goo

「家忠日記 二」を読む 20

(東海道金谷宿大学教授委嘱状)

夜、金谷宿大学教授会で金谷庁舎に行く。教授委嘱状を頂き、いよいよ先生と呼ばれるようになる。古文書講座の学生は11名となり、スタートとしてはちょうどよい人数である。会議の中で、学部別に役員を選出することになり、12人の役員に選ばれた。半ば強引にではあるが、自分は学部の出席者では一番若いようなので、止むを得ず引き受けた。この会では年功序列とは逆で物事が決まるようだ。

「家忠日記 ニ」の解読を続ける。

 天正八年(1580)辰十一月
同十一日丁丑 堀普請候。
同十二日戊寅 橘ヶ谷普請候。

※ 橘ヶ谷(たちばながや)- 高天神城の搦め手から北へ続く谷。

橘ヶ谷は、まさに「高天神城際」と云える城直下の谷である。そこへ普請するということは、家康はいよいよ本腰を入れて、高天神城奪還に取り掛かるようだ。以下、年末までひたすら普請の記事が続く。

同十三日己卯 堀普請候。
同十四日庚辰 同普請候。
同十五日辛巳 巳刻より夜まで雨降り。同普請候。
同十六日壬午 申刻より雨降り。
同十七日癸未 同堀普請候。
同十八日甲申 同普請候。
同十九日乙酉 同普請候。
同廿日 丙戌 同普請候。
同廿一日丁亥 卯刻より未時まで雨降り。同普請候。
同廿二日戊子 同普請候。
同廿三日己丑 同普請候。
同廿四日庚寅 同普請候。
同廿五日辛卯 同普請候。
同廿六日壬辰 同普請候。鷹野へ出で候。
同廿七日癸巳 同普請候。鷹野へ出で候。
同廿八日甲午 同普請候。
同廿九日乙未 同普請候。


 天正八年(1580)辰十二月
 十二月大
一日  丙申 同普請候。
同二日 丁酉 同普請候。
同三日 戊戌 同普請候。
同四日 己亥 同普請候。
同五日 庚子 酒左陣所に火事出来候。宿普請候。
同六日 辛丑 石川伯耆陣所に火事出来候。塀普請候。


酒井、石川両陣屋に相次いで火事というのは、武田軍側の仕業であろうか。この普請場は高天神城に近くて、武田側には目障りなものであっただろうから、夜陰に紛れて放火があったのかもしれない。

同七日 壬寅 材普請候。
同八日 癸卯 未刻より酉刻まで雨降り。同普請候。
同九日 甲辰 堀普請候。
同十日 乙巳 未刻より雨降る。雪は夜なり。同普請候。
同十一日丙午 申刻まで雨降り。同普請候。
同十二日丁未 深溝より、酒井宗右衛門死に候由、申し来り候。
同十三日戊申 材普請候。
同十四日己酉 同普請候。
同十五日庚戌 萩原普請候。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家忠日記 二」を読む 19

(庭のシモクレン)

「家忠日記 ニ」の解読を続ける。

 天正八年(1580)辰十月
 十月大
一日  丁酉 山鷹へ出で候。
同二日 戊戌 
同三日 己亥 山鷹へ出で候。丹隼(丹羽隼人)越され候。
同四日 庚子 鳥屋(とや)にて、このり留り候。
※ このり - 大型のメスをはいたか。小型のオスをこのりと呼び分けた。

同五日 辛丑 
同六日 壬寅 午刻より夜まで雨降り。
同七日 癸卯 鳥屋(とや)にて、このり留り候。
同八日 甲辰 山鷹へ出で候。
同九日 乙巳 鶉(うずら)つきに出で候。
       来る十二日の陣触れ、吉田より‥‥越し候。
同十日 丙午 巳夕(昨夕)惣連歌候。   御
       植えて待つ 栂はひさしき 宿の松

