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「竹下村誌稿」を読む 126 質侶庄 13

(庭のバラ)

庭の唯一のバラが花を付けた。これだけと思うと、大変貴重である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

要するに加納と云い、出作と云えるも、ともに公田蚕食の名称に外ならず。また、

本所 或るは本家とも云い、即ち領家にして、貞永式目抄に、本所とは領家なり。元来の領主を云うなり。

預所(あずかりどころ) 本家若しくは領家より置かれたる代理者にして、沙汰未練抄に、領所は本家御預所務代官。

下司(げし) 元来地頭は関東の沙汰に出で、下司は諸領家の進止に属し、全くその性質を別にすといえども、必(畢)竟、これらを概称して下司と云う。京都革嶋文書に、
※ 進止(しんじ)- 土地や人間を占有・支配すること。管領。

河島下司職こと、右本家御教書、領家御下知の状、進ぜ候。御知行有るべく候。仍って状、くだんの如し。
 正和元年(1312)十一月十九日        預所 光盛 花押。

請所(うけしょ) 地頭、下司が一定の年貢を領家に納め、その庄園の司(支)配権を申し請けるものにして、東鑑、建久三年(1192)十二月二十日の条に、渋谷輩は偏えに勇敢に備え、もっとも御意に相叶うの間、慰(い)のため、公事勤役、彼らの領所、相模国吉田庄地頭を以って、申し請けられ、領家円満院請所とす。
※ 公事(くじ)-中世、年貢以外の雑税や賦役の総称。
※ 勤役(きんやく)- 役を勤めること。また、その役。


得分 庄司の職務の報酬田にして、公事のみを免除するを、給名、庄官名、雑免と云い、租税公事一切を免除するを給田と云い、領家と所当を分かちたるものを得分と云う。東鑑、文治二年三月(拾日)の条に、
※ 所当(しょとう)- 中世、官または領主に納付する物品や雑役。

早く先例に任せ、御上分に備え、神役、並びに給主、禰宜、得分物を弁ずべし。
※ 上分(じょうぶん)- 荘園制下、収益の対象となる土地からの得分。土地を下地(したじ)というのに対し,得分を上分といった。
※ 神役(れい)- 神官。神職。
※ 給主(きゅうしゅ)- 中世、領主から給田を与えられ、年貢課役の納入責任者となった者。


恩地 陣夫公事などを免除するものにして、甲陽軍鑑に、
※ 陣夫(じんぷ)- 戦争に必要な食糧などの物資を運んだ人夫。駄馬を引いて出るのが普通である。農民から徴発された。
※ 公事(くじ)-中世、年貢以外の雑税や賦役の総称。


恩地、水旱損亡にあるといえども、替地を望むべからず。陣夫、公事など勤めなく、また事故なくして沾却せしめる事、これを停止(ちょうじ)せしめ畢んぬ
※ 水旱(すいかん)- 洪水と干魃(かんばつ)。また、それらによる災害。
※ 損亡(そんもう)- 損害をこうむること。
※ 事故(じこ)- 事柄の発生した理由。わけ。子細。
※ 沾却(せんきゃく)- 恩恵をしりぞけること。
※ 畢んぬ(おわんぬ)- 終わった。…してしまった。


読書:「心星ひとつ みをつくし料理帖」 高田郁 著
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「竹下村誌稿」を読む 125 質侶庄 12

(発掘調査中の光明山遺跡)

昨日に続いて、午前中、NT氏に誘われて、浜松の光明山遺跡に見学に行った。新東名で行くと引佐まで15分ほどで着いてしまう。見学にはたくさんの人が来ていて、大賑わいであった。おそらく一日で1000人以上の人が見学に来たのではなかろうか。

光明山遺跡は、県下最大級の前方後円墳と云われ、発掘は後円部分の北側と東側が試し掘りされて、全体の古墳の往時の様子が判って来たようだ。不思議に思うのは、こんな山の中で、1500年という時は経っているとはいうものの、すっぽりと土に覆われていることである。登呂遺跡なら洪水で土砂が運ばれたのだろうと想像が付くが、ここは山の上である。

