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「天澤寺殿三百年記録」を読む 2

(裏の畑のフキノハナ)

フキノトウの収穫も頭の隅にあったのだが、気付いてみたらフキノハナの花盛りになっていた。こうなってはもう食用にはならない。次は裏の畑のタラの芽を忘れないようにしよう。

今朝から雨、久し振りにまとまって降った気がする。一雨毎に春が近付いて来る実感がある。何よりも、雨の日は花粉症には有難い。

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「天澤寺殿三百年記録」の解読を続ける。

(「口上の覚え」つづき)

一 今川家より、御寄附領三千石、御座候処、両度の兵火にて、物変り、星移り、壱度は信玄、壱度は神祖(家康)、勅命に仍って再建成し下され、則ち、神祖より、領三千石、下し置かれ候えども、住持鉄山、御請け申さず。その後、三代目東谷代に成らさせられ、高百石、山林諸役など御免の御朱印下し置かれ候に付、五ヶ年目年頭、御白書院にて御礼申し上げ候。右に付、向後(きょうこう)、参府の節は御伺いも申し上げたく、かつ来る未(ひつじ)年、御遠忌の節、前書に申し上げ候通り、御代香御指し向け下され候様、存じ奉り候、以上。
   午九月            駿府臨済寺代
                      富春院
※ 住持(じゅうじ)- 寺の住職のこと。
※ 白書院(しろしょいん)- 桧の白木造りを主とし、漆塗りをしていない書院。江戸城の将軍の応接間で、白書院は公的な行事に使用。(黒書院は日常的な行事に使用)


なお、右の書面は、先師裕道養源、南明長老へ、頼み置きこれ有り、昨末秋、観溪出府の節、相認む。富春院代の義は、養源へ頼み置き帰国。公家六角殿より通達、これは養源、心安き故なり。当正月、養源、駿河守殿へ参られ、今川家よりも、養源へ使者参り候様子なり。已後(いご)、年頭、寒暑、書翰往復の筈に、今般の代香に至り置き候なり。もっとも江戸出駕の節は参ずべき事なり。
※ 末秋(まっしゅう)- 三秋のなかの末の意。(三秋は、初秋、仲秋、晩秋)
※ 出駕(れい)- 貴人が駕籠などで外出すること。また、貴人の外出。


四月十六日、遠州中泉御代官、今川要作殿より、序(つい)でを以って、銀壱枚義元公へ納め、請け取り左に、

      覚え
  一 白銀   壱枚
  右は天澤寺殿御回向料として、
  御贈り下され、慥かに収納、
  御備え仕るべく候、以上。
   四月十六日 駿府
          臨済寺
           役寮 大龍
    今川要作様
     御用人衆中
※ 白銀(はくぎん)- 江戸時代、白紙に包んで贈答用に用いた楕円形の銀貨。通用銀の三分にあたる。
※ 回向(えこう)- 死者の成仏を願って仏事供養をすること。
※ 役寮(やくりょう)- 修行僧を指導する老師。


奉書半切りにかく認む。今川殿は御目見以下の人に御座候えども、近々に御代官に付、御目見以上に御座候。
※ 御目見(おめみえ)- 江戸時代、将軍に謁見する資格のある者。旗本がこれに相当する。


読書:「ばけばけ」 那須正幹 著
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「天澤寺殿三百年記録」を読む 1

(庭のクリスマスローズ)

来年度の教材、森町地方文書の解読を始めた。全部で12枚ほどある。借金證文などを読むのは、金谷の講座では珍しい。

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「天澤寺殿三百年記録」の解読を始める。

   安政六未(1859)五月
  天澤寺殿三百年記録
      大龍山書記寮
        これを誌す
※ 天澤寺殿(てんたくじでん)- 今川義元の戒名。
※ 大龍山(だいりゅうざん)- 静岡の大龍山臨済寺のこと。


     江戸神田小川町
        今川駿河守
       外神田御門前小川町
※ 今川駿河守(するがのかみ)- 今川 範叙(のりのぶ)。江戸末期の高家旗本。今川氏二十三代当主。後に若年寄。当時三十歳。

