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今朝より農作業を始める

(剪定を終えた柿の木)

月曜日だけれども、今日からは出勤の用がない。出勤の代わりに午前中、裏の畑の農作業をした。前から女房に頼まれている作業がいくつか溜まっている。まず冬野菜の畝作りである。時期としては少々遅いけれども、まだ間に合うものもある。先日、超散歩の折りに、島田のOさんの畑で学んだように、細い長い畝を作るのは止めて、畝幅が広く短い、四角い島をたくさん作っていく方法で、畝作りを始めた。3日ほど前に、島を一つ作って、今朝はその二つ目を作った。

まず、島の大きさをスコップの先で畑に描き、その中をスコップで起す。そこへ500円で買ってある籾殻、コイン精米機から出るものを集めておいた糠、一袋200円で買ってあった牛糞肥料、および石灰をいれて、混ぜながら平らに均せば、島状の畝が出来上がり。30分ほどで出来る。一日にそれを一つずつ作るぐらいにすれば、身体の負担にならない。身体が慣れるまでは決して無理をしない。

その後は柿の木の剪定を行なった。剪定方法はネットで調べてある。全体の形を逆円錐形にまとめるのがよいらしい。女房からは上を出来るだけ詰めて低くするように頼まれている。脚立を立てて、とにかく真っ直ぐ立っている枝はすべて落すように心がけた。水平の枝は、角度が60度のものを残して、重なっているものはすべて切り落す。コツは理解できても、実際の枝はそのようになっていない。自由奔放に枝を伸ばして、人の手を拒んでいるようにも見える。かなり強引に詰めたけれども、詰めすぎたように思えるくらいの方が良い。新芽が出ればすぐに切りすぎの部分も補われるはずである。かなり時間がかかったけれども、何とか終えた。落とした枝を拾ったり、柿の木の周りをきれいにしたり、少しは肥料もやるべきなのだろうが、それらすべては後日の作業とした。

最後に、裏のアパートとの境の針葉樹が枯れて腐っていて、倒れると裏の自転車置場を壊してしまうと女房が言っていた。一本は枯れて腐って3メートルほどの幹が手で引っ張ると簡単に倒れた。もう一本は下から出た太い枝がまだ生きているので、2メートルばかり残し、枯れている上部を切って倒した。これで当面、倒れて周囲へ迷惑がかかることは無いであろう。

ここまで終えて、午前中かかってしまった。無理をするのは禁物だから、シャワーを浴び、着替えて、午後は読書にするつもりが、本を読むうちに寝てしまった。

出来た畝には、午後女房が、島田のOさんから頂いた、春菊とブロッコリーの苗を植えた。苗の周りには籾殻を敷き、春から作り置いてあった、夏みかんの皮を粒状に切って干したものをばら撒いた。虫除けになるというが、冬場にはあまり必要ないかもしれない。
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講演会「ありし日の姿!諏訪原城の魅力」(後)

(40kmあたりで先頭の走者)

今朝、第3回しまだ大井川マラソンinリバティが、大井川の河川敷のマラソンコースで開催された。エントリーが9000人近くになったといわれ、大人気であるらしい。大井川の河川敷のコースはほぼ平坦で、マラソン専用のコースだから、自己ベストを出せるコースだといわれている。


(頂いたミニタオル)

女房に言われて一緒に見物に出かける。旧国道を渡った少し下流の35km地点あたりで待っていると、先頭がやってきた。35kmを走ったあとだから、皆んなかなりつかれている。中には簡単な着ぐるみで仮装して走る人もいる。これはかなりハードな走りである。20分もすると先頭が折り返して来て、交互走行になる。がんばれ、がんばれと、手を叩きすぎてくたびれた。応援に振るようにと、ミニタオルを頂いた。

   *    *    *    *    *    *    *

(昨日の続き)
諏訪原城の最近の発掘で発見された最大の遺構は、北馬出の入口に建てられた門の跡が見つかったことである。北馬出には門は無いと思われていただけに、大きな発見であった。その造りは、扉が付く前面に礎石が二つ、その上には鏡柱が乗る。背後の礎石二つには控柱が乗る。間にあと二つの戸当たり石があった。内側に開いた扉はこの石に当って、バタバタしないようにクサビで止められる。

