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雨畑林道でカモシカを見た

(雨畑林道の紅葉)

(昨日の続き)
見神の滝を見た後、元来た道を戻る手もあったが、ここは雨畑林道を通って井川に抜けて帰ってみようと思った。見神の滝の標高は570メートルだが、まだまだ紅葉には早かった。林道を越えて行けば紅葉に出会えるという期待もあった。時間は午後2時半を過ぎていた。何とか明るいうちに井川の集落を越えたいと思った。快適とは言えないが、林道は何とか舗装されていた。時々やり過ごす車は山仕事から降りてくる車で、遊びの車には出会わなかった。

しばらく登りが続いて、やがて左手に谷間が開けてきた。早くも谷間は日陰に入って来たが、谷の向かいの稜線は日差しを一杯に受けて明るい。いまちょうどその稜線あたりで紅葉が進んで、夕焼けのようであった。所々で工事の看板が立ち、実際に林道の改良工事をしているところもあった。谷の向こうの大きな山の斜面に、何段にもガードレールが見えて、少しずつ高度を上げていく様子が見える。その道をたどって稜線近くまで出た。このあたりの紅葉の色調は、カラマツの枯れ色が決めていた。針葉樹のカラマツも紅葉と呼んでいいのだろうか。


(県境の峠と山伏岳登山口)

雨畑林道はその最高地点で山梨県から静岡県へ入る。この県境の峠からは、標高2014メートルの山伏岳まで1時間で登れるという。だから、おそらくその峠は標高は1800メートルくらいはあると思う。山伏岳は登山者の間では大変人気の高い山で、梅ヶ島の大谷崩れの方から登ると3時間半ほどかかるから、この峠からなら、ずいぶん安直に登れることになる。

県境の峠で降りてみた。山伏岳登山口の標識が立っている。山梨側を見ると富士川沿いの町まで遠くに見えた。日差しはあるのに寒くて長居が出来なかった。靜岡県側に降りていくと、山梨県側と違い、静岡県側は工事の手がほとんど入っていなかった。崩れたところも、車が通れる分の土砂を除けてあるだけであった。うがって考えれば、静岡県は現在、空港完成間近で、予算がここまで回って来ないのかもしれない。


(天然記念物 ニホンカモシカ)

途中、道路の上部斜面に黒いけものを見つけた。車を停めて見たら、何と天然記念物のニホンカモシカであった。その距離約20メートル、斜面は草地で隠れるものもない。餌の草を求めて出て来たのであろう。カモシカはこちらをじっと見たまま、金縛りに遭ったように動かない。この斜面では簡単には動けないのであろう。写真を何枚か撮った。

何とか明るいうちに井川ダム湖畔の井川の町を抜けられた。今年は台風が一つも上陸しなかった。そのためもあるのだろう。雨畑林道は比較的荒れてはいなかった。また井川ダム湖の水量も少なかった。

もうとっぷりと暮れていたが、午後6時には帰宅した。
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雨畑湖そばの「見神の滝」

(見神の滝)

日本の株は一昨日、日経平均で6000円台を瞬間見た後、リバウンドするように三日で2千円戻し、9000円台を回復した。乱暴な相場展開である。昨日のニュースではこの機会に株取引を始めようと、インターネット取引を開設する個人客が急増しているとテレビが報道していた。麻生内閣も様々な金融安定政策と景気浮揚政策を出してきた。税金のばら撒きとの批判も多い。これらの政策で効果がどれほど期待できるものであろうか。

    *    *    *    *    *    *    *

身延山から降りて、国道52号線を車で北上し、早川町に入って、やがて左折して早川渓谷や奈良田へ行く道を進む。さらに早川渓谷への道とも分かれて、左へ雨畑湖に至る道を進めて行った。湖畔に出ると「VILLA雨畑-すず里の湯」という日帰り温泉がある。ここまではかつて温泉に入りに来たことがあった。