天澤寺殿三百年(き)
(かね)て、先師裕道、先(前)年、午(うま)年に於いて、通書を預(あず)く。文面左に、
※ 諱(き)- 「いみな」の意だが、ここでは「忌」と同じ「年忌」の意。桶狭間の戦い(1560)で今川義元が没して安政六年で300年になる。

   口上の覚え  奉書半切りに認(したた)む。
一 駿州府中、大龍山臨済寺は、後奈良帝、正親町(おおぎまち)帝勅願所、開山大休国師、開基は、今川氏輝(義元の兄)公菩提のため、義元公建立。弐代目太原和尚(今川家庵原氏出、雪斎長老と云う)、神祖(家康)御七歳より御十九歳、大高(城)兵粮入れの節まで、当寺御座有らせられ、則ち、太原和尚、書学、兵法、御指南申し上げ候。神祖、厚き恩古(恩顧)を以って、宝珠護国禅師と、勅号御取り成し下され候。
※ 奉書(ほうしょ)- 奉書紙のこと。コウゾを原料とする和紙。しわがなく純白で上質。
※ 太原和尚(たいげんおしょう)- 太原雪斎。臨済宗の僧にして、今川家の執政であり、軍事・外交・内政全てに秀でた今川家の柱石ともいうべき存在である。外交面では武田・北条・今川三国同盟(甲相駿三国同盟)を締結させ、軍事面では三河侵攻作戦、内政面では今川仮名目録の制定など、彼の今川家での功績は計り知れない。
※ 大高城(おおたかじょう)- 名古屋市緑区大高町にあった日本の城。桶狭間の戦いの時、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」を行なっており、戦いを免れ、家康はそのまま三河に戻る。


一 今川家、当寺とは、古来格別の由緒に付、これまで参府の節は、その度々、御左右も申し上ぐべきの処、その義なく罷り過ぎ候。向後(きょうこう)、参府の節は、参上も仕りたく候。かつまた、年々五月十九日は、義元公祥忌日に付、駿府町、その外、五、六里の村民、参詣これ有り候間、義元公真筆、並び、神祖より拝領の品々、拝見せしめ候。然る処、来る未年五月は、義元公三百年遠忌に相当り候間、何とぞその節、御代香御差し向け下され候様仕りたく、右は往古十代、駿遠三大守に御座候間、その節の間、旧官にもこれ有り候に付、一同有り難く満足仕るべく候。
※ 左右(そう)- あれこれの知らせ。便り。手紙。
※ 祥忌日(しょうきび)- 人の死亡した月日と同じ月日。祥月命日。
※ 遠忌(おんき)- 宗祖などの遺徳をたたえるため、五〇年忌以後、五〇年ごとに行う法要。
※ 代香(だいこう)- 代わりに焼香すること。また、その人。
※ 駿遠三(すんえんさん)- 駿河、遠江、三河の三国。
※ 大守(たいしゅ)- 太守。国守(国司の長官)の別称。
※ 旧官(きゅうかん)- 昔、官寺として保護を受けていたことを示す。

(「口上の覚え」つづく)
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「欧米回覧私記」を読む 11

(永年我が庭に住み着くヒヤシンス)

午前中、静岡在住の大学の先輩、OK氏が自転車で来宅。共通の友人、憲法学者の百地章氏が正論大賞を受賞したという話。自分も新聞で見たが、資料を持ってきてくれる。老いてなお活躍の様子、随分遠くへ行ってしまったように思う。しばらく会わないが、OK氏がみんなで会う機会を作ってくれるという。出来れば一泊して旧交を温めればと思う。

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「欧米回覧私記」の解読を今日で終る。もっと長い手記のはずであるが、手元にあるのはこれだけである。

十九日晴れ。
十時より馬車に乗り、大使とともに、市中焼跡を見る。この市中に引きける用水の源に至る。この水はミシガンレイキ(レイク)と云う湖より引く。その引き方は、岸より二里ほど沖にまで鉄管を通し、水の濁らぬ処より引けるなり。蒸気仕掛けにて、巨大の機械なり。この機械場の傍らにて、消火夫の運動を、大使の一覧に供す。
※ 市中焼跡 - 1871年10月8日夜に、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市内で発生した大規模火災のこと。