この門の様式は薬医門と呼ばれる。高麗門(秀吉の朝鮮出兵で、朝鮮の出城で盛んに採用されたことから、そう呼ばれた)が城門に一般的になる前の珍しい様式である。高麗門は控柱が戸当たり石を兼ねていた。薬医門の遺跡において、戸当たり石が確認され、薬医門とはっきり決まったのは、諏訪原城が初めてであった。今までは転がっていても、戸当たり石と認識されないで、済まされたようだ。


(薬医門の復元平面図)

講師は1級建築士の資格も持っていて、この薬医門の復元図を画いた。扉の前面には扉の軸を強化する八双金具がなく、蝶番に当る部分は強固な肘壺(ひじつぼ)形式ではなくて、藁座と呼ばれる簡単な形式で、正面からの攻撃で容易に壊れた。門は縦横が同寸法で作られるのが常であるから、高さは容易に割り出せる。瓦が出土しないから、屋根は杮葺きで杮を横木で抑えて止める、安普請であった。家康が作った建物は安普請が多く、ここも出城だから、金を掛けたはずは無い。

諏訪原城整備委員会では、この北馬出の薬医門の復元を目指している。諏訪原城跡は国の特別史跡だから、建築物を復元することは大変難しい。この時代の城跡では、文科省の許可を正式に得て、復元建物を建てた例がないという。この薬医門の復元が出来たら、全国で初めての例になる。写真か図面があれば復元できるが、それ無しでは大変難しいけれども、何とか時間を掛けても復元許可を取るつもりである。この薬医門は現代に復元してもそんなに費用が掛からないチープな建物である。
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講演会「ありし日の姿!諏訪原城の魅力」(前)

(三浦正幸教授)

午後、公民館みんくるで、三浦正幸広島大学大学院教授の講演会があり、女房と出かけた。講師は島田市諏訪原城跡整備委員会副委員長の職も勤めている。今日は、諏訪原城講演会と銘打って、「ありし日の姿!諏訪原城の魅力-江戸城につながる山城」という演題である。

諏訪原城は天正6~9年に武田勝頼が築城した。だから諏訪原城の名前で呼ばれた。その後、徳川家康の手で改修されて、牧野城と改名された。武田の築城法を江戸時代になって書いている甲陽軍鑑に則った築城法で、天守や石垣は無いけれども、その後造られた名古屋城や江戸城の元になった築城法といわれている。

発掘が少しずつ進み、守りやすく攻めにくい、武田の城の特徴が分かってきた。おそらくは家康は諏訪原城を手に入れて、武田の築城法を目の辺りにして、学んだこともあったのであろう。さらに工夫を凝らして、より堅固な砦に進化させている。当時のどんな立派な城よりも、先進的は城であるといわれている。

諏訪原城の特徴であり、岡崎城、名古屋城などに極類似した特徴が見られる点を、以下に記す。
1.本曲輪(本丸)、二の曲輪(二の丸)は広く取られている。
2.本曲輪と二の曲輪の間には幅20メートルの深い空堀が掘られている。
3.二の曲輪の外にも幅20メートルの深い空堀が掘られている。
4.堀を渡るのは限られた場所に造られた細い土橋だけである。
5.二の曲輪から外部へつながる土橋の先には、馬出という小広場があって、それを弧状の空堀が守っている。
6.全ての空堀の手前側(本丸側)には空堀に沿って土塀や土塁が築かれているが、反対側は何も無く、隠れるところが無い。

諏訪原城のうち、発掘調査がされた北馬出へ入る入口には門があったことが解った。その門前には門前枡形がある。敵は、門前枡形に入ると行手と側面の両方から、土塀を楯にして弓で射られ殲滅される。門を破って北馬出に入っても、二の曲輪とは空堀があって阻まれる。土橋のあるのは隣の中馬出でそこに至るには空堀と空堀の間の細い土橋を進まねばならない。空堀の幅は20メートルで矢が威力を持って届く距離である。向う側に土塁があるが、この土橋は背後には土塁があるが、前は無防備で、そこを一列に進めば対岸から射る矢に殲滅されることは自明の理である。その先、中馬出から二の丸に進むにも、空堀を渡る細い土橋を渡るしかない。これにも矢が集中する。

