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久し振りに大雨が降って

(庭のヒイラギナンテンの花)

一雨ごとに春が近付いてくるが、今日の一雨はかなりの量であった。午後、小降りになったので、ムサシを散歩に連れ出した。大代川は増水して流れが太くなり、河床に生えて冬枯れした葦類が流れに半ば沈んでいた。マガモ、コガモなどのカモたちは葦の陰に入り、流されないように懸命である。サギやカワウ、葦辺で遊ぶ小鳥たちも今日は見えない。どこかに避難しているのであろう。

この頃、ニュースのトップは、地震後のニュージーランド、内乱のリビア、予算攻防の政局の3大話である。

ニュージーランドでは昨年9月に地震があり、今回はその時に残った地殻の歪みが原因で、今回の地震が起きることは想定できたようだ。しかも、前回の地震で傷んだ建物の危険度判定もなされたようで、判定に対してどう対応するかは建物の持ち主の責任と、市当局は責任を回避した。日本同様に地震が多く、地震先進国であるニュージーランドの対応について、他山の石として良くウォッチングしておく必要がある。犠牲者の身元の特定がずいぶん遅れている。駆けつけた家族に見せることは、特定がされるまで行なわれないようで、待たされる家族のいらいらがつのるばかりである。国柄の違いとはいえ、もっと迅速な対応が出来ないものなのだろうか。

リビアのカダフィ一家の海外資産凍結が国連安全保障理事会で決議された。英国にある資産だけでも日本円換算で1兆円以上あるという。40年間の独裁で、どれだけの蓄財をしたのであろうか。カダフィは外国の傭兵を前面に立て、国民を銃撃している。兵の銃が国民に向けられたとき、リビアはすでに国の形態を失ったといえる。

日本の予算の攻防は混迷の度を深めている。一つ一つ決めなけばならない日本の進路が、このような混迷の中で一向に決まらない。しかし、混迷の原因を作ったのは選挙民の選択である。衆議院選挙で圧倒的な多数で民主党を勝たせて置きながら、次の参議院選挙で過半数割れを作り、政治の混迷を現出する。左へ右へ揺れる選挙民の票が原因である。菅政権の2割を切る支持率が本当ならば、そこに居座ろうとする政権は国民が降ろさねばならない。そういうデモ一つ起こらない日本の国情はどこかおかしいと思う。例えば政権交代がなされても、その政権も半年もすれば2割を切る支持率に落ちるのは目に見えている。問題なのは国民の政治不信、政治家不信である。もっと問題なのは、この状況を変えようとする国民の力がもはや無くなっていることである。中東の独裁政権を倒す若者たちのパワーは羨むべきことなのだろう。
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靜岡に戻って起きた色々なこと

(ふるさとへ帰っている間に我が家の庭は花盛り
黄色いスイセン)

昨日、靜岡へ帰って、名古屋のかなくん一家3人に加えて、今日、お昼前に掛川のまーくん一家4人が集り、久し振りに瞬間人口が10人になった。お昼は三種類(たらこ、ミートソース、和風きのこ)合わせて1kgほどスパゲッティを作ったが完食。

世界的な食糧難が広がれば、小麦の加工食品も口に入らなくなるかもしれない。これからは日本人はせいぜい国産のお米を食べるようにすべきである。生米を入れるとお米のパンが出来てくる家庭用機器が人気だと誰かが話題にした。そんな機械は聞いたことがない。あればたしかに面白い。

久し振りに会った、まーくんとかなくんは大はしゃぎで家中を駆け回っていた。午後、かなくんのパパが、来週末に迎えに来ると言って、車で帰って行き、掛川のまーくん一家が引越しの後片付けがあると帰った。

今年は花粉の飛散量が昨年の10倍とかで、今一斉に飛散が始まっている。次兄に続いて長兄にも、帰りに使いかけのベニフウキの袋を渡した。ゴルフ仲間にも花粉症の人が多いのだという。また名古屋と掛川のそれぞれパパが花粉症で、ベニフウキを分けた。結果、10袋も買ってあったベニフウキも残りがわずかになり、また追加で買っておかねばならない。

