goo

光明寺跡を訪れる

(光明寺跡の石垣と石段)

2011年2月10日のブログ書き込みで、掛川古文書講座で解読した「喜三太さんの記録」の「秋葉山御開帳」を紹介した。その中で喜三太さんは歩いて秋葉山にお参りするのだが、秋葉山に登る前に、その手前の光明山光明寺に参詣したという記述があった。火伏せの秋葉山にお参りするついでに、水防の光明山に参詣することを「ついで参り」といって、当時は、このセットでお参りすることが多かったという。

しかし、自分は光明山という山があることも知らず、もちろん「ついで参り」の慣わしも知らなかった。近年、光明山にお参りしたという話は聞いたことがない。光明山光明寺は、今はどうなっているのだろうかと気になっていた。

昨日、女房のお義父さんの蔵書から、「靜岡県史跡名勝誌」という大正10年発行の本の復刻版を借りてきて、パラパラと見ていたところ、「光明寺」という項目に眼が止まった。光明寺は養老年間、僧行基の創建である。武田勢と家康の戦いでは、家康側が光明山に陣を置き武田勢を破った。以後、光明寺は家康の帰依を受け発展した。寺境に稚児の瀧、寺中に大黒杉があると書かれていた。この光明寺、稚児の瀧、大黒杉などが今はどうなっているのであろうか。大正10年にはこれらがあったことは、「靜岡県史跡名勝誌」の記述ではっきりしている。

昨夜、光明山光明寺に行きたいと息子に話し、運転手を任せて、午前10時過ぎに出かけた。地図によると、森から春野を通って少し浜松方向へ下ったところから、光明山へ登る道があるようであった。しかし登り道を見つけられず、通り過ぎた。「道の駅いっぷく処横川」で、レジのおばちゃんに、光明山への登り道を聞くと、しっかりと教えてくれた。

光明山の標高は594メートル、途中の標識には「光明寺跡」と記されていたから、お寺が今は無いことがはっきりした。アスファルト道は落石などがゴロゴロしていたが、走るには支障はない。尾根にハイキングコースが造られて、今は信仰の場所ではなく、リクリエーションの森になっていた。

駐車場に車を停めて、尾根道で光明寺跡まで10分ほど歩いた。石垣が二段あって、その真ん中を崩れかかった石段で境内に導かれる。光明寺跡には建物は全く無く、石灯籠なども砕けて原型を留めないものがいくつか見えたばかりであった。案内板によると、昭和6年に起きた火災で近くの森林も含めてすべて灰燼に帰し、光明寺はふもとに移ったと記されていた。

境内跡からは、遠州灘方面が浜岡原発から浜松辺りまで見渡せるようだが、今日は幾重にも連なる山々が見えるだけであった。辺りの遊歩道をしばらく散策したが、稚児の瀧も大黒杉も、その跡さえ確認できなかった。(続く)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

故郷(くに)から一夜干鰈が届く

(故郷から届いた一夜干の鰈)

故郷から一夜干の鰈(かれい)がクール便で届いた。日本海の幸である。昨日、在所の兄から電話で送ったと連絡が来た。写真の通り、何とも油がのって美味そうである。さっそく夕食で焼いて食べたら最高であった。太平洋側には無い味覚である。今は産地でも高級品になって、ずいぶん値が張ったことと思う。夜、女房がお礼の電話をして、15分も話し込んでいた。

一昨日海から上がった鰈が、一夜干しされて、昨日クール便に乗り、今日の午前中には我が家に着いた。多分そんなルートで届いたものと思う。ずいぶんと便利になったと思う。しかし、我々はこのような便利さをどこまで享受することが許されるのであろう。今、多くの日本人が考え始めている。我々は足ることを知る必要がある。

子供の頃は海辺の町から行商のおばさん達が、汽車で1時間も掛けて、故郷の町へ売りに来た。早朝、海から上がったばかりの魚介類を、ブリキで作った箱にいっぱい入れて、それを三つも四つも積み重ねて持ってくる。たまに朝の汽車に乗ってみると、そんなおばさん達と、魚の臭いを振りまくブリキ缶でいっぱいになり、声高に話すおばさん達のお国言葉が騒々しく行き交っていた。

