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「神輿まくり」と藤村の「家」

(「神輿まくり」で使われる白木の神輿のミニチュア)

福島宿の観光文化会館「まつり会館」は入館無料とあって、入ってみた。ここでは何といっても、水無神社夏祭りの「神輿まくり」で使われる白木の神輿が珍しい。この神輿は毎年お祭りの度に道路を転がすように乱暴に扱い、最終的には壊してしまう。翌年には新しい白木の神輿を造ってお祭りをする。木曽の匠の手になると毎年製造しても訳が無いのだろう。そんな神輿は全国にもここにしかない。かつてテレビでその様子を見たことがある。展示用の一回り小さい白木の神輿と、壊れた神輿の鳳凰がついた頭頂部が展示されていた。

藤村の「家」という小説の一節に、祭りの模様が描写されている。お祭りは小説の舞台の明治時代とそんなに変わっていないようにみえる。


(壊れた神輿の頭頂部)

    あの大きな御輿を町中転がして歩くんです。終に、神社の立木へ持ってッて、輿を担ぐ棒までヘシ折って了う。その為に毎年白木で新調するんです――エライことをやりますよ。‥‥‥‥‥‥‥ 押しつ押されつする御輿の地を打つ響、争い叫ぶ若者の声なぞは、人々の胸を波打つようにさせる。


福島宿のはずれに福島関所がある。そのすぐ手前に、藤村の小説「家」のモデルになった「高瀬家」があった。車道から関所へ行く坂道の登り口から、急な崖をジグザグに階段を登った丘の上にある。藤村の「家」では「橋本家」となっている。藤村は木曽福島の町を「谷底の町」と書き、この崖の道を次のように描写している。


(藤村の小説「家」のモデルになった「高瀬家」)

    この橋本の家は街道に近い町はずれの岡の上にあった。昼飯の後、中学生の直樹は谷の向側にある親戚を訪ねようとして、勾配の急な崖について、折れ曲った石段を降りて行った。


「高瀬家」も実際に藤村の姉が嫁した家であった。家業は薬屋である。玄関に古い薬の看板が飾られていた。出てきた主人に、入館料200円を払いながら、「元は薬屋さんだったんですね」と聞くと、「ええ、今は資格が必要ですから出来ないですが」「家」にも家業にいそしむ風景が描写されていた。

    薬研(やげん)で物を刻(おろ)す音が壁に響いて来る。部屋の障子の開いたところから、斜(はす)に中の間の一部が見られる。そこには番頭や手代が集って、先祖からこの家に伝わった製薬の仕事を励んでいる。


福島関所跡は、高瀬家から小道を少し歩いたすぐ北隣にあった。しかし「家」には福島関所の記述は一切無い。明治も中頃になると関所なども記憶の外になっていたのだろう。現在はそれが木曽福島の町興しの重要なアイテムになっている。
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健脚なヒゲと峠小屋ノート

(白髪混じりのヒゲさんと)

中山道歩きの1日目、薮原宿で予約した勇屋旅館に入る。部屋に案内する途中に、「ここがお風呂です」と案内されたところから、白髪混じりのヒゲが顔を出した。一風呂浴びた浴衣姿である。このヒゲさんがこの宿に同宿の唯一の客だった。多分、我々が予約した後電話をして、ついでだからと一人でも受け入れてもらえたのだろう。ヒゲさんの予約が先だったら、我々の予約電話にもっとスムースな返事があっただろうから。

翌朝、ヒゲさんは我々よりも早く宿を発って行った。女房が洗面所で得た情報では、我々の倍以上のスピードで中山道を歩いているようだ。塩尻から歩いて奈良井宿の手前、無人駅だと言ったから、多分贄川駅まで歩いて、宿を薮原に予約し、ここまで電車で来た。今朝は贄川駅まで戻って続きを歩くのだという。奥さんは、いいとこ取りで、時々同行するらしい。もっとも一緒に来ても、この健脚にはなかなか付いて行けないであろう。

