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山の会の同窓会、出席の面々

(大井川左岸の島田アルプス? - 土曜日午後)

土曜日の夜、山の会の同窓会、出席の面々の近況を、欠席した人のためにも、述べておこう。

最年長のKS氏は84歳、少し耳が遠くなったが、かくしゃくとした様子に、会社の同年輩のOBの中では、一番お元気だとお話しした。それでも近年は膝を痛めて、それ以来、山にも行っていないと聞く。20数年前、58歳の誕生日に、愛鷹山系の縦走の途中の位牌岳で、無茶振りして仏さんの手振りをさせて、誕生日の写真を撮ったのを、昨日のことのように思い出す。敬虔なクリスチャンだっただけに、遣らせる方も遣るほうも、乗っていたのだと思う。

二代目会長だったKT氏、もう還暦を過ぎたが、変わらずに独身、同じアパートに住み着き、今もあちこち痛いところを抱えながら山を恋人としている。50歳で百名山を達成し、10年前には西穂高で登山道から滑落して、九死に一生を得た。その事故の話になる。石に躓いて斜面を20メートルほど転がり落ちた。そんな話が、いつの間にか50メートル転がり落ちたと増えている。手の骨折が一番酷く、警察ヘリで神岡町まで運ばれ、入院して治療を受け、翌日にはタクシーで駐車していた車を取りに行き、石膏で固められた右手ではライトの点滅が出来なかったため、点滅不要な夜を待って、静岡まで帰ったと話す。そしてそのまま入院。今も怪我をした右手では細かい字が上手に書けないという。元々そんな上手だったのかと、茶々も入る。

途中で退社したSK氏、移った会社に18年勤めたが、会社が閉鎖になって静岡の企業に移り、給料が半減したという。また同じく転職したKR氏も会社を幾つか替わり、一年ほど前に車の事故で怪我をして、その後遺症で会社を休んで、最近ようやく復帰したばかりと話す。彼らにも色々な人生があったのだと思う。

結婚をして辞めていった女性たちにも、色々な人生が流れて、アラフィフティの彼女たち、その子供たちもそれぞれ大きく成長し、気になるのは超氷河期と言われる就職のことである。MMさんは山中の住まいが危険になって平地へ家を作った。勤めていた地元の会社が閉鎖になり、今は山から出て町の工場に、通勤に30分ほど掛けて出ているという。土日には百姓に精を出し、おかっぱの髪型は当時から変らず、20年経ってもほとんど印象が変っていない。山好きで飛び込みで入会したAYさんも、最近町中を3キロほど歩いたのが大仕事だったと話す。

地域の会合があって遅れてきたOM氏、子供が教員に採用されたことをうれしそうに話す。山の会の問題児もすっかり親父顔になった。甲斐駒の火傷の痕を聞けば、今はもう痕も残っていないという。

二時間はたちまちに過ぎて、最高齢のKS氏も居眠りを始めた。もう潮時であろう。懐かしい人たちともお別れである。ゆっくり話が出来た人、出来なかった人、また逢おうと言葉を掛けて別れた。
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陶淵明の詩、「子を責む」

(庭のユリオプス・デージー)

講師は、陶淵明の酒に関わる詩の最後に、「子を責む」というユーモラスな詩を取り上げた。陶淵明には、舒、宣、雍、端、通という5人の息子がいた。いずれも親に似ず、勉強嫌いで、どうにもならんと歎いている詩である。書き下し文と意訳したものを次に示す。

責子        子を責む
白髪被両鬢   白髪が両鬢(りょうびん)を被(おお)い
肌膚不復實   肌膚(きふ)復(また)実(み)ちず
雖有五男兒   五男児有りと雖(いえど)も
總不好紙筆   総て紙筆を好まず
阿舒已二八   阿舒(あじょ)は已(すで)に二八なるも
懶惰故無匹   懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐい)無し
阿宣行志學   阿宣(あせん)は行々(ゆくゆく)志学(しがく)なるも
而不愛文術   而(しか)も文術を愛せず
雍端年十三   雍と端は年十三なるを
不識六與七   六と七とを識らず
通子垂九齢   通子は九齢に垂(なんなん)として
但覓梨與栗   但(ただ)梨と栗を覓(もと)む
天運苟如此   天運苟(いやし)くも此(かく)の如くんば
且進杯中物   且(か)つは杯中の物を進めん