ブルーの美しい雨畑湖を左側に観ながら、湖畔の道を進んで行くと、湖が尽きたあたりに雨畑の集落があった。この辺りでは硯(すずり)に使う石が産出され、昔から硯の産地であった。現在も製造する家があるらしく、狭い道の両側に硯の看板が並んでいる。雨畑を過ぎると、道は雨畑林道へ進んで行くようだ。ガイドブックによればそろそろ滝に出てもよい頃だと思っていると、いきなり、右側に「見神の滝駐車場」の看板があった。ここまで見神の滝を示す看板は一切見なかった。車から降りて、駐車場から1分というが、さて滝はどちらだろうと顔を上げると、目の前の見上げる岩壁から滝が落ちていた。

滝の前に研修施設のようなログハウスと、壊れかかった水車がある。滝を見るには邪魔になる。落差42メートルという滝は、垂直に近い岩壁に落ちる水が刻んだ樋状の溝を滑るように落ちていた。そのため滝音が小さくて目の前にあるのも気付かなかった。この岩壁を見ていると、確証はないが、硯の製造に使用する石はこの岩と同質のものではないかと思った。削られた岩が硯の磨いた面を見ているようであった。

案内板によると、「二段目の滝つぼに金があるといわれ、何人かの若者がこれを取って長者になろうと試みたが、断崖絶壁のため、全て失敗した」とある。昔、砂金を採った頃の話が伝説化されて、今に伝わっているものであろうか。また「寒中は、下のほうから氷が盛り上がってくる。その量が多い程、その年は豊作といわれている」とも記されていた。

それまで不動滝と言われていたこの滝は、昭和22年、時の山梨県知事が観瀑に来たときに、「見神の滝」と命名されたという。
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身延山の五重塔・多宝塔

(身延山の五重塔)

一昨日、お昼のテレビ番組で、身延山久遠寺で五重塔が完成し、来年春の落慶を待つばかりだと知った。五重塔の建設中の情報は知っていたが、完成と聞けば観に行かねばならないと思った。今朝、晴れて清々しい天気になった。五重塔を観に身延山へ行こうと思った。

身延山に五重塔が最初に建立されたのは元和5年(1619)のことで、寛文3年(1662)には奥之院へ至る参道を少し登った所に移築された。しかしこの五重塔は文政12年(1829)に焼失している。五重塔の再建は幕末の嘉永6年(1853)に始めて、7年後の慶応元年(1865)に落成した。初重3間四方、高さ12丈3尺・九輪共20間半、屋根銅瓦葺といい、縮尺1/60の姿図も残されている。しかし再建した五重塔も、明治8年(1875)に全山144棟ことごとく焼失した大火で、烏有に帰してしまった。落成からわずか10年後のことである。

今回の再建は平成16年発願で4年掛かって再建された。五重塔がその全貌を現すのは実に133年振りのことである。


(身延山五重塔-そばで見上げる)
     
駐車場から緩やかな坂を登っていくと、本堂の陰から五重塔が見えてきた。本堂に参拝した後、五重塔をゆっくり見上げた。完成図で見ていた印象では、もっと赤い派手な五重塔と思っていたが、意外とべんがらの色調を焦げ茶系統に押えた地味な色合いであった。中で蟇股(かえるまた)の彫刻が極彩色の塗られて際立って見えた。相輪まで含めて総高39メートルは昔の五重塔の規模なのだろう。

木造建築ながら、基礎部分に鉄筋コンクリート製の杭とマットスラブを使用し、地盤アンカーを設置している。また転倒防止のために、綱棒(タイロッド)を用いて各重を結び、基礎のマットスラブで抵抗するように設計されている。つまり各種災害に備えて、現代の建築技術が要所要所で利用されているようだ。それらが200年後に必ずやってくる解体修理時にどうなるかは誰も分らない。


(身延山の多宝塔)

境内奥へ進んだ右側に多宝塔があった。明治24年(1891)建立で、大火後のためか、初層は土蔵造になっている。開基堂と呼ばれ、開基の領主南部實長公が祀られている。身延町指定文化財となっている。

