平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 353 社寺 13
背後で、今、紅白が放映されている。写真は年末に購入した紅白のシクラメン。シクラメンが意外と安かったので、思い付いて沢山の鉢の中から、紅白の二タ鉢を選んだ。お正月らしくて良いかと思ったが、紅白歌合戦のことは頭になかった。それが今、似合っている。
夕方孫たちが集合して、年越し蕎麦(孫たちは、年越しそばと言っても、ラーメン)を祝って、掛川のまーくん一家は帰って行った。さあ、間もなく、平成30年も終り、平成が終わりを告げる。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
本寺堂宇創立及び再建など左の如し
寛永十四丑年(1637)、常安寺初めて建立。
高一石六斗 御除地
高三石一斗八升五合 御年貢地
寛政十一年(1799)本堂再建す。今の堂宇これなり。この時庫裡をも修築せり。初め当寺四世了桂師檀越と協力し再建の緒を開き、五世俊明師を継六世玄聾師に至り落成す。棟簡に記する所、次の如し。
寛永十四丁丑年(1637)建立 時に寛政十一年未年(1799)
当寺開山班岩呑虎和尚 今般再建当寺六世前住玄聾代
開基源庵善桃居士 当寺惣壇中村役人
庄屋 下島八左衛門
組頭 仲山善右衛門 同 八木栄助 百姓代 影山又右衛門
同 渡辺権右衛門
工匠 花島紋之助政利
清水政五郎
外拾一人
木挽 山本長次郎
白幡伊平
影山定吉
山口彦十
裏面 当寺再建立替四世了桂和尚代初め、五世俊明和尚相続、六世玄聾代成就。
従前より本堂の屋根は萱葺なり。して以って二十年内外を経る毎に葺替をなし来たりしが、今又葺替の時期切迫せるに依り、信徒協議を凝らし、屋根を改築して瓦葺となせり。予(かね)て貯蓄しある寺財を基本とし、且つ他に浄財を募りてその費えに充用す。大正三年当住禅豊師、議を起し、同四年一月着手、五年一月に至り工事竣成し、二月十五日、入仏式及び上棟式を行なう。その費用の収支は左記の外、課役人夫凡そ二百五十人を要せり。信徒は勿論、村内他壇も旧慣により、平均課役を勤めたり。
収 入
一 金八拾弐円四拾四銭 境内枯松一本売払代積立
一 金参百弐拾九円六拾銭 講事金積立
一 金弐百円也 新設講事金
一 金参拾円弐銭 山林立木売払代
一 金八円四拾五銭 古木材萱売払代
一 金七拾円四拾銭 信徒寄附金
但し一戸に付、六円より五銭まで
計 金七百弐拾円九拾壱銭
支 払
一 金百参拾円弐拾銭 木材代
一 金百九拾参円六拾八銭 瓦代及び瓦付職工賃
一 金参拾六円四拾六銭 針金、釘代
一 金七拾弐円七拾銭 大工費
一 金参拾参円参拾壱銭 木挽、左官、屋根、石工賃
一 金六拾七円弐拾壱銭 庫裏修繕木材及び大工賃
一 金弐拾円参拾五銭 講事新設飲食費
一 金四拾七円五拾七銭 入仏式及び上棟式費
一 金拾九円四拾参銭 諸雑費
一 金百円也 講事掛、返し金
計 金七百弐拾円九拾壱銭
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「竹下村誌稿」を読む 352 社寺 12
自分が撮った写真ではないので、感想はないが、寒そうだ。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
寺域内に庚申堂あり。延命長寿の加護仏にして、一般の信仰、最も厚く、疾病その他、大凡(おおよそ)求むることあれば、村人必ず来たりてこの仏に祷(いの)る。多く冥福ありと云う。香花、常に絶えず。従前より、庚申に当る年を以って開扉供養を営むを常例とせり。近時は毎年一、二月中、初庚申に当る日を以って供養をなす。賽者犇(ひしめ)きて浄域を埋む。当日は大弓、籤引きなどの余興あり。この開扉供養をなすことは、何れの時代より始りしか知り難きも、堂中に安置せる石像に、享保十三申年(1728)供養と彫刻あり。(大正七年五月稿)
※ 冥福(めいふく)- 前世からの因縁による幸福。人や仏の陰徳によって与えられる幸福。
※ 賽者(さいしゃ)- 仏閣にお参りする人。賽人。
本寺に関する古記を案ずれば、
