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遠州高天神記 巻の壱 4 三浦右衛門尉滅亡の事

(荒れた三浦右衛門墓)

三浦右衛門の墓は、浅羽の図書館では判らず、そばの郷土資料館で、沓掛原と呼ばれる山中にある墓地を、地図まで描いて詳しく教えて頂いた。そこで頂いた資料では、三浦右衛門をそれほど悪くは書かれていなかった。裏切りは戦国の世の習いで、忠義が徳目とされるのは、江戸時代になってからのことである。主従75人が自害するほどの罪であったのか、今一つ理解できない。かつては墓地の管理がされていたというが、今では忘れ去られたように寂しい。家来たちの墓は200メートルほど離れた所にあったというが、今は痕跡も残っていない。

「遠州高天神記」の解読を続ける。


(馬伏塚城跡)

   三浦右衛門尉宗有、滅亡の事
三浦右衛門は今川の先途をも見ず、主君を捨て、今川殿より先に駿州府中をも欠け出で、方々流浪しけるが、遠州へ来りても、掛川の城主備中守とは日頃相成らぬ故、城へも入らず、小笠原与八郎を頼み、妻子をひきつれて、高天神へ来たりけれども、与八郎入れ立てぬ故、力なく馬伏塚へ申し入れけれども、小笠原美濃守も入れ立てず、
※ 先途(せんど)- 行きつくさき。最後。
※ 備中守(びっちゅうのかみ)- 朝比奈泰朝(あさひなやすとも)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。朝比奈泰能の子。掛川城城主。



(四之宮右近の城、岡崎城跡のある山)

是非なく、その近所、岡崎村は四之宮右近が知行所たるによって、右近が下屋敷の脇の陣屋の長屋に入りて、与八郎を頼み入る旨を、再三申し達しけれども、三浦右衛門奢り故に、今川殿御家、かくの如く成り果てる事、世以って悪(にく)む所なり。遁れがたき所なり。早々切腹致すべきと申し達し、打手向うと聞えければ、三浦是非なく長刀を以って妻子を切り殺し、上下七拾五人自害す。

所の者ども、死骸を荷い出し、同村の内、沓掛原と云う所に、三浦一類を一つ墓につき込み、家人どもは外に、皆々一つ墓につき置き、三浦右衛門墓と云いて、二つ有り。かの右衛門は武藤と云いて、上方の浪人の子、武藤新三郎と云う者、今川氏真公の御座を直し御意に入り、三浦右衛門尉と成る。
※ 一類(いちるい)- 親族関係にあるもの。一族。一門。

この女房は四之宮右近と云いて近習の者の妹なり。前代今川義元公の御座を直したる女房なり。義元公討死の後、御免もなきに己が威光に任せ、引き取りて妻となし、不義不礼甚しき者なり。岡崎村に一所に死す。名利の尽きたるものなりと、世間の唱(とな)う悪事限りなし。
※ 御座(ござ)を直す - 主君の身の回りの世話をする。また、主君の伽をする。
※ 御免(ごめん)- 役職などを解かれることを、その決定を下す者を敬っていう語。
※ 名利(めいり)- 名誉と利益。みょうり。


この右衛門、遠州井伊谷の名跡を望む故、讒言するなどと、内々その隠れなきゆえ、井伊谷衆背かん間、井伊谷より、早く遠州は徳川家の御手に入るなり。右衛門故に今川の御家おとろえ、駿河にて能き知行所を代々知行する者をば、所替え、知行替え、屋敷替えをさせ、その跡を右衛門が、己が知行とし、あるいは己が一類に給わる様になし、己が贔屓の者をば取り立てる事多し。

与八郎も兼々三浦に恨み有り。三浦、岡崎村へ参る事は、四之宮右近が知行所なり。この縁に付いて、身の置き所なきままに、小笠原を頼りて岡崎村へ参るなり。大悪人ゆえ遁れなく、右の仕合せなり。

昔も今も君をないがしろ(蔑)にし、忠孝を知らずして、出頭を鼻に当て、己が奢りを極め候もの、天罰遁れ難き事、珍しからずとは申せども、また哀れなる次第なり。
※ 出頭(しゅっとう)- 寵愛を受けて立身出世すること。
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遠州高天神記 巻の壱 3 家康遠州へ入国

(井伊谷城跡の山)