このように、諏訪原城は難攻不落といわれ、攻めにくく守りやすい築城になっている。最前線に造られた出城ながら、その遺構がその儘に残っているほとんど唯一の例だといわれている。それまでの山城は山頂に向けて段々畑のように曲輪を作って兵を置き、その一番上に狭い本丸を築いたものが多い。諏訪原城は本曲輪、二の曲輪が広く、多くの兵を置いて、巧みな仕掛けで敵を殲滅させる、考え抜かれた築城法であった。(続く)
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コスモスとアサギマダラ

(龍勢の里のコスモス)

ガイアの車検で、朝、藤枝のディーラーに持ち込んだ。夕方4時までかかるというので、女房の車で岡部のコスモス畑を見に行った。休耕田に地域の人がコスモスの種を撒き、見せてくれる。岡部の朝比奈龍勢を上げることで知られる谷間で「殿」という集落である。駐車料300円、これが地元に落ちる入場料のようなものなのだろう。コスモスの花が全て日差しの方を向いて、ヒマワリと同じように向日性のある花なのだろうと思った。だから日差しを背にしてデジカメで撮ると花が賑やかに見える。

道路の南側では、20本300円で、コスモスの花摘みをさせてくれる。多くの人が畑に入って、思い思いにコスモスの花を摘んでいる。その辺りはさすがに花が摘まれてまばらになっていた。スクールバスで園児たちがたくさんコスモス畑に入っていて、黄色い声が飛び交っている。園児がかぶっている帽子は昔と違っているのに気付いた。帽子の後ろ側に布が垂れて、首筋まで日差しから守ってくれる帽子である。


(玉露の里のアサギマダラ)

コスモスを見たあと、蕎麦でも食べようと、道の駅「玉露の里」まで足を延した。食堂は団体客で満杯で、一般客は1時半からだという。玉露の里まで行ってみた。こちらにはスイーツはあるが、蕎麦は無かった。玉露ソフトクリームを買った。玉露の乾燥茶葉をパラパラと上にかけてくれる。このパラパラだけが玉露なのだろう。庭の散策は無料だという。今、渡り蝶として知られるアサギマダラが当園に来ていて、今朝方は8頭いるという情報を店員さんからもらった。普通、蝶は8匹と数えるだろうに、ここの店員さんは「頭」と数えた。確かに昆虫の学者やマニアはそんな数え方をする。アサギマダラが何たるかを知らない女房は8頭と聞いて何か動物が来ているのかと思ったらしい。

池の鯉は人が池の端に来ると押し合いへし合いと寄ってくる。入口で鯉の餌を売っていて、くれることを覚えているからであろう。地味なフジバカマの花に、アサギマダラがフワフワと飛んでいた。こんな弱々しい飛び方で海を渡って、台湾の方までよく飛んで行けると不思議に思う。日本でマーキングしたものが、その地で捕えられているから間違いない。おそらくほとんど風に乗っていくのだろう。しばらくデジカメを構えて、羽根を広げた瞬間を写せた。

結局、蕎麦は家に帰ってから、買い置きの乾めんを茹でて食べた。蕎麦の美味しい茹で方を最近会得した。茹で時間をきっちり守って、茹で過ぎないことが肝要である。やや固めの方が美味しいことが最近分かった。
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天下晴れて、快晴のこの日

(ススキの夕景 - 昨夕、土手で)

雨の多い季節が続いたが、昨日、今日の空は抜けるように青く、雲一つ無い日本晴れであった。

今夕、最後のご奉公として、株主総会に出席した。残った今日一日が何となく気が重く、夕方、会社へ向かう足が重かったが、短時間に株主総会が終って、肩の荷がいっぺんに下りた。まだ、子会社の仕事が少々残るけれども、晴れて釈放といった気分で、肩を押してくれた皆さんに感謝しなければなるまい。

夜、最後の役員慰労会では、自分ながら肩の荷を降ろして、久し振りに気分良くしゃべっていた。

自然と、話が来春に予定している、2度目のお遍路に及ぶ。お遍路に1度行くと、2度、3度と行きたくなる。どうしてそんなに魅力があるのかと聞かれれば、今まで仕事を通してたくさんの人とお付き合いをしてきたが、どれだけ仲良くなろうとも、彼らとは損得勘定が絡んだ付き合いにならざるを得ず、どんなにリラックスできたと思っていても、どこかで構えている。職場の仲間であっても、多かれ少なかれ、損得勘定が絡むことは同じである。

