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「登呂遺跡」再生計画

(登呂遺跡に復元された「祭殿」)

鑑真和上展を観たあと、女房が久しぶりに登呂遺跡に寄りたいという。150号線を通って帰ることにすれば、少しの寄り道で登呂遺跡に立ち寄れる。

弥生時代の遺跡が静岡市登呂に発見されたのは戦時中の昭和18年のこと、軍需工場建設中に土器や杭列が出たことによる。戦後すぐに本格的な発掘が始まり、弥生時代後期の集落遺跡として、国の特別史跡にも指定された。我々の学んだ歴史の教科書には、当時珍しかった復元住居の写真と一緒に、必ずページがさかれていた花形遺跡であった。受験で靜岡の地を最初に踏んだとき、靜岡で唯一知っている場所として、登呂遺跡に行ったことを記憶している。

登呂遺跡に訪れる観光客は門前市を成すようで、土産物屋や食べ物屋などで賑わっていた。その後何度か来たが、来るたびに寂れていくのを感じていた。吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡など、新しい花形遺跡が出現して、登呂遺跡の影は薄れて行く一方であった。その登呂遺跡をもう一度整備して再生する計画が進んでいると、どこかで聞いたような気がする。

車を駐車場に入れ、水田跡の脇の歩道を復元住居のほうへ歩く。水田跡には雑草が生えて荒涼とした風景になっていた。一部だけ古代米の赤米などが植えられた水田もあった。近隣の住民の散歩道になっているようだが、観光客らしき姿は無かった。水路脇を通っていくと背丈ほどの草の向こうに復元住居群が見えた。1900年前は、住居の周りを水田が取り囲んでいたはずで、復元を目指すなら、ぜひ古代米を植えた一面の田んぼの復元こそすべきである。田んぼのある風景の向こうに復元住居群が見えて初めて弥生時代の集落らしくなる。


(木を擦って火起し体験)

復元家屋の脇で、古代服を羽織ったボランティアが、子供たちに木を擦って火を起こす体験をさせていた。その内の一人が近寄って来て「生まれ変わる登呂遺跡」というパンフレットをくれた。登呂遺跡では平成18年から23年にかけて史跡の再整備事業が進められ、博物館も平成22年秋にリニューアルオープンする予定だと書かれていた。居住域には7棟の復元をし、登呂の村で弥生時代の生活の体験学習が出来るようになるという。

再発掘調査で判明した高床式の祭殿が再現されていたが、知らずに高床倉庫の柱にねずみ返しが付いていないと女房と話していた。帰ってからパンフレットで祭殿だと知って、穀物の保管庫でなければねずみ返しはいらない訳だと思った。また復元住居の一棟は中で生活体験が出来るように、鉄骨式で、実際の茅葺から型を取って作ったコンクリートパネルで貼り、着色して作ったものだとパンフレットにあった。内部で煮炊きをしても火災などの危険は無いようにそんな構造にしたものである。中に入って見学しながら、全く気がつかなかった。

3年後、どんな形に再整備されて、昔の賑わいが一部でも取り戻せるようになるだろうか。
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鑑真和上展を見に行く

(鑑真和上展)

今日、女房と唐招提寺金堂平成大修理記念の鑑真和上展を静岡県立美術館に見に行った。7月12日から和上展は始まっていたが、明日31日までとの報に接し、出掛けることにした。

日本各地にゲリラ豪雨とも言うべき集中豪雨がこの数日続いている。愛知県の岡崎、一宮、静岡県東部、神奈川県、東京、1時間に数十ミリの雨が、まさに滝のように降ってくる。今朝も弱い雨の中出掛けた。靜岡に行くころには雨は止んだが、車を駐車して県立美術館に向かう間にまた降り出した。