※ 二八 - 16歳(掛け算で16になる)
※ 志学 - 15歳(「論語」に「吾十有五にして学に志す」)
※ 六と七 - 13歳(たすと13になる)
※ 杯中の物 - 杯の中の酒。酒。

(おやじの私はもういい歳で)白髪が左右の鬢をおおい、肌もたるんで張りがない。男の子が五人いるが、みんな勉強ぎらいだ。(長男の)舒はもう二八(十六)だが、もともと無類のなまけもの。(次男の)宣はやがて学に志す歳(十五)になるというのに、学問が嫌いである。(三男の)雍と(四男の)端は同い年の十三だが、六と七(を足すと十三だということ)も知らない。(末っ子の)通はもうすぐ九つになるが、梨が欲しいの栗が欲しいのとばかり言っている。これがまあ、私に与えられた運命というのなら、あきらめて酒でも飲むとしよう。

詩の題は「子を責む」とあるが、陶淵明の詩に、子を責める気持はない。これも運命と諦めで、酒でも飲むとしようという言葉に、子供たちへの並々ならぬ愛情を感じる。おそらく子供たちを見ていると、まるで自分の子供の頃を見ているように思えるのであろう。彼らの性格の一つ一つは、正しく自分の中に持っている性格で、間違いなく親子だと思うと、とてもそれを責めるわけにはいかないのであろう。
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陶淵明の雑詩十二首其一、「歳月は人を待たず」

(娘の嫁ぎ先の建て前)

午前中、掛川の娘の嫁ぎ先に、建て前のお祝いに行き、お昼をよばれて帰って来た。今朝は本を読んでいて、3時間ほどしか寝ておらず、帰って昼寝をした。

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文学講座の続きである。同じく陶淵明の雑詩十二首の其一に、有名な漢詩がある。

人生無根蔕   人生根蔕(こんてい)無く
飄如陌上塵   飄として陌上(はくじょう)の塵の如し
分散逐風轉   分散し風を逐(お)いて転ず
此已非常身   此れ已(すで)に常身に非ず
落地爲兄弟   地に落ちて兄弟(けいてい)と為るもの
何必骨肉親   何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならんや
得歡當作樂   歓を得ては当(まさ)に楽しみを作(な)すべし
斗酒聚比鄰   斗酒もて比隣を聚(あつ)めよ
盛年不重來   盛年(せいねん)重ねて來らず
一日難再晨   一日(いちじつ)再び晨(あした)なり難し
及時當勉勵   時に及んで勉励すべし
歳月不待人   歳月は人を待たず

※ 飄 - つむじかぜ
※ 陌上 - 路上。道のあたり。

人生は根も蔕(へた)も無くて、つむじ風に舞い上がる路上の塵のようなものである。風のままに飛び散り転がっていき、人生は生れ落ちてから、すでに常住の地を持つ永久不変の存在ではない。風のままに地に落ちて、兄弟となるものは、何も血を分けた肉親だけではない。うれしいことがあったら一緒に楽しむべきである。お酒を用意して近所の連中を集めようではないか。若い盛りの頃は二度と来ないし、一日に朝は再びやってこない。その二度と来ない時に及んで、勉めて楽しく過ごすべきである。歳月は人を待ってくれない。

この詩は最後の四句が一人歩きして、若者に学問に励むように諌めた詩として利用されることが多い。しかし、本来は人生をはかないものと認めた上で、今を楽しむことを肯定している詩である。

「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名な武士の心得を綴った「葉隠」の中に、次のような一文のあることを思い出した。

人間一生誠に纔(わずか)の事なり。
好いた事をして暮すべきなり。
夢の間の世の中に、
すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなることなり。


「葉隠」を読んだ当時、意外な言葉に驚いたが、死が隣り合わせの武士だからこそ、刹那々々の身の処し方を述べたものだろうと理解した。その後に、この言葉をそのまま若者に話すと間違って理解するから注意を要すると書かれていたのを思い出す。

「葉隠」の著者の山本常朝さんは陶淵明のこの詩を読んでいたのだろうか。
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陶淵明の飲酒二十首 その2

(山の会同窓会)