ところがお遍路で出会う人たちは、我々と同年代が多く、ここで出合っても、それではお先にと立ち上がれば、もう縁も所縁のない人になる。損得勘定を生ずる余地のない人たちである。一期一会で、心の緊張の糸が張ることが全く無い人間関係だからこそ、心に秘めたことをすらすらと話してしまう。病気のこと、人間関係の悩み、家族のこと、普通ではそんな弱味は口に出さないようなことが、自然に出てしまう。話す方はそれで胸のつかえが取れ、明日への力が涌いてくる。聞いた方も全く無関係な人の悩みだから、自分の中に残ることはない。それが毎日毎日続くのである。この間に人の心は洗われ、気の病なら全て消えてしまう。お遍路が最高のホスピタルと言われる所以である。

どうしてお遍路が修行になり、悟りに近づけるのかと聞かれれば、家康さんの言葉ではないが、文字通り重い荷を背負って、一日に20キロ、30キロと歩く。身体が悲鳴を上げている。そして人は必ず思う。荷が重過ぎるのではないか。荷物の中で要らないものを探す。ヘアドライヤーは要らない、下着の替えは1枚で十分など、要らないものは自宅へ送り返す。次の日は随分身体が楽になった。また30キロ歩く。身体の疲れはそれでも増してくる。もっと減らせるものは無いのか。毎日毎日自問自答で、結願の頃には身一つになっている。そこで人は悟る。人生でも背負ってるものを思い切って捨てれば楽になれる。ここまで至れば、悟りの入口まで来て、中を覗いたぐらいになっているかもしれない。

自分の現在の気分は、43年間、背負ってきた会社の仕事をそっくり降ろしたゆえの、さわやかさであると考えている。
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初見参!ドラゴンフルーツ

(ドラゴンフルーツ)

日曜日、ちっちゃな文化展を観たあと、立寄ったサンサンファームの、産直農産品の中に、奇妙な果物を見つけた。マーケットでは見たことがあるが、手に取ってみるのは初めてであった。火炎太鼓を球形にしたような形状で、ドラゴンフルーツという名前が付いていた。どんな味と食感の果物なのだろう。大きさによって値段が違う。350円という値札のものを1個買ってみた。レモンほどの大きさである。

表の植木や苗のコーナーに、ドラゴンフルーツの苗が売られていた。見慣れたようなサボテンだと思った。帰宅後にネットで調べると、中南米原産のヒモサボテン属のサボテンで、日本ではサンカクサボテンと呼ばれ、主に観賞用として流布している。現に我が家にも鉢植えがあって、毎年、真紅の大振りの派手な花を咲かせる。有名な月下美人とも近い種であるという。果実をとるにはそれなりの品種があるのだろうが、身近に有りながら、知らなかった。この歳になって、新しい知識を得ることが、最近多い。見る角度が変わったからである。ドラゴンフルーツの名前の由来は、中国語名、「火龍果」を英語に直して商品名としたものだという。

実は、本日で43年間お世話になった会社勤めがすべて終った。後は明日の株主総会で任期満了による退任ということになる。最後の四年間は週3日の出勤だったが、これからは週休7日の勤務形態になる。少しずつ勤務を減らせて、理想的なリタイアになった。この四年間に随分色々なことを始めてきたが、これからはさらに加速が付くと思う。現在、11月の予定表を見ると、30日中、13日に予定が入っている。来月になって埋まる部分も多いだろうから、のんびりすることも出来ない。勤めを理由に延してきた様々な用事も、今後、一気に噴出して来るであろう。


(ドラゴンフルーツを割る)

夜、女房がささやかにお赤飯で祝ってくれた。この43年間、一度も入院するような大病もせず、健康にやってこれたことを、女房と祝った。食事のあと、このドラゴンフルーツをデザートに食べることにした。庖丁で割るとびっしり果実が詰っている。白い実に黒い小さなツブツブは種なのだろう。この実にはどこかでお目にかかったような気がした。スプーンですくって食べてみた。瑞々しく柔らかで、ほんのり甘い中に少しだけ酸味がある。この味も知っている。


(ドラゴンフルーツ完食)