55歳の時、鑑真和上はすでに唐の高僧として確固たる地位に居た。日本からはるばる来た栄叡、普照の両僧は、和上に、僧尼の粗製乱造と堕落した日本仏教の状況を訴え、正式な受戒を行える伝戒の師の来遊を要請した。和上は弟子たちに誰か日本に行く者はいないかと問う。日本へ渡る困難を言うものばかりで、手を挙げるものは居なかった。「是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。」と和上自らの渡日を決定した。

しかし、唐の役所は渡日を許可しなかった。渡日を5回計画したが、阻もうとする弟子たちに密告されたり、出帆したものの嵐に遭って戻されて失敗した。5回目の渡航では南の海南島まで流され、艱難辛苦の間に栄叡は死に、和上は失明する。普照とも途中で分かれてしまう。6回目、第十次遣唐使船の帰り舟に乗って、753年、ようやく日本に達することが出来た。渡日の決定から12年の歳月が流れていた。

さっそく、東大寺大仏殿前で、440余人の沙弥と80余人の僧に戒を授けた。東大寺に戒壇院を建立し、759年には唐招提寺を創建し、4年後の763年に76歳で入滅した。


(鑑真和上像-和上展図録より)

鑑真和上のやむにやまれぬ気持がもう一つ理解できないままに、鑑真和上像の前に立った。弟子の忍基が講堂の梁が砕ける夢を見て、鑑真和上の死が近いことを知り、和上の姿を留めたいと、弟子たちで和上の入滅前に作ったといわれる像である。和上の実像に限りなく近いと考えられている。日本最古で、最高の肖像彫刻とされ、国宝になっている。

高さ80.1センチメートルで、朱色の衣の上に横被を掛け袈裟を付け、左足を上に結跏趺坐し、両手は腹前で禅定印を組んでいる。光を失っている両眼は静かに閉じられ瞑想するかのようである。

日本の仏教を正すために、死命を賭して来日した高僧への崇敬の念と、敬虔な信仰に基づく、礼拝の対象としての和上像は、刻んだ弟子たちの気持は手に取るように解るのであるが、和上の想いがもう一つ理解できない。

和上像を観ているうちに、ふと思った。唐の官僚化した仏教界、自分の地位を守ることだけに汲々とする弟子たちに和上は満足していなかった。そこへ未熟ながら国命を帯びて来唐した日本の青年僧、堕落した僧を改めたいと言い、受戒大師の招聘を願う。弟子たちに問うも、案の定、手を挙げるものは居ない。和上は、自分の残りの人生を希望のある日本で一働きしたいと思った。希望のある日本は桃源郷に思えたのかもしれない。来日した和上は日本での役割を果たせたと思って入寂したと思う。改めて観ると、和上の顔から満足感に満ちた表情が見えてきた。
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鹿島踊り-郷土芸能を観る会

(島田の鹿島踊り)

島田の鹿島踊りからは三番叟、お鏡、鼓、ささらと続く踊りの行列が披露された。

「鹿島踊り」と呼ばれる踊りは房総半島から伊豆半島を中心に広範囲に民俗芸能として残っているが、島田の鹿島踊りはその西限とも言われ、その踊りの所作は江戸時代の動作を正確に今に伝えているとして、昭和32年(1957)年5月に静岡県の無形民俗文化財に指定された。

「鹿島踊り」は去年、島田大祭の行列の中で一通り見ている。その際「かさぶた日録」にも書き込んでいる。(昨年の10月15日書込)その中で、大井神社に勧請した春日神社に、どうして鹿島神宮ゆかりの鹿島踊りを奉納するのかと、疑問に思い自問自答している。その後、鹿島神宮と春日大社の関係が解って来た。

奈良の春日大社は平城京に都が遷された710年、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神宮の鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのが始まりである。つまり、春日神社のルーツは鹿島神宮なのである。だから春日神社に鹿島踊りを奉納しても、神様は同じだから少しも可笑しくない。