今夜、Mさんの呼びかけで、会社の山の会の同窓会があった。場所は昔の本社のそばの富士屋である。建物が新しくなってしばらく経つが、入るのは初めてである。会社が金谷にあった頃、残業によく出された富士屋のカツ丼は、その濃い味が自分たちの青春の味であった。今でもあの味を時々思い出す。健康に留意しなければならない昨今では、あの味を口にするのは難しいのかもしれない。

11人集まった面々が、一同に会するのは20年ぶりであろうか。最初は名前が思い浮かばず、しかしすぐにあの時代の山行の数々と共に、思い出すことが出来た。仲間たちの近況については、出席出来なかった人たちのためにも、後日このブログに書き込もうと思う。

Mさんに集まりを持って欲しいと、最初に声を掛けてくれたOさんは、急用で出席できず、申し訳ない気持ながら、二時間余りのよい時を過ごさせていただいた。出席出来なかったOさんのためにも、一年後にもう一度集まろうと約束して散会した。

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昨日の続きを書こうと思う。昨日今日と酒席が続いているから「飲酒」の詩を取り上げるのも、無縁ではないと思う。二つ目に取り上げるのは、陶淵明の「飲酒二十首」の其十四である。飲酒には一人で飲む酒が多いが、ここではたくさんの人々と飲む酒について詠じている。

故人賞我趣   故人我が趣(おもむき)を賞(め)で
挈壺相與至   壺を挈(たずさ)えて相与(あいとも)に至る
班荊坐松下   荊(けい)を班(し)きて松下に坐し
數斟已復酔   数斟(すうしん)にして已(すで)に復(また)酔う
父老雜亂言   父老雑乱(ざつらん)して言い
觴酌失行次   觴酌(しょうしゃく)行次(こうじ)を失う
不覺知有我   覚えず我の有るを知るを
安知物爲貴   安(いずく)んぞ知らん物を貴しと為すを
悠悠迷所留   悠々として留まる所に迷う
酒中有深味   酒中に深味有り


古くからの友人たちが、私の性行を気に入り、酒壺をさげてみんなでやってきた。草をしいて松の下に坐り、四、五杯飲むともう酔ってしまった。おやじたちはろれつが回らなくなり、献酬の順序も何もあったものではない。私の存在も忘れてしまえば、物の価値も何も知ったものではなくなる。悠々として、私の地位や名声も意識しなくなる。そういう酒の中にこそ真実がある。

終わりから2行目、「悠悠迷所留 悠々として留まる所に迷う」の解釈に迷うところである。駒田信ニ氏の訳では「名利を求めてさまよっている者には、とどまるところがわからなくなる」とある。ネットで見ると、「名利に走る者たちはこせこせと自分の地位にしがみついている」という訳もあった。

もう一つ、しっくりしない解釈に思えた。いずれも「悠悠」の二文字の解釈が飛んでしまっていると思った。「悠悠」の意味は、「はるかに遠いさま。限りなく続くさま。ゆったりと落ち着いたさま。十分に余裕のあるさま。」である。講義では駒田信ニ氏の訳で説明された。

何れの訳も主語が「名利を求めてさまよっている者」あるいは「名利に走る者たち」と、取って付けられたような主語になっている。しかし、詩の流れからは、主語はここでもこの酒席のおやじたちであろう。「所留」は「陶淵明の地位や名声」と訳し、酒席での上下入り乱れた無礼講の様子を表わしていると解釈した。それで最後の行、「酒中有深味」がしっかり決まる。

しろうとの勝手な解釈でクレームが付くことを覚悟の上で、そんな風に読んでみた。
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陶淵明の飲酒二十首

(今夕の夕焼け)

夜、島田の「岡村のぼる」という、何とも人を食った名前の居酒屋で、総務の組織変更に伴う歓送迎会兼忘年会があった。この居酒屋、昔来たことがあるのだが、場所が分からなくて、その一区画を二周りほどした。看板が無くて入口が全く分からない。飛び込み客を相手にせずに、口コミで広がることを期待して、入口や店そのものをシークレットにするという、逆手を取った戦略なのだろうが、成功しているのだろうか。客はまずまず入っていた。入口のポイントは壁の一角が明けられて、覗いたお地蔵さんである。そこから細間を入っていくと、入口に「岡村のぼる」の表札があって、唯一その店と分かる。そのこだわりについ笑ってしまう。まあ、変わった店として目立つのはよいことかもしれない。