帰途、川底の通路を通る。皆な煉瓦にて積み上げ、両側にカス(壁?)を造りし、長さ弐町程あり。馬車二輌、往来に差し支えなき程の広さなり。夜十時発車、類焼の小民へ大使より三千弗(ドル)を恵まる。当地より華盛頓(ワシントン)まで八百英里なりと云う。

二十日晴れ。
オマハ川を右に見る。この辺り、景色佳きなり。

二十一日陰(くもり)。
華盛頓(ワシントン)に、夕四時に着。アリングトンホテルに泊す。この日は一時頃、バルチモルを通る。

二十二日陰(くもり)。
日本弁務使の館に赴き、森有礼君に面会す。
※ 弁務使(べんむし)- 明治3〜5年、のちの公使に相当する外交官の称。
※ 森有礼(もりありのり)- 薩摩藩士、外交官、政治家。子爵。第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により戦前の教育制度を確立した。また明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の設立者。明治4年12月に少弁務使として米国渡航。


二十三日大雪。
朝、田中氏と共に、弁務使の館に至る。華頂宮面謁す。十一時、他のホテルに転ず。
※ 華頂宮(かちょうのみや)- 華頂宮博経親王。皇族。アメリカ留学中。明治九年、二十五歳にて薨去。
※ 面謁(めんえつ)- 貴人に会うこと。拝謁。


二十四日晴れ。

二十五日
使節一同、大統領に面会、相済む。

二十六日晴れ。

二十七日晴れ。
独逸(ドイツ)国に先行申し付けらる。

二十八日晴れ。

二月一日
夜九時、華盛頓(ワシントン)府を出立。同行は今村、瓜生、並び山縣なり。(以下略)

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「欧米回覧私記」を読む 10

(あらさわの紅白混じったしだれ梅、2/22撮影)

午后、相良の庁舎に行き、教材用に古文書のコピーを依頼して来た。コピーが取れ次第、連絡くれるという。

「欧米回覧私記」も明日には読み終える。その後に、昨年夏に頼まれて南部生涯学習センターの講座で読んだ「天澤寺殿三百年記録」を取り上げたい。「天澤寺~」は印刷物にされるとかで、講座で使った解読のテキストがお渡ししてあるが、ここで、今一度読み直し、出来れば間違いは修正したいと思う。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

廿四(五)日晴れ。
朝二時、発軔(はつじん)。ユールフックと云える地にて朝食す。十時、カップホルンを過ぎる。この所は高山の坐脇にて、処々に雪を見る。夕六時、サンミットにて昼食。この地はカルホルニア州とニワダ(ネバダ)州との間の堺にて、岬の形を為すゆえこの名あり。雪深く寒さ強し。暫時(ざんじ)、車を留め食事す。(この朝と夜、三食とも、ステションにて食事なり)旅客、雪を投げて戯(たわむ)れり。夜十時、トルンキイにて夜食。この処は雪なし。(中略)
※ 発軔(はつじん)- 車止めをはずして車を動かすこと。転じて旅立つこと。
※ 坐脇(ざわき)- やまのふもと。


〇明治五年壬申年正月九旦、西洋暦一千八百七十二年第二月九日、雨。
賀正の略式あり。大使よりシャンパン酒を賜う。
※ 九旦(きゅうたん)- 九日朝。

十七日晴れ。
九時半、オマハに到着。この地は繁花(華)なる一都会にして、オクデンよりは人家も多し。府内一大橋あり。長さが五町程もあるべし。当地より鉄路の両側、人家打ち続き、畑園、午(牛)牧を見る。オクデンよりこれまでは、平原、拡野(かくや)のみにて経(へ)る。耕地あることなし。
※ 拡野(かくや)- ひろがった野。

