろう。TYさんも連絡を取っていないようで、連絡してみると言って帰った。様子を知らせてくれるという。連絡をしても良いやら悪いやら、心配なことである。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。 

一 辰の十二月、小笠原新九郎(三州野田の士、元来御味方)仰せ付けられ、遠州馬伏塚の小笠原与八郎長忠方へ遣わされ候。この与八郎は、原、小笠原とて、それ以前、遠州城東郡を両人して領地仕り候。近代、原は絶えて小笠原計り罷り成り、殊に今川縁者になり、威勢これ有る処に、氏真の弱きを見て、秋山方へ人質を出し、甲州へ降参仕るべきと支度の処へ、新九郎、理(ことわり)を尽くして異見申し、御味方になし、新九郎同道にて伺公(しこう)、御礼申し上げ候。
※ 近代(きんだい)➜ 現代に近い時代。ちかごろ。このごろ。 
※ 伺公(しこう)➜ 貴人のご機嫌伺いに参上すること。

一 同年、信玄と、大井川を境として、駿州は武田、遠州は権現様、御切り取り成され候様にと、国限(くにぎり)の御約信、御座候。
※ 国限(くにぎり)➜ 国の範囲を定めること。
※ 約信(やくしん)➜ 信約。信頼するに足る約束。誓約。

この取り持ちは、信長公、甲州より、この使に、山縣三郎兵衛頼實来たると申す説、御座候。日限、使者の各(おのおの)未詳。追って考え申し上ぐべく候。頼實、(異本)に昌景と作る。
※ 未詳(みしょう)➜ まだはっきりしないこと。まだつまびらかでないこと。
※ イ(い)➜ 異本の語句を傍注する時に用いる符号。
(「浜松御在城記」の解読つづく)

読書:「旅路 下」 池波正太郎 著
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「浜松御在城記」の解読 5


(ツバキもあざやか、昨日、あらさわふる里公園 )

午後、相良の「いーら」に、小和田哲男氏の講演会で出かけた。演題は「戦国の女性たちと城」牧之原市女性団体連絡協議会主催の講演会で、小和田氏にとっては、やや無茶振りの感がした。はりはらの講座受講者、二人に遇った。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。 

一 気賀の一揆ども、堀川の城に楯籠もるについて、御馬を寄せられ、御退治成させられ候。この処、満潮には船にて自由に出入、引潮には唯(ただ)一方口に成り、出入成り難く候。然るに、彼ら運尽き、大潮乾(ちょうかん)なれば、壱人も残らず、辰ノ三月七日、(永禄十二巳三月廿七日と云うは、誤りの説なり)御討ち取り、百八十四人の首(七百たるは非(ひ)なり。但し、上下男女、これ殺すか)鵜毛と申す所に御掛けさせ、その所を山本半三郎に御仕置、仰せ付けられ候。
※ 潮乾(ちょうかん)➜ 引き潮。干潮。
※ 鵜毛(うけ)➜ 堀川城は別称、鵜ノ毛城。

御味方にも、大久保甚十郎、十七(歳)にして、一番鎗、高名致し、左の頬を討たれ、深手に候えども、振合の御側(かたわら)に、人の剛臆、働きをも見届け、悉(ことごと)く敵御討ち果し成され候時、死去仕り候。諸人(もろびと)神妙(しんびょう)の由、これを褒(ほ)める。平井甚五郎、小林平太夫等、十六人討死仕り候。七郎右衛門惣領(そうりょう)、大久保新十郎(後改、治部亦転任、相模守忠隣)十六歳、初めて高名申さるの由なり。
※ 振合(ふりあい)➜ その場のぐあい。都合。また、状況。
※ 剛臆(ごうおく)➜ 剛勇と臆病。
※ 神妙(しんびょう)➜ 心がけや行いが立派ですぐれていること。けなげで感心なこと。
※ 惣領(そうりょう)➜ 跡取り、家督相続予定者のこと。