同十一日丁未 
同十二日戊申 日駈けに浜松、出陣候。
同十三日己酉 城へ出仕候。初雪降る。
同十四日庚戌 小笠原孫六へふる舞いにて越し候。
同十五日辛亥 天野清兵(衛)へふる舞にて越し候。
同十六日壬子 土呂、犬公事済み候。
同十七日癸丑 鎌田まで出陣候。
同十八日甲寅 鎌田に逗留候。
       三州鳳来寺にて買い候、鹿毛の馬、引き候て、越し候。
※ 鹿毛(かげ)- 一般に茶褐色の毛を持つ馬のこと。最も一般的に見られる毛色である。

同十九日乙卯 大坂すかに陣取り候。
※ すか(州処) - 川岸・海岸の砂地や砂丘のこと。
同廿日 丙辰 柵の木、切り候。
同廿一日丁巳 同柵の木、切り候。
同廿二日戊午 高天神城際に陣を寄せ候。

この後の長い普請は、全てこの「高天神城際」の陣の普請である。この陣所がどこなのかは、この先で明らかになる。

同廿三日己未 夜雨降り。
同廿四日庚申 田方‥‥
       堀切り普請候。
同廿五日辛酉 塀普請候。
同廿六日壬戌 柵付け候。

同廿七日癸亥 家康よりはいたか給わり候。
同廿八日甲子 家康と馬伏塚へ馬を入れられ候。
同廿九日乙丑 酒左(酒井左衛門尉)ふる舞い候。
同晦日 丙寅 家康より兵粮給わり候。

 天正八年(1580)辰十一月
 霜月大(小の間違いと思われる)
同一日 丁卯 塀普請候。
同二日 戊辰 寅刻雨降り。
同三日 己巳 夜雨(よさめ)する。
       本田彦八(郎)へふる舞いにて越し候。
同四日 庚午 酒左(酒井左衛門尉)へふる舞いにて越し候。
同五日 辛未 
同六日 壬申 申刻より雨降り。堀普請候。
同七日 癸酉 巳刻まで雨降り。
同八日 甲戌 堀普請候。
同九日 乙亥 同普請候。
同十日 丙子 同普請候。酒左(酒井左衛門尉)国衆、ふる舞い候。
       未刻より雨、夜まで降る。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「丸尾翁頌徳碑」を読み解く その4

(諏訪原城東馬出発掘現場)

午前中、諏訪原城跡発掘調査現地説明会に出向く。今年度の発掘は二の曲輪の重馬出の一つである東馬出である。見学者には関西から駆け付けた人もいるようで、どの世界でもマニアには距離の要素は欠落しているようである。

今回の発掘箇所は旧東海道のすぐそばで、武田の時代から重要視されたようで、三つの馬出が重なっている。今回の東馬出は城の南東隅にある。堀は薬研堀で曲輪側の深さが7.5メートルあるという。発掘品に鉄砲玉が多く見られ、この辺りで戦いがあったことが想像される。諏訪原城の唯一の戦いは天正3年の家康軍により攻め落された戦いである。

今日は今年もっとも花粉が舞う量が多いようで、その中で山中を歩いたため、一日花粉症の症状が酷く、ティッシュが手放せなかった。

丸尾翁頌徳碑の解読を続ける。

民、無感に能わずして、君、官民の間に介し、上に朝旨を奉じ、下に達す。民情、枘鑿有るを免るゝ。県会議員として議長に進み、十数年、衆議院議員に選るゝ。同審、推し重ぬる毎に、部長として前後四年。
※ 朝旨(ちょうし)- 朝廷の意向。
※ 枘鑿(ぜいさく)- ほぞと、ほぞを受ける円い穴。(「枘鑿相容れず」は、二つの物事が、互いに食い違っていて合わないことのたとえ。)