NT氏は草木によって土が吸い上げられるのだろうという。それは想像していなかったことである。草木が育ち枯れることが繰り返され、腐葉土が古墳の上を覆っていくのは理解できる。しかしそれがこれほどの厚みになるのかどうかは確信がない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その来由摘記すれば、
※ 来由(らいゆ)- いわれ。来歴。由来。
※ 摘記(てきき)- 要点を抜き出して書くこと。


地頭 王政の時、諸国の庄司、目代の輩を云える私称に起これり。武家名目抄に、一条、三条、両帝の頃に起こりしならんと云う。もと租税の収納を専らの務めとしたる土地の頭人なれば、後世、これらを呼びて地頭と云うに至る。河内小松寺縁起、保延年間勧進奉加帳に、高宮郷地頭代宗時、田原郷地頭代僧道印と見え。
※ 目代(もくだい)- 律令制下の地方官の代官。

加納 庄園の本免外に、租税を加え納めしむる新開余田にして、後二条関白記、寛治七年(1093)二月(十四日)の条に、時範云う、伊賀国司申さしむの旨、伊勢大神宮、二十一年遷宮事、役夫工料、東大寺庄園加納田充課すの条、云々と見え、人事記、保元元年(1156)閏九月(拾八日)の条に、本免外加納余田、云々。
※ 時範(ときのり)- 平時範。平安時代後期の官人。
※ 充課す(あてかす)- 雑事・雑役を割当てること。


出作(でさく) 庄園の区域以外に出でて、開き作れる田土にして、続左丞抄、保元二年(1157)三月十七日の宣旨中、右件庄園など、或るは官省符に載せ、或るは勅免地として、四至坪付、券契分明。而るに世は澆季に及び、人は貪婪を好み、加納と号し、出作と称す、本免外、公田を押領し、暗に率法を減ず。官物を対捍し、蚕食の漸狼戻の基(もとい)なり。
※ 田土(たど)- 田地。
※ 官省符(かんしょうふ)- 荘園の永代領有と、租税免除の不輸の特権とを公認した太政官符や民部省符。
※ 勅免地(れい)- 勅命により租税の免除を受けた地。
※ 四至(しいし)- 中世の屋敷地、田地、所領などの範囲を示す四方の境界。
※ 坪付(つぼつけ)- 古代・中世、田地の所在地・面積・状況などを記した帳簿。
※ 澆季(ぎょうき)- 道徳が衰え、乱れた世。世の終わり。末世。
※ 貪婪(どんらん)- ひどく欲が深いこと。また、そのさま。貪欲。
※ 券契(けんけい)- 地券・手形・割符などの総称。券。証文。
※ 対捍(たいかん)- 中世において、国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し、地頭や名主などが反抗して従わないこと。
※ 蚕食の漸(さんしょくのぜん)- 蚕食が少しずつ進むこと。
※ 狼戻(ろうれい)- 欲深く道理にもとること。

とあり。
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「竹下村誌稿」を読む 124 質侶庄 11、松ヶ岡山崎家見学

(松ヶ岡、山崎家の長屋門)

先週の金谷宿大学の古文書講座で、受講者のNTさんの呼びかけで、月一回の一般公開日に当たる、掛川の松ヶ岡、山崎家住宅を、希望者だけで見学に行くことにしていた。今日がその日で、朝9時半、みんくる前に5人の受講者が集まり、自分も含めて6人で見学に出掛けた。

山崎家の中を、掛川市教育委員会社会教育課の女性が、丁寧に案内してくれた。山崎家はもとは伊達方で油を商っていたが、城下へ出てきて商売を広げ、代々掛川藩の御用達を勤める、掛川藩内で有力な商家になった。御用達の役割の大きな部分は掛川藩への資金の提供で、返せない資金は土地で戻ってきた。明治の初めごろには、あちこちに土地を所有していたという。

