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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(5)

(家山川の河川敷の大聖牛の原寸大見本)

この土曜日、今月の「古文書に親しむ(経験者)」講座で、川除けの文書を解読する。講座終了後、古文書に出て来る大聖牛(おおひじりうし)などの原寸大の見本が展示されていると聞いた家山川河川敷に、皆んなで行ってみようと思った。自分も行ったことが無いので、見学に足るかどうか、午後、下見に行ってみた。あるにはあったが、大聖牛、一基だけで、わざわざ見学するほどのものでもなかったので、見学は止めにしようと思った。見学会は出来れば、別のテーマで改めて実施したい。

古稀同窓会の続きである。随分だらだらと書いてしまった。今日で終わりにしようと思う。

二次会も終って、部屋に戻った。ホテル案内図で温泉があるのを見付け、出掛けた。無色透明の食塩泉で、癖のない温泉であった。露天湯にも浸かって上がった。部屋は古希の男5人で、さぞやいびきの大合唱と思ったが、信じられないほど静かであった。これは奇跡だと思った。もっとも、その中には、自分のいびきはかいていたとしても入っていない。

昨夜、U氏が、まだ由利氏のお墓に参っていないというので、朝、一緒に参ることにした。バイキングの朝食後、ロビーで待っていたが、中々降りて来ない。

待つ間に、同窓会には欠席だった、大阪のK氏へ電話をしてみた。昨夜、誰に聞いても、全く音信が無く、年賀状も帰ってこないから、最近の様子を知る人はなかった。一度三途の川端まで行ってきたK氏だから、元気にしているかどうか、心配であった。電話口に本人が出て来て、元気そうな声に安心した。同窓会に出るかどうか迷っているうちに、返事の期限が過ぎてしまったようだ。自分が出席と決めた時、電話をすれば良かったと思う。

この頃、乗鞍に登ってきたと話す。乗鞍はほとんど車で登れるけれども、駐車場から山頂まで、2時間ほどかかり、けっこう大変だっただろうと、自分の経験から話す。さらに、近く氷ノ山に登る。山仲間が居て、計画はお任せで、ついて行くだけだ。音信がないから、皆んなどうしているか心配していたよ。そろそろ年賀状を再開した方が良いかなぁ。近いうちに京都辺りで会おうと約して、電話を切った。

随分待たされて、U氏と由利氏のお墓に参った。K氏と電話をした話をすると、京都へはよく来るから、皆んなで逢いたいという。U氏が京都に出て来る時に、後、何人かに連絡を取って、ミニ同窓会をしようかと思った。結局音頭は自分が取るしかないか。(古稀同窓会の話は以上である)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(4)

(散歩道のキダチチョウセンアサガオ)

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。今日のテーマは「高天神城・馬伏城と長浜城・三枚橋城 -駿遠と甲相の戦国史-」。講座の中で、講師から頼まれて、解読した「今川氏真誓状」(9月12日書き込み)が桶狭間後の今川氏の状況を説明する資料として使われた。その際に、解読者として名前を挙げられて、恐縮した。講座については後日触れる。

古稀同窓会の続きである。

二次会の席は、フリーになった。色々な人と話したと思うが、S氏とは、印象的な再会だった。仲が良かったのは小学校の頃で、小学校のそばの豆腐屋さんであった。向うから氏名を述べて声を掛けてくれたから、すぐに解った。家が近くだったこともあり、よく一緒に遊んだと記憶している。その後、接点は無かったが、子供の頃の遊び仲間として、フルネームが浮かぶのは、S氏以外には数人である。聞けば、高校卒業後、故郷出身の実業家の家で、もう一人と、書生をしていたという。明治に世ではなかろうに、虚を突かれた思いである。その実業家はそんな形で若者の学業支援をしていたのだろう。その後、市役所に永年勤めていたという。

M氏は当地の金融機関の要職にあり、未だに第一線にいるという。息子はまだ30代で引き継げないから頑張っているのだろう。自分も長く企業の資金担当だったから、金融機関の実態はよく知っている。話を合わせようと、若い頃は金融機関の宿直室で、麻雀など囲んだものだが、今では考えられないと、話を向けたが、少し話が生々しくて敬遠したようで、会話は弾まず、席を移って行った。後に遠目で見れば、両側へ女性陣(もちろん古稀)を抱え込むように話し込んでいた。まだまだ現役で、古稀になっても枯れる境地には至らず、日々ピリピリするような激務に身を削っているのであろう。

