平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
南木佳士著「山行記」を読む
こうなったら何日続くか、今日も読書の話である。医者で、芥川賞作家の南木佳士の「山行記」を読んだ。題名の通り、山へ登った紀行文をまとめた本である。かつては山の紀行文をよく読んだ。山へ登らなくなって、読むのは久し振りである。
自分は50歳の頃、体力の限界を感じて登山を卒業し、すでに十五年経った。「山行記」中の北アルプスや南アルプスは全く同じコースというわけではないけれども、登った経験のある山々で懐かしく思い出した。
芥川賞を受賞した後、著者はパニック障害から鬱病になった。忙しすぎたこと、終末医療などシビアな医療現場で追い詰められたことなどが原因であった。その状況から逃れるために山登りを始めた。いつパニックを起すか危険だったので奥さんが同行の山登りであった。その効果があったのか、仕事もシビアな医療から外れて外来診察や人間ドックなどに限定してもらったためか、ようやく鬱から脱することが出来た。
山行記は、二泊三日の北アルプスの山から降りてきて、山行中に、気力、体力の限界を超える中で、自分の存在の感覚が霧のように散じはじめて、下山してからも足が地に着いていない、異様な落ち着きの無さを感じた。紀行文を書くつもりは無かったけれども、自分にとっては机に向かって綴ることが非日常から日常に戻る唯一の道であった。「山行記」はそんな経緯で書かれて、本になった。
北アルプスでは槍の穂先へ登る岩場での記述など、自分の体験と重なった。南アルプスの白峰三山、北岳-間ノ岳-農鳥岳の縦走は自分も同じコースを歩いたから、一々思い出した。農鳥岳から一気に下って、汗まみれになったところで、雪解け水を集めて勢い良く流れ下る大門沢に出会って、顔を洗い、口をすすぎ、タオルを濡らして身体の汗を拭ったときの気分の爽快さは、今もしっかりと覚えている。
登った経験者にとっては、「山行記」は、自分の体験を思い出すきっかけに過ぎないようだ。著者の体験を追体験するというより、ついつい自分の思い出に浸ってしまう。「山行記」は、作家が書いた紀行文で、書く意味に溢れているのではあるが、読む方がこうであると、著者の意図がなかなか響いて来ない。これは少し不幸なことかもしれない。
ところで、著者の山登り仲間に放射線技師がいて、固有名詞ではなくて職名で呼んでいる。「放射線技師」という単語が出てくる度に、「山行記」とは無関係に胸に響くものがあった。自分も近頃、ずいぶんナーバスになっていると改めて気付いた。
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小杉健治著「裁判員」を読む
どこへも出掛けないし、一日家にいると本を読んでいるくらいしかない。だからブログも読書の話になる。
裁判員裁判制度が始まって、もう少しで2年経つ。裁判員裁判制度は多くの問題点を残したまま、見切り発車的にスタートした。現実の制度の運用は順調に滑り出し、すでに裁判員裁判において死刑判決も出ている。また検察やニ審においても、一審が裁判員が入った判決の場合は、その判決を尊重して、控訴しなかったり、一審の判決を支持するケースが増えているように思う。それが民衆の声ならばあえて逆らわないとする風潮が法曹界の流れとなっているとすると、少し心配である。裁判員はあくまでも素人だから、間違った判断に陥ることもある。そのために三審制度があるので、それが放棄されてしまうならば、大きな弊害となる。
小杉健治著「裁判員」は初めて死刑判決を出すことになった裁判員裁判という設定で、その裁判員裁判の進行が描かれている。我々が聞いてきた裁判員裁判の進め方は裁判員が素人であるという前提で、丁寧に進めているように聞いていたが、小説ではけっこう乱暴な進め方のように思った。裁判員裁判は短時間で判決まで持ち込むために、事前に検事と弁護士を集めて裁判の争点を調整しておく。裁判員裁判はそのシナリオに沿って短時間で集中して行なわれる。
裁判員は、検察官、弁護士、証人、被告人などに質問することは許されるけれども、そこで検察官、弁護士から出された事実だけを判断材料に、有罪無罪と量刑を決めなければならない。小説では、裁判の結審後に検察官、弁護士の双方ともに気付いていない重大なことに、裁判員が気付いてしまった。裁判官は今さら元へは戻せないし、裁判員は検察官や弁護士から出されたことだけを材料にして裁決をして欲しいと繰り返す。裁判という場所は決して真実に導こうという場ではなくて、あるルールに基いたゲームに過ぎないではないかと、裁判員の一人が言い放つ。