鳥居峠を登って、峠の小屋でヒゲさんにばったり会った。女房が声を掛けると間違いなかった。少し早く出たとはいえ、贄川宿、木曽平沢、奈良井宿を通り鳥居峠まで、10kmはあろうか。山の登りを考えると大変な健脚であった。同じ中山道を反対に歩いているから、出会っても不思議はないが、ちょっと道草でもしていれば、すれ違う可能性も高かった。女房と写真に入っていただいた。このあと、薮原宿、宮ノ越宿、福島宿と進め、上松宿まで歩くと話して峠を下って行った。上松宿までなら峠から26kmある。

見送ったあと、手洗いを済ませる女房を待つ間、峠の小屋具え付けのノートを手に取った。もしかして勅使河原さんが書いていないかと微かな期待もあった。ぱっと開いたところに「兵庫県豊岡市」の文字があった。故郷の住所にびっくりして中を読んだ。

去年7月、57歳の男性、「早水好春」氏が一人で奈良井宿から薮原宿に峠越えしている。32年前、友と歩いた思い出に、もう一度行こうと約束していた。その友が一年前に亡くなった。若い頃の思い出を懐かしみ、友を偲びつつ、一歩一歩踏みしめながら歩いていると書かれていた。

名前を見ると坊さんのような名前で、おそらく長年、坊主と先生を兼務して来た人なのだろう。先生を退職して歩きに出てきた。そんな勝手なプロファイリングをしてみた。故郷のお盆は8月である。自分より二つ下くらいなら、故郷のどこかで接近していたかもしれない。
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木彫り梟と猪と老彫刻家

(道路端で木彫りをする老人)

二日間の中山道歩きで、途中に出会った印象深い老人のことを書こう。1日目、宮ノ越宿から薮原宿の間の街道で、交通量の多い道路に面した民家の窓にたくさんの木彫が飾られているのを見つけた。そしてすぐ先に道路端の狭い庭で、足を投げ出して坐り、木彫りをしている老人がいた。


(奥の小屋は木彫でいっぱい)

目が合って「これみんなおじさんが彫ったの」「そうだよ、見て行くかい」老人は立ち上がって作品が並んだ奥の小屋に導いた。小屋には何十体もの木彫りの動物が足の置き場の無いほど所狭しと並んでいた。フクロウやイノシシが多いのは比較的彫りやすいのだろう。「売り物なんですか」「いや、一度、町の文化展には出したけど趣味だ。まだ始めて一年くらいだよ」「一年で、こんなに、すごいですね」この「こんなに」には、こんなにたくさん、こんなに上手に、の両方の意味が込められていた。「毎日1体ぐらいのペースですね」「なに、毎日やっている訳ではないから」「先生がいるんですか」「誰かに教えてもらったわけではない。ただチエンソーを使って彫った、この二体だけは、講習に行って彫ったものだけど」大きい彫りの荒い木彫を指差しながらいう。「カバですか」という言葉を呑み込んでいると、「犬だよ」これは犬には見えない。「だんだん上手になるんですね」

女房が「勅使河原さんも立ち寄られましたか」「ああ、この辺りも通ったみたいだね」考えてみれば彼女が来たのは去年の秋だから、木彫を始めたばかりで、こんなに店を広げていなかったのであろう。1メートル弱に切った丸太が沢山積んであった。「材料には事欠かないようですね。何の木ですか」「ホウノキが多いよ」下駄の材料にもなるくらいで加工しやすいのであろう。「中が腐りかけたものもあって、補修して使うよ」見ると材料に固まりきっていないボンド状の液体が染み込ませてある彫り掛けの木彫もあった。

きっと街道を歩く人が声を掛けて見ていくのであろう。道路端で作業をしているのはそんな出会いを楽しんでいるのだろうと思った。
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ムサシが噛まれた

(芝生で遊ぶムサシ)

中山道から帰ってきて駅から自宅へ帰る車の中で、迎えに来た息子がムサシが散歩中に他の犬にかまれたという。

夫婦で中山道を歩いている二日間、ムサシの食事と散歩の世話は下の娘がしてくれた。日曜日に、下の娘夫婦でムサシを連れ出し、河原で遊ばせようと連れて行った。車に乗ることも大好きで、広いところでは大喜びで駆け回るから、時々ムサシは下の娘夫婦にドッグランの公園や河原などに連れて行ってもらう。