自営業の人は自分が線を引かない限り、仕事に切りがつけられない。その点、サラリーマンは年齢が来ると、きっちりと職場から退場命令が出るから、否応なく第二の人生に踏み込める。第一線のままゴールを迎えてしまったり、老いてから陥穽にはまり、晩節を汚す人を見ていると、早く引退していれば、かような困苦を受けることもなかっただろうと思う。

城崎のM氏はこのブログの熱心な読者でもある。何年か前に首の筋が骨化するという、症例がほとんどない珍しい病気に罹り、手術を受けて、後遺症もないけれども、モルモットとして医者が手離してくれず、今も年に一回、術後の経緯を観察されていると話した。M氏とは、クラスが一緒だったこともなく、どんなきっかけで親しくなったのか、忘れてしまったが、付き合いの中で、そんな話は初めて聞いた。

Kさんとは最後になってお話した。名前は母や兄からいつも聞いていたが、初めてですねというと、姪の結婚式でお話したという。後で確認すれば、花婿の叔母さんで、顔を合わせていた。あの結婚式は、全国展開のレストランチェーンの社長さんやら、但馬の作家などが参列して、度肝を抜かれたことはよく覚えているが、Kさんと話したことは上の空だったのか、記憶していなかった。失礼を誤って、近況を話した。
(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(3)

(散歩道のキバナコスモス)

午後、駿河古文書会に出席する。若き古書店主T氏が、久し振りに出席された。この夏は多忙を極めたが、漸く余裕が出来たので、近いうちに連絡するとの話。掛川で、珍しい武家の古文書が新たに手に入ったと聞く。駿河古文書会では、最近は知り合いがたくさん出来て、数えてみると、今日は9人の人と、挨拶だけではない実の有る話をした。これは自分にとって凄いことである。初めのころは、出席しても、誰とも話すことなく帰ることも珍しくなかったのだから。

古稀同窓会の続きである。

テーブルは一年の時のクラス別に分けられた。50人の9クラスで、一年次はまだ進路別のクラスではなかった。一年の時、何ホームで、担任が誰であったかも覚えていなかった。9ホームで担任はU先生、U氏の御母堂だった。テーブルを囲んだ人の、誰をも認識できなかった。今浦島の危機だった。それぞれ、こちらについては知っている風で、それらしい視線を向けて来る。ピンチだった。

テーブルの向いに居たY氏が一年の文化祭の話をし始めた。文化祭ではクラスごとにテーマを出して、審査に残れば、教室に展示して発表できる。自分たちのクラスは、「深海」を取り上げた。「人々の眼が宇宙に向いている現代、地球の一部でありながら、看過されている「深海」に目を向けてみよう。」コンセプトは良かったのだろう、見事に選ばれて、教室内に深海の様子を実現することになった。しかし、結果は散々だった。

半世紀経った現代でこそ、深海の様子は随分と分って来たけれども、人々の関心が向いていないということは、参考にすべき資料も極端に少ないということで、そこに気付いていなかった。海は真っ暗で、アンコウのような魚がちらほらといる、その程度の情報で、デコレーションしたのだから、結果は明らかであった。暗幕で囲い、作り物の海底生物を並べてみたが、何だか訳が分からなかった。いったい誰の発案だったのだろう。自分も良いテーマだと思ったのだが。

Y氏は、今日欠席のK氏(自分の小学校の頃からの友人)の家で、紙粘土などを作ったと語る。自分はクラブの展示にかまけて、9ホームの展示にはほとんど出なかった。色々思い出してきたが、このテーブルでの思い出話はそれだけであった。

舞台では、U氏の乾杯前の小スピーチに始まり、お土産抽選会、ホーム別のコーラスなどが進んでいた。トイレに立ったのを機会に、招月庭の厨房に勤める甥のK君に、厨房が一段落してからで良いから、顔を見せてほしいと伝言を頼んだ。中締め前に、K君が顔を出し、明朝の約束をした。
(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(2)