現在、山崎家は市で買い取ったが、建物を補修をしたくとも予算が取れず、ボランティアの手を借りて、庭園整備や細かい補修はしているものの、建物補修はままならない。安政の大地震後に再建された建物は、放っておけば崩れて行く。何処も文化財としての古い建物の維持には苦労しているようである。(維持のための募金箱に1000円入れてきた)

商家の山崎家に沢山あったはずの古文書は、掛川市の管理下に移る前に、そのほとんどが、山崎家によって処分されていたと聞いた。商家の古文書は意外と少ないから、残っておれば、掛川藩における御用達の役割やその日常など、貴重な歴史の一部が知れたはずだが、大変残念に思った。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

庄園の事務は一切本家、領家の進退する所にして、国司これを問うことを得ず。東鑑、貞永元年(1232)の条に、

畿内、西海など近国相論のことは、国領は国司の成敗たるべく、庄園は本家、領家の沙汰たるべしと定めらる。
※ 相論(そうろん)- 互いに論じること。訴訟して争うこと。

とあり。而して庄司は専ら土地人民を収め、庄倉ありて租税を蓄え、本家、領家は庄司の上にありて、ただ輸物を収むるに過ぎざりし有様なりし。
※ 庄倉(しょうそう)- 荘園で徴収した穀物を貯蔵しておく倉。
※ 輸物(ゆぶつ)- 税として納入された物。


大凡(おおよそ)庄園の田称としては、地頭、加納、出作、などあり。本所、預所、下司、請所、得分、恩地、知行、一色別納、公文、田所、政所などの名称も見ゆれども、これらは多く鎌倉の時より起り、或るは職名の因襲して、田称となりしものあり。所謂、公文、田所、政所などの如きものこれなり。されど地頭、加納、出作などは皆な鎌倉以前にありしこと明らかなりとす。


読書:「闇の叫び アナザーフェイス9」 堂場瞬一 著
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「竹下村誌稿」を読む 123 質侶庄 10

(散歩道のヘビイチゴの群落)

久し振りに、昼間に一時間ほど散歩した。ヘビイチゴの花の群落は畑の脇にあった。イチゴになるまでには耕されてしまうかもしれないが、実が成ったら見に来よう。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また本庄大代に、庄司と称する地名ありて、庄園時代、庄司の住せし処なりと云うといえども、更に考うべき徴証の何物をも有せず。さてこれより先、平氏の権勢を専らにし、海内を抑制する二十余年、悉く源氏の庄園を収め、自ら天下の半ばを領し、その一門の庄園五百余所と聞こえ、当今の人は、平氏に非ざれば人に非ずと云うほどまでの驕大を極めたりしも、世は栄枯常なく、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きを伝え、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理に洩れず。
※ 徴証(ちょうしょう)- あかしとなる証拠。
※ 海内(かいだい)- 四海の内。国内。


盛衰たちまち位を転じ、頼朝已に平氏を滅ぼし、府を鎌倉に開き、六十余州総追捕使となり、平氏の庄園を没収し、国郡平均の必要により、諸国に守護を置き、庄園に地頭を居き、家人を以ってこれに補せしより、鎌倉の家人全国に満ち、兵権、地権を併せて武門に帰するに至る。而して守護は検断を職とし、平時は犯罪を緝捕し、事あれば家人を率いて軍(いくさ)に従い、地頭は行政を司(つかさど)り租税を徴収す。
※ 平均(へいきん)- 平定すること。統一すること。
※ 家人(けにん)- 御家人。将軍直属の武士。将軍に忠誠義務を尽くす代償に、所領安堵・新恩給与などの保護を受けた。
※ 検断(けんだん)- 非違を検察し、不法を糾弾する意。
※ 緝捕(しゅうほ)- 逮捕すること。また,その役目を負った人。