君、学を好み、かつて投資し郷校を立て、また広く書籍を購い、見附文庫を建て、人の就読に便ず。また和歌を嗜(たしな)み、集蔵、家に有り。(明治)二十九年五月一日病歿距。生れ、天保三年八月享壽六十有五。北島氏に配(つれそ)い、四女を挙ぐ。男子無く、秋野氏の子、鎌三郎を養う。(鎌三郎は)長女を娶(めと)り、家を承く。
※ 郷校(きょうこう)- 江戸時代から明治の初年にかけて、藩士や庶民の教育のために各地に設けられた学校。
※ 歿距(ぼっきょ)- 歿去。死去。
※ 朔(ついたち)- 一日。
※ 享壽(きょうじゅ)- 天から享(う)けた壽数。つまり死んだ時の年令。享年。


明治丗二年十一月廿日 正二位勲一等子爵、榎本武揚題額拜撰文 旭宇新岡久頼書 藤田長利刻
※ 榎本武揚(えのもとたけあき)- 幕末の幕臣。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し、二年半投獄後、明治政府に仕えた。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任。
※ 旭宇新岡久頼 - 新岡旭宇。江戸時代末期・明治期の書家。弘前藩士である書家新岡九郎兵衛の子で、藩校稽古館で蘭学を修め、上田流書家工藤彦四郎に書法を学び、弘化四年(1847)に江戸に出て、寛永寺春性院に寄宿し、衆僧に書を教授した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「丸尾翁頌徳碑」を読み解く その3

(静岡、浅間神社楼門の扁額)

午前中、再度、静岡浅間神社に行く。碑文の3文字が読めずに確認のためである。碑の上部で、確認が難しかったが、判ってみれば何のことはない。「文六其通稱也」と読めた。

丸尾翁頌徳碑の解読を続ける。

天下にその名を知らざる者無き、天下にその名を知らざる者無き、それ前者の不忘、後者の師なり。この碑、ここに立つ人々、観て感じ、感じて継続を奮ず光前啓後を辞さずして、益々将(まさ)利国富民の図なり。ここにおいて、君、不死たるなり。乃ち、君の家世生平略叙し、併せて石に勒(きざ)ませしむ。
※ 奮ず(ふんず)- ふるい立つ。気力をふるう。
※ 光前啓後(こうぜんけいご)- 過去の栄光を継続し、それを発展させながら将来を開拓していくこと。
※ 利国富民(りこくふみん)- 国を利し民を富ますこと。
※ 家世(かせい)- 代々続いてきた家柄。また、その家の代々の人。
※ 生平(せいへい)- ひごろ。ふだん。平生。
※ 略叙(りゃくじょ)- 簡略に述べること。


君、諱(いみな)清謙。号、松斎。文六、その通称なり。その先、清和源氏に出で、天正年間、徳川氏に仕う、丸尾修理有り。小笠原氏守に隷(したが)い、高天神城以って、武田氏を禦(ふせ)ぐ。城陥(お)ち、死す節、子孫農に為る。数世以って君に及ぶ。君の父、曰う。「清」字、母水野氏に、君承(う)く。膝下を歓(よろこ)び、孝養を匪懈す。
※ 膝下(しっか)- ひざもと。自分を庇護してくれる人のもと。
※ 匪懈(ひかい)- 怠らないこと。


当家を壮んに及び、義に伏し、財賑を踈(うと)み、恤災を窮む。郷里、その度に頼る。また海陸運輸の利を興し、新道を開通し、数十里に亘る。地頭方埠頭を築き、汽船を購(あがな)い置く。
※ 財賑(ざいしん)- 財産が増えること。
※ 恤災(じゅっさい)- 災難にあった人々に金品を与えて見舞う。


車駕西巡、事上聞に達し、を下し、これを褒(ほ)むる。実に(明治)十一年十一月に在り。また政治に心を尽くす。封建に在るこの時、既にその横須賀藩を賛(たす)く。改まりて藩廃に及び、大小区長として、戸籍を査覈し、地租を改正し、以って教学(教育)の方、徴兵の制の事に至る。皆新しく創(はじ)む。
※ 車駕西巡(しゃがせいじゅん)- 明治天皇の西への行幸。
※ 上聞(じょうぶん)- 天皇や君主 の耳に入ること。
※ 詔(みことのり)- 天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。
※藩廃(はんはい)- 廃藩置県のこと。
※ 査覈(さかく)- 調査。