(台風一過、秋の夕空)

古稀同窓会の続きである。

城崎温泉駅頭から、送迎バスで、招月庭に向かう。大谿川に沿って遡った、町の一番奥に招月庭はあった。受付で部屋割りを教えられ、先に荷物を置いて来ようと、ホテルはどこかと聞けば、怪訝な顔で、「そのエレベーターで5階です。案内しますか?」と聞く。宿泊は近くのビジネスホテルとばかり思っていたので、そんな質問になったのだが、後で案内状を見直すと、どうやら一人部屋を希望する人だけ、ビジネスホテルに直接交渉するようにとの但し書きであった。他の人は招月庭の階上にある和室の部屋に泊れるらしい。案内状の記述で勘違いをしていた。

ロビーにはそれらしい人たちがたむろしていたが、案の定、知らない人に囲まれた感じであった。呼び掛けて、自分の名前を言う人がいるけれども、名前を聞いても、イメージが湧かない。同じクラスでも、何か印象的なイベントが無ければ、記憶に残っていない。今浦島は、ほとんどが自分の所為なのだろうと思う。高校時代の日々、何を考えて日々をおくっていたのか。一握りの友人とつるみ、他のクラス仲間には、ほとんど興味を向けていなかったように思う。

U氏がいた。ソファに座って話している姿が、カメラのピントが合うように、記憶にピントが合った。T大に進んで、そこの数学の教授になった。頭が少し薄くなった程度で、雰囲気は昔と変わらない。高校時代、ライバル視していたが、どうしても勝てなかった。範囲の決まったテストであれば、何とかなったが、実力テストでは届かなかった。飄々と話す姿は、昔と変わらないけれども、昔の方がシャープだったように思う。

同窓会が始まり、その最初に物故者の最終クラスと名前が読み上げられた。そしてみんなで黙祷を行なった。同窓会では当然ながら、相手の年齢に触れる必要が一切ない。しかし、物故者たちの時間は、死んだ時の年令で止まっている。450人の学年で40数人、70歳で一割は多い方なのだろうか。

若くして死んだ山口氏、死に顔が悔しそうだったなぁ。由利氏も50代初めでは心残りだっただろう。八街の少年院の副所長で、次の転勤時には所長が約束されていたという。葬式に出た同級生は自分一人だった。彼との往復書簡は今もどこかに残っている。長岡氏は女子大生に囲まれた写真を自慢げに話して、男どもをうらやましがらせていた。青山氏は高校時代、突っ張っていたが、自分とは素直に付き合ってくれていた。岩本氏はキャリア官僚になったばかりに、命を縮めたのだろう。医者嫌いで、最後はほとんど医療ミスに近い形で死んだ、本家の務君の名前もあった。

名前の読み上げとともに、様々な思いがよみがえった。良い奴から先に死ぬように感じるのは、彼らの時間がそこで止まっているからであろう。死者たちとの同窓会が出来れば、必ず出席するのだが。(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(1)

(同窓会のために用意した名刺 / 裏面)

台風18号が今夜日本海側を通るという。夕方、雨が降りそうだと、少し早めに、ムサシの散歩にでた。散歩の間は天気は持つだろうと、傘も持たずに行く。途中で大粒の雨になり、茶工場の軒下を借りて雨宿りをしたが、茶工場に生葉を納める農家の軽トラが来て、邪魔になりそうだったので、雨の中を家へ急いで帰った。玄関に傘を持った女房がいて、「雨宿りをしておれば、迎えに行ったのに。ムサシがびしょ濡れだ」という。本来、第一声では、こちらの心配をすべきだろう。ムサシはぶるっと振えば、雨は飛ぶ。

この日曜日、高校の古稀同窓会に出席した。その話を少し書こうと思う。

故郷を離れてから半世紀、会場で、今浦島状態になっては辛いと思った。だから、今日のために、息子に頼んで、名刺を作ってもらった。特に裏面に、今、何に興味を持っているのかを書き、それを話題にしようと思った。話題をつかんでしまえば、こちらのものである。そのメインは、70歳にもなって、初めて人を教える立場になった話。今年から「教授」と呼ばれるようになった。金谷宿大学で講座を持っただけのことであるが、たぶん「つかみ」はこれでいける。