「遠州高天神記」の解読を続ける。

   上様遠州へ御入国 附り、小笠原与八郎味方の事
一 永禄十一年戊辰十一月十二日、徳川家康公、遠州へ御出馬させ給う。菱沼新八郎定盈(さだみち)、今泉四郎兵衛延守を案内者と成され、井伊谷に御進発有りて、菅沼次郎左衛門、鈴木石見、近藤登助、三人を招かせ給う。早々御幕下となり、井伊谷の城を攻め落させ給う。
※ 幕下(ばくか)- 将軍の配下の者。また、家来。手下。



(刑部城跡)

それより、菅沼、近藤を御案内として、本坂を越え、刑部(おさかべ)の城を攻め取り、菅沼新八が下人、菅沼又左衛門をもって、刑部の城を守らせ、なおまた、大津の戸田次郎右衛門、浜名の後藤角兵衛、案内にて、橋和法花寺に御陣を居させらるゝ。夫より安間に御陣を召され、その後、浜松の城に入らせ給う。

浜松の城主、飯尾豊前守は今川氏真、三州吉田の後詰めの時、徳川家へ内通これ有る由に付、氏真吉田を敗軍の後、駿州へ招き誅せらるゝ。飯尾が寵臣、江間安芸、同加賀、両人、浜松に篭城して、今度徳川家へ城を指し上げる。これにより、両江間に、恩地安堵の御印を下さるなり。
(ここより明治写本)
然る処に、江間・加賀兄弟、私の攻め入り在りて、両人討ち果す故に、明き城に成る。江間・加賀家人、早々注進申し上ぐ故、城へ御馬入るなり。(ここまで)



(堀川城跡)

それより堀川の城を攻め落し、山本帯刀に命じ給う。見附の宿の東の山に城を築かしめ給う。また小原肥後守が宇津山の城を攻めさせ給う。二俣の城主、二俣左衛門高薮の、漆原、須田、その外小士ども、我も/\と御幕下を纂(あつま)り参る者多し。

さてまた、三州幡豆(はず)の城主、小笠原新九郎安元を召して、その方一類なれば、馬伏塚の城主、小笠原美濃守、高天神城主、小笠原与八郎を引き付け給えと御有り。畏みて御請け申し上げ、それより急ぎ、馬伏塚、高天神へ行き、御諚の旨、申し達す。
※ 諚(じょう)- 主君や貴人の仰せ。命令。

両人は、秋山伯耆守へ招きける故、秋山方へ参るべく支度仕る所へ、新九郎参りて利害を説きければ、大きに悦び、幸いの御事なりと、早々人質を出し、御味方に参り、お目見え仕るに付、国中の小侍ども、己が知行所へ引っ込み、日和を見合わせける者ども、我劣らじと御味方に成る事、縦(たとえ)ば、北辰のその所に居て、衆星の向うるが直ちにし、下らずと云う者なし。
※ 秋山伯耆守 - 秋山信友。戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人。
※ 北辰(ほくしん)- 北極星の異称。
※ 衆星(しゅうせい)- 多くの星。


これより上様は掛川へ向わせ給い、見付の城より不入斗村へ、御出帳り御陣を張らせ給う。その頃、今川氏真、信玄に駿河を取られて土肥の山家へ少しの間、窄み入り給うといえども、怺(こら)え難く掛川の城へ落ち来たり給う。城主朝比奈備中守、頼もしく引き請けて、ここを先途と防ぎ戦うといえども、漸々三千騎有りければ、叶うべきとは見えざりけり。
※ 窄む(つぼむ)- 狭い所に引きこもって小さくなる。
※ 先途(せんど)- 勝敗や運命を決する大事な分かれ目。せとぎわ。
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御嶽山噴火とスマホの力


(三岳山より浜名湖方面)


(三岳山より富士山)

(昨日のつづき)
三岳山の山頂でお昼を回ったので、どこかで昼食をと、三岳山を下る。一足先へ下って、三岳神社の駐車場で待つまでもなく、息子が降りて来て、御嶽山が噴火したと、スマホを操作しながら言う。どういうことだ。スマホに出ている。ほんの少し前だという。(噴火は11時52分)噴火の1分前に、山頂はのどかですと、山頂から眼下に見下ろす景色の写真とともに、ツイートしている人がいた。快晴の青空と眼下のコバルト色の二の池が印象的であった。一分後に辺りが地獄と化すことを、感じさせない写真であった。噴火のニュースに、その後どうなったのか、続報を求めるツイートが殺到していた。そのうちに、安否を案ずるツイートに代わる。息子もその後、何度もその人のツイッターをチェックしていたが、本人からの反応は無かった。