これら守護、地頭は皆な鎌倉に在りて、吏員(役人)を遣わして、事を監せしむ。これを代官と云う。これより公家、武家の所領など、多く庄名を付するを便とするに至り。公武地を替え、武家の益々盛んなるに反し、国司、領家は暁星の光の如く、次第に衰え、その名有りてその実なく、府館は遂に武家被官の住家となれるほどに立ち至り、郷庄の名もいつしか混乱して区別すべからざるに至る。
※ 暁星(ぎょうせい)- 明け方の空に残る星。

初め庄園の起りしより、権門宰史、庄園分占の勢をなし、自らその職名を異にし、国に属するものを公領、国領と云い、院宮王臣家に属するものを本家、領家と云い、神社に属するものを神領、社領と云い、仏寺に属するものを寺領と云う。而してその庄務を司るものは、庄長、庄預、総検校、検校、専当、別当、などあり。皆な庄司と称す。また雑掌、庄目代、などありて、庄務を管領せしものあり。
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「竹下村誌稿」を読む 122 質侶庄 9

(散歩道のハナミズキ/4月20日撮影)

「天澤寺殿三百年記録」の講義資料、一気に20ページまで進んだ。残り、13ページである。これから、メインの「献立」に入るが、そこがなかなか難物である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(板垣)兼信廃せられしより以後の本荘は、何人の所管となりしか知り難きも、或るは佐々木盛綱が一度、本荘を管理したるには非ずやと、思わしむる形跡あり。そはその郎党たる宇田太郎信秀は、前節にも述べし如く、建久中、本庄に居住したりしものゝ如くにして、郡志、質侶庄の条に、

何らの名称にて、佐々木氏の、本庄を管理したるには非ずやと思わるゝ節あり。そは東鑑、建久元年(1190)十月の条に、十三日甲午、遠江国菊川宿に於いて、佐々木三郎盛綱、小刀を鮭楚割(さけすわやり)に相添え(折敷に居き)、子息小童を以って、御宿に送り進じ、申し云う。只今これを削り、これを食しむ処、気味頗る懇切、早く聞食(きこしお)すべしや、云々。殊に御自愛、かの折敷、御自筆で染められ、曰(のたまわ)く、
※ 楚割(すわやり)- 昔、鯛・鮭などの魚肉を細く割って干した保存食。削って食べる。
※ 折敷(おりしき)- 食器を載せる食台の一種で、四角でその周囲に低い縁をつけたもの。すなわち方盆のこと。
※ 小童(こわっぱ)- 小僧。若僧。
※ 気味(きみ)- 香りと味と。
※ 聞食(きこしおす)- 召しあがる、お飲みになる。
※ 自愛(じあい)- 自分のものとして珍重すること。


   待ち得たる 人の情けも すわやり(楚割)の わりなく見ゆる 心ざし(志)かな
※ わりなし - この上なくすぐれている。何ともすばらしい。

とあり。これもとより、佐々木信綱のこの地に居住したりと云う確証とはならざるべきも、その子息小童、御宿に送り進ずと云うもの、別に近江などの遠国より齋したる様にも非ずして、却って上洛の供奉して、我が所住の地に来たりしを以って、聊か馳走の意を表したるが如くなるのみならず、歌の意味も、その迎接の情を歓べるものゝ如し。
※ 迎接(げいせつ)- 出迎えて応対すること。

と云えり。按ずるに、板垣兼信が本庄の地頭を廃せられたるは、建久元年(1190)八月にして、頼朝の菊川に宿したる、その十月なれば、或るはこの間に於いて、何らかの名称にて、佐々木氏の管理したりしものなるやも知るべからず。兎に角、本庄と佐々木氏とは何ら没交渉なりとは看過し易からざるべし。而も、菊川は質侶庄内なれば、佐々木氏の新知として、珍客の来泊として、特に歓迎せし状況は、郡志の云う所に似たり。
※ 新知(しんち)- 新しく手に入れた領地。
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「竹下村誌稿」を読む 121 質侶庄 8

(庭のシラン)