駅頭で、どこへ預けてあるのか、魚介類をリヤカーに積み替えて、それぞれのお得意さんのいる街へ散っていく。そんなおばさん達が、各戸へ声を掛けると、主婦たちが手に手に器を持って、リヤカーに集ってくる。魚はそのまま器へ入れてくれる。包装はせいぜい新聞紙くらいであろうか。もちろんポリ袋などは無い時代である。包装過剰な今と比べると、何とも簡素なもので、ゴミもわずかな量しか出なかった。

漁港には冷凍設備もなく、各家庭には冷蔵庫もないから、その早朝に獲れたものは、各家庭の夕餉にのせないと傷んでしまう。買う量もその日に食べる分だけで、まとめて買うことは出来ない。だから魚の行商は毎日のようにやってくる。人寄りがあるなど、特別に欲しいものがあれば、おばさんに頼むと次の日には、港で調達して持って来てくれる。

宅配便もクール便も無いから、都会に届ける手段がない。だからせいぜい我が町まで運ぶのが限界だったのだろう。今から考えると海産資源は豊富で近海で幾らでも取れたし、消費が時間勝負で、だから信じられないほど安かった。漁師も無闇に水揚げしても消費できずに腐らせてしまうから、自然にセーブされて、海産資源も守られた。

地産地消で、流通に掛かる費用はおばさんの汽車賃くらいである。だからそんなに安くても、皆んな食べて行けた。消費者も給料は安くても食うに困ることは無く、意外と食卓はある意味で豊かであった。

一夜干鰈を味わいながら、そんなことを考えた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「いねむり先生」を読む

(伊集院静著「いねむり先生」)

伊集院静著「いねむり先生」を読んだ。作家色川武大の晩年に交流を持った著者が、色川氏と過ごした日々を書いた小説である。色川武大はペンネーム阿佐田哲也として、麻雀や競輪などの小説や読み物を書いたことでよく知られていた。麻雀の神様、博打の天才として有名であった。晩年は色川武大に戻って純文学小説を書いていた。

「いねむり先生」はもちろん色川武大、晩年ナルコレシピーを患って、ところ構わず突然に寝てしまう。麻雀をしながら寝てしまうこともある。わけを知った周りの人たちはみんなやさしい。目が覚めるまで寝かせておいて上げる。皆んながやさしいのは先生の人徳である。皆んな先生が好きなのである。先生の底抜けの優しさがそうさせるのであろうか。

先生と著者の、全国の競輪場を追っかける旅が繰り返される。先生はかつてはアウトローの世界に近いところにいた。各地で先生を見つけて寄ってくる人たちがいる。中には怖い筋の人もあるけれども、先生の人徳はそれらを超越して、先生は皆んなに好かれている。

先生の晩年の作に「狂人日記」という作品がある。やさしい先生の内に狂気を隠していた。時に発作に襲われる。女優の妻を若くして亡くした著者が、内に持つ狂気と同類のものであった。突如起きる強迫観念の嵐に襲われる著者に、先生は両手を取って「だいじょうぶだよ、連中はもう去って行ったよ」と、収まるまでやさしく手を握っていてくれた。

色川武大が亡くなったのは今から20年少し前である。妻を亡くしてから小説が書けなくなっていた著者に、君はいずれ小説を書くようになるという先生の予言通り、著者は2年後には小説で文学賞を取るようになった。

病気は持っていたが、皆んなにこれだけ好かれる老人にどうすればなれるのか、ヒントがあるような、ないような。

最近、「西村望の四国遍路の旅」とか、「オジいサン」とか、老人の生き様が描かれた本に手が伸びる。自分の年齢が老境に入ったとは言いたくないが、やはり気になってはいるのであろう。父親が亡くなった年まで生きる気になれば、あと30年ある。これはすごい時間である。30年経って、この30年何をしてきたのであろうと、周りの人たちに思われないために、何か道を究めたいという思いはリタイアしたときから持っている。

古文書の世界に入って、80代の人たちが日々新しい知識を求めて励んでいるのを見て、やはりこうでなくてはならないと思う。当面はそこで何かを究めようと思っている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ムサシ、眼を傷つける

(眼を傷つけたムサシ、心なしか元気がない、昨日撮影)

ムサシが眼を怪我した。一昨日夕方、女房がムサシの左眼がおかしいという。何かあったかと聞かれたが、夕方散歩に連れて行ったときは気付かなかった。普通に元気に散歩をしたと話す。獣医に連れて行こうかどうしようか迷っているから、気になるなら連れて行ってきたらどうだと勧めた。