(丸尾翁頌徳碑の解読、続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「丸尾翁頌徳碑」を読み解く その2

(庭の鉢植えのクリスマスローズ)

図書館に一文字だけ調べに行った。偏(へん)に「血」旁(つくり)に「阝」、何という字か。「恤」の別字と判った。だから、読みは「じゅつ、あわれむ」、意味は「憂える。心配する。あわれむ。困っている人に金品を贈る。」次回で出てくる。もう少し詳しい漢和辞典を手に入れようかと思う。

丸尾翁頌徳碑の解読を続ける。

(けだ)し、君、下手にして斯業これを始めて、静岡茶業の隆旺、今日の如く致す。また実にこれに基づき云う。君、智深く勇沈にして、心細量宏公利に狥じ、国の志、天性に根ざす。身を挺し、敢えて盤錯に遇(あ)うごとに、その気、益々振い、不倦不沮、以って諸所区画を改め、成功せざる莫(な)し。
※ 隆旺(りゅうおう)- 盛んに栄えること。
※ 勇沈(ゆうちん)- 勇敢で沈着なこと。
※ 心細量宏(しんさいりょうこう)- 心細かく、度量が大きい事。
※ 公利(こうり)- 公共の利益。公益。
※ 天性(てんせい)-天から授けられた性質。また、生まれつきそのようであること。
※ 盤錯(ばんさく)- 「盤根錯節(ばんこんさくせつ)」の略。曲がりくねった根と、入り組んだ節。複雑で、処理や解決の困難な事柄。
※ 不倦不沮(ふけんふしょ)- うまず、くじけず。


明治十六年、神戸に製茶共進の会有り。当時、茶市の利大を以って、人、目前の小益に眩(くら)み、往々濫造者有リ。君久しくこれを憂い、乃(すなわ)ち、その期会を以って、全国茶業者のため、茶帮議立し、これを政府に白(もう)し、允(ゆる)しを得る。君、遂に日本茶葉組合中央会議長として推さるを見る。
※ 茶帮(ちゃばん)- 茶の同業者団体。
※ 議立(ぎりつ)- 会議をして設立する。


(そで)を以って、そのを得、また茶市の繁多、外人所のために壟断されるを慨す。海外直槽(船)の方を創(はじ)め、米国金山に肆(みせ)を設け、号して富士商社と曰う。勅賜藍綬の章を以って、勧業博覧会製茶共進会に及び、皆、頂等賞牌、褒状を以って遺(のこ)す。
※ 弊(へい)- よくない習慣。害。
※ 繁多(はんた)- 物事が非常に多いこと。用事が多く忙しいこと。
※ 壟断(ろうだん)- 利益や権利を独り占めにすること。
※ 慨す(がいす)- 嘆く。憂える。憤慨する。
※ 米国金山 - 米国サンフランシスコ。(正しくは、旧金山)
※ 勅賜(ちょくし)- 天皇からいただくという意味。
※ 藍綬の章(らんじゅのしょう)- 公衆の利益、公共の事業で事績著明な人に授与される褒章。
※ 頂等賞(ちょうとうしょう)- 最高賞。


(丸尾翁頌徳碑の解読、続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「丸尾翁頌徳碑」を読み解く その1

(静岡浅間神社の丸尾翁頌徳碑)

丸尾文六氏を顕彰する碑は、丸尾原水神宮に建つものを解読したが、その碑面で、もう一つ、榎本農商務大臣所撰の頌徳碑があることを知った。調べてみると、静岡浅間神社境内に五基ある内の一基がそれであった。丸尾原水神宮のものと較べると、かなり難解な文面であるが、解読してみる。