寺記云う。
源安善桃居士 万治二年(1659)二月九日 常安寺開基、下島八左衛門先祖。
享保十五年(1730)本村明細帳云う。(渡辺氏記録)
一寺 一ヶ寺 禅曹洞宗、竹下常安寺、平僧。
客殿 長六間半、橫四間半 但し萱葺き。
庫裏 長五間一尺、橫三間 但し萱葺き。
高一石六斗地 御除地 これは御高外の御除地に御座候。
高壱石五斗六合地 御年貢地。
本寺御領所、横岡村観勝寺。
境内、東西二十間余、南北十五間余、松、竹御座候。
※ 平僧(へいそう)- 無位無官の僧。あるいは役職の低い僧。平僧地で、曹洞宗で最も寺格の低い寺。平僧が住職。
遠記伝云う。
常安寺、除地高一石六斗 曹洞宗、横岡観勝寺末、真岩派 平僧住む。
掛川志云う。
竹下山常安寺(曹洞、横岡村観勝寺末)村の上にあり、除地一石六斗。本堂六間、本尊釈迦、開基班岩呑虎和尚、万治二年(1659)十一月五日寂。境内、東西二十歩余、南北十五歩余、寺域に庚申堂あり。
寺院名細帳云う。
静岡県榛原郡横岡村観勝寺末
同県同郡竹下村字大溝端六十三番地
曹洞宗 竹下山常安寺
一 本尊 釈迦如来
一 由緒
それ当寺は(寛永十四年)本寺五世全鈯和尚、村中一同の信仰するを以って、若干の施財を得て、適宜の地を卜し、招提一宇を創造し以って開山たり。これ村民一同の尽力に出るといえども、またこの事に精衷を抽(ひき)て担任するは、第二世呑虎長老及び信徒、下島八左衛門の庶績の致す所なり。故呑虎長老並び下島氏を開基とす。爾後、明治御改正の際、徳川氏より下賜の除地一石六斗、悉く上地(あげち)となれり。按ずるに、開創より当明治十三年まで、二百四十四年の星霜を経て、第十世に到れり。右由緒の赴略、かくの如くに御座候なり。
※ 招提(しょうだい)- 仏教で、寺院。道場。
※ 一宇(いちう)- 一棟の家、建物。
※ 精衷(れい)- 清いまごころ。
※ 庶績(しょせき)- 多くのさまざまな功績。
※ 赴略(ふりゃく)- あらまし。
一 本堂 間口六間半、奥行五間。
一 庫裏 間口三間半、奥行五間。
一 雪隠 間口二間、奥行一間半。
一 境内坪数 百八十一坪 民有地第一種 持主 常安寺。
地価 十二円六銭六厘
右は官有地の処、明治十二年八月許可、無代償にて下附。
境内仏堂 一宇
一 庚申堂 間口九尺、奥行二間。
本尊 青面金剛士 但し木像 合併仏これ無し。
一 由緒
右は慶安四年、呑虎長老代村民一同信志を齎(もた)らして、浄財を合蒐し、以って創造し、新たに安置する所に御座候なり。
一 境外所有地反別七反八畝十六歩
内 田反別六反七畝十五歩 地券十一枚
地価四百八十四円八十五銭
内訳(略す)
一 境外宅地反別 これ無し
一 信徒人員百九十六人 男九十八人、女九十八人、竹下村五十四戸の内、四十三戸
一 静岡県庁まで九里十五町
一 竹下村中央より、該寺まで距離北二丁
明治十三年十月 日 右住職試補 塚本愚禅 ㊞
信徒惣代 渡辺権次郎 ㊞
同 杉山彦一 ㊞
同 仲山善助 ㊞
右村戸長 八木為三郎 ㊞
(絵図略)
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「竹下村誌稿」を読む 351 社寺 11
お昼、娘たちと孫四人がお寿司を買ってきて、我が家で食べた。未明から夜明けの富士山を撮影に行っていた息子が帰って来て、孫たちが伯父さんに当る息子に、遅ればせのクリスマスプレゼントを頼んでいた。それぞれその場でネットで購入して、明日着くとか、明後日だとか、今はクリスマスプレゼントの送り方も様変わりである。
一番年上のまーくんは、買って貰いたいものを決めておらず、周りから色々言われて、とうとう泣き出してしまった。その一部始終を見ていて、まーくんもずいぶん大人になったと思った。少年野球チームに入って一年以上経ち、四年生だけれど、いまでは一番上のチームでプレーするようになり、おそらく今までのおもちゃ的なプレゼントは興味が薄れているのであろう。かと言って何が欲しいと聞かれても、思い浮ばない。だから泣くしかなかった。とりあえずは次回に繰越しということで、伯父さんに覚えていてもらうことに落ち着いた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