午前中、連絡して、池新田のSN氏のお宅にうかがう。今年度、初回の講座を、急な用で休んだので、資料を届けるという名目であった。その実は、おそらく花盛りに相違ないSN邸の庭園を見せてもらうと思い、出向いた。

「孫の可愛さには、講座も負けたねえ」

講座を休んだ理由が、一歳半になる初孫が、保育園に行くのを嫌がって、困っているというので、急きょ東京へ行くことになったのだという。一歳半では、保育園に預けるには確かに厳しい。それでも何とか保育所に行けるようになったと聞く。

広い庭にはお孫さん用の、手作りの、滑り台、シーソー、ブランコ、三輪車などが出来ていたが、まだ一度も使ってもらえないという。このGW中には、帰って来ると楽しみにしているようだ。

色々な草木が花盛りで、中でも一番力を入れているのはバラ。庭中に160品種ほどのバラが植わっていると聞いた。お話を色々聞いて、花を見せて頂いて、カメラを持っていたのに、ついつい、写真を撮ることを忘れていた。だから、写真は数少ない我が家の花である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

右に対し、即日頼朝は謹んで院宣を奉じ、本庄は後任地頭を補せざる旨の請書を奉り、兎に角、公武の間に、一時紛紜を生ぜんとしたる本庄地頭職の問題も、円満に落着を告げたるものゝ如し。
※ 紛紜(ふんうん)- もめごと。ごたごた。

さて、前記雙侶は質侶の誤りにして、後人、(すずろ)傍訓を加えたるものなりと云う。そは地名辞書にこれを弁じて、
※ 漫に(すずろに)- 何とはなしに。気のむくまま。

東鑑、建久元年の条に、遠江国雙侶地頭、板垣兼信流罪のことを載せ、雙侶に、なるともと、傍訓したるも、今その名を聞かず。質侶の誤りにして、後人、漫(すずろ)に訓を加えしこと明白なり。東寺、永和二年(1376)文書に、円勝寺領、質侶庄。
※ 東鏡で、「雙侶」という文字に「なるとも」と傍訓されている。

とあるものこれなり。而して円勝寺は今廃寺となる。名跡志に、

円勝寺跡は二条南鴨川東、今の粟田口金剛寺東にあり。(承久元年(1219)焼失)

また帝王編年記に、

大治三年(1128)三月十三日、待賢門院御願供養、円勝寺(六勝寺その一なり)、額法性寺、殿下、殿上廊同、西北廊華園左府、寝殿定信、御浴室御所平等院僧上行尊。

とあり。当時に於ける朝家崇仏の旺盛なることを想知せらる。さて、板垣兼信が本庄の地頭に補せられしは、何れの時なりしか、詳らかならずといえども、按ずるに、寿永三年(1184)、鎌倉の軍、平家追討の際、兼信は部将として西海に従軍したれば、或るはその軍功によりて補せられしには非ざりしにや。兼信は駿河国大津御厨の地頭にも兼補せられしものにて、東鑑文治五年(1189)五月二十二日の条に、大皇太后宮御領、駿河国大津御厨地頭兼信とあり。
※ 大皇太后(たいこうたいごう)- 先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。

されば、これら両地は最初御料地なりしを、円勝寺建立に方(あた)り、本庄は寺家に寄付せられたるものなるべし。
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「竹下村誌稿」を読む 120 質侶庄 7

(庭のミヤコワスレ)

昨日、解読出来なかった一文字、ふとカナではないかと思い付き、変体仮名に当てはめてみて、「緒」という文字に行き当たった。これは「を」の変体仮名であった。これで、5月の第一回の分は漸く解読が終った。どこかで静岡に届けて教材の解答としてコピーを頼もうと思う。続いて、その先の解読を進めている。今のところ、2文字がどうにも判らない。これも何日かかかるかもしれない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