最初の碑の写真でほとんど文字の判読は出来たが、一部不明な所があり、今日再度浅間神社に行ってみた。戻って確認したが、まだ判明しない部分がある。見切り発車で解読を進めてみようと思う。

丸尾翁頌徳碑
海禁より既に、互市を除き盛行なり。我が邦の出口の貨、茶葉を以って大宗を為す。海外の人、その口吻を潤し、その胃腸を滋するもの、専ら我れを取りて我れ坐を得て、その利を収む。

※ 海禁(かいきん)- 中国、明・清時代の中国人の海外渡航と貿易を禁止制限する政策。ここでは、江戸時代の鎖国のことを示す。
※ 互市(ごし)- 互いに物を売買すること。貿易。交易。
※ 盛行(せいこう)- 盛んに行われること。
※ 大宗(たいそう)- 大部分。おおかた。
※ 口吻(こうふん)- 口先。口もと。


(にわ)か、米の庶、英法の富は、等外の府が後れて来たるを視る。我が邦のこれを確かに以って宇内に視るべき者、蓋し将にこれを資(たす)けん。余、かつて乏しきを承け、農商務大臣の力で、その業を獎(すす)む。則ち、静岡丸尾文六君の如く、安(いずく)んぞ、無祀にてこれを表わすべからんや。平況、県下に有る、有志諸子、これに碑石の文を請う。而して辞するを得べからざるなり。
※ 英法(えいほう)- 英国と仏国。
※ 等外(とうがい)- 等外官。明治初期の官制で、最下級の官吏。
※ 宇内(宇内)- 世界。
※ 平況(へいきょう)- 普通の状態。


君方、維新の初め、徳川氏、駿遠に移封の時、藩議、大井川渡船を許す。川原徒渉、旅客過ぐる者、概して津夫の背を頼む。輿を負い載せて、川の両岸にて資(たす)くを以って、生を為す者、百数家、一旦、船を用い、皆その業を失う。君、藩旨を請け、牧之原を墾(たがや)し、榛莾を披(ひら)き、硌确を除く。人、二反五畝の地を給い、茶を栽え尽くしむ。
※ 津夫(つふ)- ここでは、川越し人夫。
※ 榛莾(しんもう)- 草木が群がり茂っている所。また、群がり茂った草木。
※ 硌确(ろうかく)- 邪魔な岩石。


(丸尾翁頌徳碑の解読、続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家忠日記 二」を読む 18

(午後の自宅上空の層積雲)

午後、空を見ると、特徴的な雲に覆われていた。層積雲にも高積雲にも見える。

家忠さんは、毎日のように、夜昼なく空を眺めている。仕事がら天気が気になるからだろう。けれども、天気以外にも見えるものも多い。天正8年9月1日も箒星を見つけている。

「家忠日記 ニ」の解読を続ける。

 天正八年(1580)辰九月
 九月小
一日  戊辰 星光り長き箒星の小さき出で候。酉時より雨降り。
同二日 己巳 土用に入り。(今川)氏真衆、蒲原助五郎殿、越され候。
同三日 庚午 会下へ参り候。
同四日 辛未 

同五日 壬申 初めて今夜、水鳥着け候。
       土呂出田九三郎と浜松衆、左橋甚五郎犬公事にて、浜松へ人を下し候。
※ 左橋甚五郎 - 家康に警戒されて、逐電する。(鴎外の小説「佐橋甚五郎」)

同六日 癸酉 高野聖越され候。
※ 高野聖(こうやひじり)- 地方伝道のために、高野山から派遣された回国の僧。
同七日 甲戌 
同八日 乙亥 卯刻より巳時まで雨降り。
同九日 丙子 岡崎三城坊越され候。
同十日 丁丑 卯刻より巳時まで雨降り。