一説 永禄十二巳(1569)、権現様、掛川より御帰陣の時、大沢左衛門が家人、尾藤主膳、村山修理等、去年より浪人して、堀川の城に一揆を催し、御帰路を討ち奉らんとす。権現様、御存知成されず、僅か十七騎にて御通り遊ばさる。一揆、これを士卒と見て、これを通し奉る。御跡より、石川伯耆守数正、打ち通るを見て、扨(さて)は、権現様にて御座候ものを、安く討ち取れ申すべきものを、と後悔仕り候。

この説は誤りなるべし。永禄十二辰の四月は、大沢左衛門、堀江の城にて逆心也。堀川、堀江、取り違えたるべし。但し、二俣(松井)左衛門逃去の間、尾藤、村山も、この左衛門が家来、浪人にて、この時、堀川に楯籠るか。追って吟味仕るべく候。所の者聞き伝えには、堀川の一揆大将、原隼人と云う。これは弥(いよいよ)誤りなるべし。案に、甲州より間者(かんじゃ)来て、所の者に一揆を進め存じ奉り候。
※ 逆心(ぎゃくしん)➜ 主君に背く心。謀反の心。
※ 間者(かんじゃ)➜ 敵方のようすをひそかに探る者。間諜。スパイ。

右の御引取りに、宇豆山(うづやま)の城、御攻め成させられ候。守将(しゅしょう)大原肥前守資良(小原と作る、非なり)城を棄て去り申し候。この退口(のきぐち)のとき、城中に鉄炮の薬を埋め置き、御先手城中に入り候節、燃え上り候えども、御人数、恙(つつが)なく候。
※ 守将(しゅしょう)➜ 守備の将。
※ 退口(のきぐち)➜ 主に戦国時代における、撤退戦(退却戦)の方法、あるいはその戦いそのものを意味する語。
(「浜松御在城記」の解読つづく)

読書:「旅路 上」 池波正太郎 著
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「浜松御在城記」の解読 4



(やっぱり青空がいい)

思い付いて、午後、御前崎市の、「あらさわふる里公園」に、女房と行く。一昨年、2月22日に訪れている。奇しくも今年も同じ日になった。「あらさわ紅桜」と呼ぶ寒桜が今年もほぼ満開、駐車場もほぼ満杯であった。今日は20度を越す暖かさで、ゆっくり散策した。

その後、せっかくここまで来たのだからと、池新田のS氏邸におじゃました。ご夫婦ともに庭仕事中で、精魂込められた庭を拝見して、しばらく歓談した。バラが咲き始めたら、さぞかし素晴らしいバラ園に変じるだろう。その時を楽しみに、帰途に就く。

帰りにS氏の勧めで、福田沢の散策路に寄った。どう道を間違ったのか、結局、福田沢の水源の辺りに駐車して下りながら散策。寒桜も日陰に入ってしまい、今少しであった。日の当たるお昼ごろまでに来ればよかったと思う。まだまだ木が若く、これから年々見栄えがするようになるのだろう。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。


     永禄十一年戊辰(1568)
一 右の両臣も御手を引き奉り、その外、遠州の国士、御内通申し上げ候者、多く御座候につき、辰(永禄十一年)の春、遠州へ御出勢(しゅつぜい)遊ばされ候。
※ 右の両臣 ➜ 飯尾の家臣、江間安藝守と同加賀守。
※ 国士(こくし)➜ その国で特に優れた人物。
※ 出勢(しゅつぜい)➜ 軍勢を出すこと。出兵。

この時、気賀の住人、名倉喜八(後、剃髪、常閑)、御案内仕り候て、(喜八兼ねるに、御油八幡神主を以って、申し上げ候由。神主名、未だ知らず)本坂引佐越し、御通り成され候処、甲州より忍(しの)びを出し、気賀近辺の郷侍、その外、寺社、百姓などまで、一揆を催し起こすの由、聞こし召さる。

