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次週、中国へ出張する

            (上海の南京路の繁華街、ずいぶんきれいになった)

来週、中国に出張する。この10年ほどの間に毎年のように出張している。場所はいずれも上海から杭州である。

この10年位の間に、中国の様変わりは著しいものがある。ビルは乱立し、高速道路が縦横に走るようになった。しかし、その話はまた別の機会にするとして、ここでは、いくつかのエピソードから感じてきた中国人気質といったものについて書き記したい。

共産中国の60年と、それ以前の動乱の時代を含めて、中国人には頼れるのは自分及び自分の家族だけという思いがすべての行動の規範になっていると思われる。

中国には公衆道徳という概念が無い。オリンピックや万博をひかえて、最近上海では少しはよくなったが、街中の汚さには閉口するものがある。中国人にはゴミを捨てるという感覚が無い。路上で買った食べ物を歩きながら食べ、食いカスをばらばら落としてゆく。ゴミを捨てるという感覚すらない。不要になって自分の身から離れればすべてが終わりという感覚である。

上海のあちこちに看板が立っているので、通訳に聴くと「ゴミをすてるな、つばを吐くな、交通信号を守れ、など」と、恥ずかしそうに訳した。多分もっと恥ずかしいことも書かれていたのであろう。中国では今まさに公衆道徳を国民に教えることにやっきになっている。

街中でちょっとした交通事故でも起こそうものなら大変である。当事者同士は自分の正当性を一方的に主張し、やがて罵り合いになり、最悪の場合手が出る。交通事故では怪我は無かったのに事故後の交渉で怪我をする、といった笑えない状況にも町で出くわす。主張しなければ自分が一方的に悪くなるという、苦い経験に裏づけされた行動であろう。

中国において企業の求人面接に立ち会ったことがある。応募者はパスポート大の10数冊の各種資格証明証を見せることから面接が始まる。自分という人間をどう相手に解ってもらうか、頼れるのは公的、私的を問わずそういう類の書類だけなのであろう。日本なら面接時の印象が採否の判断の重要な要素となるところなのだが。

彼らは常に自分をステップアップすることを考えている。ある若い女性通訳は、今はこの会社で通訳をしているが、キャリアを積んでいずれ上海の企業に勤め、いずれは東京かアメリカへ行きたいと考えていると、堂々と述べた。決して今の職場に固執してはいない。その自由な発想には脱帽した。

さて、中国出張の1週間、ブログをどうするかが今の課題である。出来れば何らかの形で続けたいと思うのだが、欠ける日が何日かあるかもしれない。その分は土産話で補いたいと思う。
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隣保犬、ゴロのこと

                 (縄張りを主張して吠えるムサシ)

ふるさとで、子供の頃の話である。ふるさとの町内は隣保制になっていて、南の角から北の四つ角までに一隣保と二隣保がある。実家は一隣保になるが、この向かい合わせに軒を並べた20数軒の中に20数人の子供がいたと思う。これが、毎日群れて遊んでいた。めったに車が通ることも無く、子供たちに決定的な危険は無かった。

往時、ペットを飼っている家も少なく、しかし、うちの隣保には隣保犬と名付けていいようなゴロがいた。ゴロは首輪をつけていたが、放し飼いにされていた。隣の町内の火薬店の飼い犬だと話には聞いていたが、確かめたことは無かった。中型の雑種犬のオスで、毛並みは茶色、耳は垂れ、鼻が黒かった。

ゴロは昼間のほとんどの時間を家の町内、それも一隣保から二隣保の間で過ごした。子供たちともよく遊んだ。何軒からは餌ももらっているようであった。

見知った人には決して吠えることは無かったが、知らない人が入ってくると吠えた。激しく吠え立てるわけではなく、少し距離を置いて吠えながら付いて行く。一隣保から二隣保の一郭を通り過ぎるまで吠えながら付き従った。しかし、この一区画を過ぎると興味を失ったように戻ってくる。おそらくゴロにとってそこまでが縄張りなのであろう。郵便屋さんとか御用聞きも、顔を覚えてしまえば吠えない。まるで一隣保から二隣保の仲間で飼っている番犬のようなものであった。

ゴロはよくねずみを捕った。古道具屋の店には屋外にまで古建具などが置かれ、ネズミの住処であった。激しく吠え立てていると思ったら、ネズミをくわえて来た。食料にするわけではなく、狩の獲物を人間たちに見せに来るのである。