十八日晴れ。
両三日、不快なりしが、この日全快す。二時過ぎチカゴ(シカゴ)府に当着(到着)。有名の大都会なれども、六ヶ月爾前、大火ありて、府内過半焼亡す。ガラント(グランド)セントラルホテルに投宿す。このホテルは、既にその用意ありて、日本使節を祝する為す、国旗など掲げたり。また取扱いも過ぎて、鄭(ねんごろ)(うべ)なり。
※ 爾前(にぜん)- その前。以前。
※ 過ぎて(すぎて)- 他のものに比べて優れている。
※ 宜し(うべし)- いかにも。もっとも。


読書:「エムエス 継続捜査ゼミ2」 今野敏 著
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「欧米回覧私記」を読む 9

(駿府城発掘現場に展示された秀吉の金箔瓦/昨日撮影)

家康が江戸へ国替えになった時、駿府には秀吉の家臣中村一氏が封じられ、城を築いた。その城跡は、隠居した家康が駿府に移り、天下普請した駿府城の城跡に重なるようにあり、そこから秀吉の城の特徴である金箔瓦が出土した。そのため、中村一氏の城は実質、秀吉の城であったと推定された。写真はその金箔瓦であるが、金箔の部分は僅かにしか残っていなかった。

午后、「大井川流域のお茶の歴史と文化」という演題の歴史講演会を聞きに行く。講師は中村羊一郎氏。話は一般的な静岡の茶業の歴史で、どこかで聞いた話で、耳新しいものが無かった。こういう講演会では、何か一つ、初めて聞く話があれば、それで満足なのだが、少し残念であった。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

二十一日晴れ。
明後朝、当地出発の旨、大使より申し来たる。日本に送るべき書状を、大使の書記官に托す。

二十二日晴れ。

二十三日陰(くもり)
朝七時半、ホテルより馬車に乗り、オクランドに渡り、同処より気車に乗り、十二時、ラテラップにて昼食を為す。この辺り桑港より、八十一英里なりと云う。一時、ストックトンに着く。癲狂院を見物す。大院にて、男女の狂心者、合計一千一百人ありと云う。
※ 気車(きしゃ)- 汽車。蒸気機関車によってレールの上を走る列車。
※ 癲狂院(てんきょういん)- 精神病院を指す。


病室の様、甚だよく整頓し、劇症者と軽症者とはその室を別になし、劇症者の為には一室に壱人を入れ、四壁を若(わか)干し皮にて包み、中に棉花(めんか)の毛を入れて柔(やわ)らかになし、身体を触(さわ)るゝも疵(きず)つかぬ様には様(さま)になせり。軽症の者は、二十人位ずつ同居せしむ。狂者の事ゆえ、我々の来るを見て、大声にて罵(ののし)り叫ぶもあり、または笑うもありて様々(さまざま)なり。

四時、乗車。夕六時、サクラメントに着。この地はカルホルニヤ州の首府にて、州庁など立派なるあれど、近年開きたるの地ゆえ、未だ人家も少く、静かなる土地にて、田舎めきたる様あり。この地に投宿す。

二十四日陰(くもり)
朝九時、政庁に到る。庁の入口に、十四、五の少年居り、引きて案内す。何れの人にて、勝手に入りて見物するを許す。庁中、酒、菓子などを商う婦人居るを見る。議事堂も広くして立派なり。この日、議事あり。婦人など小児を連れて、傍聴席にある者を見る。我々も暫時、傍聴の席に入りて聴聞す。議長(スピケル)の席は小高き所にて、その前に書記官と見えて、議事を筆記す。議員凡そ八十名程なり。
※ スピケル - チェアマンの外に、スピーカー(SPEAKER)という呼び方もあり。

十二時、ホテルに帰り、食事の後、サクラメント橋に赴く。この橋は東京大橋位の長さにて、大船の通る時は、中程の処より開き、通船の後、閉る仕掛なり。鉄造りにて堅固の橋なり。夕八時より劇場に案内を受く。夜十二時、蒸気車に乗る。
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「欧米回覧私記」を読む 8

(駿府城発掘見学会、家康の天守台全容)

静岡の駿府城の本丸発掘現場見学会があると聞き、朝から、女房と出かける。大勢の見学者で説明が今一つ伝わらなかったが、秀吉の天守台(中村一氏の城)と家康の天守台が重層的に発掘されて、説明がややこしく、理解するところまでは行かなかった。冊子を購入してきたので、よく勉強してみようと思う。