この口には、(おさ)を指し置かれ、本道へ出御(しゅつぎょ)、西の海を別かつ、新庄より御船、召させられ、宇布見(うぶみ)着御(ちゃくぎょ)、所
の庄屋、中村源左衛門を案内に成され、川舟に御乗り、小薮村へ御上り、名残の普済寺へ(輪番の住寺、この日、誰と名を相尋るべく候)御移り遊ばされ候えば、引間の家臣は申すに及ばず、堀江大沢左衛門、高薗の浅原(主殿)、頭陀寺村の松下加兵衛之綱(ゆきつな)、久野の久野三郎左衛門宗能を初め、鴨江(寺)寺家(じけ)、見付、中泉、池田、郡(こおり)の者まで、群れ参じ、出仕
申し上げ候。二俣の(松井)左衛門は逃亡申すの由。
※ 押え(おさえ)➜ 敵の攻撃・侵入を防ぎ味方を支えること。防備。また、その役目。
※ 出御(しゅつぎょ)➜ おでまし。
※ 着御(ちゃくぎょ)➜ おつき。御到着。
※ 寺家(じけ)➜ 僧侶。出家。寺の者。別当など一寺の長官を指す語。
(「浜松御在城記」の解読つづく)

ここで、家康は本坂道を避け、本道(東海道)を行くと変更し、どんなコースを取ったのか、たどってみよう。地名で追って行くと、先ず、浜名湖の西海岸の新庄(現湖西市の新所あたりか)から浜名湖を船で渡り、宇布見に着き、川舟に乗り換え、所の庄屋中村源左衛門の案内で、小薮村(佐鳴湖の東岸に小薮の地名が残る)から普済寺(浜松市広沢に現在もあり)に入る。普済寺は後に浜松城が出来る丘陵のすぐ西側になる。

読書:「突きの鬼一 4 岩燕」 鈴木英治 著


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「浜松御在城記」の解読 3


(今年も咲いた)

年々小さくなるクリスマスローズの株が、今年も咲いた。肥料もやらないのに、忘れずに花を付ける。肥料をやろうかな。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。

     遠州へ始めて御進発の覚え
一 遠州引間の城主、飯尾豊前守は、駿州今川の先鉾(さきほこ)として、尾州織田軍勢と所々にて合戦。然(しか)るに、永禄三年(1560)十、九月、義元、尾州桶狭間にて討死の後、氏真、亡父の弔(とむら)い合戦の心掛けもこれ無く、朝夕、酒宴、遊興に長(ちょう)じらるゝ故、権現様、永禄四年(1561)より、信長公と御和睦成され候。(これより先は今川と一味)
※ 先鉾(さきほこ)➜ 先鋒。戦闘の際、部隊の先頭に立って進むもの。

遠州引馬の城主、飯尾豊前守、同国井伊谷の城主、井伊肥後守、同国嵩山(たけやま)の城主、奥村修理を始め大方(おおかた)、氏真を叛(そむ)き、信長公及び権現様へ内通仕り候。この由、氏真聞き及び、永禄五年(1562)三月は井伊谷、同年四月は引間、同七月は嵩山、この三城へ駿河より人数を差し向け、攻められ候。井伊谷、嵩山は落去(らくきょ)。引間の城にては、寄せ手の大将、新野左馬助討ち死。城内にも、飯尾同心、渥美、森川、内田等の歴々(れきれき)討ち死仕り候えども、なお堅固に守るに依って、氏真、調略(ちょうりゃく)を以って和談(わだん)致し仕る。
※ 落去(らくきょ)➜ 落城すること。
※ 寄せ手(よせて)➜ 攻め寄せる側の軍勢。
※ 歴々(れきれき)➜ 地位・身分などの高い人々。その方面の一流の人々。おえらがた。
※ 調略(ちょうりゃく)➜ はかりごとをめぐらすこと。計略。

