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究極の省エネ-愛野超散歩

(原に登り始めた-谷北団地が見える)

愛野駅まで歩こうというのが、本日の超散歩の目標であった。朝は出来るだけ早く出かけようと思っていたが、女房が買い替えの車が今朝入るので取りに行くのに付き合えという。それで何だかんだと出発が10時40分になってしまった。ちなみに女房の新しい車はダイハツのMiraである。

まずは原に上って、原を横断して佐夜鹿に降りる。後はひたすら車道を愛野駅を目指して歩く。これがおおよその心積もりである。今日は初めて2万5千分の1の地図も持った。

江戸時代、金谷宿が水害で壊滅的な被害を受けたとき、東海道が一時北へ引っ越して、数年使われた時代があった。記録によると金谷の志戸呂の谷北団地あたりから原に登るようになっている。昔、一度登ってみたが、登り道については確証がなかった。登りついたところには墓標があり、続いて標石なども残っていて、たぶんそれが一時期東海道として使われたのだろうと思った。

再チャレンジの今回は谷北の最も西側の斜面が割合に緩やかになっている辺りにねらいをつけて登ろうとしたが、登り始めの茶畑の斜面で考えてしまった。そばの茶畑の作業をしているおばあさんが声を掛けてきて、そういう話は聞くが、自動車みちが出来てしまって判らなくなった。近くに掛川の殿様が通った道もあって、公図で赤線になっていたが、通らなくなって茶畑に取り込まれたりで、それも判らなくなっていると話してくれた。

結局、おばあさんの勧める道を登って行ったが、途中で迷い、何とか登りついたのが、前回と同じ墓標のあるところだった。原を横切って佐夜鹿に降りるところでまた迷い、夜泣き石の小泉屋で月見うどんの昼食を採った時はもう1時になっていた。夜泣き石を見物後、トンネルを抜けて、国1の旧道から日坂宿を通り、掛川では修復がなった大日本報徳社の大講堂を外から見てから、掛川駅に寄り、たぶん愛野駅までの最短コースと判断したコースを歩いて、日が傾いた夕方5時過ぎに愛野駅に着いた。

この超散歩は我が家での究極の省エネである。温暖化防止のエコへの多大な貢献である。車で出かければガソリンを使う。家に居れば灯油を使う。テレビ、パソコンなどで電気も使う。歩いておればそれら一切不要である。帰りが電車になるが、これは自分が乗らなくても動いている。本日の万歩計は前回より更に4千歩増えて、38,662歩を示していた。たださすがに今日は足が疲れた。明日に残らなければいいが。
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新興国富裕層が買う高品質

(キンヒバの生垣剪定)

今朝、超散歩に出かける予定が、植木屋さんが西側のキンヒバの生垣の剪定に来てくれるというので中止にした。女房は自分に留守番を頼んで出掛けた。仕方なく、一日「日向ぼこ書斎」で過ごす。


(カーテンが冷たい風に膨らむ)

この書斎、厚手のカーテンなどで囲ってあるが、上部は開いている。どういうわけか、足の方がスースーとする。良く観察してみると、わずかに風があるのか、カーテンが書斎のほうへ軽く押されて、裾から冷たい風が流れてくる。どこか窓が開いていて外気が入ってくるのだろうか。家中調べてみたが窓の開いているところはない。

日差しを受けて暑いほどの書斎に入って、横になって考えた。そしてなるほどと思った。日光で温められた書斎の床面の空気が上昇する。希薄になった部分に回りから冷たい空気がカーテンを押して入ってくる。つまり、この書斎で対流が起こっていたのである。カーテンの裾を毛布で押さえて、何とか冷たい風を押えた。

生垣は枝がかなり太くなっていて、一人で来た植木屋さんはもう一日掛かるらしい。明日は女房をいるだろうから、どうしても歩きに出よう。

     *     *     *     *     *

夜、NHKクローズアップ現代で「新興国富裕層が日本を変える」という番組を見た。中国、東南アジア、ロシア、オーストラリアなどの現在経済成長を続けている新興国の富裕層が、今、日本の高級製品を大量に買い始めている。

いまやそれらの国のお金持ちは日本のお金持ちよりはるかに裕福に見える。車、食品、観光、ブランド品など、日本製品イコール高品質というレッテルが出来あがって、メイド・イン・ジャパンがステイタスになっている。それも日本から直接買ったということが大きな価値だという。日本の製品は世界一シビアな日本の消費者に育まれているから、日本商品はすべてが高品質だと判断されている。高品質なものは高くて当たり前、高くてもどんどん買っていく。日本はもっと自分の製品に自信を持って、高品質な製品をより高く売り、経済を成長させる。それがこれから日本が進む道だという話であった。