夕方には飼い主の火薬店に戻っていたのであろうが、夏には、夜も、涼みに出てくる子供たちに混じって遊んで居たような気もする。

ゴロの最期はどうなったのか知らない。自分が子供の世界から卒業して、隣保犬ゴロは視界から去って行った。
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コウノトリの不思議な飛行

                       (飛立つコウノトリ)

次兄が故郷からやってきて一晩泊ったとき、コウノトリが他県まで飛んでいって、4日目に戻ってきたという話を聞いた。それを思い出してネットで情報を確かめた。

昨年の秋、ゲージから出されて自然に戻されたコウノトリのうち一羽が、この1月に豊岡のホームグラウンドを飛び立ち、不思議な行動をした。自然に戻されたコウノトリには、研究のため発信機が取り付けられている。他のコウノトリがホームグラウンドから遠くには離れないのに、その一羽は1月20日、豊岡の地から飛び立った。

発信機を人工衛星で追跡した結果、21日には京都府宮津市、22日には福井県から宝塚市、23日には神戸市から宮津市にと、細長い矩形に飛行し、豊岡のコウノトリ郷公園に無事戻ってきた。その間、約350km、その飛翔能力は自然に育ったものと遜色がないと、関係者は一安心しているという。

何か目的があっての飛行なのか、ただ外の世界を見たい好奇心なのか。吹雪の中を、間違えることなく戻ってきた能力は、コウノトリの記憶力なのか、あるいは鳥だけに備わった不思議な能力なのか。幾つか疑問はわくが、その自由な行動は、自然の姿なのかもしれない。

その後も別のコウノトリが松江の方まで飛んで行き、戻ってきた。コウノトリの行動範囲はだんだん広がっていくようである。

3月になって、段階的放鳥として、羽根を切って屋根の無いゲージに放たれたペアが、はじめて繁殖行動をした(つまり交尾をした)ことが確認された。放鳥したコウノトリでは初めての確認であるとのニュースも載っていた。

これらのニュースを確認したホームページは読売新聞のHR「コウノトリ 大空へ」

     http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/stork/

である。
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遠江三十三観音巡礼

                 (第二十二番札所 天王山観泉寺)

掛川市を中心に、遠州地域に点在する「遠江三十三観音」について、地元の人も知っている人は少ない。この「遠江三十三観音」霊場巡りは、江戸時代から続く民間信仰である。故郷の、是非残していきたい貴重な有形及び無形の文化財だと思う。

平成5年の初め、昔の人のように歩いて巡りたいと思った。かつては農閑期に1週間ほどかけて歩いて巡礼したという。調べたところ、朱印を貰いながら歩けることが判り、納経帳も売っていることがわかった。当時、会社の先輩のS氏、W氏、U氏に声を掛け、巡礼団を結成した。

まず、図書館で遠江三十三観音巡礼の案内書を探し出し、その中の地図を参考に、国土地理院発行の2万5千分の一の地図にコースを赤鉛筆で書き込んで準備した。

巡礼するためにルールを決めた。まず歩いて回ること、一部車で行きたいという団員もあったが、とにかく一日歩いてみようと説得した。次に、通して歩くのは無理があるので、休みのたびに部分的に歩き、その足跡をつないでゆく方法を取った。さらに、前回の場所までは公共の交通機関を利用し、マイカーは使わないことに決めた。

一日歩いたら、団員全員自信が出来て、以後は最後まで歩きとおした。なかなか4人が都合を合わせるのに難しくて、延べ10日間の巡礼で、満願を迎えるまでに2年掛かった。

掛川駅が最後になる日が何日かあり、その度にお城に向かう通りの丸八若木屋に立ち寄り蕎麦を食べた。頭を丸めた怖そうな親父がつくる蕎麦は、意外と美味しかった。満願の日にも立ち寄った。経緯を聞いて親父は記念写真のシャッターを押してくれた。容貌の割りに優しいおやじであった。

10日間の総歩数は340,468歩、総歩行距離171.1km、一歩あたりの歩幅は50.25cmであった。迷って無駄な距離も歩いているので、歩幅はもう少し広いはずである。
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桜まつりの家山

                       (家山川土手の桜)

八高山から下山してきて、前山から家山を見下ろすと、桜で一杯であった。家山の町には有名な桜トンネルをはじめとして、大井川鉄道の向こう側の大井川土手の桜、天王山の桜、野守の池のほとりの桜、家山川両岸の桜など、上から見ると全町内桜に覆われているように見えた。