これ以後、永禄七甲子(1564)、氏真三州表へ発向(はっこう)、権現様と所々にて攻め合い、同国一ノ宮より人数を引き取り申され候刻(とき)、飯尾は権現様へ御味方の躰(てい)、相見え候につき、氏真より、遠州二俣の城主、松井左衛門(初め強八と申候や)、豊前守姉婿(むこ)なるにより、かれを(ばい)として縁者(えんじゃ)に取リくみ、駿府ヘ呼び寄せ、永禄八年(1565)極月廿日、駿府二ノ丸飯尾屋敷へ押し詰め、これを(ちゅう)る。然れども、引間城は豊前守家臣、江間安藝守、同加賀守、固く持ち候故、翌年二月、権現様より、御慇(ねんごろ)の御書下され候由。
※ 発向(はっこう)➜ 出発して目的地に向かうこと。
※ 媒(ばい)➜ なかだち。
※ 縁者(えんじゃ)➜ 親戚関係でつながっている者。縁続きの人。
※ 誅す(ちゅうす)➜ 罪あるものを殺す。
(「浜松御在城記」の解読つづく)
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「浜松御在城記」の解読 2


(紅梅は青空によく合う)

川向こうの旧報徳社の紅梅が今年も咲いた。この紅梅八重でひときわ赤さが濃い。

午前、午後、金谷宿大学の初心者、経験者の2講座を実施した。来年度はこういう時期で、宣伝もしなかったが、いずれも卒業者はおらず、新入生が二人となり、2講座で22人となった。特に経験者の講座は17人となり、やや密になるのが気になる。公民館の話では、今は特に制限していないから、定員まで問題ないとはいうが。ともあれ、コロナさえ治まってくれれば問題ない。

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「浜松御在城記」の解読を続ける。

         覚
一 権現様、天文十一壬寅(1542)十二月廿六日、岡崎にて御誕生。(当年
に至りて、百三十九年)同十六丁未(1547)、六歳の御時、御父、道幹公広忠様より今川義元へ御人質として、駿府へ御越し遊ばされ候を、戸田某(ぼう)、道にて奪取。尾州へ奉り御越、名護屋万松寺の裡(うち)、天王坊に御座なされ候御事。

出入三年、同十八己酉(1549)、八歳の御時、広忠様御薨逝(こうせい)。その歳、駿府へ御越し、少将の宮前の御屋敷に、出入十年御在府、御艱難(かんなん)の御事どもに御遇(あ)い成させらるの由。
※ 薨逝(こうせい)➜ 皇族または三位以上の人が死去すること。薨去。
※ 艱難(かんなん)➜ 困難に出あって苦しみ悩むこと。

永禄三庚申(1560)五月廿三日、十九の御年、三州へ御帰国。岡崎に八年御在城、永禄十一戊辰(1568)の春、初めて遠州へ御進発、赴(おもむ)かる。三年後、この間大方見付の国府に御座成らる。元亀庚午(元年、1570)、廿九の御時、浜松御普請出来候に付、岡崎をば御嫡男次郎三郎信康様へ御譲り、当御城へ御移り成させられ候。(当年に至りて百十一年)
※ 進発(しんぱつ)➜ 軍隊などが、出発すること。

天正十年(1582)三月、四十一の御時、駿州を信長公より進ぜられ、天正
十三(1585)の秋、閏八月廿三日に駿府御普請出来、(元亀元年より天正
十三年まで、十六年浜松御在城)これ以後は、駿府と浜松・岡崎、三つの御城、御かけもちの様に御座候。(この間、出入六年ばかり)然れども、天正十四年(1586)五月、秀吉公の御妹、浜松へ御輿入(こしいれ)候を考え候わば、当御城、御本城の様に存じ奉り候。