なお、村内に信仰者を有する浄土宗、真宗及び日蓮宗につきて、その要領を記すれば、左の如くなりと云う。
浄土宗は無量寿、観無量寿、阿弥陀の三経を所依とし、聖道、浄土の二門を以って諸教を摂尽し、阿弥陀の本願を信じ、名号を称えて浄土往生の妙果を証するを要旨とす。この宗、印度・支那を経て相承し来たる。本邦宗祖源空(円光大師)安元元年(1175)を以ってこれを唱う。後、鎮西、西山の二派に分かれ、今、西山派は禅林寺派、光明寺派、深草派の三派となり、単称の浄土宗と四派となる。(寺院の数、八千三百六十)
※ 所依(しょえ)- 頼るところ。よりどころ。宗派・教義の根拠。
※ 摂尽(しょうじん)- おさめ尽くすこと。
※ 相承(そうじょう)- 師から弟子へ代々、仏の悟りの本体を伝え受継ぐこと。
而して本村の信仰者は鎮西派に附す。
真宗はもと浄土真宗と称す。近時、単に真宗と称す。この宗は浄土三部の経典及び龍樹の十住毘娑婆論、易行品、十二礼、天親の浄土論、及び、道綽、善導の諸疏、源信の往生要集、源空の撰擇集など三経、七祖の経論釋を宗乗とし、以って弥陀弘願の真実教を伝燈承伝するものとし、弥陀の願力に依頼して念仏成就するを要旨とす。宗祖は親鸞(見真大師)とす。元仁元年(1224)、常陸の稲田より起れり。宗内十派に分る。本願寺派、大谷派、その他高田派以下八派あり。血統世襲の法王あるはこの宗の特色とす。(寺院の数、一万九千百七十六)
※ 宗乗(しゅうじょう)- 宗派の教義。
※ 伝燈(でんとう)- その宗派の伝統を師から門弟へと伝えること。
而して本村の真宗は皆大谷派なり。
日蓮宗は法花(華)経、及び無量義経、観普賢経、の三部を所依とし、就中(なかんずく)法花(華)経を正依とし、法花二十八品、前十四品は釈尊を十九出家、三十成道の始覚仏と説くが故に、これを迹門とし、後十四品は釈尊を五百塵点劫来の久遠実成の本覚仏と明すが故に、これを本門とし、本門中特に寿量品を立てゝ深勝となす。而して、一宗の内、本門を勝とし、迹門を劣とするものあり。二門双用一致を云うものあり。故に近時一致派、勝劣派と分立せり。
その後、一致派は単に日蓮宗と称え、勝劣派は妙満寺派、興門派、八品派、及び、本成、本隆など数派に分る。後、興門派は、一は日蓮正宗、一は本門派と改め、八品派は本門法花宗と改む。宗内本末八派に分立すといえども、身延山久遠寺を本山とし、皆な宗祖日蓮を崇奉して本尊とす。この宗は建長五年(1253)より日蓮これを弘む。初め法花宗と称し、後に日蓮宗と云う。(寺院の数、五千六十)
※ 崇奉(すうほう)- 崇拝すべきものとして尊ぶこと。
而して本村の信者は皆な日蓮宗に隷す。
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「竹下村誌稿」を読む 350 社寺 10
漸く年賀状を出し終えた。三行ほどのメッセージを手書きでその人を思い浮かべ書いた。100枚を越えると中々厳しい。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
禅宗に三宗あり。臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、これなり。今、三宗分立起源の要旨を叙したるものあれば、納めて参考に資すべし。
禅宗は他宗の如く経典に依拠せず、教外別伝、直指人心と云う。故に師資相承を重んず。釈尊より迦葉、阿難、二十八伝して達磨に至る。達磨、東上に心印を伝えて、慧可、僧璨、道信、弘忍、恵能と相承(う)く。恵能の門下に、行思、懐譲あり。懐譲の門に、道一、道一より百丈、百丈の次に黄檗希運あり。これを黄檗宗という。黄檗宗は伝来最も晩(おそ)く、承応三年(1654)、隠元(普照国師)支那(明)より来たりて、宇治に萬福寺を建てこれを弘(ひろ)む。(寺院の数六百六)
※ 依拠(いきょ)- あるものに基づくこと。よりどころとすること。