ちなみに鹿島神宮も春日大社も鹿を神の使いとして大切にしている。これは、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、白い神鹿の背に鹿島神(武甕槌命)の分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて、1年かけて奈良まで行ったとする伝承がある。だから両社とも鹿は神の使いなのである。


(鹿島踊り-三番叟決めポーズ)

鹿島踊りは、島田宿に蔓延した疫病退散を祈願して奉納されたのが始まりである。踊りの合間に、三番叟、お鏡、鼓、ささらの踊り手のそれぞれの意味を説明してくれた。先頭の「三番叟」は能や歌舞伎の舞の一つであったものを取り入れたもので、横じまに赤い日の丸の描かれた独特の烏帽子を被り、右手に鈴、左手に扇を持っている。どんな場面に出てきても「三番叟」だと解り、祝福舞であるから、その姿を見るだけでも目出度い。「お鏡」は右手に鈴、左手に御幣の付いた鏡を持つ。鏡は神様の分身であり、神社まで来れない病人などのために、神様自ら沿道に出向いて、疫病退散の願いを叶えてくれる。「鼓(つづみ)」は左手に鼓を持つ。鼓を叩くことで疫病に立ち向かう勇気を鼓舞してくれる。「ささら」は左手に節が詰まった南天の幹で作った棒を持ち、右手に先を細く割った竹を持つ。左右合わせて「ささら」という民俗楽器で、両方をこすり付けてシャッ、シャッと鳴らす。稲穂が擦れる音を表していると言い、五穀豊穣とか魔よけの意味を持つ。

鹿島踊りの行列は二手に分かれて、狭い舞台を踊り進んで、舞台の袖に踊りながら消えて行った。

これで、郷土芸能を観る会の演目はすべて終った。大井川筋にもずいぶん色々な郷土芸能があるものだと、改めて認識した。いつか第二回もあるようだから楽しみである。
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笹間神楽-郷土芸能を観る会

(三宝太刀の舞)

島田市川根町の笹間神楽からは「三宝太刀の舞」「宇須女の舞」が披露された。

笹間神楽(ささまかぐら)は、笹間の粟原、二俣、日掛地区に伝承される神楽で、毎年秋に、二俣八幡神社と栗原八幡神社の二社の祭典に奉納される。起源については江戸時代の中頃伊勢神宮で神楽を習い持ち帰ったとする説と、静岡市清沢地区から伝わったという説がある。一度途絶えていたが、神楽復活が叫ばれ、昭和43年、当時の地元青年団が二人の伝承者を先生に教わり、保存会として復活させた。現在、会員数21名、演目は「順の舞」「須佐之男の舞」「三宝の舞」「太刀の舞」など十数種の舞がある。伊勢流の江戸時代の形を舞いに残し、笛、太鼓、鈴等の おはやしに合わせて踊るもので、単調だが幽玄でもあり、笑いを誘う滑稽さもある。昭和45年には川根町の無形民俗文化財に指定され、合併後は島田市指定無形民俗文化財になっている。

昭和52年、地域の民俗伝承を笹間中学校へ呼びかけ、伝統文化教育として神楽指導を始めた。中学生の神楽は町の文化祭をはじめ、郡内や県内各地 で披露されてきた。その活動が認められ、平成14年「博報賞伝統文化教育部門」で「第33回博報賞」を受賞した。

演目の「三宝太刀の舞」は衣装、鈴と抜き身の刀、所作など、梅津神楽の「八王子の舞」にそっくりだが、梅津神楽が四人舞であるのに対して、三人舞で、演者が比較的若くて、所作がすべて大仰である。静岡県中部の山村地域には似たような神楽が伝わっており、総称して「駿河神楽」と呼ばれ、各保存会の交流もあるという。笹間神楽は近隣の神楽の中でも所作がもっともダイナミックだといわれていると説明にあった。


(宇須女の舞)