京都で山陰線に乗り換える。目的地と時間が一緒だから、ひょっとして、特急で、同級生に会うかもしれないという期待はあった。一人旅も嫌いではないが、時間の過ぎるのが遅い。それとなく周囲に見ながら、山陰線ホームに向った。最初の待合室に、同級生、小学校のN学級でも一緒だった、顔なじみのGさん(女性)が見えた。向うもすぐに気付いたようで、待合室に入った。

名刺を渡す最初がそのGさんということになった。すんなりと会話に移行出来た。特急電車に乗り、引続きお互いに近況を話した。「四国お遍路まんだら ふたたび」も、持参した一冊を渡した。Gさんの場合は、名刺がなくても会話は出来たはずで、名刺の効果は同窓会会場まで持ち越しである。

案の定、あっという間に一時間が過ぎた。福知山駅で乗車してきた中に、同級生と思われる女性がいた。Gさんはよく知っているようで、挨拶している。隣り席をその女性に譲って、通路を隔てた隣に席を移した。記憶をたどって、たぶんTさんだろうと思ったが、50年のギャップに、もし間違っていてはと思い、口を閉ざし、聞き耳を立てた。「R寺の‥‥」と故郷の旦那寺の名前が出た。「Tさん!」県境を隔てた隣町から籍をR寺に移しての、越境入学であった。学区が厳格に決められていた当時には、よくあったことである。

Tさんとは、卒業後、一度故郷の駅でばったり会い、京都まで汽車旅をしたことがある。話すと、Tさんも覚えていた。当時、どんなことを話したのか、記憶に無いが、色が黒くて丸顔(失礼、当時の記憶にあったイメージである)と思っていたから、随分イメージが違った。「もっと丸顔の印象があったもので」と、印象の片方だけを、すぐに気付かなかった言い訳に使った。(つづく)
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20数年前の山行を写した8ミリビデオ

(DVDで届いた、20数年前の山行のビデオ)

一昨日、島田在住のK氏から久し振りに電話があった。K氏はかつて会社の山の会で登山をした仲間である。大学の四年後輩でもある。古い8ミリビデオのテープがたくさん残っていて、このまま置くと劣化して駄目になるので、最近DVDに落とした。その中で私がパーティに入っているものだけをまとめたので、近いうちに届けるという。そんなビデオがあること自体、記憶になかったので、大変楽しみであった。

今日、午後、そのDVDを持ってきてくれた。DVDを頂いたあと、しばらく話した。近況を聞けば、仕事は止めてもう年金生活に入っているという。山行は、もっぱら近くのおなじみの薮山ばかりを、時々登っているという。一年ちょっと前に、耳の炎症で入院していたと聞いたが、退院してきた去年の春に花粉症らしき症状が出て、今年もまた同じ症状だから、花粉症のようだと話す。それじゃあ、いよいよ花粉症デビューだねぇ、と仲間が増えたと自分の声が弾んでいた。

古文書解読の講座を受講して、5年目になるが、けっこう楽しいという話をした。庶民の感覚は時代が変わっても変わらないようで、江戸時代の庶民も、我々と似たようなことを考え、日々の暮らしをしていたのだと知れる。こんなことは、歴史の教科書では決して教えてくれなかったことである。

そんな持論を話したあと、そういえば、専門は国語(国文学)だったのだから、古文書を勉強すればよい。現在、金谷宿大学の今年度の募集をしているからと、お節介とは思ったが、手元に一部余分にあった募集要項を渡した。

最近はほとんど本も読んでいないというから、島田図書館も新しくなったし、図書館から借りればよい。本はけっこう値が張るから、年金生活者は、ほいほい買うわけにはいかないし、買うと本が嵩張って大変だから、自分は今はもっぱら図書館から借りている。ネットで予約すれば、市内の他の図書館の本も借りられるなどと話した。