同十一日戊寅 夜雨する。祈祷候。鳥屋にてはいたか留り候。
※ 鳥屋(とや)- タカの羽が夏の末ごろから抜けて、冬までに生えかわること。その時機に、鳥小屋に籠るところからいう。
同十二日己卯 
同十三日庚辰 
同十四日辛巳 申刻より夜まで雨降り。

同十五日壬午 大坊に月次連歌候。
       庭の色 時雨(しぐれ)て山や うす紅葉
同十六日癸未 
同十七日甲申 ‥‥
       林にて水鳥着き候。

同十八日乙酉 卯刻雨、夜まで降る。
       吉田左衛門尉所より、来る廿二日に、
       浜松まで陣立て候えの由、申し来り候。
同十九日丙戌 鳥屋(とや)にて、またはいたかうで候。
同廿日 丁亥 吉田左衛門尉所より、来る廿二日の陣、延び候由、申し来り候。
同廿一日戊子 三光院じゅえんふる舞い候。
同廿二日己丑 

同廿三日庚寅 水野惣兵衛殿、刈谷へ領、上様(信長)より下され候て、入城候。
       普請に人を遣し候。
※ 水野惣兵衛 - 織豊時代の武将。水野忠政の九男。徳川家康の家臣。天正8年、織田信長に属し、兄水野信元の旧領、三河刈谷城を与えられた。のち秀吉家臣をへて家康に帰属。

同廿四日辛卯 点取の誂諧の発句。
       折る袖の 藁も朽ち葉の 袷(あわせ)  家忠
※ 誂諧(ちょうかい)- 俳諧の連歌のこと。点数を付ける連歌の会。
同廿五日壬辰 
同廿六日癸巳 

同廿七日甲午 九月尽しの連歌候。
       発句          勘解由
       やもる 移ろわぬ筆は 井垣かな
※ やもる - 静める。
※ 井垣(いがき)- 鳥居などについている、「井」の字形の垣。


同廿八日乙未 酉刻より雨降り。
       上坂と云う連歌士、岡崎山岡半左にて興行。
       紅葉して 藤が名を変えよ 初さくら  上坂
同廿九日丙申 申刻まで雨降り。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家忠日記 二」を読む 17

(K氏のお母さんの短冊)

K氏のお母さんの葬式に参列した。葬場の後ろに、故人の俳句の短冊が10数枚並んでいた。故人の趣味だったようだ。句は素直な写生句が多かった。「老」「病」の翳りが一切見えなかった。

「家忠日記 ニ」の解読を続ける。

 天正八年(1580)辰八月
 八月大
同一日 戊戌 未時まで雨降り。
       ‥‥中衆、礼に越され候。
同二日 己亥 
同三日 庚子 夜より雨降り。丹隼(丹羽隼人)越され候。
同四日 辛丑 同雨降り。竹谷備後守所より、明日夕食に越し候えし由、申し来り候。
同五日 壬寅 竹の谷越し候事、雨降りにて延べ候。
同六日 癸卯 丑刻まで雨降り。竹の谷へ礼に越し候。
       幸、舞いに越し候。
同七日 甲辰 彼岸に入り。
       舞い候。志多、巻狩り、堀河夜討、已上三番。
       岡崎信光坊越され候。
       大坂は二日に地やき(?)にて船にてのき候由候。


摂津国大坂の石山本願寺教如は、信長に攻められて、落城はしなかったが、八月二日、石山本願寺を退去して、紀伊国雑賀へ下向した。信長方は石山本願寺を接収するも、本願寺はこの日、悉く焼亡した。上記の一行はこのことを示す。

同八日 乙巳 会下へ参り候。
       勘太夫越し候て舞い候。静、四国落ち、清重、以上三番。
同九日 丙午 風間のうち吹く、こち(東風)大風。巳時より夜まで雨降り。
同十日 丁未 
同十一日戊申 
同十二日己酉 鼓(つづみ)稽古候。
同十三日庚戌 松(平)与五左衛門所に、月次の連歌候。
                 亭主、各たい正作
       ‥‥‥面影近し 夜半(よわ)の月
同十四日辛亥 
同十五日壬子 会下へ参り候。