天正十八庚寅(1590)七月、四十九の御時、秀吉公より関東を被進ぜられ、御打ち入り、江戸に御在城。(当年に至りて九十一年)慶長十二年(1607)、六十六の御時、台徳院(たいとくいん)様へ江戸の御城御譲り、駿府、同年七月三日、御移りより、出入十年御在城。大坂落城の翌年、元和二丙辰(1616)四月十七日、御他界成させられ候。御年七十五、当年に至りて六十五年。
※ 打入(うちいり)➜ 勢いよくはいりこむ。また、攻め込む。襲いかかる。
※ 台徳院(たいとくいん)➜ 江戸幕府二代将軍徳川秀忠の院号。
(「浜松御在城記」の解読つづく) 

読書:「折鶴舞う 八丁堀剣客同心 16」 鳥羽亮 著
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「浜松御在城記」の解読 1


(桜と菜、競う)

桜は河津桜、菜はカラシナ。大代川の土手で。

明日の金谷の2講座の準備で夜まで掛かった。準備していたつもりが抜けている分があった。明日は配布資料が沢山になる。

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「浜松御在城記」の解読を始める。

  浜松御在城記 全

家忠日記曰く、
     久野一門、本知行の事
 徳留村 池方渡方 中村方 上久野 若狭方
 下久野 上末元 下末元 別所村松 同藤合方
 菅谷 不入計 冨賀見 谷川戸嶋 岩滑
 宮賀嶋 松袋井 名賀嶋 祝井 徳光
 刃所名 桑地 正道 堀越之内 海蔵宰領
 土気 乗木の内五十貫文 勝田の内中村五十貫 鎌田 下河合内
 帳外 岡部の内、絡(から)み物これ有り 国領、絡み物これ有り
    以上、都合二千五百貫文
右、今度忠節に付いて、本知、駿州の時の如く、充て行う所、永く相違有るべからず。若し、これ以前、伺い方へ判形後、書き置き、この上は別条有るべからず。弥(いよいよ)忠節を抽くにおいては、扶助せしむべきものなり、仍ってくだんの如し。
 永禄十一 十二月廿一日 家康
      久野三郎左衛門殿一門同心衆
※ 本知行(ほんちぎょう)➜ 本領。本知。もとからの知行所のこと。
※ 扶助(ふじょ)➜ 力添えをして助けること。 援助。 
※ 同心衆(どうしんしゅう)➜ 戦国時代に新たに百姓身分から分離されて軍役を負わされた者。

山名庄の内、井の領
一 コモガハキ トクミツ 天王 ヲヤマ 横井 別所 ノフヽサ
  七ヶ條、竹林大屋、十八貫文
  右の旨、領掌の上、永く相違有るまじきものなり、仍ってくだんの如し。
   永禄戊辰十二月廿八日 家康
       久野千菊殿
※ 領掌(りょうしょう)➜ 仰せを承諾すること。承知すること。

充て行う、同名淡路守、同弾正、並び釆女佐(うねめのすけ)、知行の事。
右、今度、かの三人、逆意を企つといえども、宗能(むねよし)別儀なき旨、太き忠節を以ってなり。然る間、そのとして、かの跡職(あとしょく)知行等、一円出し置き、永く相違あるべからず。若し同心の者ども、無沙汰あるに於いては、存分の如く申し付けらるべく候。重ねてかの同心者、訴詔すといえども、許容すべからざるものなり。仍ってくだんの如し。
  永禄十二己巳八月廿八日 家康
        久野三郎左衛門殿
※ 充て行う(あておこなう)➜ 所領や俸禄を給与する。
※ 逆意(ぎゃくい)➜ 謀反を起こそうとする心。逆心。
※ 別儀(べつぎ)➜ 都合の悪い事。さしさわり。支障。
※ 賞(しょう)➜ 功績をあげた者に与える褒美。
※ 跡職(あとしょく)➜ 先代の家督・財産を相続すること。また、その家督・財産。跡目。
※ 無沙汰(ぶさた)➜ いいかげん。粗略。怠慢。無断。
※ 存分(ぞんぶん)➜ 考え。思い。
(「浜松御在城記」の解読つづく)  
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