家山川土手の桜は五部咲きといった所であった。家山川が大井川に合流する地点で、広い大井川を渡して長いロープが張られ、たくさんの鯉のぼりが連なって上がっていた。

家山駅まで来ると、ホームにも駅舎内にも人が満ち、駅前広場まであふれていた。次の普通電車は50分後であったため、家へ携帯で電話し女房に迎えを頼んだ。

駅前広場で待っていると、大型バスが3台4台と着く。そのすべてがSLに乗る客のようだ。そこへ一列車、SL列車が入線してきた。ホームで待つ乗客は乗車前に蒸気機関車の前に群がった。やがて、ホームの乗客が乗り込んだのを見計らうように、SL列車は金谷に向けて出発して行った。

しかしまだ駅舎と駅前広場の乗客は残っている。その乗客もやがて次々に空いたホームに出て行き、間もなく駅舎も広場も空っぽになった。10分ほど経って、次のSL列車が入ってきた。蒸気機関車の前に群がり、乗り込んで出発する繰り返しが展開されて、あたりは嘘のように静かになった。

駅前広場でレンタサイクルを並べているあんちゃんが所在無さそうにしている。ようやく、前を行くバスがのろくてと言い訳をしながら女房が迎えに来た。帰りの桜トンネルにはぼんぼりがぶら下がり、夜桜の準備に怠りなしといったところであった。

SLを見ていて大変気になるところがあった。それは千頭から帰ってくるSLはみんなバックで来ることである。向きを変えるためにはターンテーブルを使わなくてはならない。大井川鉄道にとって大きな負担なのかもしれないが、SLに乗ることを楽しみに来ている観光客の中には、バックで入線して来る姿を見て、残念に思う人も多いのではないか。ぜひターンテーブルの設備をして、帰りも前向きで走ってもらいたいと思う。
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八高山と白光神社

                       (八高山の白光神社)

昨日登った八高山には頂上直下に白光神社がある。白光神社の由来は案内板によると、ご祭神は、第二十七代「安閑天皇」、別名廣国押武金日命(ヒロクニオシブガネビノミコト)であり、修験者によって勧請されたものといわれる。また登山前に手を合わせた麓の白光神社には、神社には似合わない釣鐘があった。その碑面には奈良県吉野山蔵王堂権現云々と彫られている。そんな点から役小角がこの地に入ったとの記録もあるという。

つまり八高山は山岳宗教の影響が色濃く残った山であり、白光神社は修験者が勧請した神社であった。

尾根を北西にたどって行けば、行基菩薩が自刻の大日如来を安置したと伝わる大日山金剛院、さらに北西の進めば、同じく行基菩薩開基の春埜山大光寺がある。途中から南西に尾根をたどれば智顕上人創建と伝わる大尾山顕光寺、八高山の南には納経塚石碑の立つ経塚山と、修験道のにおいの濃い山々が尾根を連ねている。

白光神社のご神体は頂上北側の白光川の源流となる大垂滝である。大垂滝は馬王平から前山へ山腹に通じる林道の途中で見ることができる。

馬王平の地名案内板によると、修験者が里からの帰り道に、この地でウトウト眠ってしまった。すると夢枕に白馬に跨がった王が立ち、修験者に怠らず精進せよと言われた。我に返った修験者は、聖なる山(八高山)を仰ぐこの場所を「馬王平」と名付けた。

また、前山に下った途中の高みが「天狗の座敷」と呼ばれている点など、往時にはこの山中を修験者が飛び回り、経塚山、大日山、春埜山、大尾山などを経巡っていたのであろうことがわかる。それらの先には、火伏せの山、秋葉山が遠望できる。

戦時中には、武運長久を祈る近在の人々の信仰を集め、白光神社に祈願登山する人々も多かったと言われる。粗末な社に比べて境内の巨木林の素晴らしさは、過去の隆盛を示しているように思えた。

現在は時々登山者が訪れるだけの静かな神域である。
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八高山から家山まで

                         (八高山山頂)

3回目の登山のターゲットを八高山とした。今日は単独である。電車でと思ったが、いい電車がないので、女房に福用の駅まで送ってもらった。福用駅は駅前を塞ぐように桜の大木が立ち、花が5分咲きといったところであった。