いま、各業界の企業も、新興国の富裕層の500兆円を越すといわれる金融資産をターゲットに本格的に活動を始めている。

かつてこのブログで、これだけ高品質な日本の農産品を、世界の富裕層に売れば、絶対売れるというような話を書き込んだ気がする。どこで書いたか探してみたが見当たらなかった。このブログもそれだけたくさんの量になったということであろう。ともあれ、今日の「クローズアップ現代」は我が意を得たりであった。
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川根線竣工碑・地蔵峠・「了玄の経橋」

(地蔵峠の地蔵堂)

「川根超散歩」で歩く途中に、川根街道の険しさ、大井川の剣呑さを現した三つのモニュメントを見た。

最初は金谷の横岡から少し登った瓦屋さんの先、国道端で茶畑に隠れるように小さな石碑が立っていた。刻まれているのは漢詩で、道路が出来るまでこの峠越えが如何に大変であったかが書き記されている。難所に道が完成したことを祝う漢詩のようだ。意味を訳して記したけれども、もう一つぴんと来ない。

   降即川照巻砂塵  降りるとすぐ川が照り輝き、砂塵が巻く
   嶮溢万里川根線  険しくて流れの溢れる、万里の川根線
   竣難路方迎黎明  難路がおわり、いま黎明を迎える
   挿入一石爲紀念  石碑を建てて、紀念とする 
                     昭和四十五年三月十日

昭和四十五年の日付は竣工した日なんだろうが、後述の地蔵峠の案内板には「昭和六年頃、川根街道が県道として二間半の自動車道に改修」されたと書かれているから、道路は何回か改修、付替、拡幅が行われたのであろう。

川根街道で最大の難所は地蔵峠である。国道でそれほど大きな斜度はないが、少しずつの登りが加わって大井川の流れからは随分高いところまで上る。地蔵峠には新道が切割りで短絡したため、取り残された旧道の、神尾集落へ分岐する三叉路に、小さな地蔵堂がある。背後にぴょっこりと八高山が見えた。

地蔵堂について「延命地蔵大菩薩」として由緒が書かれていた。

‥‥‥川根道を、この山峰に開鑿するに当り、道祖神の石像を建立し、其の後又地蔵尊の石像を建立せしが、未だ堂宇を建立するに至らざりき。然るに頼朝公、各地の仏舎建立に心念を懸けらるるに当り、当地蔵尊も亦堂宇建設費として若干金の寄進有り。是に於て地方の信徒も亦浄財を喜捨して、堂宇始めて成る。位置は現今地に同じ。ただし、昭和六年頃、川根街道が県道として二間半の自動車道に改修の時、県道上より現在地に移転せり‥‥‥
現時、地蔵堂に木像有り。これは慶長年間肥後、細川公の寄進せられたるものと言う。慶長中、村内失火の際、類焼して古記録も悉く皆烏有に帰せりと古老の口碑にあり。而して徳川時代諸大名、東海道通行の際は必ず当地蔵尊へ代参を立てられ、交通の安全を祈願せりと云う‥‥‥


川根街道を歩いて行き来した往時は、山の斜面を削って通した道で、転落の危険と隣り合わせの大変な旅であったと想像できる。道中の無事は切実な願いであった。


(了玄了順地蔵堂)

川根の桜トンネルに至る直前に「了玄了順地蔵堂」があった。そして、「了玄の経橋」というこの地に伝わる昔話が記されていた。

昔、この場所に京都の名僧。夢窓国師の開いた正福寺があった。しばらくこの寺に滞在した国師は、やがてこの地を去るにあたって大井川に経橋をつくり、これを踏んで川を渡って駿河の国へ行った。
国師の弟子に了玄・了順という僧がいて、国師に倣って経橋を渡ろうとしたが、どうしたことか法力が国師に及ばず、橋の中頃に至って濁流に落ちてしまい、其の死骸は下流の金谷町高熊の川岸に着いたと伝えられている。
了玄・了順のお堂は、百五十米程離れて別々にあったが道路改良により、このお堂に共に祀られるようになった。
(「経橋」というのは、橋板の裏に経文を書いて橋の安全を祈ったもの。)