豊岡に行く途中、電車の中で、長兄から甥のH君が一週間の休みで四国に行っていると聞いた。H君は東京で銀行員である。職業柄、年に一回、連続して一週間の休暇を取らねばならない。その休暇に四国へお遍路に行ったという。にわかに信じ難く、四国へ遊びに行ったのだろうくらいに思っていた。

今夜、伊勢の長兄から電話が来て、四泊六日(車中一泊)の旅から帰ってきたとH君から報告があったという。聞いてみると、徳島でおへんろの姿になって、レンタカーで徳島、香川、愛媛と44ヶ所の札所を巡ったのだという。H君には「四国お遍路まんだら」を進呈してあるが、読んでくれた上に、触発されて出かけたというから、「お遍路大使」としては嬉しいことである。何か感じるものがあったのだろうか。考えてみればH君もすでに40代半ばである。中間管理職の立場では、何かと悩むことも多いのであろう。よいリフレッシュになってくれれば幸いである。

ところで、夕方、テレビのローカルニュースで、「靜岡県警察では未解決事件の継続捜査を担当する‥‥」と、背中で聞いていて、何で靜岡県なのだと「?????」がたくさん付いた。しばらくその疑問符が消えない。静岡の家族に囲まれていながら、まだふるさとにいる気分から抜けていないための疑問符であった。みんなの顔を見て、ああ、ここは靜岡だとようやく納得した。妙な思い込み、こんな感覚は初めてである。
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駿府町はいよいよ行き詰る-駿河古文書会

(JR山陰線豊岡駅改札口)

ふるさと、豊岡、101歳のお袋、今朝は童謡を歌うほどに元気であった。食事もまずまずであった。午後長兄とふるさとを後にし、夕方には金谷に帰った。名古屋のかなくん一家が来る。

先週金曜日の駿河古文書会では、扶食米がいまだ出ず、駿府町全体がいよいよ行き詰って、餓死者まで出る様子が「萬留帳」に記録されていた。以下へ読み下し文で示す。

(三月)十一日に、又々町中より飢人書付取り候えども、これは差し上げ申さず候
一 十三日に承り候は、浄元寺において龍堂和尚施行(せぎょう)、十五日切りの由承り候に付、夜に入り御月番様、先御月番様まで参り御注進申し上げ候、当日御中ヶ間様御寄合い、江戸へ御注進成られ候由の事

一 十五日、当年行持本通弐丁目太兵衛、先年行持本通四丁目甚兵衛、後年行持馬場町源七郎、右三人御月番力石市左衛門様、大谷木治部右衛門様へ召し寄せられ、治部左衛門様御宅において、仰せ渡され候は、施行十五日切り候由、左候わば、餓死これ有るべく候、これにより、昨日御中ヶ間様御相談成られ候は町中勝手然るべき者の方へ内談仕り、何とぞ施行今暫く続き候ように了簡致すべき旨、仰せ渡され候、急なる御用に候えば御辞退申し上ぐべき様、御座なく候成る次第、相働き申すべく候旨、御請け仕り、その日より町中へ罷り出で相談いたし候

浄元寺の施行が終ってしまうと聞いて、御番所から、何とか町中の勝手が許す者たちと相談して施行を続けるようにと、頼まれた。いよいよ御番所側も追い詰められてきた。近いうちに扶食米を出すことが、避けられなくなってきた。

一 十六日、太兵衛、甚兵衛、御番所へ召し寄せられ、先御月番様、仰せ渡され候は、飢人の義、明細吟味仕り申し上ぐべく候由、仰せ渡され候、これにより町中改方触れ様は、御触留帳にこれ有り候