二つ目の演目の「宇須女の舞」は金襴緞子の花嫁衣裳のような装束で、頭に冠、女郎面を付け扇を持って、ゆっくりとした動きで五方を舞う。裾がまとわり付くのを直す役割の「裾持ち」が付く。「裾もち」は黒留袖に女郎面、紫の頭巾を付けて、あくまでも黒子の役割なのだが、アドリブの所作や、こっけいなしぐさが笑いを呼ぶ。観客の目は次の笑いを期待して、裾もちにばかり向いてしまう。

「宇須女」はもちろんアメノウヅメノミコトのことである。天岩戸の前でこっけいな踊りで、天照大神の天岩戸からの御出ましを促す役割を果たしたことで知られる。但し、この踊りで笑いを取るのはもっぱら「裾持ち」の方であった。
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大井川川越し太鼓-郷土芸能を観る会

(大井川川越し太鼓)

島田市金谷の大井川川越し太鼓からは、「けんか太鼓」「すわばら太鼓」「東海道金谷宿」の演目が演奏された。

「大井川川越し太鼓」が演奏活動を始めたのは昭和40年代の半ばだという。一方、川越し太鼓のルーツをたどると、江戸時代の川越し制度の中で、川明け・川留めを知らせた「お触れ太鼓」に遡る。明治になって川越し制度が廃止になり、川越し太鼓も絶えてしまうところを、金谷では子供たちの「喧嘩太鼓」として受け継がれた。しかし、それも先の大戦の間に途絶えたままになっていた。

「喧嘩太鼓」の慣わしは、正月元旦の朝、10歳前後の男の子供たちが「シャンシャンドンドンシャンドンドン」という太鼓の響きの下に集まり、太鼓を打ち鳴らしながら、隣町から聞こえてくる太鼓の音の方へ向かう。お互いが出合った所で太鼓の奪い合いとなり、太鼓を持ち去られ方が負けになる。翌日大人が礼儀を尽くして貰い受けに行くことになる。古老の話では相手を挑発するような太鼓のリズムで、昔は水を掛けたり、荒っぽいこともあったが、揉め事を後に残すようなことは無かったという。

この「喧嘩太鼓」の勇壮で強烈な迫力を再現したいと、町の有志によって復活され、昭和47年に「大井川川越し太鼓保存会」が発足した。演奏方法、曲目も現代風にアレンジして、今の太鼓のスタイルとなった。現在は「島田市無形民俗文化財」の指定を受けている。

当初、7、8人しかいなかった会員も、現在は120名にまで増え、島田市内外はもちろん、海外公演も行っており、公式の式典から祭りや各イベントで、年間50~60回の公演をしているという。障害を持った子供たちに太鼓を教え、一緒に舞台に立ち演奏するなど多彩な活動をしており、島田市内には「川越し太鼓」を師匠として、多くの独立した太鼓チームも出来ている。静岡県下有数の太鼓チームだという。


(大井川川越し太鼓「東海道金谷宿」)

「けんか太鼓」は金谷の喧嘩太鼓の伝統を継いだ演目。「すわばら太鼓」は金谷の山上にあった諏訪原城の戦国時代の陣太鼓をモチーフにした演目。そして「東海道金谷宿」は金谷宿のかつての賑わいをイメージした演目で、一人の演者が向かい合わせの二つの太鼓を交互に打ちながら、3人の演者が次々と入れ替わる。その様がそのまま踊りのように見え、聴衆に小気味良い感動を与えた。一つ叩けば鈍い音しか出ない太鼓だが、複数の演者が気持を合わせて叩くと不思議に切れが出てくる。
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徳山の盆踊り-郷土芸能を観る会

(徳山の盆踊りのうち「鹿ん舞」)