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昨日の午後、島田図書館文学講座の第2回に女房と出席した。テーマは「陶淵明の飲酒二十首ほか」である。講師は毎回和菓子を持参して、参加者に振舞ってくれる。今回の和菓子は松山の一六本舗の一六タルトであった。

陶潜、字を淵明、(365~427)中国六朝時代の自然と酒を愛した田園詩人である。幾度か仕官ののち隠棲、その詩はその後の唐宋の詩人に大きな影響を与えた。作品に、「飲酒」二十首、「挽歌詩」、「擬古」など百三十首余りの詩と「桃花源ノ記」、「帰去来ノ辞」、「五柳先生伝」などの散文、韻文を残している。

講座では「飲酒」二十首という作品から有名なものを鑑賞した。次に示すのは其の五である。ここへどのように紹介するか迷った。まずは原詩と書き下し文を併記してみよう。

結廬在人境   廬(いおり)を結んで人境(じんきょう)に在り
而無車馬喧   而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
問君何能爾   君に問う何ぞ能く爾(しか)ると
心遠地自偏   心遠ければ地自(おのず)から偏なり
採菊東籬下   菊を採る東籬(とうり)の下(もと)
悠然見南山   悠然として南山を見る
山気日夕佳   山気(さんき)日夕(にっせき)に佳く
飛鳥相与還   飛鳥(ひちょう)相与(あいとも)に還る
此中有真意   此の中(うち)に真意有り
欲弁已忘言   弁ぜんと欲して已(すで)に言を忘る


書き下してみても意味は分からないだろうから、日本語へ訳してみよう。

庵を結んで人里に住んでいるが、しかし(訪問客の)車馬が騒々しいという事は無い。こんな暮らしがどうして出来たのかと聞かれる。心が(名誉や利益から)遠ければ、居場所は自ずから辺鄙(へんぴ)となる。東の垣根に菊の花を手折り、(見上げれば)悠然とした南山が見える。山の空気は夕方がよく、鳥が連れ立って帰っていく。この境地にこそ真実がある。口にしようとするが、言葉で表現できるものではない。

「菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る」の二句は、夏目漱石が「草枕」の中で引用しているが、まさにこの詩の境地こそ、「草枕」のテーマなのだろう。

最初の一首の紹介で書き込みが終ってしまうが、気が向けばまた漢詩の世界に遊んでみたい。その時に続きを書き込んでみよう。
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「歳代記5」 長州征伐のこと

(夕暮れのみのり橋-ムサシの散歩道)

歳代記の解読を進めている。

禁門の変で長州藩が御所に向けて発砲したとの理由で、長州藩は朝敵として幕府に長州征伐の勅令が出た。歳代記も長州征伐に触れているが、長州征伐は歴史的には第一次、第二次と二度に分けて考えられている。第一次は幕府側の参謀であった西郷隆盛が、長州藩で政権を握った保守派(俗論派)と交渉し、禁門の変責任者の三家老切腹などの条件を長州藩が受け入れて、決着した。

その後、長州藩では高杉晋作らが保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させ、民兵を募って奇兵隊などを編成し、また薩長盟約によって新式兵器を入手し、倒幕の準備を進めた。

状勢を踏まえて、幕府は第二次長州征伐軍を出した。歳代記の記述はこの第二次の長州征伐を記している。

元治二(丑)年三月二十九日は、いよいよ将軍様長州へ御進発遣され候、もっとも御先供は柳原式部太輔様外、御普代御大名様方、御旗本方、引続き御登り成られ、もっとも馬印、船印、小筒、大砲および鉄砲、戦い上の御支度にて御登り成され、御諸供は御普代御大名様、御旗本様方、追々御登りに相成り、将軍様御儀は大坂御城に御泊りにて、柳原様、彦根様、外御普代御大名様方、御旗本、長州境まで押寄せ、一戦これ有り候えば、双方とも即死、怪我人多く致しこれ有り、その場にて打ち死いたし候者もこれ有り、勝負の程は相分からず、石州浜田、松平右近将監様、御城焼き捨てられ、殿様おあとは、出雲松江様御城へ御立ちのきに相成り、小笠原様は一戦いたし候えども、殿様御幼少につき、肥後隈本へ御立ちのき、石州津和野、亀井隠岐守様は一家中とも、周防山口へ人質に相成り候次第、勝負印し置き候は今度ござなく候につき、本勝負の儀はまだ/\相分かり申さず候、筋道あらまし(以下不明)