結局、有罪-死刑という判決が多数決で出される。被告人が無罪を訴えて自殺を図る。多数決で死刑と判決した裁判員たちは自分たちが間違った判決を出したのではないかと思い悩む。
この後、裁判員の一人が自殺し、一人が殺され、一人が真実を求めて動き出す。そこで立ちはだかるのは裁判員の守秘義務の壁であった。最後はあっさりと大団円を迎えるが、意外性はあるが少し安易な結末で、もう一つ納得できないまま、読み終えた。
裁判員裁判の実際を知るのに、色々役立つミステリーであることには違いない。
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熊野大権現社修復料奉願 - 駿河古文書会
駿河古文書会に入会して半年経った。まだまだすらすらと解読というわけには行かないが、それでも大分慣れてきた。新年度の第一回は問い合わせたところ、4月8日になると聞いた。このところ、テキストを事前に読み進めている。
小学校のころ、進級して新しい教科書を手にすると、まず国語の教科書を先へ先へと読んだことを思い出す。新しいインクの匂いを快く思った最初だったと思う。読書好きの原点は意外とその辺にあったのかもしれない。まだ習わない難しい言葉や漢字もあったのだろうが、気にせずに読んで、困ることは無かった。今でも判らない言葉や漢字はどんどんとばして読んでいる。
しかし、古文書ではある程度解読できないと、全く何が書かれているかわからない。だから一文字ずつ推理や感と、辞書をフル回転させて解読して行かねばならない。
テキストの最初の文書はしっかりと判りやすく書かれていて、解読が容易であった。間違いを恐れずに以下へ読み下した文を記してみる。
書付を以って願い奉り候事
駿州安部郡安東村、熊野大権現社は浅野右近尉忠吉様、慶長十二未年御建立の御社にて、当国御在府の時分、御産神として御崇敬遊ばされ、度々御修復など仰せ付けられ候、唯今に到るまで本社拝殿鳥居など御建立の節の社主にて御座候、先年大破の節、御修復の儀、願い奉り候ところ、元文二年、乾左仲様、木本孫市様、岩本伝右衛門様より、御状を以って、御修復料として、金子五両より、甲斐守様下し置かれ候旨にて、拝領仕り候、右御金を以って修造仕り候、その後段々破損に及び候に付、宝暦三年御修復願い奉り候ところ、その節、乾左仲様、脇新五郎様より、追って時節も有るべく御座候段、仰せ下され候、然るところ近来段々破損に及び、当時大破罷り成り申し候、これによりこの度願い奉り候、慶長年中、御建立の御社の儀に御座候あいだ、何分にも願いの通り、この度御修復成し下され候様、願い奉り候、仍ってくだんの如し
駿州安部郡安東村
熊野三所権現祠官
明和元年申九月十五日 中村伊勢守 ㊞
浅野甲斐守様
御役人中様
学生の頃、4年間も近辺に住んでいて、靜岡市安東にこれほど由緒ある熊野神社があったことを知らなかった。浅野甲斐守は備後三原城主で、熊野大権現社を建立した浅野右近尉忠吉はそのご先祖に当る。忠吉は駿河の地から熊野新宮城主を経て、備後に赴き初代の三原城主になっている。それから150年も経っているが、そんな縁でいまだに寄進を奉願している。なかなか大名も手元不如意でおいそれと寄進に応じることが出来ない。以下にそんな書簡のやり取りが続くが、また後日とする。(4月8日、読み下し文一部訂正)
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青山潤著「うなドン」を読む
題名に引かれて図書館から借りてきた。もちろん鰻丼の本だと思って借りたわけではない。日本のウナギ研究は世界でも最先端にあり、何年か前にウナギのふるさとを発見したというようなニュースを聞いたことがある。ウナギ研究の実態がどうなのか、興味津々で読み始めた。
世界にはウナギが18種類(現在は日本の研究者により新種が発見されて、19種類)いるが、その生態、特にどこで生まれてどのように育ち、日本へやってくるのかはほとんど解明されていなかった。日本でウナギ研究が盛んになったのは日本人のウナギ好きがおそらくその発端であろう。日本人があまりにウナギを食べ過ぎたためか、資源としてのウナギが近年激減しているという。