同十六日癸丑 相州氏政より、十四日に浜松へ、小笠原殿が使いに越され候。
※ 相州氏政 - 北条氏政。後北条氏の第四代当主。天正七年(1579)に三河の徳川家康と同盟を結び、駿河の武田領国を挟撃する。

同十七日甲寅 夜より雨降り、夜まで降る。
同十八日乙卯 夜雨降る。池野有助越され候。
同十九日丙辰 有助振舞い候。申刻より雨降り。
同廿日 丁巳 酉刻まで雨降り。
同廿一日戊午 会下へ参り候。
同廿二日己未 
同廿三日庚申 点取りの連歌、発句我ら作。
       先敷きて 時雨をのする 木の葉かな

同廿四日辛酉 夜より雨降り。
同廿五日壬戌 同雨降り。
同廿六日癸亥 卯刻まで雨降り。
同廿七日甲子 
同廿八日乙丑 夜雨する。
同廿九日丙寅 
同晦日 丁卯 日待ち候。點取りの連歌候。

  
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家忠日記 二」を読む 16

(土手でカラシナが咲き出した)

K氏のお母さんが亡くなり、今夜、お通夜に出席した。K氏の御両親は自分の仲人親であった。亡くなった日はK氏のお父さんの命日だったと云うから、きっとお父さんに呼ばれたのだろうと、K氏とは話した。懐かしい人の顔々に会った。

「家忠日記 ニ」の解読を続ける。

 天正八年(1580)辰六月
同廿七日乙丑 雨乞いの連歌の、一昨日発句、
       雨に増す 流れ涼しき 宮居かな  勘左作
同廿八日丙寅 未刻より雨降り。
同廿九日丁卯 雨こいの連歌、‥‥時まで雨降り。中嶋堤切れ候。
同晦日 戊辰 卯刻雨、夜まで降る。


雨乞いの連歌の御利益が有り過ぎて、大雨で堤が切れる。堤の補修は家忠の配下たちの得意とするところで、川が治まったら、早速、工事を始めることになる。

 天正八年(1580)辰七月
 七月小
同一日 己巳 会下へ参り候。
同二日 庚午 
同三日 辛未 
同四日 壬申 
同五日 癸酉 
同六日 甲戌 

七日 乙亥 午刻より酉時まで夕立する。会下まいり候。
同八日 丙子 未、申刻雨降り。中嶋へ堤築(つ)かせに越し候。
同九日 丁丑 堤築かせ候。
同十日 戊寅 堤築かせ候て、深溝帰り候。
同十一日己卯 亥刻に雨降り。松平九七郎所に月次連歌、発句正佐作    
       夕露の 月を散すな 藤の風   亭主

同十二日庚辰 
同十三日辛巳 
同十四日壬午 ‥‥施餓鬼にて。
       ‥‥所より来る十七日に‥‥立候由、申し来り候。
同十五日癸未 施餓鬼候。
同十六日甲申 

同十七日乙酉 辰時雨降り。二川まで出陣候。
同十八日丙戌 夜雨降り、かみなり。
       浜松まで出陣候。城へ出仕候。
       松平玄蕃所にふる舞い候。
同十九日丁亥 見付まで出陣候。
同廿日 戊子 家康懸河まで越され候。
       国衆懸河山口まで越し候。

同廿一日己丑 井籠(色尾)崎へ川原陣取なり。
同廿二日庚寅 刈田押さえ、小山筋働き候。手前。手負い二人候。
同廿三日辛卯 石川伯耆、田中筋へ働き候。酒左衆は休みなり。
同廿四日壬辰 刈田働きに越し候。小山筋、刈田押さえ。
       本田平八郎衆、小山が前にて、鑓にて三人討たれ候。
同廿五日癸巳 小山筋へ働き候。