川根本町の徳山からは、国指定重要無形民俗文化財の徳山の盆踊りのうち、「鹿ん舞」と「ヒーヤイ」が披露された。

徳山浅間神社で毎年八月十五日に行われる盆踊りでは鹿ん舞(しかんまい)・ヒーヤイ及び狂言が演目として演じられる。徳山の東にある無双連山一帯ではかつて焼き畑農業が行われていた。「鹿ん舞」は、焼き畑農業にとっては害獣である鹿の駆除を祈願する神事が、盆踊りに取り込まれたものといわれる。「鹿ん舞」は舞台には上らないで「ヒーヤイ」を舞うときに舞台の周りを警護役として踊り回る。昔は成人男子が踊っていたが、今は中学生の男子が踊る。

「鹿ん舞」の行列が客席の後ろから笛・鉦・太鼓に合わせて入ってきた。先頭の一人は立派な角の牡鹿の頭を頭上に載せている。続く二人は牝鹿の頭を乗せている。さらに左側頭部にヒョットコ面をつけた六、七人が続き、笛・鉦・太鼓の奏者が最後に続いた。鹿の頭もヒョットコ面も素朴なもので、中学生たちの手作りのように見えた。舞台に上がって、中腰で手に持った二本の紅白の綾棒をくるくる回しながら跳びはねるように踊る。畑を荒らす三頭の鹿をヒョットコ面たちが追い立てているさまを踊りにしたものであろう。


(徳山の盆踊りのうち「ヒーヤイ」)

「ヒーヤイ」はかつては男性が女装して踊ったというが、今は小中学生の女子が踊り手になっている。饅頭笠を被り、化粧して、浴衣に黒いだらり帯を締めた4人が出てきて、小唄に合わせて舞う。最初は紅白の綾棒を持ち、次いで扇に持ち替え、さらに饅頭笠を外して舞う。古歌舞伎踊りの初期の形態を残したという古風で優雅な踊りである。盆踊りではもっと沢山の子供たちが踊るのであろうか。「ヒーヤイ」の名前は唄の終りにつく囃子詞からつけられたという。

前の座席のカメラのおじさんは、4人のうちの美形の一人にだけに、望遠レンズを向けてしきりとシャッターを切っていた。化粧した姿に子供ながら不思議な色気がある。おじさんは踊りが終わると居なくなってしまったから、おそらく家族の誰かに写真を撮ることを頼まれたのだろう。

南北朝の争乱の時代、それまで徳山を治めていた土岐氏は、1353年、北朝方の今川範氏に攻め滅ぼさた。鹿をモチーフにした踊りは大井川筋では徳山の「鹿ん舞」だけで、孤立して伝承されてきた。「鹿ん舞」も「ヒーヤイ」も周辺に類似した踊りは痕跡すら見出すことが出来ない。その謎について、徳山の盆の芸能が祇園会の風流だとして、この地に怨霊となって留まる土岐氏の霊を鎮めるために、京文化を取り入れるに積極的であった今川氏が、この地に限定して、京文化の影響を受けたこの芸能を行わせたとする説がある。その説によれば、徳山の鹿ん舞は獅子舞、ヒーヤイは綾棒踊りの風流念仏をルーツとするという。以後徳山は、武田氏・豊臣氏・徳川氏の支配を経ることになるが、その間に村人は少しづつ変質させて、独創的な「鹿ン舞」と風流踊り「ヒーヤイ」として完成させ伝承してきたと考える。
  ※「祇園会」は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行った。
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梅津神楽-郷土芸能を観る会

(梅津神楽「八王子の舞」)

日曜日の午前中、会合に出かけていた女房が帰ってきて、島田の“おおるり”で郷土芸能を観る会があるので行こうという。どこかでそんなイベント案内を見た覚えがある。その日が今日だったのか。午後、雨の中、出掛けた。プラザおおるりホールは8分くらいの席が埋まっていた。前から4列目の中央あたりに座った。意外に前の方が空いていたから、写真に撮るにも都合良さそうだと思った。