その内にツイッターにもユーチューブにも、噴火の画像や、映像が出て来た。しかし、カーラジオは、御嶽山で噴火があったと報じるだけで、続報が出て来ない。ユーチューブの映像では噴煙が立ち上がり、山小屋へ急ぐ登山者に追いついて、辺りがたちまち真っ暗に覆われる様子が、乱れに乱れた映像ながら、映っている。

このあと、のどかに晴れた細江の町で、「遠州高天神記」の取材で、堀川城跡と刑部城跡を回った。堀川城跡は浜名湖畔近くで、石碑と首塚の一画が残るだけの城跡であった。また、刑部城跡は人家の裏山で、金山神社という社がある樹叢が城跡と思われた。

写真を撮り取材を終えて、途中で昼食を摂り、急いで帰宅した。御嶽山の噴火のその後をテレビで見たいと思ったからだ。しかし、テレビは通常番組で、詳しく報じる局は無かった。NHKで噴火の特番が始まったのは、噴火から4時間ほど経った、午後4時頃であった。NHKの取材班が御嶽山の紅葉を撮影していて、頂上の向うから噴煙が突然に表れる映像は印象的だったけれども、その後に映った縦長の映像は、4時間前に息子のスマホで見せて貰った映像そのものだった。

秋の紅葉のシーズンで、快晴の土曜日、正午前である。山頂付近にはニ百人を越す登山客が登って来ていた。突如の噴火に、数十人の犠牲者が出てしまった。予知が出来なかったことについて、学者は噴火についての研究が未熟であると語った。せめて山頂近くに、阿蘇山で見るようなシェルターがあったならば、これほどの犠牲者を出さずに済んだと思うのは、自分だけではないだろう。

それにしても、速報性という面で、マスコミはいまやスマホの力に太刀打ちできない時代になっていると実感した。スマホ恐るべしである。若者のマスコミ離れが進むのも納得できる。

山頂のツイッター、無事に下山したとのツイートを最後に、ツイートを自ら閉じたという。簡単にツイート出来ないような、地獄の経験をして来たのだろうと想像した。
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家康四天王、井伊家の故地を尋ねる。

(井伊谷城跡)

朝、息子に運転を頼んで、「高天神記」の取材に出かけた。目的は浜松市北区の井伊谷城跡、堀川城跡、刑部城跡の3ヶ所の取材である。新東名で引佐まで、30分ほどで着く。近くなったものである。

先週、木曜日(18日)の掛川文学講座で、紹介され、興味を持った本が2冊あった。さっそく図書館で借りて、今手元にあって読んでいる。諸田玲子著「月を吐く」と、梓澤要著「女(おなご)にこそあれ次郎法師」である。何れも静岡県出身の女性作家が、戦国から江戸時代の静岡出身の女性を描いている。「月を吐く」は家康の正室で、非業の死を遂げた築山御前。「女にこそあれ次郎法師」は、女ながら名門井伊家の再興を計り、養子井伊直政を家康の四天王の一人にまで育て上げた次郎法師。それぞれ、歴史では不当に扱われ、あるいは注目されることのなかった女性たちに光を当てた歴史小説である。

その中の一冊、「女に~」の舞台となった井伊谷(いいのや)城跡を、まずは訪れた。小山の上の城跡へは歩いて登るしかなかった。城山公園になっている城跡までに、うっすらと汗をかいた。その昔、後醍醐天皇の皇子、宗良親王がこの城を本拠地に駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野へ転戦され、亡くなるまでの50年間に亘ったという。南北朝時代の南朝側の話である。城跡の一段高い所が、宗良親王の御所で、御所丸と呼ばれている。この城跡から井伊谷が一望に出来る。


(井伊氏祖共保公出生の井)