帰りは車を廻してもらい、正面の石段を降りてみた。昔の石段で急な上に一段一段がでこぼこで手すりを持っていないと下るに剣呑に感じられた。この石段は「菩提梯」と名付けられ、287段ある。踊場で7つの部分に分けられて、上からそれぞれ「南無妙法蓮華経」のお題目一文字ずつに当てはめられ、ここを登れば涅槃に到達する階段という意味が込められている。

降りたところが石畳で、足ががくがくした。石畳の先に三門がある。両側に仁王さんが安置されているが、仁王の前でお坊さんが読経出来るようなスペースがあった。
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年齢別人口統計のはなし

(ピンクの蕎麦の花-一昨日)

今、産婦人科、小児科の医師不足が社会問題となっている。どうして医師不足がクローズアップされているのか、もう一つよくわからない。もしかして、出生数が長期的に漸減してきた中で、産婦人科、小児科の医師も減っていたところ、少子化対策の効果もあって、この1、2年出生数が増えているのではないのかと思った。そこでネットで調べてみた。

日本の出生数は、戦後4年ほど続いた、後に団塊の世代と呼ばれる第一次ベビーブームの中で、昭和24年(1949)の269万人がピークであった。その後年々減って、昭和32年(1967)には156万人まで減り、その後5年ほど続いた団塊2世の第二次ベビーブームがあって、昭和48年(1973)に209万人の二度目のピークを迎えた。その後は毎年減って最低になったのが、平成17年(2005)の109万人まで落ちた。ところが、平成18年(2006)には111万人と微増している。このあと、平成19年、平成20年と出生数がどうなっているのかが分からない。追々データーも出てくるであろう。

日本の人口統計を見ていて、62歳の自分より年上の人が何人いるのであろうかとふと思った。言い方を変えれば、自分の年齢ランキングである。

日本の人口は平成17年10月1日現在で127百万人である。自分の同い年生まれの人は、2006年の統計では60歳で136万人、2007年では61歳で135万人である。この一年に1万人亡くなっている。同い年及び年上の人は2006年度には3,474万人、2007年度には3,377万人となり、この一年で97万人亡くなっている。つまり、同い年の人は年に1万人亡くなり、年上の人は年に100万人亡くなっている訳である。一年に同い年で亡くなる人は今後3万人くらいまで増えていく。一方、年上の人は絶対数が年々減っていくので亡くなる人も減っていく。それでも毎年数十万人のペースで亡くなっていくことになる。90歳まで生きると、現在の5分の1、およそ25万人ぐらいになっていると考えられる。ということは、90歳まで生きる確率は20%くらいであろうか。2007年では90歳以上の人が122万人いるという。

それでランキングであるが、2007年では3,378万番、2008年を推定すると、3,280万番位であろうか。6月生まれを判断に入れれば、3,220万番で、一日生きると、3000番ほどランクが上るという計算になる。だからどうだと言うことはない。ランクを上げるために長生きしようと考える人もいないだろうから。
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「万葉の森」の「曲水の宴」観れず

(不動寺竜宮門)

袋井の「源氏の里」のヒマワリを観たあと、浜北に向かった。浜北の「万葉の森」で平安時代の衣装を着たお祭りがあるという女房の情報で、メインをそのお祭り見物に置いていた。

お昼を回っていたので途中で蕎麦を食べた。手打の太い蕎麦が特徴のお店で、少し値段が高い。活気付けるためなのだろうが、お店がけっこううるさい。入り口を人が通るたびに鳴る「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の電子音は不要である。飛び交っている中に「消費税はサービスさせて頂いております」という言葉があって、少し引っ掛かった。今はこういうお店は消費税も含めた総額表示されているから、もともとレジで消費税を上乗せされることはない。だから消費税サービスの言葉に実益がない。

浜北大橋を渡って浜松市浜北区に入ってから、「万葉の森」を探すのにさらに時間が掛かった。区内をうろうろし、2度道を聞いてようやくたどり着いた。結局、浜北大橋を渡った後、そのまま西へ真っ直ぐ進み、国道152号線に出て、約2キロメートルほど南西に進んだ右手にある不動寺というお寺の裏に「万葉の森」はあった。