(秀吉の天守台(奥)と、家康の天守台(手前))



(内堀から発掘された石垣の残骸)



(内堀の底からも見学できた)

考えてみれば、駿府の城は、今川、武田、徳川、豊臣(中村一氏)、家康と主を変えた。明治には歩兵連隊が置かれることになり、市民がこぞって本丸石垣を崩し、内堀を埋めて、整地したという。現在、埋められた内堀を発掘し、埋まっていた石垣が現われ、堀からは大量の石垣の残骸が取り出されていた。これだけの作業を行なった後、この場所はどうするのか、埋め戻すのか、現場の人にも分からないと聞いた。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

十六日晴れ。

十七日晴れ。
夕四時頃より、馬車に乗し行くこと、凡そ壱里半、この処より蒸気車に乗り更え、走ること、凡そ壱時間にて、車より下り、招きに預かりし、或る豪家に到る。(桑港より二十五里なりと云う)日本人は大使、その他、弐拾五人。米国の豪家七十五人、晩餐の饗応あり。奏楽などありて、甚だ盛会なり。夜一時帰る。
※ 蒸気車(じょうきしゃ) 蒸気自動車。
※ 豪家(ごうか) 財産の多い家。その地方で勢力のある家。


十八日晴れ。
夜、劇場に到る。

十九日晴れ。

二十日晴れ。
朝六時乗車。オークランドと云える地に赴(おもむ)く。この地は桑港(サンフランシスコ)より凡そ九英里(マイル)の道路にて、大学校ある地なり。ドクトル、カル、と云える人、大学長なり。同人の家に赴き、同人の案内にて大学見物す。この学校は大学とは申すものゝ、未だ完全せざるものと見えたり。それより兵学校に赴き、操練の有様、一覧す。生徒は十二、三年より十八、九年の者多し。この校は私立の由なれども諸事よく整頓し、軍服なども立派なり。
※ 英里(えいり)- マイル。一マイルは一.六キロメートル。
※ 操練(そうれん)- 兵士を実戦で役立つように訓練すること。


その帰途、盲明院に赴く。これは官立のよし。建築甚だ立派なり。盲、聾、唖を教育す。聾唖(ろうあ)は指の頭にて、アベセの形を造りて、対話を為すこと自在なるなり。これにて、普通の学科、地理、歴史、究理などを教うるに、よくその理を為すと云う。この時、教師は唖生徒に向かいて、日本使節の、近日桑港に来たりし由を告ぐ。この方にもその一行なる由を告げたりしが、皆な立ちて、礼を為し、日本使節諸君の来校を悦(よろこ)ぶの旨を、黒塗板に記載す。この生徒は年齢十四、五年に見えしに、余程敏捷の質と見ゆ。
※ アベセ - ABC。
※ 究理(きゅうり)- 物事の道理・法則をきわめること。明治になって、物理学を指す。
※ 敏捷(びんしょう)- 理解や判断が早いこと。


それより盲者の教場に到る。ここにては、凸字の本を以って、指先にて探(さぐ)り読む事、甚だ自由なり。上等(優秀)の生徒は、学力余程進みたるありと、教師云えり。盲人の著述も沢山ありと云えり。南京玉(なんきんだま)とか云えるを糸に通し、これにて造りし花籠の類い、一花を、全てに贈りし盲人ありき。
※ 南京玉(なんきんだま)- 陶製またはガラス製の小さな穴のついた玉。ビーズ。

それより、大学校長カルの宅に戻りて、食事の饗應を受け、かつ同氏の講義を大学にて聴聞す。
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「欧米回覧私記」を読む 7




(あらさわの寒桜/どれが「あらさわ紅桜」なのか)

午前中、女房と浜岡の河津桜を見に行こうと出掛けた。途中、ちょっと「あらさわ ふる里公園」に寄った所、「あらさわ紅桜」などの寒桜が満開に近かった。散策に訪れた人で、駐車場がかなり埋まっていた。ソメイヨシノより紅が強い寒桜、色々名前がついているようだが、見分けはつかないが、中々の見ものであった。