※ 教外別伝、直指人心(きょうげべつでんじきしにんしん)- 達磨大師が言われたとされる「不立文字」(ふりゅうもんじ)「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)の四聖句で、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって、釈尊の悟りを直接体験する」という禅の根本思想を示す。
※ 師資相承(ししそうしょう)- 師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくこと。
※ 心印(しんいん)- 禅宗で、以心伝心によって伝えられる悟り。
黄檗希運の次に臨済、義玄あり。これを臨済宗とす。建長二年(1250)、栄西(千光国師)宋より帰りてこれを伝う。派を分かつ事もっとも多く、京師五山、並びに妙心、大徳、永源、鎌倉、建長、円覚などの十派となる。(寺院の数六千百二十九)
曹洞宗は六祖恵能の曹溪に在りしと、青原の法統、良价の洞山に在りしとに依り、曹洞宗と名(なづ)く。安貞元年(1227)、道元(承陽大師)宋より帰朝してこれを伝え、永平寺を開きてこれを弘む。二世を経て瑩山(常済大師)総持寺を開く。この二寺を曹洞宗の両本山とす。(寺院の数一万四千九十四)
※ 法統(ほうとう)- 仏法の系統。
而して本寺は総持寺派に属す。
因(ちな)みに禅は天台宗の伝わりしと共に、夙(はや)くより北嶺にありて、天台禅と称し台宗の兼学なりしと云う。
※ 北嶺(ほくれい)- 高野山を南山と呼ぶのに対し、比叡山の別名。
※ 台宗(だいしゅう)- 最澄が開いた法華経をよりどころとする仏教宗派。別名、天台宗。
※ 兼学(けんがく)- 二つ以上の学問や宗教などを兼ね学ぶこと。
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「竹下村誌稿」を読む 349 社寺 9
大井川鉄道の新金谷駅前にあるSLポスト。黒の塗料はSL塗装の塗料と同じと云う。ここに投函すればSLの図柄の風景入り消印が押してもらえるらしい。いつか、貰ってみよう。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
第三節 寺 院
一 竹下山常安寺 竹下村字大溝端六十三番地
宗旨 禅曹洞宗 横岡村観勝寺末祖真岩派
本尊 釈迦如来
創立 寛永十四年(1637)
開山 全鈯和尚(観勝寺五世)二世開闢呑虎、三世嚴鐡、四世鐡禅、五世了桂、六世俊明、七世玄聾、八世仏海、九世活鳳、十世愚禅の諸師易葉相継ぎ、現董禅豊師に至る二百八十三年(大正八年)の星霜を経、法灯連綿として栄え、宗風普(あまね)く人心に徹底せり。
※ 法灯(ほうとう)- 釈迦の教えを闇を照らす灯火にたとえていう語。
※ 連綿(れんめん)- 長く続いて絶えないさま。
※ 宗風(しゅうふう)- 仏教で、一宗の風儀。
寺は「テラ」と訓じ、その語源、明らかならず。或るは朝鮮語の転訛にして、礼拝所の義なりとも云えり。古記には精舎または伽藍を、ともに「テラ」と訓(よ)めり。また寺とは公廷の意なりと。これを字書に徹すれば、「浮屠、居する所の名を寺と曰う」と云えり。
※ 浮屠(ふと)- 僧侶のこと。
謹んで惟(おも)うに、本寺は冥応利生の道場にして、十方渇御の霊地なり。皈依(帰依)の信徒は竹下、志戸呂、番生寺の三村に亘りて、七十五戸四百五十余人を有し、寺域四百三十九歩、古木老杉、その境を繞(めぐ)り、春は桜花妍を競い、秋は丹楓枝葉を交え錦繍を晒(さら)すが如し。殿堂又荘重にして、一山の観をなし、常に寂寥として禅心を澄ましむる精舎なり。
※ 冥応(みょうおう)- 知らない間に神仏が感応して利益(りやく)を授けること。
※ 利生(りしょう)- 仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。
※ 妍を競う(けんをきそう)- 美しさを争う。
※ 丹楓(たんふう)- 紅葉した楓(かえで)。
※ 錦繍(きんしゅう)- 錦と刺繡をした織物。(美しい紅葉や花をたとえていう)
※ 寂寥(せきりょう)- ものさびしいさま。ひっそりしているさま。