日本人が食べるウナギのほとんどはシラスウナギで捕えて、養殖して育てたものだという。今、そのシラスウナギが激減している。それならば養殖マグロのように、卵から育てて養殖すれば資源を減らさずに食用に出来る。ところが人類はあまりにウナギのことを知らな過ぎたことに気付いた。日本におけるウナギの研究はおそらくそんな経緯で、まずはウナギの生態の調査から始まった。
この本は生態調査の初期のころの苦労話や、現在ウナギ研究がどこまで進んでいるのかが、述べられていると、期待していた。ところが期待は最初から裏切られた。日本の最高学府に所属する研究者たちが、ウナギを求めて東南アジアの島々に行く。
真面目な顔をした学究の徒が計画性皆無、全くハチャメチャな旅をしている。旅の恥は掻き捨て、袖すり合うも多少の縁、現地の人々の善意を利用して、やりたい放題である。面白くするための脚色なのだと信じたいけれども、それが真実ならばとんだ日本の恥さらしと糾弾したくなる。しかし読めば悔しいけれども面白くて一気に読んでしまった。ただ後には何も残らないエンターテイメントである。
この旅の記録にウナギの学術的な話を期待していたら、それは全く期待はずれである。題名の「うなドン」はうなぎを求めて突き進む姿をドンキホーテになぞらえて、「うなぎドンキホーテ」の略であった。これでは何ともならんので、うなぎ研究の現在をネットで調べてみた。
ニホンウナギの産卵場は、グアム島に近いマリアナ諸島西方海域の北赤道海流中にあるという。ニホンウナギは、日本、中国、台湾、韓国、そしてルソン島の北端にしか分布しておらず、それらの個体間には遺伝的な違いが認められない。孵化後数週間のレプトセファルス幼生がその海域でしか採集されないことから、この海域が本種の唯一の産卵場と考えられる。うなぎの産卵孵化は実験室では成功しているが、まだ歩留りが悪く実用段階には至っていない。産卵場が調査できれば、孵化後の環境がわかり、歩留りが上がって完全養殖の道が開けるものと期待されている。これがうなぎ研究の現在である。
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「妖談しにん橋」を読む
文春文庫で、文庫書き下ろし時代小説として、風野真知雄著の「耳袋秘帖」というシリーズが4ヶ月に一冊の割合で出ている。風野真知雄という作家はよく知らなかったが、このところまとめて3冊読んだ。「妖談うしろ猫」「妖談かみそり尼」「妖談しにん橋」の3冊である。この後、続いて「妖談さかさ仏」という文庫が出ているから、図書館から借りてきて読もうと思う。このところ、スギ花粉と大震災報道で、外出を控え、もっぱら読書の毎日である。
根岸肥前守鎮衛(やすもり)という、江戸時代の田沼から松平定信の時代に掛けて、勘定奉行から南町奉行を長く務めた旗本がいる。時代の大きな変わり目に揺るぐことなく、南町奉行に至っては18年の長きにわたって務めた。よほど世渡りが上手いか、有能な人材と評価されていたのであろう。
根岸肥前守にはもう一つ、40年に渡って書き続けた「耳袋」という随筆が残っている。同僚や古老たちから聞き取った珍談、奇談など、巷の話が1000篇も書かれている。言わば江戸時代の千一夜物語である。取り上げた話は公家、武士から町人層まで、身分を問わずに、様々な人々の話が書き記されている。
時代小説で、根岸肥前守ないしは「耳袋」に材を取った作品はいくつか見られる。読んだ記憶をたどれば、平岩弓枝著の「はやぶさ新八」のシリーズや、宮部みゆき著の 「お初捕物控」シリーズなどで、根岸肥前守が準主役で登場している。
「耳袋秘帖」ではついに主役の地位を獲得した。根岸肥前守は出自が明らかではなく、養父が根岸家の御家人株を取得して、その養子になり武士になったという。裕福な豪農だったとか、町のならず者に加わっていたとか、根っからの武士でなかったことは確かなようだ。
根岸肥前守の意を受けて、探索に動く何人かの同心や岡っ引きが、一見不思議な事件を解決していく。「耳袋秘帖」は五章に章分けされて、章ごとに小さな事件が解決を見るけれども、一冊を通じての謎があって、最終章にその謎が解決されるという、大変巧みな、書き下ろしならではの捕物帖である。