登山道はいくつかあるが、最も距離が短い、駅から直ぐに西の山に直登する登山道を選んだ。麓の白光神社に手を合わせ、すぐに登山道に取り付いた。山頂までは約4kmである。

八高山は会社の山の会を作ったとき、最初に社内ハイキングを実施した山である。新金谷から大井川鉄道に団体で乗り、福用駅で降りて、あの時は南に回り込んだ登山道を登った。山の会の会員で臨時の道しるべを作るなど準備したことを思い出す。あれから二十数年、今も社内ハイキングは一度の中止もなく続いている。

最初は竹林の中を、すぐに植林された山道をかなり急登である。茶畑が現れ、檜林を抜けて登りつめた所で、気持の良い林間の平坦路になった。両手にストックを持って鈴やら何やら鳴り物入りでやってきた男性登山者とすれ違った。「馬王平はもうすぐですか」と聞くともうすぐだと言う。下界から正午のチャイムが聞こえてきた。すぐの馬王平まで、随分時間がかかった。

馬王平までは実は林道を通って車で来れる。写真を撮っていると老夫婦が自分と同じ道から馬王平に現れた。山頂まで残り900mの登山道に取り付いた。杉林で2、3度くしゃみが出た。老夫婦の影を下に感じながら登る。途中、静岡放送が日本平から浜松に電波を中継する反射鏡がある。昭和37年に出来たというから社内ハイキングの当時もあったようだ。

山頂の直下に白光神社がある。粗末な神社だか、取り囲む杉の巨木は豪華である。何年ぶりかで回りの木々が太くなったように感じた。山頂へはかつては神社の左手に回りこんだと記憶していたが、右に回りこむように登山道か変更されていた。

馬王平から上る途中で下山してくる20人ぐらいの登山者とあったが、八高山山頂(832m)には女性登山者が2人居り、追いついてきた老夫婦とで5人となった。老夫婦に聞くと同じ道を直登してきたという。「下山は家山まで歩いていくが、三時間位かかるだろうか」と聞いたが、途中から林道歩きになるというだけでよく判らないようだった。

食事を済ませ、来た方とは逆に北側に下山する。下りは急で昔、下山した時を思い出した。途中「天狗の座敷」という林間のピークを抜け、さらに急激に下った。その後、山腹に切られたわずかな登山道を延々と歩く。そして馬王平から八高山の東側の山腹に続いている林道に出た。それより家山駅まで約8km、林道をひたすら歩いた。
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柳行李の話

                     (故郷の名産、柳行李)

柳行李(やなぎごうり)といっても今の若い人には解らないであろう。タンスが普及するまでは衣料品などを入れておくケースであり、旅行カバンが出来る前はカバンの役割をし、ダンボール箱が出来るまでは小荷物の輸送の器であった。その他、バスケットタイプや弁当箱などに使う小さい物もある。この柳行李がかつては自分の故郷の特産品であった。

故郷の豊岡市を突っ切って流れる円山川の流域の湿った土地に、柳行李の原料となるコリヤナギがたくさん自生していた。柳の枝の柔軟さを利用し、その細枝を編みこんだ入れ物が柳行李である。編むときに使用する麻糸も、但馬麻苧(あさお)として名産地であった。また何よりも冬季は雪に閉ざされる農家にとって、柳行李の生産は冬季に屋内でできる絶好の副業であった。

柳行李は歴史を遡れば奈良時代まで遡ることが出来るという。古いことはとにかく、江戸時代には家内工業として生産をしていたが、1668年、京極高盛が丹後の宮津藩から豊岡藩に国替えになり、柳の栽培と杞柳製品の製造を奨励したことから大きく発展することになった。家の本家のご先祖はこの国替えの時に京極家に付いて、宮津から豊岡の地へやってきたといわれているけれども、これはまた別の話題である。

実家の一軒置いた南隣りが昔は倉庫で、そこには柳行李の材料になる柳の枝が束ねられて保管されていた。倉庫が一杯になるためか、倉庫の外の軒下にも置かれていることがよくあった。柳の枝の太さは子供の指ほどで、長さ3mほどある。皮がむかれ、白木のきれいな木肌が出ていた。

これが柳行李に加工されることなど子供たちは知る由もなかった。だから、子供たちの絶好の遊び道具となった。束の山に乗って遊び、束から何本か引き抜いて適当な長さに折り、チャンバラごっこもやった。