創立以来、徳川氏より寺田を寄付せられしが、物換わり星移り、明治維新の際、上知となれり。然れども他に常禄ありて典礼香儀を行ない、寺門の経営を妨げず。由来、春風秋雨、ここに三百年、兆人の瞻仰、千歳の下に衰えず。その風教上に貢献する所、蓋し尠少ならざるべし。
※ 上知(あげち)- 江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収すること。
※ 常禄(じょうろく)- 安定した一定の収入
※ 典礼(てんれい)- 定められた儀礼や儀式。
※ 瞻仰(せんぎょう)- 敬い慕うこと。
※ 尠少(せんしょう)- 非常に少ないこと。
按ずるに我国の仏教はこれを概言すれば、釈迦を本尊とする法花(華)経と、弥陀を本尊とする念仏との二種の信仰の潮流が、終始提携して、一貫の状をなしたるものに外ならざるべし。而して本寺は、釈迦を本尊とし、観心参禅して不可説なる教義の真髄を求め、幽玄なる無相の妙理を諦悟する禅宗にして、また仏心宗とも云う。禅は梵語にして「静慮」とも「定」とも訳せり。
※ 概言(がいげん)- 大体の要旨を言うこと。
※ 観心(かんじん)- 自己の心の本性を観察し、その真実を明らかにすること。
※ 無相(むそう)- 一切の執着を離れた境地。
※ 妙理(みょうり)- すぐれて奥深い道理。
※ 諦悟(ていご)- あきらめ。
※ 仏心宗(ぶっしんしゅう)- 禅宗の異称。文字などによらず、ただちに仏心を悟ることを教える宗門の意。
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「竹下村誌稿」を読む 348 社寺 8
お昼前、名古屋のかなくん母子が帰郷した。今夜は掛川のまーくんの家へ泊るという。このまーくん、かなくんも来年は五年生になる。
このブログを始めてもう丸十三年になろうとしている。つまり、まーくん、かなくんよりも先輩ということである。今日で、通算4682回を数える。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
当社営造物
一 金皷(わにぐち) 一個 経一尺余。今、常安寺庚申堂に掲げあり。
銘に曰く、奉掛け 大井大明神御宝前 竹下村願成就
享保九甲辰天九月九日 願主 金谷横町柴田清兵衛
一 浄水盤 一個
明治初年、村内有志献納す。
一 石花表
※ 花表(かひょう)- 神社の鳥居。
大正四年 御即位記念として、氏子にて建立す。石質は三州御影にして、高十三尺余、柱径九寸、刻して曰く、「為御大礼紀念 大正四年十一月献納 氏子中」
本社は従前より社域の外、神領なかりしが、氏子より寄付の祭田ありて、その所得にて祭事を行ない、修繕をなし、残余あれば利殖するの恒例なり。今その地籍の来歴を記すれば、
竹下村字上ノ嶋十二番地
一 大井神社境内反別四畝歩 官有地第一種(明治九年調べ)
字上ぐみ山長太郎せど
一 下田一反十五歩 分米一石五升 氏神領
この散田三俵三斗 内一斗五升 春引
一俵二升 御蔵納 残二俵一斗三升計辻
これは金谷宿、竹ノ下屋弥八郎より氏神祭礼料に上がる。
※ 辻(つじ)- 物の合計。
この竹の下屋弥五郎は、本村下嶋初代八左衛門(四男)の分家なり。故に竹の下屋と号す。出身地の縁故により祭田として前記の如く寄付せしものなりと云う。
また、天保中本村金原七左衛門も金五両を神社祭礼料として寄付せりと云う。
神社所属地
五和村竹下地内(大正五年十二月現在)
地番字 地目反別 地価 事由 散田米
20番宮ノ西 田1反3畝7歩 72円77銭 延宝中金谷宿 三俵二斗三升四合
下嶋弥八郎寄付地
288番中嶋 畑2畝28歩 5円8銭 元当村有郷蔵敷地 一斗六升
551番2堤間 畑1畝15歩 1円60銭 元当村有堤敷地 一斗三升五合の内
〃 番1〃 雑地15歩 2銭 〃 〃
552番 〃 原野1畝24歩 9銭 〃 〃
553番 〃 原野2畝2歩 10銭 〃 〃
計 2反2畝1歩 79円66銭 四俵一斗二升九合
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「竹下村誌稿」を読む 347 社寺 7