ムサシは河原ではリードに繋いでいたのだが、娘がムサシの糞の始末をしていたところ、河原で離して遊ばせていた犬がムサシに近づいてきた。あたりに飼い主の姿は見えない。ムサシは、気が強いのか臆病なのか、自分より強そうな犬が一定距離以上に近づくと、激しく吠えたてる。いつも散歩の時はお互いにリードで制御しているから、近づけないようにして、吠えないように何とか言い聞かせていける。しかし、相手は繋がれていないから容赦なく近づく。一回りも大きい相手の犬は吠え付かれて、本気モードになってムサシを襲った。リードを持っていた下の娘もどうしていいか分からないでいると、少し離れていた娘の亭主がとんで来て、怒鳴って相手の犬怯ませ追っ払った。

ムサシは右肩あたりを一咬みされた模様で、河原での遊びを断念して、もう家へ帰るという態度を示した。仕方なく家へ帰ってきたが、咬まれた場所は血も出ていないし、そんなに痛がりもしないから、まあ大事にはならなかった。どちらの犬も狂犬病の予防注射は受けているだろうから、その点は安心である。

我々が家に帰ると、上げてもらって居間にとんで来た。こちらが寝転がっているのを舐めようと跳びつく。しかし、いつものようにそんな挨拶だけで、すぐに飽きてしまって、女房に呼ばれると人の上を一っ跳びに越してキッチンの方へ行ってしまった。まあそのくらい元気ならば問題ないだろう。
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お久しぶりの中山道

(木曽福島駅内観光案内所、中山道手作り案内書)

この土曜、日曜に久しぶりに中山道歩きに行ってきた。前回は昨年の11月2~3日だから半年振りである。家から遠くなって、今までのように鈍行と快速の乗り継ぎでは、目的地に行くまでに時間が掛かりすぎるようになった。それで今回より特急を一部解禁とした。名古屋からL特急ワイドビューしなの5号に乗って、今回のスタートの木曽福島に着いたのは土曜日の10時23分であった。

この二日間で福島宿、宮ノ越宿、薮原宿、鳥居峠、奈良井宿、木曽平沢、贄川宿と進めた。駅前で少し早いが蕎麦を食べてから、木曽福島の観光案内所に寄った。そこで木曽福島から贄川宿までの詳しい手作り案内図を頂き、道中ずいぶん重宝した。地元の人で無ければ分からない情報がてんこ盛りであった。

道中、各宿場ごとに中山道にまつわるテーマで町興しをしていて大変楽しい。「福島関所」の福島宿、「木曽義仲」の宮ノ越宿、「お六櫛」の薮原宿、「栃の巨木群」の鳥居峠、「重要建物群」の奈良井宿、「漆器」の木曽平沢、「贄川関所」の贄川宿と並べてみただけでも興味津々である。

宿泊は薮原駅前の旅館勇屋であった。木曽福島駅前の観光案内所では今の季節ならあいてますよと言われていた。途中で薮原の宿に電話したところ、一軒目は満室だと体よく断わられた。おそらく一人ばかりの客を泊めたくなかったのだろう。次に掛けた旅館は廃業したと断わられた。3軒目では、一瞬あって、お一人ですかと聞いた。二人と言ったら、受けてくれた。一人ではやばかったかも。

二日目の鳥居峠越えは思ったよりスムースに歩け、3時の電車に贄川駅で十分乗れると思って歩いていたが、3時の電車に乗り遅れて一時間以上の待ち時間が出来た。このままだと帰りが10時を過ぎる。そこで名古屋から新幹線に乗った。車中で駅弁も食べられて、9時には帰宅ができた。新幹線恐るべしである。女房は新幹線にはこの数年乗っていないようで、乗ったのはいつだったかと指折り数えた。

この項は日曜日の夜に書き込む予定だった。しかし、さすがに疲れて、パソコンの前に坐ったものの、その日の書き込みは断念した。翌日に二日分まとめて書いた。
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レスター・ブラウンの「プランB」(後)

(環境革命「プランB」を提唱するレスター・ブラウン)