不動寺の下に車を停めて、急な石段の左右に雄滝、女滝があって、現代でもそこで滝に打たれる人もいるらしい。最も今日は滝に水がない。瀑布山不動寺は「平口のお不動さん」として親しまれており、石段の途中に黄檗宗の特徴的な山門である竜宮門があった。


(曲水庭園でポーズ)

石段を登った本堂でゆっくりとお参りした。線香を買って立てたり、絵馬を見て回ったり、本堂の龍の彫刻を写真に撮ったりと、のんびりと過ごした。さて万葉の森に行こうと、本堂右手の石段を上り、曲水の宴が行われる蛇行した水路がある曲水庭園を覗くと、王朝の衣装に身を飾った人たちがぞろぞろと出てきた。なんと言うことだ。曲水の宴は今終ったところであった。もう10分早く来ていたら最後の辺りが観れたのだ。今日はあっちこっちで無駄な時間を使ってしまった。曲水庭園に残って、写真にポーズを取っている女官姿の女性たちを写真に取った。

女房はもう少し早く出てくればよかったと反省する。もっとスムースに赤い蕎麦の畑にたどり着けばよかった。食事をゆっくりしすぎた。不動寺のお参りは後回しにすればよかった。そのどれか一つが変っておれば、曲水の宴に間に合ったはずであった。最も反省すべきは「曲水の宴」の行事について、理解せずに出かけてきたことであった。「曲水の宴」の行われる時間をしっかりと調べてくればよかった。残念ではあるが、これで来年また来る理由が出来た。そう考えれば観れなかったのもラッキーと思える。
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秋のお花畑、三題

(ヒマワリ「ムーランルージュ」)

かさぶた日録も1000回を間近に話題が尽きて、一日書込みを休んでしまった。昨日、セントラルリーグのプレイオフで巨人が勝ち、日本シリーズへの出場権を獲得する最終試合を見た後、さて、何を書き込もうかと2時間ほど悩んだ結果である。

候補はあったが、いずれもテーマとするには不足であった。NHKのてくてく旅で金曜日に四元さんが四国八十八ヶ所遍路旅の結願を迎えたが、ご苦労様と思っただけで書く気にはならない。番組としての遍路旅で、自分が考えているお遍路とは少し隔たりがある。

明けて今朝、やや厚い曇りで、途中ぱらつくのも覚悟して、女房と久しぶりに出掛けた。新聞などの情報で、気になるところが何ヶ所かあった。最初に目指したのは掛川市土方で満開だという赤い蕎麦の花である。牧之原に上って向おうとして、かえって遠回りになった。


(花がすべてこちらを向くコスモス)

旧小笠町を横切っている途中で、一面にコスモスの植わった田んぼがあった。イネの取入れが終った後に種を蒔いたものであろうか。そろそろ終わりがけのはずのコスモスが今真っ盛りであった。白、ピンク、赤の三色が種の段階で混ぜられたのであろう、きれいに混ざっていた。その花々が皆んなこちらを向いているから壮観である。東側の道路から見ていたが、コスモスも太陽の方向に花を向ける性質があるのだろうか。反対側に回ってみると花の裏側で見栄えのしないコスモス畑に見えた。


(淡いピンクの蕎麦の花)

蕎麦の花は普通白だと思っていた。わざわざピンクの花の咲く蕎麦を信濃から取り寄せて蒔いたという。場所が分からず、道端の花の世話をしていた女性に、女房が場所を聞きに行った。随分時間が掛かって戻ってきて、女房は案内してくれるという。そばの家まで連れて行かれたが、判らなくて隣近所に聞いてくれてようやく判ったらしい。わざわざ島田から来てくれたのだから、どうしても見て帰ってもらいたいと言われたようだ。

赤い花の咲いた蕎麦畑は高天神城跡の入口にあった。これも取り入れが済んでから田んぼに種を蒔いたものだろうか。背が低いままで花を咲かせている。一面の淡いピンクで、これもまた一景であった。