中身だけ出して角型にカットされてしまうと、元の果物とは全く繋がらない食材になってしまう。多分、ヨーグルトを入れたデザートなどに入っていたのだろう。女房も美味しいとたちまち完食した。これからは時々買ってくることにしよう。
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ダイニング犬になったムサシ

(ムサシはダイニングの寝床に)

今朝のこと。出勤で送って出た女房が、その間ちょっと目を離した隙に、ダイニングにいたムサシが食卓に足を掛けて、包み紙の上で幾つかに切り割った愛宕下羊羹を包み紙さら、床へ落としてしまった。

愛宕下羊羹は日曜日に遠州横須賀に行ったときに買ってきたもので、横須賀に行くといつも買って帰る。高級な本格的な羊羹だけれども、そんなに高くない。

ムサシは羊羹など食べたことがないから、成り行きに驚いて、ワンワンワン‥‥、女房が戻ると、羊羹に向かって吠えていた。歯型が付いているようではなかったので、その羊羹は洗って冷蔵庫へ入れておき、今夜自分たちのお腹に納まった。

最近、ダイニングキッチンまでムサシの住居エリアが拡がって、時にはそこで寝起きして、朝起きるとムサシがダイニングにいることが多くなった。朝食をしていると、すぐ脇に座って何とかおこぼれに預かりたいと、じっと自分の口のあたりを見る。しかし、食事の中でムサシにやれるようなものはない。というより、女房に禁じられているから、愛想がないことになる。無視して新聞を見ていると、ワンワンと吠える。顔を隠されるとムサシは不安になるのであろう。ダイニングに上げてやる条件として、そこでは吠えてはならないと決められていて、女房が声を荒立てて叱る。酷いときは勝手口の土間へ出される。

ムサシは朝夕の散歩の時以外には大小の便をしない。じっと我慢している。潔癖なのはよいが、便がゆるいときなどは夜であっても騒ぐから、短い距離でも散歩の真似事をしなければならない。シャンプーも自分の散髪より頻繁に行っている。もちろん料金は自分の散髪代より高い。そんな風だから、我が家ではケモノ臭さは全くといって良いほどしない。もっとも、自分たちは慣れて気にならないだけかもしれないが。

ダイニングの中にはいつの間にか色々な犬用品が増えている。他所の部屋には行かないように簡易の鉄柵がはめられるが、そこを出入するには鉄柵を障害物競走のように跨いで越さねばならない。意外と高くて歳を取ると辛いところがある。ダイニング内の寝床も女房が買ってきて、テレビの横に置かれている。そばでテレビがうるさいと思うのだが、気にならないようだ。

今夜は勝手口外のムサシの寝床へ行った。時に、中へ入れろと騒ぐときがあるが、すぐ脇のお風呂場に湯を入れ始めると、騒ぐことを止める。多分ムサシの中ではそこで線が引かれるのであろう。ムサシの中で、色々と決まりごとを持っていて、それにしたがって暮している。その方がなにかと楽なのであろう。

毎日同じ道を通勤し、決まった仕事をしてきた人が、定年退職して、もう会社に行かなくてよくなったとき、自分の身の置き所をなくしてしまうケースがよくある。一種共通しているものがありそうである。
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町内名主の役割 - 古文書に親しむ

(土手でちょっと目立つセイバンモロコシ
-地中海沿岸原産の帰化植物)

土曜日の古文書に親しむで解読したもう一つの文書である。内容は、名主より町内名主を仰せ付けられた商家の面々が、名主に対して約束した覚書で、町内名主がどんな役割を持つのかが知れる資料である。