「耳袋」の著者らしく、何事にも興味津々で忙しい町奉行をそっちのけで、大事なところでは必ず本人が出張ってくる。若い頃には鉄火場に出入りして、当時の仲間たちが様々な場面で顔を出すあたり、池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズにも通じるところがある。4ヶ月に1冊のペースで出版されるようで、当分楽しめそうである。
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四月から班長の役が廻ってくる
この四月より、ご近所の班の班長の役が廻ってくる。うちの班は34軒の大所帯で、なかなか大変である。前回30代後半で廻ってきた時に、次に廻ってくるときは、自分の代ではないだろうと思っていたが、なかなかそういうわけには行かなかった。最近はご近所も老齢化が進み、一時は「定年通り」と呼んで自嘲していた町並みが、今は「年金通り」に変わってしまい、間もなく「要介護通り」といわれるのも、そう遠くないかもしれない。お年寄りの一人暮らしで、班長さんも頼めないところも増えてきて、役の回りも早くなっているようだ。
今夜は現班長さんの下での最後の寄合があった。この一年はあまり集ることも無くて、今夜が最初で最後の寄り合いであった。それまでの和室の公民館とは違って、新しく出来た五和コミュニティセンターを借りて、暖房の入った椅子席で、気持良く実施できた。初め、予約がしっかり記録されていなくて、慌てたが、大広間を開けてもらい、テーブルと椅子は自分たちで並べて会場とした。30席の準備と後片付はなかなか大変だが、皆んなでやっていただいてたちまち出来た。
今年は後長で会計だったので、決算報告を自分が行なった。年2万円の班会費で出費とほぼ同額になった。うちの班には過去に集めたお金の残額が一年分の出費に近いほどあり、残額が多すぎるのではないかと、班長さんから意見が出て、これから防災のことも新たに出てくることも考えられるから、今年は2割ほど会費を減らすことで、少し残額を減らすことに留めた。
そのほか、今夜、話題に出た問題を記しておく。
1.ゴミステーション(鍵のかかるゴミ集積場)の美化については、今まで、近所の方などが気付いた時点で清掃し、きれいに保たれていたが、一部の人に負担させるのもまずいので、皆んなで当番制にして美化を保つことにする。
2.回覧板を回すグループを二組から三組に増やし、回転をよくする。
3.街灯の設置を新たに3ヶ所を区へ提案する。
4.一旦停車の場所で、自転車の子供が突っ走って危険である。学校に言うべきか、反対側を徐行にしてもらうか、どこに相談すればよいか。近くの交番に頼むのも良いのだろうか。
5.JA茶業センターの専用道路への曲がり角が鋭角で、その部分の舗装が壊れている。これは農協へ申し入れる方法が難しい。うちの班ではほとんど使わない道路だから、言って良いのか悪いのか。
いずれも細々とした話であるが、こういう話を一つ一つ積み重ねていくことがご近所の関係をよくしていくことになる。今度の大震災でも、最後に頼れるのはやはりご近所との関係であることがはっきりわかった。日々疎遠になりがちなご近所との関係をどうして深めていくか、今年はそれを課題にして、班長の役を務めたい。
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「歳代記6」 天狗党の乱と田沼意尊
東北関東大震災から2週間経った。自分にどうにもならないことに、この2週間やきもきして、けっこう神経をすり減らしてきた。しばらく大震災から目をそらそうと思った。古文書解読で、「歳代記5」まで書き込んだが、今日は気分を変えて、その続きを読んで行きたい。
1864年、水戸藩士を中心とした尊王攘夷派の天狗党が蜂起し、朝廷に攘夷を訴えるべく、中山道を京へ向けて攻め上った。「歳代記」にも、天狗党の乱の顛末が記されている。読み下した文を以下へ示す。
同年(元治元年)八月、常州筑波山麓にて、水戸様浪人者、およそ千人程集り、騒動致す事、この上なし、俵館はその所の大百姓へ潜り込み、押し取り致す金品は御用金と申して押し借りいたし、その所の地頭、領主取り押え出来難く、避け逃げるのみ、それより木曾海道(中山道)を登り、宿々所々焼払い、町人百姓難渋致すこと限りなし、追手として御公儀様より、御若年寄、遠州相良城主田沼様、対手に御差し向け、端より追って/\越前まで追い詰め、福井様御家中にて取り押え、越州様へ御預けに相成り、その後風聞には越前福井様の寺にて、切腹仰せ付けられ候者もこれ有り、入牢致し候者もこれ有り候