而してその違勅の内容はこれを窺うに由なしといえども、九月十七日に至り、鎌倉に到着せし院宣、左の如し。

十七日、戊辰去月廿七日、院宣到来、民部卿経房執達さるゝ所なり。条々の内、兼信所領、遠江国雙侶(しとろ)庄事、御旨に応じ、今日御請文献じらる、云々。これ光範朝臣所望により、地頭職を去り進ぜらるべきの由、自余、両条は、先日これより言上せられ、勅答として、云々。
※ 民部卿経房(みんぶきょうつねふさ)- 吉田経房。平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。権右中弁・藤原光房の子。
※ 執達(しったつ)- 上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。
※ 自余(じよ)- このほか。そのほか。
※ 勅答(ちょくとう)- 天子が臣下に答えること。また、その答え。


院宣云う。(東大寺料麻苧の事、日吉社千僧経並び装束の事、の二条略す)
※ 麻苧(あさお)- 麻の繊維を原料として作った糸。麻糸。
※ 千僧経(せんそうきょう)- 千僧読経。多くの僧を招いて経を読ませること。


円勝寺領、遠江国雙侶(しとろ)庄地頭の事。
(くだん)の御堂、待賢門院御創め、殊に他寺に准じず思し召し、連々仏聖、以下欠如し、年貢に対捍し、聞食(きこしおす)に便ぜず。兼信、流罪にされ訖(おわ)んぬ。その替り、地頭を補(ほ)せざるは、旁(かたがた)(うべ)なるべき事か。
※ 連々(れんれん)- 続いていて絶えることのないさま。

※ 仏聖(ぶっしょう)- 仏前に供える米飯。仏供。
※ 対捍(たいかん)- 中世において,国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し,地頭や名主などが反抗して従わないこと。
※ 聞食(きこしおす)- 召しあがる、お飲みになる。
※ 旁(かたがた)- いずれにしても。どっちみち。
※ 宜(うべ)- 本当に。もっともなことに。なるほど。


   以前条々、この旨を以って仰せ遣わすべきの由、内々
   御気色候なり。仍って上啓くだんの如し。
    八月廿七日                右大辨定長
         謹上  民 部 卿 殿

※ 気色(きしょく)- 意向。意志。
※ 上啓(じょうけい)- 啓上。目上の人に申し上げること。
※ 右大辨(うだいべん)- 律令制で、太政官右弁官局の長。従四位上相当。


読書:「走れ、千吉 小料理のどか屋人情帖18」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 119 質侶庄 6

(散歩道のイペー/4月20日撮影)

ブラジルの国花、イペーの花を散歩道で見つけた。花が咲かないと判らないから、今まで見逃していた。

一日、「天澤寺殿三百年諱」の解読、第一回目の資料を仕上げていた。どうしても一文字、分らない文字がある。今日は解読を諦めた。こういう場合は少し日を置くと、分ることを経験しているから、明日、もう一度チャレンジしてみよう。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

質侶荘は古代に於ける質侶郷の地にして、王朝の末、郷戸の古制漸く頽れて、荘園の激増するに伴い、質侶郷の変じて質侶庄となりたるよりの田称にして、如何なる政事の下に発達したるか、その径路は詳らかにせずといえども、院政時代、一たび皇家の御料となりしも、大治二年(1127)、鳥羽上皇の中宮、待賢門院の御願に因って円勝寺を建立し、これが荘園として始めて寺田に施入せられたるものゝ如し。而して、その庄司若しくは地頭は何人なりしか、史籍伝わらずといえども、鎌倉の始め、本庄は円勝寺領として、板垣兼信が地頭職たりしことは、東鑑、建久元年(1190)八月の条に、

十九日辛丑、板垣三郎兼信、違勅以下積悪により、配料を処さるゝの上、その領所、地頭職を改めらるべき事、備後国在庁など、申し状を捧ず。土肥弥太郎遠平の不法訴えの事。院宣を下さるゝの間、両條御請文(うけぶみ)、一紙に載せ、言上せしめ給う所なり。
※ 違勅(いちょく)- 勅命に背くこと。
※ 積悪(せきあく)- 悪事を積み重ねること。また、積もり重なった悪事。
※ 土肥弥太郎遠平(どひやたろうとおひら)- 平安時代後期から鎌倉時代にかけての武将、鎌倉幕府御家人。
※ 院宣(いんぜん)- 上皇または法皇の命により、院庁の役人の出す公文書。
※ 請文(うけぶみ)- 上司または身分の上の者の仰せに対して承諾したことを書いた文書。
※ 言上(ごんじょう)- 目上の人に申し上げること。申し述べること。