(「ひまわり祭り」のヒマワリ畑)

次に袋井市友永の「ひまわり祭り」を見に行った。東名袋井インターを通り過ぎてまっすぐに北へ向かって進むと田んぼの中にヒマワリ畑が広がっていた。テントを張り、ちょっとしたイベント会場になっていた。「源氏の里」という農業グループが主催しているイベントのようだ。背の低い観賞用のヒマワリには「ロシア」と書かれていた。品種名なのだろうか。背の高い花の大きな品種には「食用ヒマワリ」とあった。中国ではヒマワリの種を好んで食べるが、日本でも食用にするのだろうか。変り種としては「ムーランルージュ」と書かれた黒いヒマワリがあった。ムーランルージュは「赤い風車」で色は違うが、雰囲気は何となく分かる気がした。

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後日、コスモス、蕎麦の花、ヒマワリともに、取り入れ後に蒔いたものではなく、休耕している田んぼに作ったものだと聞いた。
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アメリカは没落するか

(庭のコスモス)

サブプライム問題が引き金になって、アメリカは没落して行くのであろうか。

ローマ帝国や大英帝国を引き合いに出すまでもなく、おごれる者は久しからずで、世界を牛耳る勢いを持った国は、ことごとく衰退していった。

アメリカはアメリカンドリームを目指した一旗組が世界から集まって出来た国である。アメリカが世界を支配する超大国になったのは、第二次世界大戦に勝利して以降であろう。アメリカは世界の見本となるような仕組を作って、それを世界標準と成して、世界に冠たろうとし、何度も成功してきた。

始まりは民主主義であろうか。人民の人民による人民のための政治はリンカーンが唱えた民主主義の理想である。最良の国家統治システムとして民主主義を実践し、民主主義の仕組みを世界に広めた。戦後、もう一方の国家統治システムの社会主義と、長期に渡り冷戦を戦った来た。その社会主義国家も内部矛盾から自滅して、アメリカは世界唯一の超大国になった。

ベルトコンベア方式に代表される大量生産、大量消費社会を実現し、世界に広めて、アメリカは世界の工場として世界の富を熊手でかき集めるように取り込んだ。しかし、アメリカが泥沼のベトナム戦争を戦い、若者を中心に厭世的な気鬱状態にある間に、世界の工場は、日本、NIES(韓国・台湾・香港・シンガポール)やNICS、さらにはBRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国)へと順次移って行き、アメリカの時代は終った。

しかしアメリカは沈まなかった。情報を手中にするコンピュータとインターネットのシステムの世界標準をねらい、IBMとマイクロソフト、グーグルにヤフーが世界から情報と富を取り込んだ。しかし、いまやIBMやマイクロソフトの牙城は崩れだし、富の独占は難しくなっている。

アメリカが最後に取り組んだのは金融システムであった。グローバルの名のもとに、アメリカの標準を世界に押し付けて、世界の市場を強引に開かせ、金融システムで世界の富を集めることをねらった。もっとも手ごわい相手は日本の護送船団といわれた金融システムであったが、日本はバブルがはじけて自らこけてくれた。金融システムを牛耳ることで、労ぜずして世界の富を集めることが出来た。アメリカはもはや無敵のように見えた。しかし、サブプライム問題はまさにアメリカのお膝元から発生した。それは世界標準とされたアメリカの金融システムがいかに胡散臭いものであるかを、衆目にさらす結果となった。

しかし、アメリカはこのまま没落することにはならないだろう。すでに次なる世界戦略を用意しているような気がする。それが何であるのか。一つはすでに端著が見える農産物を中心にした食糧戦略であろう。あるいは今までアメリカが無視をしていて、前へ進まなかった、CO2削減と温暖化防止あたりにあるかもしれない。
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暴落という名の脅迫

(目を合わせないムサシ)