獣医から帰ってきて、風が強かったから眼に何か当ったのか、眼のレンズに疵が付いていると言われ、飲み薬と目薬をもらってきたが、目薬は点せるかどうかという。

ムサシは医者嫌いで、いつも獣医に噛み付かんばかりに騒ぐ。この日も大騒ぎで、口輪をはめられロープで縛られて、看護師と3人がかりで押さえつけて、診察を受けたという。ムサシは人(犬)一倍怖がりで、診察を何やら恐ろしい危害が加えられると思ってしまうようだ。目薬を落としてもすぐに前足で拭いてしまい、効くかどうかと危ぶんでいた。

昨日、散歩に連れて行こうとすると、前足で何度か左目を掻いた。気になって仕方がないのであろう。歩き始めたら少し忘れたようであった。しかし、右目に比べると左目を少し細めている。

先日、テレビで犬の眼には色がどう見えるかと放映していた。何時だったか、ムサシに信号が赤で止まることを教えていると話したら、犬には色が判断できない色盲だと言った人がいた。

眼の網膜には白黒を判別する杆状体(かんじょうたい)と色を判別する錐状体(すいじょうたい)がある。霊長類には3種類の錐状体があり、虹の7色が識別できるけれども、霊長類以外の哺乳類には2種類の錐状体しかなく、「赤-黄-緑」の範囲が1つの色として、また「青-紫」の範囲の色が別の1つの色に見えるというように、二つの色調しか見えない。それ以外は色の濃淡として見えている。犬が見えているであろう状態をテレビで見せたが、セピア色の写真を見ているようなものであった。

だから進化が遅れていると見るのは人間の勝手で、森で狩りをする野生の犬にとっては、色はわずらわしいだけで、獲物の動きをすばやく捉えるには、色はない方がよい。錐状体が少ない分、杆状体を増やして暗闇での夜目を利かせるように進化した。犬にとってはそちらの方が重要なのである。見方を変えれば色を捨てる形で進化したといえるかもしれない。白黒写真の方が対象に迫る力が強いと、カラー写真を好まないカメラマンもいる。技術で白黒写真の方が劣るとは言えない。

女房は心配性で、一昨夜は食欲がないと夕食も摂らないで寝てしまった。ムサシは今朝は元気を取り戻し、眼を気にしなくなった。だいぶ良くなったようで、女房の愁眉も開いた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

入会地の出入 その3

(庭のツツジ)

上内田村など五ヶ村の者たちが、早朝問題の奥山田に押し入って、稲苗を刈り取り、まぐさの苗を植え、南沢溜池まで押し出して、堤を壊し、樋までも破壊して去った。この乱暴狼藉に対して、子隣村が訴訟を起す。昨日の続きである。

しかるところ、翌五日早朝より五ヶ村のものども、奥山田へ立ち入り候趣、小前のもの届け参り候に付、嘉兵衛外壱人召し連れ見届けに罷り越し候、途中にて桶田村蓑次、段村組頭、金谷村組頭、田島村丈左衛門、その外小前六七拾人召し連れ、稲苗、鍬鎌などを以って押し参り候に付、相手村役人へ応対いたし、再度当村にて植え付け候稲苗刈り取り、地所相渡申すべき旨申すに付、再応申す通り、その儀は相成らず、但し、そこもと刈り取り植付成らるや、の旨掛け合い候ところ、その儀は秣(まぐさ)など植付の上、ともかくも致すべく由申すに付、大人数の儀、差し留め難く、そのまま立ち帰り候ところ、その外、岩井寺村、和田村は山越えに狼道より罷り越し、都合百人余の人数一同に乱入いたし、すぐさま奥山田へ押し込み、当村にて植え付け置き候田所、散々踏み散らし、稲苗刈り取り、相手方持参の苗植え付け、酒樽など取り寄せ、これを呑み、同音に鬨の声を上げ、そのまま字南沢溜池境切り破り、大鋸、斧などを以って、立樋、入樋まで切り捨て、なおまた鬨の声を上げ、引き取り申し候