円勝寺領、遠江国雙侶(しとろ)庄地頭の事、不当に候わざれば、これ何事に候やと存じ候処、兼信においては、誠に不当に候らん。早く改易せしむべく候なり。但し、不当に候わざらん者を、その管に補わしめ候わんと思(おぼ)し給い候。この条も御定めに随うべく候。一向に停止さるゝべく候は、左右に及ばす候。
※ 改易(かいえき)- 現任者を解職して、新たな者を任ずること。
※ 一向に(いっこうに)- 全然。まったく。
※ 左右(とこう)- あれこれ。何やかや。


備後国在庁申し状給い候い畢(おわん)ぬ。子細尋ね、追って言上(ごんじょう)せしむべく候なり。この旨、洩らし達(しん)ぜしめ給うべし。頼朝恐々謹言。
   八月十九日                    頼 朝


とあるにて知らる。
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「竹下村誌稿」を読む 118 質侶庄 5

(散歩道のヤマツツジ/一昨日撮影)


「竹下村誌稿」の解読を続ける。

地名辞書云う。これより先ず、王公諸臣など、多く山沢を占め、民と利を争う。因りてその制限あり。已にして、戸口漸く多く、その食乏しきを告ぐ。即ち田土の開墾を奨して私有を聴す。大化已来(田土人民公有の主義)の政治流弊連なりに至り、国郡一統の旧制度、将に破れんとす。延喜以後に及び、頽勢已に支えず、私田私民大いに興る。これを荘園という。
※ 流弊(りゅうへい)- 以前からの悪い習慣。
※ 頽勢(たいせい)- 物事の衰えていくありさま。衰勢。


皇国小史云う。元正天皇の御時、地方の荒地を開かしめんがために、三世一身の制を定め給いしかど、世尽きぬれば公に還す定めなれば、開墾するものなかりしが故に、聖武天皇はこの制を改めて、永く私領とすることに定め給えり。これより官位高き人は更なり、伴造、国造の如き旧族、国郡司の官を罷(や)めて土着せしものなど、各々私有地を占め、租庸調を遁(のが)れんがために、本籍を離れし人民をして、その耕耘に従わしめけるまゝ、国衙の管知せざる土地、人民多くなり、後には権門勢家の功田、賜田、社寺の寄付田、令の制により人民に賜りし宅地、林園の如きは更なり、公田すら兼併せられて、勢家の荘園とも、豪族の名田ともなれるが多かりき。
※ 耕耘(こううん)- 田畑をたがやすこと。農作すること。
※ 林園(りんえん)- 樹木の茂った庭園。樹園。


班田収授の法の、行われざるようなれる後は、民の本籍を遁れしは、僧とも、盗とも、大小名の郎党とも、荘園名田の耕夫ともなり、租調は減じて国用乏しくなりぬれば、朝廷よりは屡々こを禁ぜられしかど、その弊はますます甚だしく、国郡司の田園を私し、民利を奪う者さえ夥しくなれり。荘園を領するを領家と云い、領家は庄長、庄司を置きて、そを監督せしめぬ。地方の名田を持てるものを、高家、または、大小名と呼べり。この豪族などは兼併せし土地を、貴族、寺院の荘園となして、地頭、家人となれるもの多し。
※ 家人(けにん)- 御家人と同じ。