(前半より続き)レスター・ブラウンが主張する「プランB」では、すべてを市場経済に任せるのではなくて、環境に与える悪影響を環境コストとしてコストに入れて計算して社会経済を運営することである。具体例を挙げると、今までの車一台のコストに、その車が引き起こすであろう地球温暖化に対処するための費用などをコストとして載せて、車の販売価格を決めるという経済政策を採る。当然車の価格は高騰するであろう。車が高ければ人々は代替交通手段に変えるから車が激減し、環境が守られることになる。

また、イギリスの取組みとして紹介されたケースでは、マーケットの陳列棚に値段とは別に「マイル(mile)」が表示されている。そのマイルは生産地からそのマーケットまでの距離を示し、距離の大きなものほど、運送のためのエネルギーが掛かるわけで、消費者は価格とは別に環境への貢献度の判断資料として、その距離の小さいものを選んで買うのだという。これは地産地消運動の一形態である。

レスター・ブラウンは、日本はハイブリッドカーや太陽光発電の分野では先端を走っており、また省エネルギー分野でも世界をリードしている。日本の地球環境への貢献を期待していると結んだ。

日本はどうして、問題の多い植物性のエタノールの土俵へ上るのであろう。日本は世界で唯一、車のハイブリッド化を実行できる国である。エタノールの土俵はハイブリッド化の立ち遅れた欧米の一時しのぎの戦略に過ぎないと思う。そんな土俵に乗ることなく、日本独自の対策として今後10年で日本におけるすべての車をハイブリッド化する、と宣言した方が世界を動かすとおもう。

そんな中、2012年までに、ニューヨーク市内のタクシーをすべてハイブリッド車にするとニューヨーク市長が宣言したという報道に接した。問題の多い一時しのぎのエタノールにバスに乗り遅れるなと加わる日本の行政より、ニューヨーク市の方が余程先見の明がある。

(26~27日、久し振りに中山道を歩きに行ってきます)
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レスター・ブラウンの「プランB」(前)

(レスター・ブラウンへのインタビュー)

昨日のNHKのクローズアップ現代で、レスター・ブラウンへのインタビューを放映した。レスター・ブラウンは1934年、ニュージャージー州生まれで、米国農務省で国際農業開発局長を務めたのち、1974年、地球環境問題に取り組むワールドウォッチ研究所を創設。84年には「地球白書」を創刊。2001年、アースポリシー研究所を創設して、「エコ・エコノミー」などを発表。地球環境問題には環境革命が必要だとし、「プランB」という新しい道を提唱している。レスターブラウンは今回「プランB」の講演会のために来日した。

インタビューで地球環境は京都議定書から10年経って、将来の可能性の問題であった環境悪化が、現在進行形になってきたという。もはや「昨日の続きは今日、今日の続きは明日」という20世紀型の延長で社会経済を運営していくなら(プランA)、環境の悪化が進行し、世界経済は衰退、さらには崩壊する。経済発展を維持するためには人類は「プランB]という新しい道を歩むしかないと主張する。

「プランB]は環境革命ともいうべき革命的変革で、かつて農業革命や産業革命で成し遂げてきたことを、この50年という短期間に行わなければならない。「プランB]では地球環境への対応を目先のCO2を減らすというような部分で行うのではなくて、全体のシステムの見地でとらえ、答えを出していく。

例えば、ガソリンの代替燃料として植物性のエタノールが注目され、今世界規模で穀類などの主幹食料が高騰し始めている。植物性のエタノールの方がはるかに価格が高いとすれば、農業者は植物性エタノールを作る穀類(とうもろこしなど)に作物を切り替えてしまう。そのため人間が食べる穀類が減少し、価格は高騰するわけである。これば、8億人の車社会の人々と20億人の食料が不足する貧しい人々が、穀物の争奪戦をしていることになる。勝敗の行方は明らかで、結果は人類の自滅の方向を示しているとしか思えない。ある一方だけを考えてCO2問題をとらえると、とんでもない方向へ人類を導いてしまう。レスター・ブラウンは自分たちの調査が済むまで何とか植物エタノールの生産工場を立ち上げるのを待ってほしいと述べた。