かつての大井川は、増水時には上流にダムが出来た現在では想像出来ないほどの激しい流れがあり、大井川に橋が無かった理由に、作ってもすぐに流されてしまうという、架橋技術の問題があったという説もあるくらいである。この伝説はその辺りの事情を教訓として語ったものだと思った。
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アフリカゾウと捕鯨

(今年もクロッカスが咲いた-去年より半月遅れ)

朝、通勤のカーラジオで、南アフリカ共和国の増えすぎたアフリカゾウの話をしていた。アフリカゾウ絶滅の危機に、保護区を作って密猟を厳しく取り締まり保護をしてきた。その結果、8,000頭まで減っていたアフリカゾウも、20,000頭まで増えた。このまま増え続けると、保護区の環境や生態系に悪影響を与え、近辺の農業に被害が及ぶ。そのため、まずアフリカゾウの少ない地域への移動などの対策を取るが、最終的には頭数を減らすために駆除をしなければならないという。

保護と駆除の話は理不尽ながら良く聞く話である。日本でも鹿が増えすぎて山が禿山になったり、貴重な高山植物が無残な状態になって、駆除の必要がいわれている。

それで連想するのが捕鯨の話である。日本は調査捕鯨という名目で捕鯨を続けている。オーストラリアや環境保護団体は調査捕鯨に反対して、身体を張って阻止しようとさえする団体もいる。そんなに世界に嫌がられる調査捕鯨を日本はどうしてやめてしまわないのかと思う人も多い。大半の日本人は鯨の肉をどうしても食べたいと思っているわけではない。第一、調査捕鯨程度の鯨肉では一般大衆の口に入るほどの肉の量にはならない。

捕鯨を止めてから鯨は確実に増えている。増え始めるとけっこうスピードは速いと思う。種類によるが寿命が50年から100年と長い鯨である。天敵はシャチぐらいでほぼ無敵である。もう10年もすればアフリカゾウのように増えすぎて漁業資源に影響を与え、駆除しなければならなくなることは見えている。そうなったとき、身体を張った環境団体は沈黙するだけなのだろうか。彼らは油を取るためだけに大海に鯨を追い、鯨を激減させてきた人たちの子孫なのだ。その自覚があるならば自分たちの食料(漁業資源)を減らしても増え続ける鯨を身体を張って保護するのであろうか。

日本では鯨は自然から頂いた恵みと考えている。だから昔から鯨のすべてを利用しつくし、油だけ取って捨てるような無駄はして来なかった。日本の調査捕鯨はこのような捕鯨にともなう鯨の利用技術の保存が目的と主張すべきであろう。保存していかなければ、近い将来生じるであろう、鯨の部分的駆除の時代に、ただ銃で撃ち殺し捨てるような乱暴なことになる。

日本人には、殺生をしなければならないときでも、その対象を出来うる限り無駄なく利用することで、成仏させられるという考え方が流布している。米の一粒たりとも食べ残してはいけないという子供の頃の教訓の中に、米は人間に食べられるために存在しているわけではなくて、人間が生きていくためにお米の命を頂いているのだという発想がある。
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高松宮妃のおひなさま展

(高松宮妃の段飾り-絵葉書から)

ひょんなことから谷稲葉虚空蔵さんにお参りした。その後、靜岡のグランシップで開催されている「高松宮妃のおひなさま展」を女房に付き合って見に行った。グランシップ6階会場には和服の女性もちらほら見える。和服だと400円の入場料が無料になるという。粋なはからいだ。

15代将軍、徳川慶喜公の孫である高松宮妃喜久子さまがお輿入れのとき、持参したといわれる雛の段飾りが展示の中心である。子供のなかった高松宮妃が亡くなられて、宮家が絶えた折りに静岡県に寄贈され、以後、財団法人靜岡県文化財団で維持保存がされ、毎年この時期に一般公開されている。

段飾りは一般家庭で見るよりも幅がずいぶん広い。三人官女が五人官女になっている。稚児小姓2体、随身2体、楽人5体、仕丁3体が並び、何よりもお道具類のミニチュアがたくさん並んでいる。ミニチュアといえども一切、手を抜かず、その精密さはすばらしい。道具類にはすべてに葵の紋が付いている。菊の紋ではないんだ。このお雛様の伝統はどこかで現代のフィギアに引き継がれ、ミニチュアの技術は、レベルは違うが、現代の食玩に示す執拗さに繋がっていると思う。

高松宮妃が持参された雛飾りを、お子様もないのに毎年毎年出して飾り、維持管理されていたからこそ、我々はいま昔の職人の技術を眼にすることが出来る。皇室が文化を守っていくという重要な役割の一面を見せられたような気がした。