城跡を下ってから、宗良親王の祭られた井伊谷宮を訪れた。本殿の背後に宗良親王のお墓があるという。息子はツイッターで、井伊谷城跡、井伊谷宮などを写真とともにツイートしている。すると、すぐにその反応があり、「次は三岳山ですね」とツイートがあった。行く予定ではなかったが、足を延ばすことにした。その前に、200メートル程歩いて、龍潭寺の向いの田の中にある「井伊氏祖 共保公出生の井」を見に行った。立派な塀に囲まれた一画に井戸があった。


(三岳城跡)

北東の方角に5キロほど車で登った所に三岳神社がある。そこから標高467メートルの三岳山まで標高差100メートルほどの山登りとなった。心の準備なしの、20分ほどの山登りは、想像以上にきつかった。三岳城跡はその山頂にあった。井伊谷城は井伊氏の山城でいくさの時はこの山城に籠った。三岳城は今川氏の朝比奈勢に敗れて落城した。

三岳山からの眺望は素晴らしく、西は浜名湖から、浜松市市街地全域、天竜川から磐田原、小笠山最も東に粟ヶ岳辺りまでが見渡せた。掛川城から朝比奈の軍勢が攻め来たるのは、ここからは見えていたはずである。しばし見とれて、山登りの苦しさを忘れた。(つづく)
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遠州高天神記 巻の壱 2 福島左衛門の事

(瀧堺城跡のカラスウリ)

午後、取材に瀧堺城跡に行く。瀧堺城跡は武田信玄が高天神城攻めのために築いた砦で、眼下に駿河湾を望む絶景ポイントにあった。

「遠州高天神記」の解読を続ける。

   (福島左衛門の事)
まず福嶋上総介と云うは今川家譜代の家臣、武略の名高く聞こえ隠れなき厚士なり。さるに依って、先年今川より福嶋を大将として、甲州へ攻め入り、都留の郡まで押し入る所に、武田信虎の武略にて、上総介討死敗軍し、それより両家扱いにて和談す。福嶋が家は子細有りて、今川より改易有り。
※ 武略(ぶりゃく)- 戦術。戦略。駆け引き。
※ 武田信虎(のぶとら)- 戦国、織豊時代の武将。甲斐の守護。信玄の父。
※ 改易(かいえき)- 中世、罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。


福嶋が嫡男、十三にて関東へ行き、小笠原北条氏康公へ奉公に出で、御意に入り御座を直し、御取り立て有りて、鎌倉玉縄の城主と成る。福島左衛門と云う。天文七年(1538)、武州川越の城に篭城して、氏康川越の軍(いくさ)に勝利有りて、北條上総介に成る。その子北條左衛門と云う。後、常陸守と成る。その子また北條左衛門と云う。二、三代相続して、隠れなき勇士なり。
※ 北条氏康(ほうじょううじやす)- 戦国時代の武将。氏綱の長男。上杉憲政・古河公方足利晴氏を破り、武田・今川両氏と結んで関東進攻を図る上杉謙信に対抗し、後北条氏の最盛期を招いた。
※ 御意に入る(ぎょいにいる)- お気に入る。おぼしめしにかなう。
※ 御座(おざ)を直す - 若衆が主君の身の回りの世話をする。また、主君の伽をする。
※ 北條上総介 - 福島左衛門は北条の娘を娶り、北条一門に加わる。


指物黄にして八幡大菩薩と書く故に、地黄八幡と言われ、世間にも鬼神の如く風聞有りし。大剛の者なり。
※ 地黄八幡(ぢきはちまん)- 北条上総介綱成の旗指物。現在、長野県長野市松代の真田宝物館に現存する。発音が「直八幡」に通じるため、八幡の直流であるとアピールした。
※ 大剛(だいごう)- 非常に強いこと。また、その人。


(高天神城の)今の城主、小笠原与八郎事は若年なれども惣領筋と云う。父弾正が忠節故なりと云々。同国馬伏塚の城には、小笠原美濃守籠城す。
※ 惣領(そうりょう)- 中世武家の家財産は分割相続によって男女を選ばず子に配分されたが、そのうちの主要部分を継承した男子を惣領と呼び、他の男子を庶子と呼ぶ。惣領は必ずしも長子から選ばれるのではなく、器量により家を代表した。