右に付、狭き谷川大水へ、一同湊(あつまり)来り驚き入り候えども、当村の義は小村小人数の儀ゆえ、防ぐ事あたわず、ただ一同に悲歎仕り候のみ、津々、相手方乱妨狼藉、不聞不見の始末、言語に述べ難く、傍若無人の取り計らい、全小村殊ニ悪味の私どもと見掠(かす)め、桶田村庄屋簑治主(おも)立ち、村々役人へ申し進め、御料断の御威光を以って、当村方御田所まで掠め取るべく不当の巧(たくみ)と、恐れながら存じ奉り、御田所裏として、明暦二年、本多越前守様御領分の節、御免許成し下され候、夫より追々先例に任(まか)せ、修覆、取繕いいたし置き候

溜池切り崩し、御田所まで踏み荒らされ候事、百姓相続義出来、一村退転為すべくは眼前の儀にて、第一、御地頭所様へ恐れ入り奉り、甚だ以って歎げかわしく、心外至極に存じ奉り候あいだ、止むをえず御訴訟申し上げ奉り候
右相手方、不法狼藉の始末、被為聞こし召させらる訳、何とぞ御慈悲の御堅意を以って、場所御見分成し下し置かれ、御奉行所様へ御差し出し成し下し置かれ候様、偏(ひとえ)に願い上げ奉り候、なお委細の儀はお尋の節、恐れながら証拠書物その外、口上を以って申し上げ奉るべく候、以上

                御知行所
  天保三辰年六月         遠州城東郡子隣村
                     百姓代   三治郎
                     組頭    嘉兵衛
 西貝塚                 庄屋    孫八郎
  御役所


かなりシビアな形で訴訟が起された。この訴訟は結局和解になる。その和解文書は「小笠山溜池敷訴訟済口証文」2010.2.10の書き込みで取り上げた。合わせて読んでみると、江戸時代の訴訟がどのようにして行なわれたかが解る。その和解に至る経緯など、現代の訴訟に通じるものがある。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

入会地の出入 その2

(裏の畑のコデマリ)

入会地の出入(訴訟)の古文書、昨日の続きである。恐れながらと訴えているのは子隣村である。そもそもその山は自分たちの山だとの思いの中で、入会を認めてきたけれども、灌漑用の溜め池は許可を得て築いてきたものだし、池敷きが埋まって出来た田圃にしても、長年年貢を納めてきた田圃であって、文句を言われる筋合いのものではないと、考えているから、いくら元のまぐさ場に戻せと言われても、はい解りましたというわけにはいかない。両者の間で何度か水掛け論的なやり取りが繰り返される。その様子が克明に訴状のなかに記されている。

さもこれ無く候えば、それぞれ御地頭所へ御見分相願い、その上筋により、御公儀へ出訴致すべく候あいだ、有無挨拶致すべき旨再応(再度)、紙面をもって掛け合いこれ有り候えども、全当村池敷の事ゆえ、荒し候儀、決して相成らざる由、両人一同これを申し候ところ、なおまた、当四月十七日夜、五ヶ村より使札をもって、小笠山一件の儀に付、内談申したき義これ有り候あいだ、明十八日九つ時、段村太郎右衛門宅まで、自身出席致すべく、中泉御役所よりも厳しく御内意仰せ聞かされ候あいだ、申し越し候に付、すなわち翌十八日、庄屋孫八郎、右太郎右衛門宅へ罷り出で候ところ、暫く過ぎ、桶田村庄屋簑治罷り出で、右一件の儀、中泉御役所へ窺い候ところ、絵図面の趣にては御料所の地所と相違これ無く候あいだ、この方にて仕付け致すべき旨、仰せ渡され候由、申し聞き候に付、中泉御役所の御下知にこれ有り候えば、容易ならざる儀、粗略には仕らず候えども、論所の儀は新開にはこれ無く、百年余りも年暦過ぎ候古池起き返りにて、御地頭所へ御年貢納め来り候ゆえ、尋答(問答)には相成らず、地頭所へも相窺い、頭、顔役とも篤(とく)と證示(証拠を示す)の上、挨拶致すべく候旨、これを申し帰村致す

その後、私ども両人、段村太郎右衛門方へ罷り越し候ところ、同人他行にて、祖父罷り出で、我等儀老衰致し候、殊に桶田村は親村の儀に付、右村へ掛け合い致すべき旨申候に付、すなわち、同村庄屋蓑治方へ罷り越し、再三掛け合い致し候通り、当村地所ゆえ相渡候義、決して相成らざる旨、断り為し、立ち帰り候