夜、DVDを映してみた。元が8ミリビデオで、今のビデオと比べれば画質は極端に悪い。ピンボケに近い所もある。山行中に撮ったから、画面がぐらぐらして落ち着いていない。8ミリビデオの画面を今のテレビに映すと横へ広くなり、皆んなやや太り気味に映る。そんなこんな、問題は多いけれども、懐かしい映像が次々に出て、目が釘付けになった。20数年前には、皆んな若い。自分も髪も黒々とたわわにある。

ビデオが回せるときが、休憩時間が多いためであろうが、映像で見る限り、飲み食いしているシーンばかり目立つ。山へ行くと食べてばかりに見えるが、山行を終えて体重を量ったら、山行前よりも何キロか増えていたという猛者もいたから、良く食べていたことは確かである。それにしても、自分はいつ見ても草臥れ果てたという顔をしている。実際、山頂に立っても、しばらくは口も聞けないほどに、体力を消耗した、そんな記憶が多い。

今日は一部分を見ただけだが、昔を懐かしむ貴重な時間をいただけたと、K氏に感謝であった。
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駿河古文書会、初発表の日

(花鳥園の花々)

駿河古文書会の初発表の日を前にして、思った以上にプレッシャーを感じていた。会社を退職して一年半、この間、例え30人足らずとは言え、人前で話す機会は皆無であったから、10日ほど前から少しづつ気になって、時間があると頭の中でシミュレーションしている自分がいた。人前に立ってしまえば、どうという事はないと思うのであるが、この一年半のブランクは大きい。はたして40分も間が持つのであろうか。

そして当日が来た。話し始めてみれば、口が勝手に動いてくれる。自分で自分の話しっぷりは聞けないから、何とも判断できないのだけれども、自分としてはけっこう落ち着いて話せたのではないかと思う。

翻字した文書を一通り読んだあと、皆さんに意見を出して頂いたが、色々な方から読み方について、貴重なご指摘をいただき、いつもの講座以上に大変勉強になった。初発表ということで、皆さんの意見が大変暖かく感じた。

初発表を終えて、恒例の拍手のあと、あちこちからご苦労さんの声をいただき、満足感を持って会場を後にした。しばらくは、こんなプレッシャーの掛かることはないだろうが、プレッシャーを乗り越えたときに感じる達成感は悪くない。

駿河古文書会に入会して二年半、この頃ようやく色々な人とお話出来るようになってきた。皆さんが近世古文書の解読に一生懸命だという事がよく判る。頭から古文書が離れない人たちばかりで、いつも会の前など、開始直前まで古文書の情報交換に余念がない。

この日は懇親会でお話したOさんから、御先祖の「梅さんの旅日記」という自費出版本を貸していただいた。手元にはそれ一冊しか残っていないという、貴重な本で、部分的にコピーを取らせていただき、次回に返そうと思う。

呉服町の文具商のOさんは、このブログを熱心に読んでいただいているようで、花鳥園に行ったことまで知られていた。4月8日、掛川の法泉寺では花祭りで、大きな寝釈迦の図があって見せてもらえるという情報を頂いた。住職とは茶道の方で知り合いだそうだ。また、掛川でたくさんの古文書を所持している旧家の方がいて、一度見に行こうと勧めてくれる。発表前で気がそぞろで、しっかりとご返事したかどうか、不確かである。

その時の話で、大学の調査でよく古文書を調査に来るけれども、調べてくれても、しっかりと翻字してくれるわけではなく、かき回して、貴重な文書だけ持って行ってしまい、無くなっているのに、後から気付くことが度々ある。調査に来る話を聞くと、気を付けるようにアドバイスをする、などと聞いた。

人生の終盤になって増えた付き合いだから、これから大切にして行きたいと思う。
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駿河古文書会懇親会

(大代川土手のエドヒガンがピンクに染まる)

昨夜から未明に掛けて風雨が激しく雨戸を打ったが、今朝は一転してすっかり春めいて、気温もぐんぐん上がった。朝早く目が覚めて、10時に起きるまでに、本を一冊読んでしまった。昨夜あたりから、喉がいがらっぽくて、風邪の前兆かと用心している。3人の孫が同居中だから、風邪を引くわけにはいかない。朝夕のうがいを念入りに行った。