幕府軍は、第一次長州征伐と異なり、薩長盟約で薩摩藩が出兵を拒否するなど、宇和島藩、佐賀藩なども出兵せず、四境に分かれた戦況がいずれも不利な状況下で、将軍家茂の死を理由に、長州軍と停戦を合意し撤兵した。事実上、幕府軍側の敗北となり、幕府の威光はいよいよ陰り、倒幕側を勢いづける結果となった。

歳代記の記述は途中のようでもあり、ほぼ終っているようでもあり、判然としないが、戦場から遠く離れた東海道金谷宿においては、やはり正確な情報を得るには限界があるのか、状況把握が中途半端で終っているように思えた。
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読書の秋、真っ只中

(川底が埋まっていた大代川の川浚いが始まった)

読書の秋、憑かれたように読書に没頭している。もっともそれほど価値のある本は少なくて、エンターテイメントな本ばかりである。図書館から一度に数冊ずつ借りてきて、この秋3ヶ月でおよそ50冊も読んだであろうか。時間はたくさんあるから、テレビも消して日永読んでいる。今年の前半は初めての自費出版「四国お遍路まんだら」の執筆、校正などにかまけて、本を読むことが大変少なかった。その反動かもしれない。昔から、読書熱は波のように押し寄せることが何度かあったが、今がその時期である。

愛読している作家はたくさんいるが、図書館に行って、そういう作家の新作を見つけるのはごく稀である。自然、今まで手に取ったことが無かった作家の本にもチャレンジすることになる。すべての作家が自分の琴線に触れるわけではなくて、途中で自分には合わないと止めてしまう場合もある。けれども、一冊読み切り、面白かったと感じながら本を閉じることになれば、その作家の本を集中して読むのが通例である。図書館にある本を読み尽くすところまで行く作家もある。

今回の波では、今野敏、島田荘司、佐々木譲、大倉崇裕、香納諒一など、現代の推理作家、ハードボイルド作家などの作品を読んでいる。中でも、大倉崇裕という作家は実に楽しい。死体がゾロゾロという作品にはいささか食傷気味で、その点、大倉崇裕の作品群には死体が限定的である。

推理小説の安易な筋立てで、探偵役が推理を進める中で、キーマンとなる人が次々に殺されて、謎が先延ばしされるという手法がよく取られる。長編小説にするテクニックなのかもしれないが、殺人という行為に走る動機が、最初の殺人に比べると、自分の罪を逃れるためという安易な動機になって、読者は納得ができない場合が多い。自分の犯罪がばれそうになったら、そのキーマンを殺そうと考えるよりも、逃げることを考えるのが普通なのではないだろうか。殺人という行為はとてもハードルが高いはずである。

自分が今までに読んだ大倉崇裕の推理小説は、落語界にテーマを取ったユニークな事件のシリーズや、人が好くて次々に事件に巻き込まれる探偵役が出てくるシリーズなど、題材がユニークで、無理に長編に仕上げようとしていないところがよい。短編の連作で、死体は非常に限定的で、死体のない事件も多い。さらに自分が楽しんだのは大倉崇裕の山岳推理小説である。山岳推理小説の分野には太田蘭三や梓林太郎など何人かいるが、いずれも年齢と共に「山岳」から外れてくる。このテーマはやはり若い作家の活躍する分野であろう。この作風がいつまで続くのか分からないが、これからに注目したい。
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「歳代記」4 将軍家茂上洛と蛤御門の変

(離陸-富士山靜岡空港)

まーくんを富士山靜岡空港に連れて行った。あいにく飛行機はFDAが一機いただけで、飛び立つと空港は空になった。

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14代将軍、徳川家茂は、朝廷の攘夷実施の求めに応じて、文久3年(1863年)に将軍としては229年振りとなる上洛を果たした。何と3代将軍家光以来である。その前年には公武合体の政略結婚として、皇女和宮が家茂の正室として江戸城へ下向している。時の孝明天皇は家茂の義兄となるわけで、上洛に応じることになった。