     覚え
一 今度拙者ども町内名主役の儀、貴殿へ仰せ付けられ、然る上は御公儀様より仰せ出でられ候御法度の儀は申すに及ばず、諸事貴殿御申し渡し候儀、少しも違背申すまじく候
一 宗門の義、家持は五人組切りに相改め、寺請状取り置き、店(たな)の者ども義は銘々家主方へ吟味致し、取り置き申し候、所々御法度の宗門の者、壱人も御座なく候、もっとも向後随分念を入れ申すべく候
一 博奕、諸勝負の儀、拙者どもの儀は申すに及ばず、借家、店借り下々などまで、きっと申し付け、一切致させ申すまじく候
一 遊女の類、借家裏々まで吟味仕り、堅く差し置き申すまじく候
一 町内火の用心の儀、裏々まで念を入れ、もっとも火焼く所悪しきこれ有り候は、改め直し申すべく候、もちろん火これ有り候は、早々欠け付け、情(せい=精)出し消し申すべく候
一 衣類の義、御法度の趣、堅く相守り申すべく候
一 生類の義、下々まで申し付け随分憐れみ申すべく候
一 牢人(浪人)店に差し置き申し候は、前々親類書差し上げ申すべく候、もっとも店罷り立ち申し候は御断り申すべく候
一 毎月人別証文差し上げ申し候通り、見届けざる者、店に差し置き申すまじく候、出所不たしかなるものに、一夜の宿も仕りまじく、もっとも店替え致し候者これ有り候は、貴殿へ御断り申し入れ、人別の帳面付け置き申すべく候
一 鉄砲取り持ちの者、町内店の内へ移り来たり申し候は、貴殿へ御届け申し、書付差し上げ申すべく候
一 銘々店の内、公事訴詔御座候節、先ず貴殿へ御断り申し、御差図請け罷り出で申すべく候、もっとも御番所へ罷り出で候節、当人家持は申すに及ばず、五人組残らず罷り出で申すべく候、いか様の儀にて御公儀様へ罷り出で候事、貴殿へ相知らせを申さず、罷り出で申すまじく(候)
右の趣、前々より仰せ出され候御法度の儀、家持は申すに及ばず、借家、店借、下々などまで申し聞かせ、きっと相守り申すべく候、もちろん向後、何事によらず、町内の義、隠し置かず、貴殿へ申し入れ、御差図の通り相守り申すべく候、後日のため、町中連判の手形、よって件の如し
  元禄十二年卯二月            菱屋  万右衛門
                      三輪  文四郎
                      山田屋 喜左衛門
                      伊勢屋 喜兵衛
                      槙田  権右衛門
                      三井  嘉兵衛
                      川北  利兵衛
                      越後屋 長右衛門
         名主進助殿


綱吉によって、天下の悪法といわれた「生類憐みの令」が出されたのが貞享4年(1687)で、綱吉が亡くなる宝永6年(1709)まで続く。この文書の元禄十二年(1699)はその真ん中辺りである。覚書にも「生類の義」として一行触れられているが、その前の「衣類の義」とともに、覚書の内容に具体性がなく、一応触れたというだけで、重要視されていないように見えた。それが庶民感覚だったように思う。

この文書はどこから出たのか、良く判っていない。しかしどうやら江戸府内で出されたものだろうと思う。「町内名主」がどのようなものなのか、分からないが、名主を町の総代さんだとすると、町内名主は班長さんのようなものであろうか。
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遠州横須賀街道ちっちゃな文化展など

(ちっちゃな文化展のにぎわい)

遠州横須賀街道ちっちゃな文化展へ行くのは3回目であろうか。古い町並みの個人のお宅が、店などをプロ、アマ様々なジャンルの作家に開放して、3日間に限って行なわれるユニークな文化展である。お昼前という中途半端な時間に女房と出掛けた。今回13回目だという。毎年、決まったところに、決まった作家の作品が並ぶようで、これは前回もあったと気付くと、何となくパスしている。女房は古布を使った手芸品などに時間を費やしているが、自分は前に見たことを確認するだけで、特別のめり込む作品もなく、人ごみに疲れるだけであった。小さな町ながら余りに広域に渡りすぎて、あらかじめ案内地図を取り寄せて、ターゲットを決めて回らないと、疲れるばかりである。

三熊野神社前に、大祭を展示した店があり、今度は三熊野神社大祭を見に来たいと思った。(毎年4月の最初に週末)三熊野神社大祭の由緒は、享保年間(1716~1735)に横須賀藩主西尾隠岐守忠尚公の参勤交代で、江戸在勤中の家臣が、江戸で流行した祭囃子を習い覚えて帰り、横須賀に伝えたのが、その祭囃子の始まりで、大祭には江戸情緒が色濃く残っているという。店に流れる祭り囃しの軽快なリズムがそれを感じさせる。