車で通る度に気になっていたが、昨日、散歩途中に撮ってみた。昨日散歩の帰り、やや身体が疲れていると思ったが、どうやら風邪の引き始めらしい。葛根湯を呑んだ。年賀状を印刷した。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
一 祭日 毎年旧暦九月九日例祭なりしが、明治四十三年より改めて、十月十七日を例祭とす。
祭式 一、着席 二、祓式 三、開扉 四、献饌 五、祝詞
六、祠官及び氏子(玉串奉献) 七、撤饌 八、閉扉
九、退出
※ 献饌(けんせん)- 神前に物を供えること。⇔撤饌(てっせん)。
式了(おわ)りて祠官及び氏子一同、拝殿にて神酒を頂戴し、参拝者には祝酒及び甘酒あり。従前は余興として村内青年角力ありしが、今は衰えたり。而して祭礼の準備は、氏子を上中下の三組に分かち、年番にこれを担任し、幟を立て、道灯篭を点ずる如きは、昔と今も変わる事なし。昔は祭礼の当日には、神官まず祭場にて湯立(ゆだて)と云える神事を行う。即ち神官は神前にて太鼓を打ち、祝辞を奏し、釜に沸かせる熱湯を笹の葉にて参詣せる氏子に振りかけ、祓(はらい)を為し、氏子の災厄罪障を禳(はら)い除く。式了りて氏子は神供の分与を受け、これを食すれば無病息災なりと云い伝う。
※ 罪障(ざいしょう)- 往生・成仏の妨げとなる悪い行為。
※ 神供(じんく)- 神への供え物。供物(くもつ)。
境内社
一 若宮神社
祭福大鷦鷯命
勧請年月詳らかならず。按ずるに、若宮とは本宮より分幣したる神社に冠(かぶ)らする称号なりと、神道名目類聚に見えたり。
※ 若宮(わかみや)- 本宮の祭神の分霊を新たに勧請した神社。
※ 鷦鷯(さざき)- ミソサザイの古名。
本社に関する古記は、
享保十五年(1730)、竹下村名細帳に
一 氏神大井大明神 一ヶ所 表間二尺八寸 裏行二尺五寸
社領並び神主御座なく候。
これは先年横岡村に社御座候処、五十七年以前、延宝二寅年(1674)、当村野地へ勧請申し候。
掛川志に、
大井大明神、村の上(かみ)にあり。祠二尺八寸、明和七年(1770)、の棟札云う。先年、横岡村にこれ有り候処、七十四年已前、延宝二年(1674)、当村勧請と。社域に松樹あり。
古帳簿に、
享和中(1801~1804)祠再建 間口三尺 裏行四尺五寸
同 外殿再建 方十一尺五寸萱葺
文政中(1818~1831)拝殿再建 間口二間半 裏行二間萱葺
明治廿四年 同再建 間口五間 裏行二間半同
神社名細帳に、
静岡県遠江国榛原郡竹下村十二番地字上ノ嶋
一 祭神誉田別命 村社 大井神社
一 由緒
同郡横岡村八幡社内にこれ有り候処、延宝二寅年(1674)、当村へ勧請仕り候。明治十三年まで二百三年。明治十三年九月村社に列す。
一 本社 間口三尺 奥行四尺五寸
一 雨覆 間口一間五尺五寸 奥行一間五尺五寸
一 拝殿 間口二間 奥行二間
一 鳥居 高さ七尺五寸 横五尺五寸
一 境内 百二十坪 官有地第一種
一 境内所有地これ無し。
一 氏子戸数 五十四戸人員 二百五十一人 男百二十六人 竹下村全戸
女百二十五人
一 静岡県庁まで距離 里程九里十五町 以上
右は明治十二年、本県丙第一号御達しにより取り調べ候処、相違御座なく候なり。
祠掌これ無きに付、現今撰挙中
氏子惣代 渡辺権次郎 ㊞
同 杉山彦市 ㊞
同 仲山善助 ㊞
右の通り相違これ無く候なり。
明治十三年十月 右村戸長 八木為三郎㊞
静岡県令 大迫貞清殿
竹下村中央より該社まで距離北五町
大井神社境内(十二番字上ノ島)反別四畝歩(図面略) 官有地第一種
※ 官有地第一種 - 地券を発せず。地租を課せず。区入費を賦せざるを法とす。 皇宮地、神社がそれに当たる。
※ 祠掌(ししょう)- 神職の称の古名。
読書:「江戸ねこ日和 小料理のどか屋人情帖22」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 346 社寺 6
毎年見ているロウバイだが、その芯まで黄色く、ソシンロウバイと呼ぶのが正しいようだ。