高松宮家で飾られていた段飾りの古い写真が展示してあって、良く見ると、段飾り以外に様々な人形も同時にたくさん飾られていて、たいへん微笑ましく思った。頂き物であろう、西洋人形やチマチョゴリの人形もあった。


(グランシップ)

外へ出て駐車場に向かいながら、グランシップの変わった建物を振り返って見た。グランシップの建物は船をイメージして建築されたという。その規模がよく判らないが、たぶん全長165メートルというイージス艦に匹敵するのではないかと思った。

グランシップの建物が波を蹴立てて突き進んでくると思うと、イージス艦を目の前にした漁船員の実感が理解できるような気がした。圧倒される大きさである。テレビではイメージが湧かなかったが、接近してくる迫力がわかる。公海上のルールがどうあろうが、漁船はイージス艦に気付けば雲の子を散らすように必死で回避するだろう。公海上の船舶の運航ルールはさておき、イージス艦の乗組員が漁船の方で避けてくれると思ったという言葉は実感を語っている。事故にあった漁船はイージス艦に気が付くのが遅れたのだろうか。
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「竹やぶ焼けた」と虚空蔵さん

(虚空蔵菩薩のお堂)

「タケヤブヤケタ」という「回文」、上から読んでも下から読んでも同じ、母音がはっきりした日本語特有の言葉遊びは、何かのおりに口癖のようについて出る。「タケヤブニタケタテカケタ」というと早口言葉になる。二つの言葉遊びは無意識にごちゃ混ぜになっている。

今日の話題は「タケヤブヤケタ」の方。口にしながら今まで竹薮が焼けるなど聞いたことがないと思っていた。一昨日、藤枝市谷稲葉で、竹薮のそばで古い竹を燃やしていたところ、竹薮に火が移って、竹薮何ヘクタールかを焼いたというニュースが流れた。なるほど竹薮も焼けることがあるのだ。このところの少雨で、竹薮もかなり乾燥していたようだ。

聞いたことがないことを聞いて、ついニヤリとしてしまった。筍を採らなくなったせいか、静岡県ではこのところ山で竹薮が繁茂し、周囲に侵蝕して困っている。金を生まない竹林を手入れするコストも掛けられずに、放置されて茫々の竹籔を多く見かける。谷稲葉の火災はこのような竹薮に手を入れていたときに起きたものであろう。当事者には気の毒ではあるが、怪我人もなく竹薮を焼いただけで食い止められ、何よりであった。嫌われ者の竹薮だけに、少々焼けても大きな損害にはならなかっただろう。

昨日、西友に用があるという女房に付き合った後、谷稲葉の焼けた竹薮に寄ってみようと車を進めた。どうしても「タケヤブヤケタ」が気になった。

国道1号線、谷稲葉インター脇を谷稲葉集落に向かう途中で、ビニール袋に入った大きなだるまを抱えてくる人とすれ違った。だるま市があるのだろうかと話していると、お茶工場の向かいに幟が立ち、お祭りのようであった。慈光院の境内の虚空蔵さんの縁日だった。竹薮の焼け跡見物を中断して、虚空蔵さんにお参りをした。


(ダルマ市のテント)

東京では春一番が吹いたという強風が時々砂埃を立てた。ダルマを並べたテントも吹き飛びそうだ。虚空蔵菩薩の祀られたお堂の前には地域のおばさん達がたむろして、お参りするのも気が引けた。女房は近くの農家が出していた農産物の直売で、大根、ねぎ、白菜、里芋などを買った。竹薮の火事の話は、風のない昨日でよかった、現場はバイパスの南の方だと聞いてきた。

結局タケヤブヤケタの現場には至らなかった。見つからないからといって、地元の人に現場の位置を聞くわけにもいかない。
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新旧水路橋付替の不思議 続き

(デザインも素敵な新水路橋)

昨日の続きである。水路橋付替えの工事は3月31日の期末までに完成が約束されているのであろう。当然、旧橋の取り壊しも事業のうちであれば、3月31日の完了が必要である。だから落成が4月1日なのである。しかし、新橋の完成と旧橋の取壊しの完了が同時の3月31日であれば、旧橋を壊している期間はどちらの橋も使えなくなる。工事の工程表ではそんな馬鹿なことはしない。当然、新橋を完成してから、旧橋の取壊しに入る。工事はその通りに行われたと思う。