周りに切れ端が放置されていたと思うが、怒られたことは一度も無く、ましてや親に抗議にこられることなど無かった。子供たちも沢山の柳を掠めるようなことはしなかったと思うし、その位の目減りは計算に入っていたのであろう。

おおらかな時代の話である。
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古書をネットで購入した

                 (ネットで買った「大井川とその周辺」)

先週18日(土曜日)の午後、「みんくる(図書館)」に出かけて、一豊堤について調べたことはすでに書いた(3月19日書込み)が、あの時係員が出してくれた3冊の本のうち、浅井治平著「大井川とその周辺 -交通路の変遷と徒渉制-」という郷土史の本を、出来れば手に入れておきたいと思った。

浅井治平氏は金谷出身の明治24年生まれの地理学者で、何しろ40年ほど昔に出版された本である。手に入れるのは難しいかと思ったが、家に帰ってさっそくネットの「日本の古本屋」で検索してみた。たちまち10ヶ所ほどの古本屋からの本がリストで出てきた。値段は8,000円から1,500円までの違いがある。

値段の違いに驚きながら、もちろん、1,500円と値付けしている東京の古書店のものを注文した。その夜には、店から月曜日に代金引換で送本するとのメールが来た。そして、21日に郵送で送られてきて、代金を支払い受け取った。中二日しか経っていないのに、もう手に入れることが出来た。40年の時間を感じさせない美本であった。

便利になったものである。昔ならどうしても欲しければ、東京まで出向いて何軒も古書店を回って探すしかなかった。だから、ほとんど手に入れることを諦めていただろう。

21日に次兄が故郷の香りをのせてやって来た。東京に行く途中だといい、一晩泊まって行った。自分のブログに触発されて、ブログを立ち上げたいというので教えた。またその折りに着いたばかりの古書を見せて、古書の注文の仕方、ついでにe-honからの新本の注文の仕方も説明した。故郷はここより中央から離れているから、ネットをこんな風に利用するのは有効だと思う。

(追記)3月19日に一豊堤について、「右側の現在の大井川の堤防とは別に、外側に細い堤防がある。このどちらが一豊堤なのか判らない」と書いた。二つある内、どちらが一豊堤なのかという疑問を残した訳だが、昨日、女房が実家の父親に確認したところ、細い外側の堤が一豊堤だと聞いてきた。自分の思いとも一致して、納得できる話であった。
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茶業関係受賞祝賀会

               (茶業関係受賞祝賀会-挨拶は島田市長)

一昨日、島田の大井神社「宮美殿」で、島田茶振興協会主催の「茶業関係受賞祝賀会」という、この時期で今一つ理解しかねる会に来賓として出席した。

祝賀会は大井神社での祈願で始まった。なぜ祝賀会で神主さんまで煩わせて「祈願」なのか、依然として判らないまま会場に案内された。そして、演台の右側に下がっていた「第60回全国茶品評会決起大会」の垂れ幕にようやく納得した。

今年は「全国お茶祭り」が川根本町で開かれる。同時に行われる全国茶品評会に、
地元として優秀な成績を何としても収めなければならない。だからこのお茶時期の前に決起大会がやる必要があったのであろう。神主さんの祈願も必要なわけである。そんな訳で、会は決起大会色の濃い流れで進んで行った。

後の懇親会の席で、S茶農協のM組合長さんと話をした。自分の方からべにふうきの話と、マイリーフカップを話題にした。

何とか、各茶農家に負担にならないわずかづつでも、べにふうきを作ってもらえないだろうか。そして、お茶が一段落してから、一日を「べにふうきの日」として、組合員全員でべにふうきの摘採と製造を行えば、現在の設備のままで実施できる。べにふうきは、他のお茶と違って、お茶の芽を伸ばせるだけ伸ばした方がメチル化カテキンは多いというから。

花粉症患者の消費者側では、50gで1000円位の負担(一日100円)は覚悟している。中間のマージンをほどほどにして、是非生産農家に還元してほしいものである。一番茶の高いお茶が取れないべにふうきだから、全体を高く買って貰えないと、農家で作る意欲が湧いてこないなどと話した。

マイリーフカップの話も、是非お茶工場でこんな飲み方を試して貰いたい。出来ればそれに合うお茶を開発してもらえないかと話す。M組合長も、リーフ茶の消費拡大のために、もっといろいろなことを試した方がいい。茶工場でも婦人部に話をして、検討してみたいので、マイリーフカップ10本をほしいという話になった。

マイリーフカップもじわじわと話が広がっていく。
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