同廿六日甲午 夜より未刻まで雨降り。各帰陣候。家康公懸河まで御帰陣候。
同廿七日乙未 家康、各(おのおの)浜松まで帰陣候。
       国衆、侍陣番、無沙汰有るまじきの起證文有り。
同廿八日丙申 小松原へまいり候て、吉田まで帰り候。
同廿九日丁酉 午未刻雨降り。深溝まで帰陣候。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「家忠日記 二」を読む 15

(雨に緑が増した庭の山苔)

朝からの雨で、庭の苔から緑が見える。この苔、30年ほど前、苔庭を思い描いて、山から取ってきて張り付けたもの。苔庭には程遠いけれど、一進一退を繰り返しながら、我が家の庭に今も根付いている。

今朝、駿河古文書会のONさんから電話を頂き、昨日の難読な課題をよく解読されたと御褒めの言葉を頂いた。諸先生方に助力を頂いて、何とか発表出来たと認識している身にとって、過分の言葉であったが、褒められて伸びるタイプだから、先輩の言葉を有難く拝聴した。

午後、金谷宿の「古文書に親しむ」に出席した。次年度、継続して学生として残ってくれる方が、9人と聞いた。まずは一安心である。夜、一年分のテキスト(B4/62枚)を取り敢えず10部コピーした。

「家忠日記 ニ」の解読を續ける。

 天正八年(1580)辰六月
同十一日己酉 高天神取出(砦)場、獅子の鼻、陣取り候。
同十二日庚戌 取出普請候。
同十三日辛亥 同普請候。
同十四日壬子 寅刻夕立有り。
       同普請候。家康より肴給り候。

同十五日癸丑 月食。乾の時会見。同普請候。
       北に星合いなり。子刻は星合い、南へまわる。

※ 星合い(ほしあい)- 陰暦七月七日の夜,牽牛・織女の二つの星が出合うこと。たなばた。

ここでも、月食の記事。また、この日は十五夜だが、月食になったから、星合いが見えたということなのか。北から南へ回るというのも、解せない。

同十六日甲寅 同普請候。家康より、ふり給い候。
※ ふり - ここでは、褒美としての「ふり」だから、「一振りの刀」のことを示す。

同十七日乙卯 取出(獅子の鼻)普請出来候。
       高天神、祢小家放火働き候て、家中ども二人手負い候。
※ 祢小家(ねごや)- 父親のみたまや。ここでは、信玄公を祀った霊廟か。

同十八日丙辰 稲なき働き候て、三河衆浜松まで帰陣候。
※ 稲なき働き - 戦利品として、稲が獲得できなかったということか? 無駄な働き。

同十九日丁巳 深溝まで帰陣候。
同廿日 戊午 
同廿一日己未 会下へ参り候。
       松平玄蕃殿、廿日、相州より帰られ候由、申し来り候。
同廿二日庚申 
同廿三日辛酉 
同廿四日壬戌 
同廿五日癸亥 家康小姓衆、浜松にて、大須賀弥吉、先度、高天神の働き、
       御法度に背かれ候とて、腹を御切りと候。

同廿六日甲子 松平玄蕃所より、伊豆、事訳越し候。
       米善‥‥越し候。

※ 事訳(ことわけ)- 事の次第。わけ。事情。ここでは、「腹を切った理由」

この「事訳」の内容はどこにも書かれていないけれども、戦には無関係な「祢小家」に放火したのが、御法度に背くことだったのだろう。しかも、それが信玄公の霊廟だとしたら、家康の逆鱗に触れたかもしれない。

ネットで探してみると、大須賀弥吉については、この2年前の天正6年に、高天神攻略で抜け駆け行為をしたため、家康の逆鱗に触れて、切腹を申しつけられたという話が載っていた。家忠日記の方が信憑性が高いと思うが、理由は「祢小家」への放火ではなくて、やはり、軍令を待たずに抜け駆けをしたことだったのだろう。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