しかるところ、先月上旬、段村太郎右衛門、桶田村蓑次、田島村丈左衛門、右三人孫八宅へ罷り越し、程々理不尽の掛け合いこれ有り候えども、最初より接續の趣、相答え候ところ、そのまま立ち帰り候に付、石場川田作り仕付け候ところ、当月四日、桶田村百姓代忠三郎、和田村組頭傳作、両人孫八方へ罷り越し、昨日六ヶ村参会致し候ところ、奥山田稲苗、今日中に刈り取り相渡し申すべし、さもこれ無く候えば、明日こなたにて刈り取り仕付け致すべき旨申すに付き、前もってこのこと当村の田所の事ゆえ、稲刈り取り候儀は勿論、相渡し候義、これまた決して相成ざる旨、相答え申し候


翌日、ここで訴訟の目的となる事件が発生する。(続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

入会地の出入(江戸時代の訴訟)

(アシビの花、これだけ太い木は珍しい、大尾山顕光寺にて)

これから紹介する古文書は、掛川の古文書講座で一昨年扱ったもので、江戸時代の入会権の出入、つまり訴訟の文書である。江戸時代、地方(じかた)では、おおかたの揉め事は、村役人(庄屋・組頭・百姓代の村方三役)の間で治めていたが、大きな出入や、幾つかの村にわたる出入は代官所や藩の役人が訴訟を受け持った。さらに大きな訴訟は江戸の奉行所へ上げることになる。不完全ながら、三審制の形が見えて面白い。長い文書なので、何回かに分けることになる。いつもの通り読み下し文で示す。

   恐れながら書付を以って御訴訟申し上げ奉り候
遠州城東郡子隣村、庄屋孫八郎、組頭嘉兵衛、一同申し上げ奉り候
当村小笠山の儀、往古は紀州様御鷹山に御座候
その後は当村のみにて進退いたし、罷り有り候ところ、寛永年中以来、上内田村より数度出入に及び、寛文年中より、山高四石と御定め成られ、柴、秣(まぐさ)の儀は上内田村、岩井寺村、当村七ヶ村入会に相成り、山年貢の儀は先例の通り、納米弐石の内、米弐斗壱升、当村にて納め来り申し候

かつまた、貞享元年、和田村新林の儀に付、田島村と出入に及び、御吟味の上、これ又七ヶ村入会なすべき旨、御評所において仰せ渡され、七ヶ村入会、絵図面、御裏書、御尊判、成し下し置かれ、当時は田島村預り罷り有り、当村方にも写し控え罷り有り候

しかるところ、右絵図面にこれある奥山田溜め池の儀は、寛永十五年、井上河内守様御領分の節、御免許成し下し置かれ、築き置きこれあり候えども、出水の時々山崩れ、出洲(でず)いたし、追々起き返り、寛永三年より新田分に相成り罷り有る
※ 起き返り - 荒地が再開発されて農地に復旧する。

同所南沢溜め池もれ候に付、御地頭所へ御訴え申し上げ、御手当下され、修復いたし置き候ところ、さる卯年中、上内田村五ヶ村役人立会い見分いたし、申し聞き候に、その溜め池、水湛え、または古池敷、起き返り、草野減り候に付、起き返り田地、荒し申すべき旨、申し聞き候あいだ、数村村役人の申し分に付、小村、ことに貧窮の私どもに付、論じ及び候儀、その迷惑に存じ、少々の殊に候わば、趣意相付き申すべきと存じ、その段挨拶におよび候ところ、五ヶ村役人法外の儀申すに付、不承知の趣、挨拶致し候ところ、なおまた、当春中、五ヶ村より紙面をもって、銘々御支配へも伺い置き候あいだ、御絵図面の場所内の芝間(まぐさ場)を切り起され候ては、七ヶ村地内ゆえ、こなたの地所と心得居り候に付、穏便に荒し申すべし


今日のところは事件の発端を記述した部分である。その昔、入会地の中に領主の許可を得て、農業用の溜め池を築いた。長年の間に、土砂崩れなどで上流部が土砂で埋まり、出来た土地を新田として起して耕作していた。溜め池の漏れの修復をした折に、上内田村五ヶ村の役人が立会い見分した際に、新田によってまぐさ場が減っていると問題になり、新田を荒してまぐさ場に戻すように申し入れがあった。