最初の出し物は梅津神楽で「八王子の舞」。大井川の奥、接阻峡の、川根本町梅地・犬間の両地区に伝わる500年続く神事で、昭和47年に静岡県無形民族文化財に指定されている。梅地地区のこだま石神社と犬間地区の若宮神社の祭典前夜祭に、一年おき交互に奉納される。かつては両地区で毎年奉納されていたが、長島ダムが出来て集落の戸数が大きく減り、両地区の神楽が合流して、両神社1年おきの奉納となった。

室町時代に11年続いた応仁の乱(1467~1477)、京都梅津の里(右京区)に住んでいた筑地氏は、戦乱に追われるように、一族を率いて都を落ちて、信州飯田を経て今の接岨峡へ移り、村を開いたといわれている。筑地氏は村を京都の梅津に因み、梅津(今の梅地)と名付けた。同時に氏神を勧請して自ら神主となり、その社前で奉納したのが梅津神楽の始まりと伝わる。

大井川の奥の集落は文化的、言語学的にも、信州とのつながりが強いと言われている。現代のように鉄道、道路網がなかった時代には、大井川の鵜山七曲りのような険しく曲がりくねった渓谷を縫って駿遠地方から遡って来るよりも、信州から3000メートルの山々を越えて至る方が格段に楽であり、人や文物の交流も信州の方がはるかに太かったといわれている。接阻峡に残る伝承はそのことを示している。時代が変わって表と裏が逆転することはしばしば歴史に出てくる現象である。

梅津神楽の舞の種類としては、幣の舞・三宝の舞・天王の舞・鬼の舞・八王子の舞・須佐之男の舞・太刀の舞・殿の舞・恵比須大国の舞・翁の舞・五方の舞・金丸の舞・宇須売の舞・八幡の舞・大弓の舞などがある。観る会にはその内「八王子の舞」が18分に短縮されて演じられた。

「八王子の舞」は、金襴の袖なし胴着を羽織った白丁装束の4人の熟年男性が、右手に鈴、左手に抜き身の刀を持って、神歌を謡いながら登場し、四角形を崩さないように、時計回りに五方をとって舞う。途中から一人ずつ刀を身体に近いところで激しく振り回す所作が入る。須佐之男命の子供たちの舞いといわれている。
  ※「五方」-五つの方角。中央と東・西・南・北。
  ※「神歌」-「八王子や峰に峰にと思えども/いまはふもとに御座やまします」

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裾野市の旭滝と不動の滝

(裾野市茶畑の、不動の滝)

(昨日の続き)
五竜の滝の後「旭滝」に向かった。黄瀬川の支流、佐野川に沿った県道24号線をしばらく北上すると、道路左側の車一台通れる横道に古びて目立たない「旭滝入口」看板がある。一度通り過ぎてしまい、戻ってきてトラックに続いてその横道を進んだ。山道の左側が鉄板で目隠しされた壁が続き、少し気味悪さを感じながらトラックのあとを進んでいくと、左側に産廃の最終処分場があり、トラックはそこに入った。目隠しの理由はこれであった。処分場と反対側の佐野川に大きな釜状の地形があった。それが「旭滝」だった。


(空の旭滝)

一ヶ所、滝が落ちていたらしい地形があったけれども水が枯れていた。落差30メートルあるというが、水が枯れていればどうしようもない。ネットで見た写真は立派な2条の滝が水煙を上げて落ちていた。これはどうしても雨季にもう一度訪れないわけには行かなくなった。案内書にあったように、そんなに奥にあるわけでもないのに、忘れられた滝になってしまった一因は、季節によって空滝になるためであろう。そばに産廃処分場が出来て、いよいよ見捨てられた滝になってしまった。

早々に「旭滝」を切り上げ、最後に裾野市茶畑の「不動の滝」へ行く。来た道を戻り、JR御殿場線裾野駅から西へ進む。大場川の支流、泉川に「不動の滝」はある。「不動の滝」の名前の由来にもなった、不動尊を祀った不動堂の脇に駐車して、そこから遊歩道を降りていくと、すぐに左手に「不動の滝」が落ちている。