この危惧はエタノールの義務化の話を聞いたとき最初に感じたことで、5月17日の書き込みで触れた。(後半へ続く)

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我が家のミックスジュース

(我が家のミックスジュース)

カーラジオが関西及び関西人の特徴を揚げた本をネタにトークをしている。二人寄れば必ずボケとツッコミが始まるとか、オレオレサギに引っ掛からないのは弁護士や警察など権威に対して、それが何ぼのもんじゃいと言って何も怖がらないからだとか、興味深い話のあと、「関西ではどんな喫茶店にもミックスジュースがある」という話題になった。ミックスジュースはオレンジジュースとバナナジュースの混ぜたもののようで、子供は好んで飲むという。関西出身の自分も知らなかった。

ところが、なぜか我が家にはミックスジュース紛いの名物ドリンク?がある。裏の畑に甘夏の木が三本ある。毎年、数百個の実をつけて、親戚筋やご近所、友達などに女房がせっせと配っている。そして女房は、残った小さいもの、形の悪いものなどを剥き実にし、砂糖漬けにしてビニールパックに入れて冷凍庫に保存している。古いものは3年物もあって、特に冬場は忘れられがちである。

ただこの甘夏の冷凍が脚光を浴びることがある。夏場、子供たちが集ったりするときに、突如、「ジュースを飲みたいか?」と発声し、賛同を待たずにジューサーを持ち出してくる。横目でバナナが食卓の隅に載っていることだけは確認してある。

材料は、冷凍した甘夏の剥き実(砂糖漬け)、バナナ、牛乳、ほぼベースはこの3点である。あとは気のついたもの、余り物は気にせずに放り込む。例えば、ヨーグルト、リンゴ、ジャム、蜂蜜。ジャムや蜂蜜は甘味を整えるために入れる。無ければ砂糖を入れて調整する。それぞれの量は適当に入れて作る。一応何を入れたのかとチェックが入るが不評だったことは無い。甘夏が凍っているので氷を入れなくて良いところがミソである。これを関西で言うミックスジュースというのかどうか。まあ、ベースにミカンとバナナが入っているから似たようなものだろう。

と、書込んでいるうちに飲みたくなった。「バナナはあるかなぁ」今夜はヨーグルトとイチゴジャムを入れてみた。

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日限地蔵、30年間お礼参り

(庭のネモフィラ・マクラタ)

何十年来の取引先、資材会社の元社長のKさんが、20日、亡くなられたと、静岡新聞に出ていた。享年88歳だという。

自分はKさんと直接仕事をする職場にはいなかったが、幾つかのかかわりがあった。30年も前からだったか、記憶にも残らないほど昔、多分会社に入って数年の頃からと思う。Kさんは毎月一回26日前後に必ず会社を訪問され、社長在社の時は社長と話し、不在に時は我々と二言三言、言葉を交わされてお帰りになるという行動を続けられた。来られたときはちょっとしたお土産を持参され、我々もご相伴にあずかった。

Kさんは昔は社長で、その後会長、さらに相談役と役割を変えられたが、その習慣はずっと続いた。Kさんが見えたと聞いて、ああ、今日は26日かと改めて暦を見るようなことがよくあった。ハッピーコールにしては正確すぎる。Kさんがどうして毎月26日なのかという理由はそのうちに知れるところとなった。

島田市へ合併する前の金谷町島に「日限地蔵」がある。大変霊験あらたかで近在はもとより遠方からもお参りに来る人が絶えない。このお地蔵さんは日を限ってお願い事をすれば叶えられるといい、この名で呼ばれている。

ある時、自分の会社の従業員が深刻な眼病を患った。Kさんは金谷の日限地蔵の噂を聞き知っていたのだろう、その従業員のため参詣し、日を限って快癒を祈願した。奇跡が起こり眼病は全快した。Kさんは大喜びで、これもお地蔵さんのご利益とお礼参りに行った。毎月26日は「日限地蔵」の月の祭礼のある日である。その後、月の祭礼の日のKさんのお礼参りが行事となった。延々と続いて30年の余となった。