まーくんの幼稚園が春休みになって、朝から家の中であっくんと二人で大騒ぎで、午後からは和室に避難し、本を読みかけたのだが、3ページと持たずに寝てしまった。今朝の足らなかった睡眠を補うように爆睡し、起こされたのが5時であった。ムサシが夕方の散歩を待っていた。外へ出ると、まだ山の端に夕日は没していなかった。大代川土手の一本桜(エドヒガン)がピンク色に染まっていた。

   *    *    *    *    *    *    *

先週の金曜日、駿河古文書会は会長講演の後、懇親会があった。会場をハートピア魚磯に移して20数人の参加で親交を深めた。川崎会長は大学の謝恩会で欠席となった。そんな季節である。

隣席のOさんは入会7年目で、元は掛川に住んでいて、現在は清水に在住だと聞く。掛川の家には誰も読まない古文書があって、読んでみたいと思ったのが古文書の勉強のきっかけであった。その後、女性のご先祖が59歳で旅をした記録を解読して、本にまとめて出版した。皆さんにもお配りして読んでいただいた。現在は男性の西国三十三観音霊場の巡礼記録を解読している。今回は西国三十三観音を自分でも歩いて、一冊にまとめようとしていると話す。

59歳のご先祖の旅記録を読んでみたいというと、300部作ったのだが、みんな配ってしまい、手元に一冊残っているだけだが、それを貸してくれるという。コピーを取らせていただいて、ゆっくり読んでみようと思った。同時に、自分の四国の本を進呈した。こういうこともあろうかと、一冊持参していた。ぱらぱら見て興味を持ってくれたようで、嬉しい。

駿河古文書会だけ出なく、同じテキストを使った基礎講座からも、六人ほど参加があり、その中の一人から「かさぶたさんですね」と声がかかった。聞けば解読の課題を検索していて、「かさぶた日録」に至ったらしい。基礎講座は講座日程が後になるので、見ないようにと思いながら、見せてもらって学ばせていただいていたと聞いた。自分の勉強にためと思って記録していることが、他の人の役に立っているとすれば、これも嬉しい話である。

その外、何人かの人とお話できて、懇親会を持っていただいたのは大変有り難かった。
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同級生N氏の訃報に言葉も無し

(アメジストセージ - 片雲さんから頂いた株を裏の畑の隅に植えて置いたら、大きな群落になって咲いていた)

今朝、送られて来た同窓会の会報を、何の気なしに見ていたら、最後の訃報の欄に、高17、N氏の名前が出ていた。えええー、と声を上げた。高17は旧制中学から新制高校になってから、17期目の卒業ということで、自分たちの所属した学年である。あの一番元気であったN氏が亡くなったことが、いまもって信じられない。

N氏は高校時代に同じクラスになったことはなかったけれども、小学校の高学年では同じクラスであった。今も、小学校5、6年のクラス同窓会は2、3年置に行なわれている。今は、そこで時々逢うだけの付き合いだった。その同窓会で久し振りに会った時、彼は女子大の英文学の先生になっていて、若い女性たちに囲まれている写真を皆んなに見せびらかして、男性たちを、大いに羨ましがらせていた。

少しづつ老いに向かっている同級生たちの中で、N氏は生き生きと楽しいときを送っているように見えた。一番元気で、バイタリティに溢れているように思えたN氏が、最初に逝ってしまうとは、大きなショックであった。

大学生のときは落研に入っていて、何時だったか、その落語を聞いたことがあった。演目は無難にこなしていたが、もう一つ馬鹿になりきれない点が、彼の落語の限界なのだろうなどと、批判的に聞いていたことを思い出す。

大阪のYOOさんに久し振りに電話をした。N氏の訃報のことを話すと、初めて聞くと驚く。実は、YOOさんは時々コメントを書いてくれていたが、前回の小学校の同窓会に、帯状疱疹をこじらせて、出席できないと言って来てから、音信不通になっていた。帯状疱疹は治療が遅れると命にも関わるといわれ、その後どんな様子か、心配していた。気になるなら電話を一本入れればよいのだが、ずるずると日が過ぎていた。