帰りに「蕎麦茶屋」でそばを食べようと立寄ったが、すでに完売であった。麩菓子というものを買って、車で食べてみるけれども、何とも頼りない食品で腹の足しになるものでは無かった。女房は子供のころ食べたというが、自分には記憶がない。関西には無かったのだろうか。ただ忘れているだけかもしれないが。それでサンサンファームに寄った。女房は蕎麦、自分はうどんを食べる。この歳になって、うどんは色々具の入っていない素うどんが最良だと思うようになった。その点、ここのうどんは小さくカットした油揚げが少々入っているだけで、シンプルなものであった。

食後にソフトクリームを食べる。冷蔵庫から取り出したカップに入ったソフトクリームの元をセットし、レバーを押せばにょろにょろとクリームが出て、それをカップに受ければ出来あがり。注文に応じて多品種のソフトクリームが出来る。あまりにも簡単な道具で、これならば、道具をそろえれば自宅でソフトクリームが簡単に出来そうだと、女房がいう。孫に作ってやれば、確かに点数が上がるに違いない。

最後に御前崎のなぶら館に寄って、半額になっていたマグロの切り身を買った。魚屋のおじさんがこれが良いと勧めてくれたマグロの赤身は、筋も無くて最高であった。夕食に、寿司飯の上にワサビ醤油をつけて乗せたら最高に美味かった。マグロは三人前たっぷりあって、半額になって600円だった。女房は冷凍品ではないという。それにしては安い。今日、売り切ってしまわないと翌日まで置けないものだったのだろうと思うが。
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困窮立直り御褒美のこと - 古文書に親しむ

(日切地蔵尊側、元庄屋さんの屋鋪の松
-超散歩で、先の風にも傷まなかった立派な巨木である)

午後、金谷宿大学の「古文書に親しむ」講座に出席した。今日は二つの文書を解読した。その一つを以下へ紹介する。年貢は日限通りに納め、諸役は叮嚀にこなし、荒地開発で困窮から立直り、村柄風儀が大変良いので、名主および惣百姓一統に御褒美を下さるという沙汰書きである。

その方ども儀、御年貢、触れ日限通り相納め、御普請所へも油断無く見廻り、小破の節取り繕い候趣、その外往還道、橋なども同様、平日心付け候に付、往来の人馬、助けに相成り、すべて宿内取締りに、厚く心がけ、差しはまり、情を出して取り計らい、近来追々荒地も起こし返し、困窮立直り、村柄風儀も宣しく相見え、かたがた奇特の事に付、その段、御勘定所へ申し立て(候)ところ、松伊豆守殿へ御伺いの上、右の御褒美として、その方どもへ銀拾枚下し置かれ、並び惣百姓一統、御誉め置かれ(候)旨、柳生主膳正殿仰せ渡され、そく御銀相渡し(候)間、有り難く存じ奉り、これを頂戴仕り、冥加の段、永く忘却致すまじきものなり
 寛政十午年五月  蓑笠之助
       信州埴科(はにしな)郡
         北国往還 下戸倉宿 名主 直左衛門

            
御褒美として、銀10枚とはどれくらいの価値があるのか、講師に聞いてみた。一分銀で約15,000円と計算すると、15万円ほどの御褒美であるという。惣百姓一統で頂いたものとすると、大した金額ではない。しかしお上から御褒美を頂くというのは、末代までの誉れで、まさに「永く忘却致すまじきもの」である。

帰ってから、「銀10枚」について、調べてみた。1両は約6万円と考えて、この銀が一分銀であるならば、1両は4分だから、1分は15,000円、10枚で15万円という計算になる。銀は秤量されて流通していたが、秤量のわずらわしさを解消するために、500匁ごとに和紙で包んだ包銀として流通していた。その後、恩賞および贈答には銀一枚(四十三匁)という単位が用いられたという。ここで銀10枚というのは、この43匁の包銀ではないかと思った。

相場によるが、江戸時代を通じて、1両はほぼ銀60匁だったから、銀1匁は約1,000円と計算される。したがって、43匁の銀は43,000円、それが10枚なら43万円となる。これなら、惣百姓一統でもらっても結構な金額である。

どちらが正しいのか解らないが、かように江戸時代の貨幣制度はややこしい。全く頭が痛くなる。さらに、厳密には江戸時代と言っても260年を一律には語れない。江戸の貨幣制度については、もっとしっかり勉強してから語りたい。
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