その日に会社へ見えるのは、「日限地蔵」に最も近い大口取引先だったからである。それにしても社長業以外にも色々と要職に就き、多忙な中で毎月の特定の一日をお参りに使うということは大変なことである。

Kさんとは浜松の取引銀行の取引先の会合でときどき顔を合わせた。知合いの少ない浜松での会合で、よく声を掛けていただいた。会の副会長で少し高い声で挨拶をされた。支店長の新旧交替の歓送迎会では、挨拶の中で支店が出来て以来の歴代の支店長の名前をすべて並べられ、皆んなを驚嘆させられた。興が乗ると、「××××の守さま、お成り~」などと、支店長の新旧交替を大名のお国替えに見立て、芝居仕立てで発声し、参会者を驚かせたり和ませたりする名物副会長だった。

そういえばこの何ヶ月かお顔を拝見しなかった。新聞によれば葬儀は今日あったようだ。ご冥福をお祈りして、合掌。
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羽衣白糸の滝とお萬の方像

(羽衣白糸の滝「雌滝」とお萬の方像)

「すず里の湯」で女房が出てくるのを待つ間、フロントの男性と話した。雨畑林道は井川までどの位掛かるかと聞くと、「行ったことはないが、話では3時間ぐらいという。ただ、現在通行止めになっていて、開通がいつになるか判らない。いつもは5月末に開通するのだが、開通が紅葉の季節になったこともある。その時は一ヶ月ほどでまたすぐに通行止めになった。」土砂崩れがあると、春になっても復旧に時間がかかるようだ。井川まで3時間というのは少し大げさであろう。井川経由で帰ろうとの思惑は外れた。

元の道を帰るなら少し時間が早い。早川町のパンフレットを見ていて、「七面山」の地名に注目した。地図ではここからそれほど遠くない。今、興味が増している「滝」もある。滝の近くまでは車も入れそうだ。かつて「七面山」は登山の対象として気になっていたが、今まで登る機会が無かった。温泉から出てきた女房に話して、立ち寄ることにした。

春木川に沿って遡った七面山登山口の羽衣集落には旅館や宿坊のような建物も何軒かあった。登り口の周囲はヒノキの巨木・大木の森であった。杉は樹齢300年位の巨木が何本かある。皮が剥がされて赤い幹肌を晒している大木はヒノキである。道路沿いの巨木・大木の直下に多くの車が駐車されていた。信仰登山が盛んなのであろうか。空いたところに駐車して、アーチ橋を渡ったすぐ右側に正面の岩壁から「羽衣白糸の滝・雌滝」が落ちていた。滝はすぐに本流の春木川に注いでいる。

滝の前に徳川家康の側室、お萬の方の銅像があった。どうしてお萬の方がこの滝と縁があるのであろう。誰しも疑問を懐くところだが、案内板が全く無かった。帰ってからネットで調べるしかない。

後日、ネットで調べたところ、お萬の方は家康の側室になって、二子をもうけた。それぞれ御三家の紀伊家、水戸家の祖となっている。水戸黄門様はお萬の方の孫になるようだ。お萬の方は熱心な日蓮宗の信徒で、1616年の家康の死後、髪を下ろし養珠院と号した。その後、七面山の麓の白糸の滝で水行され、それまで女人禁制であった七面山に登られた。以降、七面山の女人禁制は解かれることになる。

お萬の方の銅像はそんな功績を讃えたものであった。銅像のそばに小屋があり、
「白糸滝修行衣 貸し場所」と掲示されていた。希望者は白衣に着替え、滝修行が出来るようだ。この小屋の中で着替えをするのだろう。落差は35メートルもあるが、水量が程々で岩面を滑るように広がって落ちて、滝が優しい。中ほどには虹も見える。これなら素人でも滝修行が出来そうな雰囲気があった。


(白糸の滝「雄滝」)

「雄滝」は川に沿って5分ほど上流にあった。階段を上った弁天堂の脇から全貌が見られ、さらには滝つぼのそばまで降りることも出来る。落差は雌滝とそれほど違わないが、水量が多く勢いがあって滝行には向かないだろう。うっかりすると身体さら持って行かれそうな気がする。この滝も春木川の支流が本流に注ぐ地点で滝を成していた。
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