(以下は明治写本の注)
この○の下は、今見聞する事を、その所の者に相尋ね記す者なり。

○福島左衛門を北條上総介と云い、この末の御当家にて、北条出羽守氏重と云う。遠州掛川城主となる。頓死して子なく跡絶える。もと遠州より出で、また末に遠州掛川にて家絶える事、天の叛や来りけんと、世人唱う事なり。掛川心養寺に、出羽守殿道具納め在り。直八幡の指し物も、かの寺にこれ在る由に候。慶安元年子(1648)より、万治元年戌(1658)まで、十一年知行。
※ 天の叛(てんのはん)- 天の反逆。天の叛き。
※ 直八幡の指し物 - 故あって、現在、長野県長野市松代の真田宝物館に展示されている。


○往古より遠州城飼郡(きこうのこおり)と云々。横須賀の城、出来してより、城東郡と云々。近江国絵図の時、国中古証文等、二記になるゆえ、上へ窺う所に弥々城東郡と申すべき旨定るなり。
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遠州高天神記 巻の壱 1 遠州城東郡高天神城濫觴

(昨夜半の大雨で増水した大代川に、
カルガモの群れが流れに戯れる)


「遠州高天神記」の解読を始めよう。

  遠州高天神記、巻の壱
   遠州城東郡高天神城濫觴 附り、福嶋の事

※ 濫觴(らんしょう)- 物事の起こり。始まり。起源。

一 遠州城東郡高天神の城、草創は人王百二代称光院の御宇、応永二十三年(1416)丙申(ひのえさる)、鎌倉の将軍持氏公の時、上杉金吾謀反の時、持氏公は駿州まで御退去有りて、今川を御頼み、かつまた京都の公方へも加勢を乞わせ給う。
※ 人王(にんおう)- 神代に対して、人代となってからの天皇。神武天皇以下歴代の天皇をいう。
※ 百二代称光院 - 101代称光天皇。102代は神功皇后を数に入れた数え方。
※ 御宇(みう)- 天子の治世の期間。御代(みよ)。
※ 持氏(もちうじ)- 足利持氏。室町時代の武将。四代鎌倉公方。1416年、上杉禅秀の乱を平定。のち、将軍義教と対立、38年(永享10)関東管領上杉憲実を討とうとして幕府に攻められ,翌年自刃した(永享の乱)。
※ 上杉金吾(うえすぎきんご)- 上杉氏憲、禅秀。応永23年(1416)、鎌倉公方足利持氏に背き、敗れて自殺(上杉禅秀の乱)。


この時、遠州は今川了俊の官領なり。了俊は筑紫に居られ候えども、駿河の今川と心を合わせ、国人を集め守護し奉る。この時に到りて、高天神山に城郭を築き、山内玄蕃允を城代として、その後、文安三年(1446)に、駿河の今川の家老、福嶋佐渡守、その子福嶋上総介、二代城主なり。文亀(1501~1504)の頃、小泉左近、城主と成る。天文十一寅年(1542)より小笠原弾正忠、城主と成る。今川義元公の御時なり。弾正死して、永禄七年甲子(1564)、その子小笠原与八郎、城主と成る。
※ 今川了俊(いまがわりょうしゅん)- 南北朝時代の武将・歌学者。名は貞世。伊予守。遠江守護。足利義詮に仕え、応安四年(1371)九州探題となり、九州の南朝方を制圧。その後、足利氏満との共謀の疑いを受け引退。
※ 今川義元(いまがわよしもと)- 戦国時代の武将。駿河・遠江・三河を支配。京都へ進出の途中、桶狭間で織田信長勢に急襲され敗死。



(高天神城大手口)


(高天神城搦め手口)

南方鹿ヶ谷の先、池の段と云う所、大手なり。北の方を搦め手とす。東の方は鳥も翔けり難き切岸、聳えたり。西の方は山あれども、谷深く切れたり。誠に究竟の地なり。
※ 翔ける(かける)- 鳥などが、空高く飛ぶ。飛翔する。
※ 切岸(きりぎし)- 切り立った険しいがけ。絶壁。断崖。
※ 究竟(きゅうきょう)- 物事をきわめた、最高のところ。究極。
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「遠州高天神記」解読にあたって

(「遠州高天神記」本文)

一ヶ月ほど要したが、「塵摘問答」の解読もようやく終わった。難解な本で、注だらけになってしまったが、理解いただけたであろうか。版を重ねた本だというから、江戸時代の人々の理解力は侮れない。

