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大井河源紀行 5   3月15日 渡嶋、八坂

(大井河源紀行影印)

「大井河源紀行」に戻る。ある方に、現在本人が歩いている記録だと勘違いされていた。この紀行は江戸時代に、島田の文人、桑原藤泰さんが地誌編集の調査のために、大井川流域を遡った記録があって、古文書解読の勉強のために、読み進めているもので、自分が踏破しているわけではない。出来れば自分でも藤泰さんの足跡を追体験してみたいと思うけれども、それはまた別の話である。

久野平(今の地図では久奈平とある)で貧しい山家に立ち寄り、その家族の暮らしぶりに、あわれなる業と慨歎して、藤泰さんは再び路程に戻る。大日の森を越すが、そこに休憩所があった。方言では休戸(やすんど)と呼ぶようだ。

下ってくると、左は大井河原、前は河内川の流れとなる川瀬を渡って渡島に至る。ここも身成の枝郷で、産神は大井、牛頭の両社、寺院は曹洞宗嶺寿山東福寺という小院がある。本尊薬師。

そのすぐ先、谷に入った所に、八坂という、これも身成の枝郷がある。家数11戸で、産神は、鎌倉の鶴ヶ岡八幡を勧請した八幡。阿弥陀堂がある。河内川は里の南を流れていて、その川岸に水田あった。

この後、この村の村長とのやり取りが記されている。読んで行くとなかなか面白いので、読み下し文で示す。

村長を五郎左衛門と云う。有徳と聞こえし、かの家に立ち入りて、主人に謁し、一夜の宿を乞いたるに、主(あるじ)あらけなく(乱暴に)答えたるまゝ、もしや我等を疑いたるものやと思い、兼てはかる山中の人気(じんき、その地域の人々の気風)、質朴にして里方の人とは異あるまま、猥りに一夜の宿も、心元なく思いつづけて、郷里、駅家(うまや)の長が添え書を申し請けたりければ、これを取り出してぞ見せけるに、兎角に情(じょう)なく申すまゝ、道の程、身成の長、平口氏に行き逢いたるに、未だ相知れる人にあらねぞ、案内の者しかじかと事申したるまま、予(私)、山中歴遊の沙汰したれば、平口氏いう、我ら駅家(島田宿)に公のことありて出侍(はべ)るにぞ、留主の程は八坂に申し置きぬ。この家を尋ね給えと有りしかば、その事を申し入れければ、漸くに宿を許す。

一夜の宿を乞うに、島田宿の長の添書も効果なく、途中で逢った身成郷の長の言葉を出して漸く一夜の宿の許しが得られた。山中遍歴については、あらかじめ、それぞれの郷長には書状にて沙汰がしてあったことが窺える。このあと、さらに一悶着あった。

おのれ、炉辺に依りて、主に向いて、この度山中転歴は駿河の国志を編み綴れるためなり。里々の古事、あるいは旧家の伝を一見せんと、山中へ参りたり。主(あるじ)答えてぞ云う。一己(いっこ、自分だけ)の楽しみにてこそ、戸々秘蔵せる古文章あるいは重宝、いかでか猥りに被露し申さむ、愚か成る事を聞くものかな、とあざけり。さかし(賢)なりけるままに、言葉なくありしなり。誠に世の諺にも、鳥なき里の蝙蝠とはこれらの人をいう成るべしと、唯々さしうつむいてあり。
※ 鳥なき里の蝙蝠 -すぐれた者や強い者のいない所で、つまらない者がいばることのたとえ。

折しも、渡島の向かいなる遠江の国家山村の村長、この家を訪い来て、その席に座りぬ。その内に東福寺(渡島の小寺)の住僧も、阿主南(あずな、八坂の東方2キロほどの山中の寺、後述あり)詣りての帰りとて、同じ席に来たり、互いに四方八方(よもやま)の物語の端、我らがこの山中転歴のこと、いかにと尋ねるまゝ、しかじかの事にて奥に登りぬこと出話したるに、かの人々、それは気どく(奇特、殊勝)の発願かな。称美して念頃に物語るに、はじめて主人心解けるなり。それよりも面も柔らぎてぞ申し語らいける。実に世の中の人心、千差萬別、荀子が言葉の如く、人心の同じからざる、その面の如し、とは誠に不易の金言。

藤泰さんは、結局、この八坂の長の家へ一泊した。直前の久野平の貧しい山家の暮らしぶりと比較され、興味深い話になっている。古文書がその家にとって大切なもので、みだりに他人に見せるものではないという、五郎左衛門さんの考えは、「一己の楽しみ」との理由はともかくとして、当時の一般的なかんがえだったと思う。それは現代にもまだ残る常識かもしれない。
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