案内板によれば、「不動の滝」は溶岩流の断崖にかかっていて、高さ10m余りの滝
である。水量がたっぷりで、立派な滝であった。不動堂の駐車場では滝の音がほとんど聞こえず、こんな街中に滝が隠れているとは、知らない人は近くに何度来ても滝に気付かないかもしれない。

滝から下流の一帯を、昭和33年、共有地であったものを、地元民の協力により開放され、裾野市の管理下に置かれて遊園地として整備され、「偕楽園」と名付けられた。特に滝の周りには樹木がうっそうと茂って、流れを渡る歩行者用の橋も架かっていて、夏には涼味たっぷりな公園だと思った。


(対岸から見る不動の滝)

遊歩道を下る途中途中で角度を変えてデジカメで撮った。歩行者用の橋や、向こう岸からもデジカメで撮った。鬱蒼として昼なお暗く、滝のはじけるような水滴が肉眼では見えるのに、写真に撮れば平板なものになってしまう。滝の撮影の難しいところである。

この滝はメインの条の左に細い条がある。水量が増えると二条に見えるほど、左の滝が太く落ちるようになるらしい。滝は何回も訪れると、水量によって訪れるたびに違った姿を見せてくれるようだ。

夕方帰宅してテレビを見ていると、訪れたばかりの静岡県東部は夕方から大雨になって警報が出ていた。見てきた六つの滝は大変なことになっているであろうと想像した。
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裾野市の五竜の滝

(五竜の滝-雄滝、左から「雪解」「富士見」「月見」)

(昨日の続き)
国道246号線沿いの「道の駅ふじおやま」で昼食を摂り、午後は裾野市の三つの滝を見て帰ろうと思う。

最初は、街の中央を流れる黄瀬川にある県指定天然記念物「五竜の滝」である。裾野市中央公園駐車場に車を停め、公園内に入ると川の幅に三条になって滝が落ちていた。黄瀬川本流に落ちているこの三条の滝を雄滝と呼ぶ。対岸の林の中にわずかに見え隠れしているのが雌滝のようだ。雄滝にデジカメを向けると滝の上に住宅が写ってしまう。それだけこの滝は街中にあるということなのだが、興ざめなので、一段下の川縁まで降りて、少し見上げる角度で写すと住宅が入ってこない。さすがに一級河川の本流に落ちる滝だけに、水量も申し分なく一級である。 

案内板によると、約1万年前の新富士火山三島溶岩流の末端に形成された滝で、玄武岩溶岩流の断面が観察できる貴重な学術資料であり、滝の高さ十二メートルの間に、溶岩層が重層し、地下水が溶岩の間から出てくる様子が分かるという。

滝にはそれぞれ左から、雪解・富士見・月見(以上雄滝)銚子・狭衣(以上雌滝)という優雅な名前がつけられいる。この三条と二条を合せて、「五竜の滝」と呼ばれている。


(五竜の滝-雌滝、左から「銚子」「狭衣」)

吊り橋で対岸に渡って、残りの二条を見ようと思い、河原に下ろうとすると、下る道がロープで立入禁止になっていた。危険な場所があるようではなかったので入ってみた。荒れるままの河原で、子供たちには少し危険があるということなのだろう。近くまで行って、雌滝をデジカメに取ってきた。せっかくの五竜の滝なのだから、遊歩道を整備すれば良いのにと思った。

後で、住宅地の道をたどって滝の上に行ってみた。「狭衣」の上部は農業用水にでもなっているのか、水門があって余分な水だけを黄瀬川に流しているらしい。コンクリートで固めた落ち口が興ざめであった。「銚子」の上部は住宅地を流れる川で、生活用水も流れ込んでいるのだろう。こちらもコンクリートで固めてある。雌滝の二条の滝は水質にも問題があって人を近付かせたくないのかもしれない。