昼間、二時間ほど散歩した。やや疲れを感じた。年賀状図柄案を制作した。明日、印刷の予定。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
掛川志にこの事を書きて、中世戦国の徒ら、武士朴野にして文字なく、物難しきことを嫌い、織田氏、豊臣氏の世に至りては、異なる神名ある社は、その廃せられんことを懼(おそ)れて、皆な神明、八幡、天王、天神など称して、遂に古来の称号を廃せし社も多しと云えり。なお、これが手近き所の例証を挙げれば、小笠郡東山口なる、県社己等乃麻知神社(式内事任神社)を、俗に日坂八幡宮と称せしが如きは、その実例に非ずや。
※ 朴野(ぼくや)- ありのままで、がさつな。
小笠郡志に、日坂八幡宮のことを記して、当社を八幡宮と称せし事、その時代不詳なるも、足利末年、戦国時代に方(あた)り、今川、武田、徳川と兵乱止む時なく、当時兵士の狼藉を懼(おそ)れ神社名は多く、八幡、天王など唱えたるは、当国一般の傾向たりしものゝ如し。当社の八幡と称せしも、その時代に起こりしことならんと云えり。されば彼と云い、是と云い、宗社の社号も必(畢)竟、比例に外ならざるべし。
もし然らずとせば、数百千年を隔てたる長年月中には、世故著しく変移し、時代の興廃隆替は神聖なる神社にも波及して、時に或るは当所の跡を湮滅せしむるの止むなきに至らしめたるか、または記録散逸して、口碑伝説の如きは往々にして錯誤を生じ、深き考慮を須(もち)いずして、他の神名を冠(かぶ)らしめ、遂にその名を逸せしむるが如き、事実なきを保(ほ)すべからず。
※ 世故(せこ)- 世間の事情。
※ 隆替(りゅうたい)- 栄えたり衰えたりすること。盛衰。
果たして然らば、本社の祭神を誉田別命と称し奉りしは、宗社を大井八幡と称し奉りしより、その祭神は誉田別命ならんとの推測より起こりたる、後人の追号に外ならざるべく、本来、天建葉槌命を祭れるものなることを信ずるものなり。また大井を冠(かぶ)らして社号とせしは、大井川より用水を引きたるに起因せしこと、疑いなかるべしと云えり。
この説、果たして肯綮に当れるや否は知るべからずといえども、按ずるに、室町の末、戦国時代を通じては、一も二もなく八幡神社万能の期間には、あられぬ神社までも、八幡神社として崇拝せられたる形跡あるを思えば、或るは、現在の八幡神社中にも、その村落の氏人に相当なる、正真の祖神の座(いま)しますやも、また知り難きにあらざるべし。記して考鏡に備う。
※ 肯綮(こうけい)- 物事の急所。かなめ。
※ 考鏡(こうきょう)- 考察の参考。
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「竹下村誌稿」を読む 345 社寺 5
12月17日の散歩時に撮った。この猫はノラか飼い猫か。鼻の頭近くの一ヶ所のみ、木漏れ日が落ちていた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
神道名目類聚抄に、氏神とは姓氏の始祖の神を云うとあり。倭訓弄にも「うじがみ、祖先の神を云うなり」とあり。例えば、中臣氏がその祖、天児屋根命を祭りて氏神となせる類いの如し。神代紀に「倭文神は建葉槌命」、古語拾遺にも「天建葉槌命は倭文の遠祖なり」とあり。
されば、この質侶郷なる倭文の氏人がその祖神たる倭文神(天建葉槌命)をその地に祭るべきことは、古代の習俗にして、また実に我国民性の特徴ともいうべきものに非ずや。殊に神社の歴史は、郷土の歴史と遠く相離るべからざる関係あるべきは、理の当に然るべき所なるのみならず、その氏人の祭る祖神なれば、氏神と称するにても知るべし。然るに何れの時代よりか、何らかの事情ありてか、宗社に八幡神社の神号を奉りしものとはなりしものならん。
何れにしても、古社の由緒は数百千年の星霜を経過せる間に、天災地妖の変に遇い、若しくは兵革騒乱の厄(わざわ)いに罹(かか)り、いつしか旧記、考証、湮滅して考うべからざるに至るのみならず、中世浮屠民の跋扈に当り本地垂迹の説を唱え、神仏を混淆し、所謂神は仏の垂迹にして、仏は神の本地なりとし、例えば、伊勢大神宮は大日如来、八幡宮は阿弥陀如来なりと云うが如く、その他諸神社、皆なこれを仏に配して、本地と称す。当時仏教心酔時代として、上下通じてこれを誤信するに至りしより、多くは神名を改めて、何天王、何権現、何菩薩と称し、神社に菩薩号を奉りて異とせざるに至る。