これらの徒は数多の家の子郎党を養いければ、意に適わざることあれば、人をも害し、戦いもなし、国司を遂(お)いしも、殺ししもありき。当時六衛も軍団も早く、その実なかりければ、諸国にも検非違使を置き、押領使を設けられたれど、その任に当れるものは即ち地方の豪族なりければ、その勢力はますます増加して、後に武家と称する一種の族人は起これるなり。
※ 六衛(ろくえ)- 六衛府のこと。平安初期以降,左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府をいう。(「衛府」は、宮門の警備を司った役所。諸門の警固、行幸時の供奉などの役。)
※ 検非違使(けびいし)- 律令制下の令外官の役職である。京都の治安維持と民政を所管。
※ 押領使(おうりょうし)- 平安時代の官名。地方の暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などに当った。
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「竹下村誌稿」を読む 117 質侶庄 4

(散歩道のシャガ)

大代川の土手法面、竹薮の蔭に、シャガが群生する場所がある。いま、そのシャガが花盛りである。

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」の初回の講座に行く。調子に乗って、七ページも進めてしまった。学生の皆さんには、少し消化不良だったかもしれない。今日は内容よりも、変体仮名に慣れて頂くことが主眼であったから、内容については有名な文書だから、解説書も多くあるので、そちらを読むように話した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

荘園考(粟田氏)云う。王政漸く弛みて、紀綱振わざりしより、諸国に新立の荘園多くなりけるに合せて、郡郷のすがたも一変して、私田、私地多くなりしなり。まず、荘園の起りは、国々なる荒廃の田また原野などを、諸院宮に給わり、また仏寺にあてゝ開墾せしめ、その玉われる田を別業(いわゆる下屋敷)とせるに始り、また賜田より起れるあり。功田を朝家に返し奉らずして、私有せるより起れるもあり。神社、仏寺の寄付田より起りたるもありと聞こゆ。
※ 紀綱(きこう)- 国家を治める上で根本となる制度や規則。

凡て荒蕪地を玉いて開墾せしめたるが本にて、その田を別業とせしより、権門勢家、恣(ほしいまま)に公民を苦役して墾闢をつとめ、愈々(いよいよ)、その私を営むまに/\、私墾田、日々に多く、この荘内は国衙の治に与(あずか)らず賦税も軽く調庸のつとめもなかりければ、百姓これを利とし、課税を遁(のが)るゝがために、勢家の民となりて、公田をば営まず、専ら荘田を耕(たがや)す故に、新立の荘園ます/\多く、租調減少して、国家終に土地人民を失う。
※ 荒蕪地(こうぶち)- 荒れて、雑草の茂るがままになっている土地。
※ 墾闢(こんぺき)- 荒地を切り開くこと。
※ まにまに - ままに。…とともに。


荘園、諸郡に錯雑して、国衙と治を殊にし、その荘を領するを領家また領主とも云い、また本所などとも称せり。領主のその上にあるを本家と云い、その下にありて荘務を管(つかさど)るを荘長、荘預また荘司と曰う。総検校、検校、専当、預、別当、寄人、など皆な荘司と云いしなり。その園務を掌るものをば園司と云い、郡司をもてその事にあずかり補するを大荘司と称し、宣旨によりて荘務を統るを総官と号す。荘毎に荘家を立て政務を行ない、荘倉を置いて租税を蓄う。
※ 錯雑(さくざつ)- まとまりがなく入りまじっていること。
※ 宣旨(せんじ)- 平安時代以降、天皇の命を伝える文書。


かくて荘司は専ら人民土地を治めて、領家はその輸物を収めしかば、租庸調の制、終に壊れにたり。当時の大勢を概略せば、天子院宮も荘園を置き、摂政大臣もつとめてこれを設け、諸国武士豪族は云うまでもなく、下は北面下﨟の輩までも、皆荘園を事としければ、その配置得失によりて、朝廷の存亡に預かるが如くなり行き、大臣の見る所、公卿の論(あげつろ)う所、すべて荘園の外には出ざりしさまなりき。
※ 北面(ほくめん)- 院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士。
※ 下﨟(げろう)- 官位・身分の低い者。
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