次は少し楽なものをと思い、「遠州高天神記」という本を選んだ。戦国大名の先駆けで、駿河、遠江に絶大な力を持っていた今川氏は、義元が桶狭間の戦いに敗れて、急速に力を失っていた。その空白を埋めるように、東から武田信玄、西から徳川家康が侵出してきて、大井川を境に西を徳川、東を武田に二分するという密約を両者は結んで、旧今川領を分けあった。

とはいっても、戦国の世では、領界がそのままで済むはずはない。そんな中、「高天神を制するものは遠州を制す」といわれた高天神城は、難攻不落の山城で、武田と徳川は高天神城を巡って、取ったり取られたりの攻防を続けた。「遠州高天神記」はその攻防を記した物語りである。

「遠州高天神記」は誰の手によって記されたのか、勉強不足で判らないが、人の手によって次々に書き写されて、現代に伝わっている本である。自分が読む本は、嘉永三年(1850)に書き写されたものである。原文には巻分けは無かったようだが、嘉永三年版は四巻に分かれている。その内、第二巻が手に入らなかった。それとは別に、明治二十五年に書き写したものがあったので、第二巻にあたる部分は、明治二十五年版から解読しようと考えている。

「遠州高天神記」を読み進める上で、嘉永三年版の解読が難しい部分は、明治二十五年版でチェックしている。ところが、明治二十五年版は、どうやら文明開化の明治の感覚で、原文をかなり手直ししていることが分かった。第一に、平仮名部分を片仮名表記に替えている。第二に、古い言い回しを新時代の表現に変えている。第三に、その後に判った事実を補うように原文に加えている。第四に、明らかに転記ミス、解読ミスも散見される。結果、原文が持っている、江戸時代初期の戦記物としての味を損なっているように思えた。

そこで、解読に当っては、嘉永三年版を元にしたわけである。戦後の全ては戦前の全てを否定する所から始まった。それと同様に、明治の全ては、江戸時代の全てを否定する所から始まっている。その中には廃仏毀釈などのように、とんでもない暴挙もあった。その数々が150年も経った現代、ようやく検証が進められるようになった。だから、戦後に改めたすべてが、検証されるようになるには、まだ100年ほどの時間がかかるであろう。

話が横道にそれた。「遠州高天神記」である。遠州高天神城(跡)は掛川市土方(ひじかた)にある、標高132メートルの高天神山の尾根に造られた山城である。100メートルほどの標高差ではあるが、周囲は急峻な崖で、それを登って攻めるのは相当難しい。難攻不落の城と云われた由縁である。

それでは、明日から「遠州高天神記」の解読を始める。
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塵摘問答 28 男、老僧の弟子になる(終り)

(散歩道のイタドリの花)

彼岸の中日。午後、女房の実家の墓参。

塵摘問答もいよいよ今日で終わりである。最後の部分は問答ではない。

その時、この男、手を打ち申すよう、扨も/\御僧様は如何なる人にて御座候や。仮初めに参り合い、心中の不審を晴らし候。いづくにて御学問御究め候や。我らも六十余州をあら/\巡りて候えども、これ程尊(たっと)き御僧に逢い申す事は、今始めと喜びければ、

老僧申されけるは、愚僧は根本讃岐の者にてありつるが、年十九にて髪を剃り、それより心を引きかえて、たま/\人身を得たる時、如何にもして生死を離れ、成道に入り候わんと存じ候て、色々趣意し候。
※ 人身(にんじん)- 人間のからだ。
※ 成道(じょうどう)-(仏語)菩薩が修行して悟りを開き、仏となること。


されども、座禅して壁に向いて悟らん事も難し。又森羅修行をして、即身即仏の本性を得ん事もなお難し。また堂塔寺を建立して、その功徳を蒙らんも遠し。たま/\無聊使うにて、釈尊大師の御教えにあいけりたる時、とやせん、かくやせんと思い、年二十一より高野山に上り、大楽院にて念仏申して有りしが、不思議に学問を心掛け、かように罷り成り候。
※ 森羅(しんら)- 天地の間に存在するもろもろのもの。
※ 無聊(むりょう)- たいくつなこと。ぶりょう。
※ 使う(つこう)- 消費する。ついやす。