昔は田圃を耕作するには、必ず相当のまぐさ場(家畜の飼料、燃料、田の肥料などを取ることが出来る里山)が必要であった。山がすぐそばにある村は良いけれども、山から離れた村には周辺の決められた山に入り、まぐさ場として利用する権利が認められた。子隣村は山がすぐそばにある村、上内田村は平地の村で入会権を持っていたのであろう。

この後、何度かやり取りがあるも、解決できず、出入(訴訟)になる。(後日に続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

朝から一日雨降りで

(大尾山顕光寺のシャクナゲ、昨日撮影)

久し振りに朝からまとまった雨が夕刻まで降り続いた。お昼前に掛川のまーくん、あーくん兄弟が来て遊んで行く。まーくんが金谷へ行くと泣き騒いだらしく、バーバは留守だけれども、やってきた。パパは腸炎とかで絶食しなければならないようで、お腹が空いたというのを置いて出てきたという。子供を離して寝かせようという配慮だったのだろう。狭い居間で、あーくんも自己主張をし始めて、大騒ぎである。そんな中で昼寝。この状況で寝られるのは我ながらすごい。

そろそろ長引いた花粉症の季節も終わりに近付き、今日はこの雨で、久し振りに花粉症を忘れて過ごした。今年は例年になく花粉の飛ぶ量が多いと予測され、その通りだったけれども、対策が効を通して、酷い症状は少なくて済んだ。

今年、途中から使ったのが花粉症用のゴーグルであった。鼻水、くしゃみはべにふうきで押えられるけれども、眼のかゆみだけはどうしようもなく、眼薬を常備していたが、かゆくなり始めると何も手に付かなくなる。ところがゴーグルを付けると全く症状が出ない。ムサシの散歩や静岡へ電車に乗るにもゴーグルを付けたままで出かけた。少し格好が良くないが、人相が引き締まって見えるともいう。

難なのは裸眼では遠くが見えにくい老眼であることだ。ゴーグルの上からメガネを掛ければ見えるけれども、それこそ格好が悪い。来年はもっと早い時期に眼鏡屋に頼んで度の入ったゴーグルを誂えようと思う。もう一つ、ゴーグルに少し色が入っているので、世の中が暗く見えることである。それでなくても暗い世の中で、たまにゴーグルを外してこんな明るかったのかと驚くこともある。

夜はトルマリンを織り込んだアイマスクが快適で、目だけ出なくて鼻も通るのが不思議である。今年はベニフウキもよく飲んだ。これだけお茶を飲むと生活習慣型の病気予備群の各種数値がすべて改善されているはずである。ずーと続ければよいのだが、夏から冬にかけてはお茶を春のベニフウキほどは飲まなくなってしまう。

会社に掛川の病院からお茶のモニター募集のチラシが入って、回覧されていた。掛川市が、日本一医療費が安く上がり、つまり健康度が高い都市として、NHKで紹介された。その理由が深蒸茶を飲んでいるからと放映されて、掛川の深蒸茶に、問い合わせが殺到したという事件?があった。その継続調査だと思う。

被験者群にそれぞれ深蒸茶のエキスの錠剤と、無関係の錠剤を飲ませて、追跡調査をしていくという。血液を何度も取られて礼金も出るというが、それ以外の食生活ではお茶は飲まないようにしなければならないのだろうから、我々は被験者にはなれないと、さすがにお茶で食わせてもらっている会社だけある発言が大方を占めた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大尾山顕光寺のカイドウ




(大尾山顕光寺のカイドウ)

カイドウ(海棠)という花があることは、昔は知らなかった。ハナカイドウともいい、桜よりも少し大振りの花が、桜よりも遅く咲く。

昔、遠江三十三観音霊場を歩いて巡ったとき、掛川奥の大尾山顕光寺の境内に日本でも有数のカイドウがあることを知った。しかし、季節はずれで花は見ることが出来ず、本堂に上がって写真を見せてもらった記憶がある。

そのカイドウの花のことをふと思い出した。今年は季節が少し遅れているけれども、そろそろ咲いているのではないだろうか。思いついたが吉日で、女房を誘って車で出かけた。昔、歩いた道を車で進めるつもりが、うる覚えで、とんでもないところに車を進め、かなり迷った。下調べもしないで来たからと、女房には言われたが、急に思いついたのだから仕方がない。それでも、ようやく大尾山顕光寺に向かう林道に入り、尾根の駐車場まで来た。