そして、水路は途絶えさせるわけにはいかないから、旧橋の取り壊し前に新橋への移行を実施したはずである。現に新橋の下に水音が聞こえている。切り替えの時には簡単な完成式もあっただろう。しかし、上を歩く人は4月1日の落成式が終わるまで、40日以上橋が使えない期間を作ってしまっている。もう橋は完成しているのにどうして使わせないのだろう。橋の利用者は7.5kmの遠回りを強いられている。

この橋の目的は水路橋であって、人が通るための橋ではない。それを地元住民の不便を思って、水路橋の上をわざわざ人が通れるようにして通してやっている。何ヶ月か通行禁止になっても文句を言われる筋合いはない。官吏の言い分が聞こえる。官吏の言い分を裏付けするような法律もあるのであろう。

しかし、出来ている橋を使わせないで、どうして不便を強いるのか、疑問は解決しない。昔の国民はお上のすることだからと黙っていた。黙っていることが何をもたらしたのか、最近の国民は嫌というほど知らされてきた。理屈に合わないことは例え小さなことでも声を大にして発言すべきである。政治家も役人も余りに国民目線に立っていないことはなはだしい。

イージス艦「あたご」の漁船との衝突事件がいまマスコミをにぎわせている。ニュースを聞いたはじめには、最先端の装備を備えているはずのイージス艦が何と言う様か。これが某国の破壊工作船だったらどうなっていたか。大爆発でイージス艦は撃沈されていたかも知れないと思った。

たくさんの情報が飛び交う中で判ったことは、イージス艦側に自分たちは重要な国防の任務を遂行しているのであって、衝突の可能性のあるときは小回りの利く漁船側で避けるのが当然であるという思いがあったのではないか。だから漁船は見えていても自動走行を解除せずに進んでしまう。このような走行は今回に限ったことではなく、いままでずっと取られてきた処置であった。ところが漁船側で回避が出来ず事故が起きた。公海上の船舶運行のルールでは、そのまま正直に話すのはまずい。だから発表に嘘が入り矛盾を露呈し、発表内容が猫の目のように変わり、大臣がしどろもどろに弁解することになる。

今回のイージス艦の事故の中に、「水路橋」の話と同じ根があるように見えるのは自分だけであろうか。
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新旧水路橋付替の不思議

(新水路橋-左に取壊し中の旧橋が見える)

昨日、川根温泉からの帰りに万歩計を無くしたことに気付いた。歩数は温泉に着いたときに見ていたのでおよそ34000歩と承知していたが、今朝、川根温泉に電話してみた。いったん電話を切って待っていると、預かっていますと連絡が来た。歩数を確認してもらった。35076歩だという。金谷から歩いていったもので、と話を向けたが、乗って来なかった。預かってもらうようにお願いして電話を切った。厳密には拾ってくれた人の歩数が200~300歩は入っているだろう。金谷から20キロの道のりを歩いて温泉に入りに来る人は居ないだろうから、少しは食いついて欲しかった。乗りの悪さはとにかく、こんな小さな落し物でも確実に戻ってくる日本人の正直さに感謝と乾杯である。

「川根超散歩」で、水路橋のこと。昨日はさらりと書き込んで終えたが、じっくりと書きたいことがあったので、今日に回した。

国道から工事現場に入る角で、警備員が交通整理をしていた。水路橋が通れるかと聞くと、いま壊しているから渡れないという。新しい水路橋は渡れないか、とさらに聞くと、開通が4月1日と聞いているという。水路橋が渡れないとすると、駿河側に渡るには国道1号線バイパスまで戻るしかなく、相当余分に歩くことになる。(あとで調べたところ7.5kmほど余分)川上に向けて行くと次の橋は10数キロ先の川根町家山の駿遠橋で、結局、遠江側の道を行くことになる。

未練たらしく、新水路橋のたもとまで行ってみた。新橋にはバリケードがされ、渡れないようになっていたが、橋そのものは完成しているように見えた。足元では水路を勢い良く流れる水音が聞こえていた。旧橋はすでに半分ほどが橋脚まで完全に壊されて、さらに取り壊しが続いているようであった。

渡れなかったことの逆恨みではないが、行政のやり方が何となく判然としない。よくよく考えていくうちにだんだん腹が立ってきた。その話はまた明日だ。
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マメ一つ作らずに-川根超散歩

(川根温泉遠望)