(浜岡砂丘入口の河津桜)

浜岡砂丘の入口にある河津桜は、まだ少し早かったようで、それでも咲き出した花に、ミツバチがいっぱい集って、羽音が唸るように聞こえる。遠州七不思議の「波小僧」の石像前から砂山を登り切ると遠州灘見えた。河津桜がまだ時期が早かった分、「あらさわふる里公園」への立ち寄りは正解であった。

(波小僧の石像と砂丘)

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

七日晴れ。
大使の一行を訪(と)い、それより市中徘徊す。公園地に到る。久し振りにて、草樹(くさき)の蒼々たる景気を見る。心持ちよし。園内動物園あり。始めて、虎、豹、駄鳥(だちょう)などの本物を見る。
※ 徘徊(はいかい)- 目的もなく、うろうろと歩き廻ること。
※ 景気(けいき)- 景色。


八日晴れ。
市中見物に出づ。有名の書肆某店に到る。製本所、印刷所など一覧す。夜に入り、ホテル番當の案内にて、劇場に到る。沓舞あり。場処の立派なると、舞踊の女子の美なるとには、甚(はなは)だ驚く。
※ 書肆(しょし)- 本屋。書店。
※ 番當(ばんとう)- 番頭。商家などの使用人のかしら。
※ 沓舞(とうぶ)- 踏舞。足拍子をとってまう舞。


九日晴れ。
南校の教師シェンク氏の兄と云える人来訪す。シェンク氏の書状持参す。午後、馬車製造所、並び織場(おりば)を見物す。但し大使も参らる。
※ 南校(れい)- 開成所が後に、南校っと呼ばれ、東京開成学校となり、東京医学校と合同して東京大学となる。

十日晴
カランドホテルの前にて、陸軍楽隊の奏楽あり。

十一日晴

十二日晴
今日は日曜日ゆえ、寺に到り、説法を聴く。これは米国桑港(サンフランシスコ)に移住せる、独乙(ドイツ)人なり。聴講後、シェンクの案内にて、右、宗教師の宅へ到る。同人より、新約全書の支那訳を貰う。

十三日晴れ。
東京南校の教師、ウィルソンの兄と云う人に面会。同人の案内にて、大小の学校、五校を見物す。その内にて、もっとも大校ハリンニィカレッジなり。

十四日晴れ。

十五日晴れ。
夕七時半、カランドホテルにて、本港の官吏、豪商より、大使一行を招待し、夜会を催す。田中理事官とともに、この会に列す。食堂は四壁、花を以って装飾し、日本と米国の国旗を打ち違えになして掛く。人数は日本人五拾人程、米国人もまた五十人位に見ゆ。将官某立ちて、祝詞(しゅくじ)を演(の)ぶ。岩倉大使、日本語にて答辞す。伊藤氏、英語に訳して再演す。その後、また米国人の祝詞を演べたるもの四、五人あり。夜十二時頃、帰る。
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「欧米回覧私記」を読む 6

(大井川の土手下、紅白梅の競演)

夜、金谷宿大学教授会。今日は来年度開催の教授の集まりであった。理事は6人、いずれも重任となった。大勢は一年間前年と同じとなる。教授会の出席が悪いことについて、かなり強硬な意見が出た。そんなに目くじらを立てることでもないが、何とか出席率を高めることを考えねばならないと思った。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

二十一日 西洋、一千八百七十二年正月。

二十二日雨
風邪にて、船房中に居る。

二十三日
船の位置、北緯三十二度、東経百七十六度、行二百英里(マイル)
米国到着の日に違いあるを以って、今日をまた、二十二日と算す。(中略)

明治四年辛未十二月一日、西洋一月十日、晴れ。
夕方になりて、雨降り出し、涛(なみ)高く、動揺強し。

四日晴れ。
夕方雨降る。明後日の朝は、着港の日取りなりとて、船の掃除などを始む。

五日陰り。月曜日。
十二時頃、北に方(あた)りて、帆船二艘の走るを見る。この船はハワイ島へ通う船のよし。日本を出てより、海面一物を見ざりしが、この日始めて、行き逢う船を見る。船位置、北緯三十六度三十分、経度百二十四度、行二百二里なり。