御身は如何なる人かと有りければ、かの男申すよう、我らは生国、大和国の者にて候が、年十二より南都興福寺釈迦院に奉公仕り候が、それにても身送り難くて、この十四、五年の間、千駄櫃負いて、諸国を巡り候。只今仰せの如く、貧賤なれば、仏法僧をも供養せす参り行くは、本より心拙くて及びなし。人の物は少し成るとも求めたく、我が物は少しも惜しくて、心に飽く事はなし。慈悲の心が候わねば、成長の一つをも、そうに信ずる事はなし。

所詮稀なる生を受けて思えば、一期(ご)は夢の間なり。善根の心は一滴の露ほども候わず。成仏を得ん事ある、月の夢にも有るまじと、思い定めて候間、御僧様の御弟子になり申さんとて、やがて髪を剃りて墨染めの衣にすがたを変えてありし時、
※ 善根(ぜんごん)-(仏語)よい報いを招くもとになる行為。様々の善を生じるもとになるもの。

老僧申されけるは、法師が名をばくうしん坊と申し候間、御身の名をばけんしん坊とぞ、付け給う。さる程にけんしんは千駄櫃をば茶屋に置きて、中なる物を沽却して、くうしん坊参らする。さるほどにくうしん坊、二人ながら茶屋を出で、善光寺へ参らんとて、十町ばかり歩みて、二人ながら掻き消すように失せにけり。
※ 沽却(こきゃく)- 売り払うこと。売却。
※ 参らす(まいらす)- さしあげる。


その問答のとき、伊勢の国、朝熊大せん坊と言いし人、その茶屋に有り合いしが、余りに不思議なる問答なりとて、やがて書き置き候て、世間に広まり候なり。
※ 朝熊(あさま)- 朝熊山に金剛證寺という臨済宗の寺院がある。朝熊山はその寺の山号でもある。

(終り)
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塵摘問答 27 富士の山、念仏

(目玉焼きを乗せたカレーライス)

昨日、女房が同窓会に出かけたので、夕食は手慣れたカレーを作った。今日はその余りを食べたが、一工夫して、上に目玉焼きを一つ載せてみた。現役のころ、鹿児島のビジネスホテルのそばに、行き付けのカレー屋があった。そこのトッピングに、目玉焼きがあって、よく食べたのを思い出したのである。

味を着けない目玉焼きは、白身も黄身も、時々口に入れると舌休めになって、美味しさにアクセントが付く。

あのカレー屋、火事になって、その後再開されることがなかった。

塵摘問答の解読を続けよう。最後の二問答である。

(富士の山)
一 男問いて云わく、富士の山は何時の世に出来候や。

老僧答えて云わく、仁王二十二代の御門、雄略天皇の御時、一日一夜に湧出たり。山高うして普段雲霞に隠れて候えば、見付けたる人もなかりしに、人王三十一代の御門、敏達王の御時、金光四年役の行者の見付け給いて、則ち山を踏み初め給いてこの方、富士参りは候なり。
※ 雄略天皇は二十一代の天皇である。
※ 敏達王 - 敏達天皇は三十代天皇である。雄略天皇ともども、一代多いのは、神功皇后を一代と数えた結果だと思う。
※ 金光(きんこう)四年 - 西暦563年。金光は古代年号と呼び、正式の年号ではない。後世の仏家によって仮託された架空のものとされる。
※ 役の行者(えんのぎょうじゃ)- 七世紀末に大和国の葛城山を中心に活動した呪術者。役小角(えんのおづぬ)とも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。呪術を使い、秩序を乱したとして、伊豆国に流された。富士山との関わりはその時のことである。


さる程に中宮より下は金輪際より出来たり候。中宮より上は天より降りて候。然る間、大地和合山と申し候。
※ 金輪際(こんりんざい)-(仏語)大地の最下底のところ。大地がある金輪の一番下、水輪に接するところ。金輪奈落。