超散歩も4回目で今日は目標を決めて一人で歩く。目標は「川根温泉ふれあいの泉」である。20kmくらいはあるだろう。

問題は大井川の左岸を歩くか、右岸を歩くかである。左岸は駿河側で県道だけれどトンネルを穿ったりしてあり、割合平坦で距離も短かく、歩きやすそうだと思った。右岸は遠江側で国道だけれど山が迫り、トンネルもなくて、地蔵峠を越えて行く道は高低差が大きい。地形に沿って付けられて距離もありそうだ。それで今回は左岸の駿河側を歩くことにした。駿河側に渡るのは、最近架け替えが完成したと聞いた、横岡と神座をつなぐ新しい水路橋を通ってみようと思った。水路橋は駿河側で取水した大井川の水を遠江側に流す樋状の橋である。水路に蓋をして人と自転車などが通れるようになっている。

結果としてはまだ通れなくて遠江側を歩くことにした。しかし遠江側の道は国道にしては狭く、地蔵峠を越えるまでは全く歩道がない。しかもこの先に砕石場があって川下の工事現場と往復するダンプカーがひっきりなしに通る。それで、常に車の音に耳を傾けて、車をやり過ごさねばならない。砕石場も過ぎて、福用、高熊の集落に入り、ようやく落ち着いた。この後の国道は道路の改修が進んで、多くの部分で歩道が出来て安心して歩けた。


(家山梅園)

小和田から家山に入り、テレビでも取り上げられていた家山梅園に立寄った。国道と県道の交差点をまっすぐに、歩いて10分ほどの左側の山の斜面に、家山梅園があった。町の有志が10年ほど前から植えてきた、紅白さまざまな梅の木がようやく人に見せられるようになった。それで今年から、無料公開することになった。大井川から野守の池の辺りまでの家山の町が見渡せる。梅は満開とはいえず、木もまだまだ小さくて、あと何年かすればもっと見栄えのする梅園になるだろう。そうなれば観梅料を払っても見に行ってよいと思った。

大井川に架かる駿遠橋を渡って川根温泉までは思ったよりも距離があって時間も掛かった。結局、34000歩も歩き、5時間半ほど掛かった。距離では22~24kmほど歩いた。温泉から上がるのに合わせて女房が車で迎えに来てくれた。前回よりも4500歩ほど増えたが、足は疲れたが引きずるほどにはならなかった。履き古るしたウォーキングシューズは足に合っているようで、この4回でマメ一つ作らずに歩けた。
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パルプ工場の煙

(パルプ工場の煙)

「藤枝超散歩」で、大井川橋を渡って島田の旧市街に向かう。途中に、広い敷地のパルプ工場がある。パルプ工場の煙突の白い煙が、快晴の空に、西からの寒風に吹かれて流れていた。南中の太陽が煙突に隠れるタイミングを狙って撮ったら気持ちのいい写真になった。嫌われものの煙突もこう見ると美しい。

かつては島田に来るとパルプ独特の臭いが鼻を突いた。東海道線の電車では目を瞑っていても、島田に着いたことが臭いで判った。現在は、煙成分の除去装置が完璧に付いて、出ている煙はほとんど水蒸気だという。昔の煙の勢いはこんなものではなかった。まさにもくもくと出て長く棚引いた。

40年前、日本は企業が出す公害で覆われていた。マスコミは連日のように各種公害をあげつらった。金を産む事業ではなかったが、各企業は社会的責任を感じて懸命に取り組んだ。マスコミが報道しなくなっても、企業の公害への取組に緩みはなかった。長い期間は掛かったが、いつの間にか空気はきれいになり、川も澄んできた。いま空気を汚しているのは車の排気ガスであり、川を汚しているのは生活用水が主になっている。

中国に何度も行き、中国の都市公害の酷さを体感してくると、日本の空気や水は天国である。中国企業の姿勢を見ていると、中国政府が本気になって取り組み、日本などの先進諸国がノウハウの提供をしない限り、公害の克服は不可能に思える。少々の人的被害が出てもほとんど問題にならないお国柄であるから。

オイルショックの後、日本の企業は次に省エネルギーに本気で取り組んだ。いまその努力が温暖化防止の技術として世界から注目されている。エネルギー効率が中国の8倍と聞くと驚くばかりである。

現在、日本の企業は温暖化防止や化石エネルギーからの脱却という新しい目標に向けて走り始めている。原油の高騰が色々なアイディアの産業的な取組を可能にした。政治がリードの方法を間違えなければ、10年後にはすばらしい開発が続出するのではないかと思う。日本の企業にはそれだけの力がある。
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