六日晴れ。
朝九時、桑扶港の入口に入る。ここを金門(ゴールデンゲイト)と称す。両岸に砲台ありて、堅固に見ゆ。人家の、山上に星散する。この景色、甚だ佳(よ)し。
※ 桑扶港(そうふこう)- 桑港。サンフランシスコ。
※ 金門(きんもん)- ゴールデンゲイト海峡。
※ 星散(せいさん)- 物があちこちに散らばっていること。


十時、港内に入り投錨。波戸場(はとば)には、日本使節を迎うるため、数百人群集す。岩倉右大臣は紫色の直垂(ひたたれ)を着し、上陸。副使は皆な西洋服にて上陸。女生徒は模様の衣服を着す。本邦人の衣服の様々なるゆえ、見物人の眼を驚かせり。使節一行はカランド(グランド)ホテルと云えるに投宿。理事官一行はオキシデンタルホテルと云えるに投宿、船中格別の難義もなく、安着せしを、皆々互いに祝し合えり。

この地は亜米利加(アメリカ)の西海岸にて、唯一の繁昌の地なり。ホテルなどの立派なる事には、我国の人は皆な恐歎(驚嘆)せり。我が一行のホテルは五階造りにて、壮麗の家なり。階を昇りては難儀ゆえ、下より上の第五階まで、すい直に、畳二枚敷位の箱に、客を四、五人ずつ乗せ、蒸気仕掛けにて、釣り揚ぐる所あり。至って便利なり。夜に入りて市中を見物に出づ。
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「欧米回覧私記」を読む 5

(大代川のカルガモ)

午后、掛川図書館に行き、今朝、新聞で紹介された、高群逸枝著「娘巡礼記」を借りて来た。かつて読みたくて探したことがあり、図書館で見つけられなかったまま、忘れていた。今日、掛川図書館の検索サイトで見付けた。大正時代に、若い(24歳)女性が一人で四国遍路に出かけた記録である。久し振りにお遍路の本が読める。

夜、竹下区の総会。来年は体育委員が廻り番でまわって来ている。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

十九日晴れ。
風波なお穏かならず。枕藉して船房を出でず。夕方になりて曇り。動揺、愈々(いよいよ)強し、この日、船の位置、北緯三十度五十分、経度百六十六度、船行二百三英里(マイル)なり。
※ 枕藉(ちんせき) 互いの身を枕として寝ること。寄りかかり合って寝ること。

二十日陰(くもり)
逆風にて、波濤(はとう)高く、動揺昨日より強し。拙者、追々船に慣れたりと見え、気分もまし、様(さま)悪しからず。衣服を整え、食堂に出づ。午後、雨降る。明日は西洋の元旦なりとて、洋人は酒など飲み合いて、賑やかなり。船に酔わぬ人々は、昼夜カルタの遊びを為すもあり。碁を囲むもあり。酒飲みつゝ、時勢を談ずる人あり。得意を吐きて、誇る人あり。嘲弄する人あり。さるゝ人あり。いつも夜は十二時ならでは、人声の絶ることなし。

一行中、かつて西洋に行きし人は、四、五人のみ。その他は初めての旅にて、万事不慣れゆえ、中には、小便の壺を顔洗う器と思いて、ボーイ(船の小遣い)に笑わるゝもあり。奇談尠(すくな)なからず。

開拓使より亜国(アメリカ)に留学を命ぜられたる女生徒、十七、八のを頭(かしら)に七、八人ありて、同船せり。ある夜、大使書記官、米田敬亭と云えるが、酔いたるまぎれに、この年嵩(としかさ)の女に戯(たわ)むれたりとて、女より副使大久保公に訴え出られたるなどは、奇礼(例)なり。
※ 開拓使(かいたくし)明治二年、北海道の開拓のために設けられた機関。