※ 地妖(ちよう)- 地上の怪しい異変。地異。
※ 兵革(へいかく)- 戦争。戦乱。
※ 湮滅(いんめつ)- 跡形もなく消えてしまうこと。
※ 浮屠民(ふとみん)- 仏教徒のこと。
※ 跋扈(ばっこ)- わがもの顔に振る舞うこと。のさばりはびこること。
※ 混淆(こんこう)- 様々なものが入りまじること。区別すべきものを一つにすること。
軈(やが)て世は苅菰と乱れ、戦国の時代となりては、所在武人狼藉を事とし、兵戦止む時なく、我が遠江の如きも、これを前にしては今川、斯波の紛争あり、これを後にしては武田、徳川の頡頏あり。社頭の如きも多くは兵馬蹂躙する所となりしのみならず、神社名の解し難きものは、その社頭、往々武人の侵略する所となりしを以って、多く武人の信嚮し易く、且つ解し易き文字を擬(なぞら)えて、八幡、天神、天王などの名称に改めたるもの少なからざるべし。
※ 苅菰(かりごも)-刈り取った菰(こも)の乱れやすいところから、「みだる」にかかる枕詞。
※ 所在(しょざい)- ここかしこ。ところどころ。
※ 頡頏(きっこう)- 拮抗。勢力が同じくらいで優劣が決まらないこと。
※ 信嚮(しんきょう)- 信じ向うこと。
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「竹下村誌稿」を読む 344 社寺 4
今年は台風も多く、なかなかきれいな紅葉に御目にかからなかったのであるが、昨日、城北公園で見栄えのする一本を見付けた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
初め近傍村落の開拓をなすに当りて、上井用水と称する組合を設けて、大井川より用水を引き、墾田に灌漑せしむ故に、組合に加わる五村(横岡、横岡新田、竹下、志戸呂、番生寺)は申し合わして、皆な大井神社を奉じて、氏神となすこととはなせり。仍って、竹下、志戸呂、番生寺の三ヶ村の氏神は、皆な同一の神号を奉じ、横岡、横岡新田の二村は、初めより宗幣たる大井八幡神社の氏子なりしなり。
※ 宗幣(そうへい)- 分幣する際の元の神仏。
されば掛川志稿、番生寺村の条に「大井権現、上村にあり。寛永六年(1629)横岡村より移す」、同書志戸呂村の条に「大井八幡、殿の沢にあり。延宝五年(1677)立」とあるのみならず、上井用水路の内、山井と称する用水路は、延宝四年(1676)、志戸呂村に於いて開鑿して、墾田に灌漑し、その翌年(1677)、氏神を勧請せしこと、古記録に見えたり。しかも本社(竹下村大井神社)の勧請も延宝二年(1674)にあり。かれこれ総合すれば、上井用水組合、五村の氏神は、皆な郷社大井八幡神社の同幣にして、初め申し合わせし如く、大井の神号を奉ぜしものと知るべし。
※ 開鑿(かいさく)- 土地を切り開いて道路や運河を作ること。
一説に、本社の祭神を誉田別命と称し奉りしは、何らかの錯誤に出たるものなるべく、元来、天建葉槌命を祭れるものなるべし。何となれば、宗幣たる郷社大井八幡社は、式(延喜式)に預からずといえども、古代質侶郷(今の志戸呂・横岡・大代など。凡そ一千二百年前)に倭文部を置かれ、部民の発達せし時代より斎(いつ)き祭れる神社にして、勿論延喜以前の鎮座に係り祭る所、必定大建葉槌命に外ならずして、本社はその分幣なればなり。大凡(おおよそ)古代村落開始に当りては、何れの村落を問わず、必ずまずその祖神を祭りて氏神と崇め、村落経営の中心となせしことは争うにべからざる事実に属せり。
※ 倭文部(しとりべ)- 大化前代の織り成しに従った職業部の一つ。倭文(しつ)は栲(たく)、麻、苧(からむし)などの緯(よこいと)を青、赤などに染め、乱れ文様を織り出したとされる日本古来の織物。大陸伝来の綾に対し〈倭文〉と表記された。
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