歴史の教科書では維新前の一事件として出ていたかどうか、「天狗党の乱」については、吉村昭著の「天狗争乱」を読んで、どんなことがあったのか、詳しく知ったが、それまではほとんど知識がなかった。1000名を越える人々が様々な武具を身に着けて、幕府の追討軍と戦いながら、中山道を西へ西へ進軍する。宿場の人々は何とか平穏に通り過ぎて貰おうと懸命になる。女子供まで混じって、終わり頃にはまるで難民のように迷走して行ったという。
若年寄田沼意尊が幕府軍提督に任じられ、幕府追討軍は天狗党を越前へ追い詰め、鎮圧した。実に350名以上の者が斬首され、その他は遠島、追放となった。
ここで、幕府軍提督として、遠州相良城主田沼(意尊)様の名前が出てくる。確か相良藩主の田沼意次は失脚して相良城を追われ、城から武家屋敷まですべて取り壊された。その経緯は、かつて、「古文書に親しむ」で「田沼候開城記」という古文書で読んだ。わずかに意次の孫龍助に奥州と越後へ合わせて1万石の知行を与えられるに留まった。あれから80年経ち、再び相良藩主田沼侯の名前が出てきた。
その後何代か、短命の藩主が続き、40年ほど経ち、廻り回って1823年、田沼意次の4男意正が田沼家を継ぎ、意正の時代に相良藩に復帰している。田沼意尊は意正の孫で、意次からすると曾孫になる。田沼意次の失脚は松平定信との政権争いに敗れたためで、将軍が変わり時代が移ることで、再び復帰することが出来たのであろう。「田沼候開城記」を読んだとき、相良藩田沼家もこれで終わりかと思っていたが、歴史は意外な展開をしていた。
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「神様のカルテ」を読む
2月の初め頃、ネットで図書館の予約ベスト10を見ていて、その上位に載っていた、夏川草介著「神様のカルテ」という本が気になって、続編も合わせて予約をしてあった。順番待ちで、ようやく一冊、今朝借りられた。200ページほどの軽い小説で、引き込まれて、3時間ほどで読んでしまった。
主人公は信州の松本の中堅病院の本荘病院の若い内科医である。漱石の「草枕」が愛読書という、病院では変人と言われている。本荘病院は「365日、24時間、救急医」と看板を出して、医師不足の中で地域医療を懸命に担っている病院である。
登場人物にニックネームを付けるあたりは、「ぼっちゃん」を髣髴とさせる。同僚の医師、看護師、カメラマンの妻、「御岳荘」の住人、そして病人たちが、様々に絡んで、物語が展開される。漱石張りの語り口が軽くなる文章を何とか引き締めている。
第二話の「門出の桜」では「御岳荘」を出てゆく学士殿のため絵描の男爵が廊下から玄関まで、満開の桜を描いて送るところや、第三話の「月下の雪」では末期ガンで亡くなった老婆が、死後被せるように頼んだ帽子の中に、感謝の手紙が入れられていたところなど、読者の泣き所である。
飄々としたユーモラスな展開から、やがて涙腺を全開にさせる技は、著者の初めての作品とはとても思えない、なかなかの手練(てだれ)さがうかがえる。読後感がさわやかで、悪いニュースにばかり接している昨今、久し振りに気分良く読み終えた。予約がたくさん入って、たくさんの人に読まれているのもなるほどと思った。
今日のニュースでは、福島第一原発で作業員二人が3号機のタービン室に作業に入り、30cmの水の中に短靴で入ったために、被爆して病院に運ばれたと伝えられた。そのため原発の復旧作業は一日止まってしまった。放射能の恐ろしさを十分承知している現場作業員としては、少し不容易な事故であったが、作業が長引いて慣れや焦りが原因になっているのであろうか。重大な事故にならないように、十分に気をつけて作業してもらいたいと思う。
気になるのは水道水に放射性ヨウ素が検出され、東京都内までも乳幼児への摂取をやめるように勧告されたということである。事故後、まとまった初めての雨で、浮遊しているものが水に溶け込んだ一時的なもので、その後、数値は下がって来ているとはいうものの、由々しき事態である。パニックを起して二次的な事故にならない日本人は誉められて良いと思う。
こんな日本に、神様はどんなカルテをお示しになるであろうか。
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「福島50」-サムライとは?