(あまつさ)え伊藤副使などが、徒然のあまりに、この事の曲直を審判せよとて、戯れに裁判所を開き、伊藤博文君、自ら判官(はんがん)となり、福地源一郎君、書記官となりて、米田を調べたるなどの事は、一時の坐興とは申しながら、外国などの同(それ)より見たれば、あまりに馬鹿げたる事にて、副使など云う人の、為すべき事にあらずと、私に誹謗せし人もありき。
※ 徒然(つれづれ) することがなくて退屈なこと。手持ちぶさた。
※ 曲直(きょくちょく) 正しいことと不正なこと。
※ 坐興(ざきょう) 座興。その場かぎりの冗談や戯れ。
※ 誹謗(ひぼう) 他人を悪く言うこと。そしること。
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「欧米回覧私記」を読む 4

(まーくんの家のしだれ梅/昨日撮影)

この春休み、娘たちが舘山寺温泉一泊旅行に、ムサシの死に気落ちする女房を誘う計画が進んでいるらしい。ついでに自分のいっしょにどうかという。「ついで」が気に入らないが、乗るか。

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「欧米回覧私記」の解読を続ける。

明治四年辛未(かのとひつじ)十一月十日、即ち西暦一千八百七十一年十二月廿壱日、東京出立。文部理事官田中文部大丞、随行は、文部中助教長与専斎、少丞中島永元、少助教近藤鎮三、九等出仕、今村和郎、内村良蔵なり。横浜に到着、この頃までは、横浜通いの馬車も、過半は西洋人の営業なりき。我々も七円程にて雇いて、行きけり。

十一日晴れ。我が父人は、横須賀にありて、造船所の庁員たり。この日、同所の肥田浜五郎氏も大使随行にて、出立するを見送らんとて、(父人)出港せられたるに、途中にて出逢い、幸い同地にて、昼餐(ちゅうさん)をともになして、写真を為したり。
※ 庁員 - 父庫三郎は幕臣なるも、明治に入ると工部省の造船少師(のち海軍省主船少師)となり、横須賀造船所に勤務。
※ 出港 - 横浜港に出てくることを云うか?


十二日晴れ。昨日の写影を橫須(賀)に贈る。午前八時、同行残らず、同処運上所に集まる。八時半、亜米利加太平海飛脚船、亜米利加号に乗船、直ちに出帆す。大使の出船を祝するため、港内の軍艦より、皆な祝砲を発す。甚だ気持よかりし。(この船は千五百馬力にて、外輪船なり)本牧を離るゝ頃より、私、気萎え、船房(船室)に行き、籠る。
※ 運上所(うんじょうしょ)- 各開港場において輸出入貨物の取締りや関税の徴収などにあたった。現在の税関にあたる。
※ 気萎え(きなえ)- 気力が衰えて弱る。船酔いのためだろう。


十三日晴れ。

十四日晴れ。
両日とも船病にて、頭も上がらず。衣服を付けたるまま、船房に臥し居れり。同船房には、肥田、大島、同居せり。

十五日晴れ。
本日は気分も稍(やや)(こころよ)きゆえ、始めて衣服を改め、甲板に出(い)づ。海上穏(おだや)かにて、船の動揺もさのみに強からず。食事を房内に取寄せてなせり。
※ さのみに - それほどに。さほどに。

十六日晴れ、風なし。
海上穏かなり。気分も追々快く、始めて食堂に出づ。この日、船の位置(正午の測量)、北緯三拾度五十一分、東経百五十四度二十四分、行二百五マイル(英里)なり。夜に入り、月明かにて、船客、甲板上に散歩するもの多し。

十七日陰(くもり)、風あり。
この日、波高く、枕を上ぐる事もならず。終日、船房に臥す。大嘗祭(だいじょうさい)ゆえ、昼食の時、大使より船客一同へ酒を賜う。

十八日降雨。
風波昨日に同じ。気候は二、三日以来、殊に温気なり。恰(あたか)も八月の末方の如し。日本人は皆な西洋食事に飽きて、菜漬の香物にて、茶漬飯の味を思い出して、この話のみなり。
※ 温気(うんき)- 暑さ。特に、蒸し暑さ。
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