(念仏)
一 男問いて云わく、念仏は諸経の中の関門と申すは如何なる故候や。

老僧答えて云わく、諸経の中の関門は法華経にて候。また念仏は弥陀依正万徳の名号なれば、九品の為に広め給えば、三心すなわち一身と心得候わば、一念の弥陀は己心におさまりて候なり。八万法蔵の中に第一は、妙法蓮華経を申すなり。
※ 依正(えしょう)-(仏語)過去の業(ごう)の報いとして受ける、環境とそれを寄り処とする身体。
※ 名号(みょうごう)-(仏語)菩薩の名。これを聞いたり唱えたりすることに功徳があるとされる。特に、「阿弥陀仏」の4字、「南無阿弥陀仏」の6字をさす。
※ 九品(くほん)-(仏語)浄土教で、極楽往生の際の九つの階位。
※ 三心(さんしん)-(仏語)観無量寿経に説かれる、往生する者が具えなければならない三つの心。至誠心・深心・廻向発願心の総称。
※ 一身(いっしん)- 全身。自分の命。
※ 己心(こしん)-(仏語)自分の心。自己の心。
※ 法蔵(ほうぞう)-(仏語)仏陀が説いた教え。また、それを記した経典。
※ 妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)- 法華経。
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塵摘問答 26 市、琵琶、文字

(大代河原草原のススキ)

大代川に溜った土砂が草原化して、ススキが穂を出した。ススキの季節感を写したのだが、草原化した河原はやがて天井川に変じてしまうのではないかと心配である。かつては定期的に川浚いの予算がついて、土砂を取り除いてくれたが、昨今ではそれも望めないのであろうか。

朝一番で、地区のお宮の掃除。ほぼ年一回の奉仕。

塵摘問答の解読を続けよう。

(市)
一 男問いて云わく、市は誰人の所立てにて候や。

老僧答えて云わく、それ市は震旦の都を真似んたるが、四方の門より貢ぎ物を運び、その前、上下の出入、数を知らず満ち/\たり。夜昼、普段、かくの如く有るなり。

日本には、人王四十五代の御門、聖武天皇の御時、天平しょうれき七年に、南都の玄僧正の、震旦の都をかたどりて、三輪の市を始められてよりこの方、市は所々に候。こゝをもつて回文を使わねども、面々の里のために市に出で候なり。
※ 天平しょうれき七年 - 天平七年(735)。「しょうれき」の意味不明。
※ 玄(げんぼう)- 奈良時代の法相宗の僧。大和の阿刀氏出身。716年入唐、735年帰朝。皇太夫人藤原宮子の病を快癒させ栄進、権勢をふるったことで藤原広嗣の乱の因となった。のち筑紫観世音寺に左遷。
※ 回文(かいぶん)- 複数の人に順に回して知らせるようにした手紙や通知。回状。まわしぶみ。


(琵琶)
一 男問いて云わく、琵琶は誰人の始め給い候や。

老僧答えて云わく、それ琵琶は天竺の阿須倫王の代の、キンと云う者が創りたるなり。姿は大日如来汎地をかたどるなり。また天竺、震旦、我が朝を映すなり。
※ 阿須倫王(あしゅりんおう)- 阿修羅王のこと。インド神話で、不思議な力を備えていた神々の称。仏教では、仏法を守護する天竜八部衆の一。
※ 汎地(はんち)- 広く行き渡った地。


日本に渡ることは人王六十代の御門、延喜の王の御時、広まりて候。詳しくは琵琶の音儀に見えたり。
※ 延喜の王 - 第六十代醍醐天皇。「延喜帝」と呼ばれる。


(文字)
一 男問いて云わく、文字は誰人の始め給い候や。

老僧答えて云わく、文字は梵天王の四十八字を口に唱えて、この娑婆世界に広め給う。また八万四千の文字(もんじ)大聖文殊の所立てにて候。また紙は震旦の蔡倫が作る。硯は子路という者が作り候。墨はくんきゅうが作るなり。筆はもうてんが作るなり。
※ 梵天王(ぼんてんおう)- 色界の初禅天の王。本来はバラモン教で根本原理を人格化した最高神であったが、仏教に取り入れられて正法護持の神とされる。
※ 大聖文殊(だいしょうもんじゅ)- 文殊菩薩の正式名は「大聖文殊師利菩薩」という。
※ 蔡倫(さいりん)- 中国、後漢の宦官。桂陽(湖南省)の人。字(あざな)は敬仲。樹皮や布くずなどから初めて紙を作り、105年、和帝に献上したという。その紙は蔡侯紙とよばれた。
※ 子路(しろ)- 中国春秋時代、魯の学者。孔門十哲の一人。姓は仲、名は由、子路は字(あざな)。勇を好み、孔子に献身的に師事した。
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