「歳代記」には皇女和宮の下向についての記述が全く無い。和宮は中山道を通って下向しているので、東海道筋はほとんど影響が無かったことが解る。中山道筋ではその大通行で大騒動となり、色々な記録がたくさん残っている。

将軍の上洛は街道筋にはほとんど記憶にないほど昔のことで、特に人足の肩で運ぶ大井川越しは大変なことであった。歳代記の記録は簡潔であるが、川会所の緊張感がうかがえる。

文久三亥(年)二月二十四日、将軍様御上落大井川御越し立て、手前年行事相勤め居り候に付き、両所役人ども残らず島田河原にて御径(さしわたし)致す、将軍様御輦蓙側まで、手前ども川越し召し連れ罷り出で候、もっとも御召し川越し五百人の内にて、無きず大きなる者百人撰ぶ、もっとも深さぢ巻同下帯にて御渡し立て仕り候、諸御同勢両所川越しばかりにては御越し立て出来難きと心得、駿州焼津湊より船七、八艘ほど用差し致し候えども、不要に相成り、同川越しどもばかりにて速かに御越し立て仕り候

翌年には同将軍は江戸に戻ったが、その時は将軍は軍艦に乗って戻り、同行の家来衆はすべて東海道を下向して帰った。記事はその後に京で起きた禁門の変(蛤御門の変)の記述へ及ぶ。その大騒動振りが大井川川越しの定点にいて、けっこう正確に把握している。毎日通る旅人たちから様々な情報を聴取した結果なのだろうか。

文久四年子六月、将軍様御軍艦にて還御遊ばされ、御同勢は残らず東海道御下り相成る、同年年号元治元年に替わり候、同年七月、京都にて長州様御家中、京地へ来り迫り、小筒、大砲打ち放ち、洛中洛外、宮様方、御卿跡様方、残らず焼失致す、長州御家中切腹いたし候ものもこれ有り、その場より船へ乗り込み、帰国いたす者もこれ有り、京都守護職奥付、会津松平肥後守様始め、洛中へ御詰め合い居り候御大名様御家来、打ち死にいたし候者も有り、既に天子様、紫震(宸)殿、御立腹これ有り、京都は大騒動なり、又々東御大名様方、京都へ御詰め合いに相成り、諸御大名様方江戸御屋敷は二、三拾人ばかりにて御留守居のみ、残らず京都へ御撰び出しに相成り、又々西国御大名様方もそれぞれへ御詰め合いに相成り候

いよいよ時代は長州征伐から戊辰戦争、明治維新へと、怒涛の流れになって進む。明治まであとわずか3年余りである。
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「用水高揚げ用道具御触れ書」-駿河古文書会

(稜線林道の紅葉)

今朝から久し振りの雨である。外には出られないで、一日読書や古文書解読で過ごした。

取り上げる古文書は10月の駿河古文書会で教材になった御触れ書である。御触れ書といえば、いずれも指示や法度など上意下達の用件だけかと思っていたが、この「用水高揚げ用道具御触れ書」は、一風変わった御触れ書である。低いところの水を人力を用いないで高いところへ上げる道具を紹介する御触れ書である。常州の人が発明した水引き上げ用具を広めようと、興味のある向きは説明を受けるから申し出るように促がす御触れである。以下に、その書き下し文を示す。

常州真壁郡深見村名主丹次、同州下館町年寄、藤右衛門義、高場にて用水不足の場所へ水引上候道具、工夫いたし候旨、申立候に付、御代官田口五郎左衛門方へ、様(ためし)の義、申し話し、試み候ところ、四升水掛け方宜しく、流水これ有る場所へ仕懸け候わば、人力を費やさず、便利の仕方にこれ有るべく候、旱損村方、助けにも相成るべく義に付、望みの者これ有り候わば、右村方に罷り越し、委細に演説受け申すべく候

右の趣、御勘定所において、御達しこれ有り候あいだ、その意を得、望みのものは申し出候よう致すべく候、この廻状村下へ受け印せしめ、順達、留り村より相返すべく候、以上
 寅十一月二十五日
    紺屋町御役所

※ 旱損 - ひでりによる田畑の損害。干害。

言葉だけではもう一つイメージが湧かないが、人力を使わないというから、日本で考えられる手段は、水車などの水力であろう。流水のある場所と限定してもいる。水車の車輪に小さい桶をぐるり取り付けて、水車が回ると、樽に汲めた水が水車の頂点で反って、落とした水を樋で必要な高場に導く。そんな道具なら見たことがある。