駐車場には軽が一台と老夫婦がベンチで昼食を摂っていた。お寺まで行ってきたかと確認し、カイドウは咲いていたかと聞いた。瞬間、カイドウを理解できないようで、返事が遅れたが、満開だったと答えた。たぶん、あの花のことと了解したのだろう。山道を15分も登っただろうか。犬の吠える声に歓迎されて、見覚えのある境内に着いた。

すぐに、本堂前のピンクのカイドウが目に入った。一番大きな木が八分咲きといったところで、他に一回り小さい木は三分咲きほどで遅れていた。この季節でないと見れない花を、所在を知ってから10年以上経って、ようやく見ることが出来た。桜よりも華やかな花である。

ベンチにいた夫婦が場所を譲ってくれ、ベンチに座って、コンビニで買ってきた昼食を摂った。そこへおばあさん二人を連れたおじいさんがやってきて、咲いてた咲いてたと喜んだ。桜かと聞くおばあさんへ、これはカイドウという花だと説明している。やっぱりこの花が目当てで来たのだろう。

境内には真っ白なシャクナゲが咲き、アシビ(馬酔木)がたわわに咲いていた。標高600メートルを越える高さで、今が花盛りといったところである。

昼食の後、奥之院へ登った。杉の大木が林立する山道を10分ほど登ると石段が見えてきた。奥之院はその石段の上にあり、すぐ右側に県の天然記念物の「鳥居スギ」があった。このスギを見るのも久し振りである。石段側から見ると大きく割れて中が空洞であるのが見えるが、樹勢は変わらず元気なようで安心した。鳥居スギは、幹周り7メートル、樹高30メートルである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿府、熊野神社へ行ってきた

(駿府、熊野神社境内)

靜岡市葵区の熊野神社に出掛けてきた。長谷通りの、浅間神社石鳥居と反対側の端の近辺にあることは判っていた。駅から多分この方向と定めて歩きだし、近くまで行くと、周りの建物より高い木立が見えたので、そこが熊野神社と見定めて、ほぼ最短距離でたどり着くことが出来た。

樹齢、200~300年のクスノキの巨木2本に、境内にはたくさんの大木が散見された。それを見ただけでも、この神社の歴史が知れる。

案内板によれば、創建は、和銅四年(711年)の棟札が残っているので、1300年以上の歴史がある。さらに読んで行くと、次の記述があった。

当神社は昔から蝮蛇除(まむしよけ)の神として信仰された。天明八年(1788)京都に大火があり皇居も類焼して聖護院に仮御所が設けられたが度々蛇が出てお困りになった禁裏・仙洞御所より当神社の蝮蛇除の神符を奉るよう命があり、これを献上し白銀一封が下賜された。御初穂の包紙文書等は今も神社に保存されている。

先週の駿河古文書会で読んだ古文書が、ここで言う神社に保存されている文書であった。そういえば、先週読んだ中に「目録」があったのを思い出した。解読、読み下したものを示す。

目録
大女院御所より
一 白銀壱枚
一 金百疋 堂上方より
一 同弐朱 同断より
一 鳥目三百弐拾六文 軽女中方より拾弐銅、弐拾六人分
   この銀三匁壱分五り
右の通り差し進み申し候、御神納下さるべく候、以上
               水原摂津守内
八月十七日              村上良右衛門
                     松本新兵衛

※ 鳥目-青銅銭の異称。江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからいう。

「拾弐銅」は当時お賽銭に銅貨12枚を奉納する風習があった。それに則って集めたものと思われるが、12枚×26人は312枚となり、326枚では14枚ほど多い。古文書を読んでいると、このように微妙に計算が合わないことが少なくない。現代人と違って、かなりアバウトで大らかだったのであろう。

熊野神社が、どうして蝮蛇除の神として崇敬されたのだろう、と言う疑問が残った。紀伊の熊野三社には蝮蛇除の神としての信仰はないという。ここからは自分の想像だが、熊野三社と言えば三本足の「八咫の烏」である。ゴミあさりなどしなかった昔、カラスが蛇を捕えて巣に運ぶ姿がよく見られていたのではないだろうか。カラスの連想から熊野神社が蝮蛇除の神と考えられるようになったという話はどうだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