サブプライム問題に端を発する世界的な経済危機は、実態経済の後退状況を受けて、今日さらに一段と悪化した。ニューヨークの株式市場の下落を受けて、日経平均株価は一時8000円割れ直前まで行った。一方、円ドル相場は一時96円台まで円高が進んだ。

この一年の経済の動向を見ていて感じるのは、政治が経済を動かしている構図ではなくて、経済が政治に対して各種政策の決断を迫っている構図である。ここでいう経済の最大の牽引者は市場である。政治の決断には時間が掛かる。市場の暴落圧力に屈して政治が決断したときには、市場はすでに政治決断を先取りしているから、政治決断は市場に好影響を与えることにはならない。それよりも政治決断をしなかった場合には市場は失望売りといわれるような暴落を起こす。その恐怖があるから政治は市場の言いなりという不思議な状況が生まれる。それが世界規模で起こってしまっている。

今や市場は世界各国の共通の敵である。ただし、その敵は姿を見せない。獅子身中の虫のように、各国の内部に抱えている弱きの虫の連鎖である。自爆テロのイスラムの民との戦いも大変困難であるが、まだターゲットが見えているから対処の方法がある。見えない市場に対して出来ることは世界各国が協調して税金を市場へ投入することしかないように見える。

欧米に続いて、成長をひっぱって来た、韓国、中国、ブラジルなどに経済の減速が広まり、破綻寸前に追い込まれる国々も出始めている。欧米の金融機関の信用不安や経済減速から原油などの商品相場も下落し、世界のお金は行き先を失っている。そういう中でも、かつてバブル経済を破綻させ、ようやく立ち直ってきた日本の金融機関が、唯一比較的に信用が高いと判断され、それらのお金がいっせいに円買いに逃げてきた。買った円で日本株式を買うわけではないから、日本株式も世界的な株安に連動している。買った円はどこへあるのか、不思議であるが、とにかくおかげで円高はついに96円の水準まで来てしまった。本当に日本経済が強いのなら問題は少ないのであるが、比較的安全というだけの円高である。

円高にはメリットもあるが、貿易立国で、しかも国内景気の大部分を海外輸出に頼っている日本には大きな痛手である。輸出企業はもとより、東南アジアやオーストラリアなどの観光客で賑わった観光地やスキー場など、今年は激減することが予想されている。秋葉原も外国人客の買い控えが顕著に現れているという。つまりは比較的安全と思われた日本も、その地位を円高攻勢によって引きずり下ろされることになると思われる。

来月15日にワシントンで開かれる緊急首脳会合には、GDPで世界の90%を越える国々の首脳が一同に会する。差しあたっては、その結果が期待されるが、この経済危機がどこで底を打つことになるのであろうか。
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早々と “かんくん” 登場

(ボールで遊ぶムサシ)

名古屋の上の娘が昨日まで帰っていた。こちらの産院で健診を受けるためである。月曜日夕方、付き添いに夫君のお母さんと女房を引き連れて、診察に行った。その産院は診察に家族も立ち会わせてくれ、全員でエコーの画像も見てきたという。画像を見ながら、鼻筋が通って「かわいい」と女房が言うと、そばにいた看護師さんも「かわいいお子さんですね」と言ったと女房は自慢げにいう。看護師さんもそれ以外の言い方ないだろうに。もらってきた画像を見せられて、「おでこの辺りが夫君そっくりだ」とついつい憎まれ口を言ってしまう。生え際が上って、夫君はそれを気にしている。

今はことほどさように、生まれる前にすべてが判ってしまう。男の子だとすでに前回判っていたし、美男子かどうかまでわかってしまうらしい? 上の娘夫婦はすでに子供の名前も決めたようだ。自分も呼び方を考えねばならない。「かんくん」と呼ぼう。かんくんの誕生予定は来年の2月である。4ヶ月少々で、まーくんとは同級生になる。かんくんまーくん、と並べて呼べば、お笑いのコンビ名みたいになるなんて書くと、また女房からチェックが来るだろう。

ところでまーくんだが、このところ毎日のように顔を出す。上の娘が帰っているから来るのだろうが、里に連れて来れば皆んなで見てもらえ、下の娘も楽が出来るわけで、何かと理由をつけて足を運んでくる。