福島第一原発で、大地震、大津波、さらに爆発事故直後から、多くの人々が退避する中で、危険をかえりみずに現場に残り、原子炉の溶解と戦った人々を、世界が「福島50」と呼んで賞賛している。彼らこそ真のサムライであると。
現在は、原発社員、関連企業社員、自衛隊、消防など、さらに多くの人が一進一退を繰り返し、逐次人員を交代しながら、戦いを続けている。石原東京都知事でなくても、涙が出るほど感謝しなければならない。放射能汚染で様々な事象がこれからも起きると思うが、何よりもこの原発との戦いに勝利することである。それが出来れば、すべては時間が解決してくれる。それまでは、日本国民はあらゆることを我慢しよう。そして、彼らの戦いを応援しよう。
彼らを「サムライ」と呼ぶが、サムライとはどういう人を言うのだろう。このブログで、古文書講座で解読したばかりの、赤穂浪士の古文書を3回にわたって書いた。赤穂浪士こそサムライの鏡なのだろう。赤穂浪士の事件はよく知っているが、赤穂浪士たちの行動の中に、サムライを探すのは逆に難しい。
討ち入りされた吉良側の対応の評価の中で、江戸時代の武士たちがサムライをどう考えていたのかが良く示されていた。突然の討ち入りの中で、刀を取って少しでも戦う気持を見せたものは評価し、逃げてしまった吉良側の武士たちは侍にあるまじきものとして厳しく処断されている。一方、武士ではない小物については追い払って終りにしている。また、上野介の養子、吉良左兵衛の実家である上杉家にも、赤穂浪士が引き上げた後、何も行動を起さなかったとして、厳しい裁定が下された。
サムライは自らの立場、役割、状況において、どう行動すべきかを常に頭に置いて準備し、上からの指示があれば、果敢に行動できる人たちであろう。当然、指示が届かない状況においても、自らの役割と信じたことに行動できる人たちである。
東京消防庁のハイパーレスキュー隊の隊員たちは原発で生じている事態を見て、必ず自分たちへ役割が来ると信じて、準備と訓練を行なっていたという。だから出動命令が出たときには粛々と出動でき、危険で困難な役割を実行できたのだと思う。まさに彼らはサムライと呼ぶに価する。
現在でも、被災地でギリギリのところで頑張る医療関係者、自らも被災を受けながら車に寝泊りして、重機を使って道路などの復旧を行なっている土建会社のおやじ、津波に呑み込まれる最後まで、町民へ高台への避難を呼びかけた役場の女性職員、報道の中でこれこそサムライという多くの人々の勇気ある行動に接することが出来る。それらを糧として、「がんばろう、日本」!
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福島第一原発に灯が点った!
今夜10時43分、福島第一原発の第3号機中央制御室に灯が点った。被災より11日目、待ちに待った点灯である。ただ外部電源によって灯りが点っただけではあるが、これは大きな前進である。
空気中、野菜、牛乳、土壌、水道、海中、至るところから放射性物質が検出されている。100倍、1,000倍など恐くなるような数字が踊っている。「人体には影響が出る数値ではない」その度に同じ台詞を繰り返す官房長官。放射性物質が出ることは今さら驚くことではない。水素爆発を起した時点でこういう状況は予想されたことである。問題は原発を早く鎮静化することで、これ以上に放射性物質の飛散を増やさないことである。放射性物質の大半は半減期が8日といわれる放射性ヨウ素131で、拡散、希釈と合わせて、日々減少していくから、すぐに問題ではなくなる。
原発の電源復旧のために命がけの作業が行なわれてきた。中央制御室に点った灯はその大きな目標の一つであった。これで原子炉の現状がようやく把握が出来るようになる。冷却ポンプの可動も徐々に出来てくる。原発事故の大きなハードルを越えたと言えよう。
現在、起きている様々なことは、原発事故以外は、色々な事柄は起きるであろうが、すべて時間が解決してくれる問題だと思う。日本人の底力の見せ所である。
中国で日本発の放射能が押し寄せてきて、大変なことになるとの流言飛語が飛び交い、放射能に塩が良いとのまことしやかな噂で、店から塩が無くなったという話が伝わってきている。情報が統制され、国が管理している報道を全く信用していない国民は、アンダーグラウンドな流言飛語に右往左往させられる。中国当局は流言飛語の元を突き止め、逮捕したという。対処の方法が違うだろうと思った。統制を強めることは何ら解決にはならない。
一方、日本の報道はどうであろうか。被災者たちの不思議なほどの冷静さを見ると、情報を隠していると海外から批判を受けてはいるが、国民が動揺していないのは、色々な機関の発表やマスコミの報道を信頼している証拠であろう。我慢しておれば、事態は改善されていくと信じているから騒がないのである。我慢の限度の内に事態が解決に向かうことを望みたい。
大震災から10日経った。ブログなど書いている状況ではないとも思い、パソコンの前に座るのが辛い日々が続いた。ブログが続けられることで、日本がまだまだ大丈夫だと考えようと、苦しい中でもブログを書き続けて来た。今日からは何とか苦しい思いをせずにブログが書けそうである。
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