江戸時代の代官というと、何かというと越後屋と組んで悪事を為す悪代官ばかり思い浮かべる。赴任中に財を成す代官も少なくは無かった。しかし多くの真面目な代官は、一義的には年貢徴収を維持するためであるとはいえ、飢饉から農民を救済し、災害からの農村復興に力を尽くした代官も少なくなかったという。

有徳の代官が死して、農民たちがその墓を作り、碑を建てて、事績を顕彰したり、神社を建てて神として祀るケースも少なくなかったといい、現在もそれらが村人に守られて残っている。当然、御触れ書も統治のための通達ばかりではなく、住民のための諸施策のための通達もあった。そういう役人たちの努力が江戸幕府の260年の長期政権を続けさせたともいえる。自民党政権も高々50年であった。ソビエトの共産政権ですら70年である。それと比べると、260年は並大抵の長期政権ではない。

島田の代官であった長谷川藤兵衛の顕彰のための碑「先賢碑」もその一つであるという。向谷のお寺でそれとは知らずに見た記憶がある。確認に行かねばなるまい。
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秋晴れの稜線林道

(おろくぼ荘)

朝10時前に起きて、余りの上天気に、紅葉でも見に行こうか。夕方には帰って来なくてはならないから、そんなに遠くへは行けない。なら、もう盛りは終っているかもしれないが、川根本町の稜線林道へ行ってみよう、と女房と車で出かけた。1号線バイパスで対岸に渡り、大井川を溯った。

神座には今の季節、ミカンの無人販売が並んでいる。初夏の長雨、続く酷暑で、今年の早生ミカンは出来がよくないと聞いていた。皮が硬くて美味しくないらしい。これなら我が家のミカンの方が食べられると女房がいう。それでも何箱か毎年の例で送ったという。暮に掛けて中手が出てくる。そちらの方の出来はどうなのだろう。


(おろくぼ荘のビーフカレー)

上長尾から林道をたどって登る。すれ違う車も思ったより少ない。おろくぼ荘に12時前に着いた。食事が出来るはずだと、ログハウス風の宿泊施設兼レストランに入ろうとすると、準備中の看板が出ていた。女房が入って聞くと招き入れられた。2テーブルに予約客のセッティングがされていた。窓際の席に着いた。メニューはカレーライスだけ。ビーフカレーの辛さに1、3、5と3段階ある。聞けば、1は全く辛くない。3が中辛だという。5は聞かないで、そろって3を注文した。

出てきたカレーはカレー皿の真ん中に、丸い型で抜いた御飯の島があり、周囲をカレーの海が埋めて、御飯の上に福神漬けがのっていた。これにサラダの小鉢が付いて750円が安いのか高いのか。味次第であろうか。隣りの予約席には数人の年配の男女がやってきて座った。どういうお仲間なのだろう。最近は自身年配の部類に入っているのだろうが、自分から見て年配と見えるのは70歳以上と思われる人である。

食事後、おろくぼ荘の周りを散策した。快晴で風が無くて、空気はひやりと気持ちよいが寒さは感じない。広葉樹の下に芝生が敷かれて、孫でも連れてくれば、安全に駆け回れて喜びそうな場所である。ただ間もなく寒くなってしまうだろう。


(大札山駐車場より)

稜線林道は通行止めで、大札山の登山口の駐車場までしか車は入れなかった。そこまでは林道もきれいに舗装されて、走りやすくなっていた。大札山の駐車場周辺はもう紅葉も盛りを過ぎていた。30分も登れば大札山山頂に立つことが出来たが、紅葉も終ったようだし、今日は登るのは止めた。

塩郷の大井川に架かった吊り橋は行き帰りに見て通ったが、多くの観光客が歩いて渡っていた。女房は興味を示したが、高所敬遠症(恐怖症が出ないように敬遠している)の自分は見向きもしなかった。板一枚踏み外したら、はるか下の大井川の川原という状況に、どうして人は望んで立ちたがるのだろう。想像力が欠如しているとしか思えない。

帰りに、四季の里に立寄って色々と買って帰った。安いと思って買って、2000円を越える買い物になった。駐車場はいっぱいで商売繁盛である。
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