そんなわけでまーくんの相手をするわけだが、近頃は首も据わり寝返りも一杯一杯だがうてるようになり、手の握る力も付いてきた。カタログを見ていると、端をきゅっと握って放さないほどになった。手足を力を込めてバタバタする。お腹に当れば痛かろうにと思うが、得意げである。爺ちゃんの顔を見るとお愛想にニヤッと笑う世知も付いてきた。

見境なく自分にも吠えていたムサシが、最近吠えずに寄ってきて顔をペロペロ舐めるようになった。まーくんを見習って、お愛想を憶えたのだろうか。ようやく世知が付いてきたのだろうか。ムサシはまーくんが来ると時々忘れられることがある。あれ、ムサシの散歩にまだ行っていなかったと、女房が言い出す。今までムサシ命でムサシ中心であった女房の生活パターンが少し変化してきているようだ。ムサシもそれを感じて危機感を抱いているらしくみえる。そこへさらにかんくん登場となると、ムサシの影はさらに薄くなりそうである。ムサシもうかうかしておれないと感じているかどうか。先ほどムサシの小屋に近づいたら見事に吠えられた。
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「歳代記」を読み終える

(歳代記)

金谷宿大学の講座「古文書に親しむ」第5回目で、めでたく「歳代記」を読み終えた。自分は「歳代記」には最後の4回参加しただけであるが、講師の話では読み終えるのに、当講座で2年掛かったと話す。

我々は「歳代記」を(さいだいき)と読んでいるが、「歳代記」が伝わる松浦家では、昔から(ねんだいき)と読んでいるという。嘉永7年(1854)11月から明治18年(1886)10月まで、丸32年間の記録である。和暦早見表によると嘉永が6年までしかない。疑問に思って調べてみると、嘉永7年11月27日、安政に改元になっている。つまり「歳代記」が始まってすぐに安政に改元されているのである。それから、万延、文久、元治、慶応、明治と激動の時代が続いて行く。

筆者の松浦幸蔵という人は幕末、大井川川越しの金谷側の川会所の役人を勤めた。明治になって川越しが廃止になってからは、役場の雇員に採用された。川会所の時代は若い頃で文字の筆致も力強く、内容も川会所の通行記録であったり、旅人から耳にする幕末の様々な事件や政治情勢だったりしたが、役場の雇員になってからは、もっぱら金谷宿に起こった災害や事件や祭事などの記録に移り、筆致も同一人物かと疑うほど細かくなっていると講師は話した。

それらしい記載がないから、何歳から書き始めて、32年書き続け、何歳で書き終えたのか、推測するしかない。書き終えると言っても、終りの表示がなく、本人に終るつもりはなかったのではないかと思う。何らかのアクシデントがあったのだろうか。本人が病気で倒れるとか、個人的な事件があったのか。日記とはいえ、個人的な出来事の記載がほとんどない。本人は金谷宿の出来事などを記す公的記録のつもりで記してきたように思える。32年経って年齢も50代半ばを越え、いよいよ役場の職を辞することになって、公的記録としての「歳代記」も終りとなった、というあたりが真相ではなかろうか。

間もなく1000回を迎える「かさぶた日録」(987回)を書いていて、「歳代記」を書き続けてきた松浦幸蔵氏の気持は判るような気がする。公表を予定した「歳代記」ではないが、いつか子孫が、自分が書き記した記録を読んで、自分たちが生きて来た時代に思いを馳せてくれるという、密かな期待は持っていたに違いない。そして、事実そういうことになった。「かさぶた日録」はネットで公表しているから、少し違うけれども、もしかしてまーくんが読んでくれるという、同じような思いもあって、1000回まで書き続けてきたともいえる。

自分が参加していなかった一年半分の「歳代記」を、読んで見たいという思いが強くて、講座が始まる前に、講師に前の部分の入手を依頼した。「ええじゃないか」の記録など興味津々である。
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