N氏の訃報を伝えるついでに、YOOさんの近況も聞きたいと思った。奥さんが出て、本人に代わるまで、少し時間が掛かった。声に変わりがなくほっとしていた。帯状疱疹では、痛くて1ヶ月寝込んだと話す。幸いに後遺症も無く回復したようで、最近、脚光を浴びている箸墓古墳を見に行ってきたと話す。大和路を歩く計画を早く具体化して、一度大阪にも行ってきたいと思った。お互いにいつ訃報が舞い込んでも不思議ではない年代に差し掛かっている。N氏の訃報はそのことを如実に伝えている。

YOOさんへ電話した後、ふるさとのK氏へ電話した。K氏はふるさとにいて、同窓会を企画してくれている。訃報を伝えると、K氏も初めて聞くといい、言葉を失っている様子であった。高校の同窓会会報で見ただけで、いつ、どうして亡くなったのか、詳細は判らないと話すと、情報を集めてみる。何か判ったら連絡をくれるという。
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ご近所のAさんのお葬式と、最新遍路宿事情

(民宿夕日の沈む夕陽)

一時、自宅へ戻っている間に、ご近所のAさんの訃報に接した。Aさんは自分がご近所付き合いの中で最も信頼している人の一人であった。干支が自分と同じ戌(いぬ)で、年齢は一回り上だった。自分の長兄と同じ位の年齢で、自分の兄貴分のようなつもりでいた。Aさんも中小企業の経営に長くたずさわっていた人で、話も良く合った。時々お話しすることが楽しかった。

Aさんは海外生活が長く、奥さんも赴任中に知り合った台湾の女性だった。昨夜のお通夜、今日のお葬式を通じて、泣き続ける姿に、身を切られる思いであった。一人日本に来て、もう何十年にもなっていて、孫までいる年になっても、頼れるのはご主人だけという気持は引きずって、ご主人に頼りきっていたのだろう。だからご主人の死は身を引き裂かれる思いなのだろう。

Aさんが病に倒れたのは、昨年の夏ごろで、まだ一年も経っていない。肺がんが見つかったときには、かなり進行していて、手術出来る状況ではなかったという。その癌が転移して、入院してからわずかな間の死で、死に顔にやつれがほとんど無く、病気になる前と何も変っていなかった。

昨年から自分の大切な先輩たちの訃報に度々接する。東海道を一緒に歩いたWさん、靜岡の親代わりとも思っていたKさん、そして今度はAさんである。黙っていても自分のことを理解してくれる先輩たちが一人ずつ退場していく。悲しいというよりも、その度に寂しくなっていく。

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(遍路宿、おんやど松本屋)

昨日、後輩のS氏から久し振りに電話がある。ブログ、毎日楽しみにさせてもらっているという話のあと、昼間にNHKで四国の遍路宿のことを取り上げる番組があるという情報をくれた。さっそく視て見た。ローカルニュースをまとめたような番組で、四国の遍路宿の部分はわずかな時間であった。松山の遍路宿、長珍屋が取り上げられていた。

遍路宿といえば、かつては100人単位のお遍路が広い部屋にまとまって泊まるという形だったが、現在はお遍路も減って、プライバシーの守れる個室を望むようになった。それで、個室用の別棟を建ててそういう需要に対応している。そんな内容の報道であった。そういえば龍山荘の主人も似たようなことを話していた。

そういう変化はこの頃始まったことではない。かつて団体で歩いてお遍路していた人達は、今はバスツアーで回るのが主流になった。バスツアーなら何も遍路宿に泊まらなくても、大きな温泉ホテルがいくつもあるから、そちらへ泊まればよい。遍路宿のお客の主流は歩いて回る個人客に変った。だから、個室を望むようになるのも当然といえば当然である。

お遍路が激減してしまったという遍路宿の話は一部の事実しか語っていないような気がする。波はあるにしても、お遍路はたくさん来ていると思う。ただ、バスツアーなどでお遍路の流れが変ってしまったことは事実で、それはもう戻らないことかもしれない。お遍路を世界遺産に登録して、歩き遍路を世界から受け入れるようにすれば、遍路宿も生き残る道があるとは思う。
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