(五竜の滝、雄滝の落ち口)

雄滝の落ち口は黄瀬川の本流であった。流れてきた溶岩が冷えて固まったままの、平らな黄瀬川の河床が突然12メートルの落差で落ちている。落ち口は溶岩がわずかに低い三ヶ所である。溶岩流の末端に形成された滝と説明されているが、どうしてここで溶岩が羊羹を切ったように止まり、12メートルの落差を作ることになったのか、今一つ判らない。

この辺りは以前は佐野瀑園と呼ばれ、五竜館というホテルも建っていた。皇族方や若山牧水、新田次郎といった文人たちも訪れた景勝の地であったという。滝は何も変わっていないように思うが、今は観光地ではなく、市民の散策の場になっている。(明日へ続く)
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遊女の滝から不老の滝へ

(遊女の滝)

北京オリンピック、男子4×100メートルで日本男子(塚原、末続、高平、朝原)が銅メダルを取った。陸上のトラック競技で日本がメダルを取るのは何と80年ぶりというから快挙である。

(昨日の続き)
足柄山といえば金太郎、周辺には真偽のほどは別にして、金太郎にまつわるたくさんの伝説と遺跡がある。先の「頼光対面の滝」もその一つであるが、これから向かう「遊女の滝」にも金太郎所縁の伝説がある。

足柄峠から小山町に下る金太郎富士見ラインの途中から、大沢林道に入った先に「遊女の滝」がある。滝への降り口には静岡県で行われた東海道400年祭のマークの入った看板が立っていた。箱根越えの東海道以前に、足柄垰を越えていた足柄街道が東国と西国を繋ぐ重要な道として開けていた。ただ、東海道400年祭にこの地域も参加していたとは知らなかった。

降り口から山道をしばらく下って、滝のある沢まで降りた。そこからすぐ上流に滝は見えていた。渓流に転がった岩を伝って滝のそばまで至った。落差8メートルで、一つの落ち口から、途中出っ張った岩で二つに分かれ、左の条がさらに下の岩で二つに裂かれ、都合三条に分かれている。

案内板によると、金太郎の母、八重桐はある日金時山の頂きで寝ていて、夢の中で赤龍と結ばれ、金太郎を宿した。八重桐は山を降りて、この滝に身を打たせ、生まれてくる子供の健康を祈願した。八重桐が滝に打たれる姿を見た里人はこの滝を「遊女の滝」と呼ぶようになったという。

この話から、八重桐は遊女で金太郎は父無し子であったことが分かる。「赤龍」は昨日書き込みした「頼光対面の滝」伝説の「赤い雲」と呼応している。


(小山町道路脇の満開のサルスベリ)

大沢林道は「遊女の滝」まで舗装がしっかりされた道であったが、駿河小山駅に下って行く道は、未舗装の悪路が続いた。小山町に降りた道端に、紅い花が満開のサルスベリの木があった。あまりに見事な咲きぶりに、車を停めてデジカメに収めた。小山町を抜け、鮎沢川を渡って、北方の世附峠に向かう林道を奥へ入って行く。

次のターゲットは「不老の滝」である。地図を見ると、滝の北東に標高928メートルの不老山がある。滝の名前もその山の名前から付けられたのであろう。林道は不老橋のところでゲートが閉じらて先に行けない。滝までは200メートルほど林道を歩き、右に下った沢に「不老の滝」はある。沢まで下ると滝が見えていた。何とか滝壺まで達するのに、小さな沢を2度3度と渡り、わずかに踏み跡のある斜面を登るなど、けっこうな山登りとなった。


(不老の滝)

「不老の滝」は落差20メートルを3段になって落ちていた。小山町で見た不動、遊女、不老の三つの滝ともに水量は少なくて、滝のすぐそばまで行けた。いずれも沢を渡ったり、沢沿いに登ったりしなければならないため、雨の後では近づけないかもしれない。(明日へ続く)
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