一 十七日書付差し上げ候
   恐れながら口上候覚え
 一 飢人合わせて四千六百三拾九人
右は当分飢餲に及び当麦作出来候まで相続申さざる者、銘々町内吟味仕り、書付差し出し候分、かくの如く御座候、
 一 その日を送りかね候者、合わせて五千三拾八人
右は飢人同前にその日を送り兼ね、麦作出来仕り候まで相続心元なき分、銘々町内吟味仕り書付差し出し候分、かくの如く御座候、あるいは日用取り、今日は賃銭取り申し候故、餲々ながら渡世仕り候故、その日は飢人とも申されず候、しかしながら明日雇人これ無く候えば、飢人に罷り成り候、その外職人、ざるふりなども、右の趣をもって吟味仕り候、畢竟飢人にて御座候事
 二口合わせて九千六百七拾七人
去る十日書付差し上げ候節、町々より差し出し候書付、都合仕り候えば、餲命に及び候者、その日を送り兼ね候者、合わせて壱万千九拾四人御座候、昨日仰付けられ候趣、町中丁頭どもへ委細申し渡し、吟味仕り候ところ、右の員数に罷り成り候事
 一施行の場へ罷り出で候者の外、病人、老人または面眉を存じ罷り出でず候類い、大分御座候事
 一餓死十三人
右は昨十六日仰せ付けられ候趣、惣町中明細に吟味仕り、書付差し上げ申し候、かつまた壱丁切に年行持方へ差し出し候書付、恐れながら御覧に入れ申したく差し上げ申し候、以上
 未三月十七日             年行持 印
       御月番様

右の書付、町中より差し出し候書付八拾八通相添え、御番所へ太兵衛、甚兵衛持参、先御月番様へ差し上げ申し候


扶食米が必要なのは麦作が出来るまでの何ヶ月かであることが判る。餓死者がいよいよ十三人出たことも報告されている。今年度の萬留帳はここで終り、この続きは来年度の五月頃以降に学ぶ予定である。次回学ぶときには扶食米が供出される記述が見られることであろう。
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今子浜かえる岩から、平家落武者部落「御崎」へ




(今子浜のかえる岩と千畳敷)

故郷豊岡にまだいる。午後、次兄が変えたばかりの車、長兄と3人で出かけた。国道178号線を西へ進んだ。郊外に出ると残雪が多く見られた。トンネルを抜けて、奥竹野、奥佐津と山の中を通って、柴山漁港で海のそばに出た。柴山漁港は外海が見えない良港である。嵐を避けるには最良の港であろう。たくさんのランプを付けたいか釣り船が何艘も舫ってあった。柴山漁港から香美町の香住漁港に向かう途中に今子浜があった。見たことのある景色に車を止めて貰った。

今子浜は、昔、小学校の低学年の遠足の目的地の一つであった。最寄の駅まで汽車で行き、駅からジャリ道を、岬を巡って今子浜まで歩いた。浜には千畳敷と呼ばれる平らな岩場があり、そばにはかえる岩と名付けられた、うずくまるガマ蛙に似た岩があった。日本海は潮の干満がほとんどないので、波が上がってくることのない千畳敷で、お弁当を食べたのであろう。景色だけが記憶の中にあって、遠足そのものの記憶はほとんど失われている。兄たちを車のそばへ残して、少し歩き回った。ここから岬へ出た大引の鼻からは、日本海へ夕陽が沈む様子が眺められ、「日本の夕陽百選」に選ばれているという。入り江のほとりに立派な宿があり、一泊してみたい所であった。冬場の現在は小さな浜は静まり返っていた。

香住漁港を抜けて、余部へ出た、日本一高い鉄橋といわれた山陰線余部鉄橋も、コンクリートの橋に架け替えられた。その直下にはまだ鉄橋の残骸が置かれていた。長年潮風にさらされて、たびたび行われた塗装にもかかわらず、さびがかなり深く進んでいて、コンクリート橋への架け替えも止むを得ないことだったと思った。既存の鉄橋を使いながら橋を架け替えるには、テクニックが必要だった。橋にかかる直前まで、鉄路はトンネルの中だから、大変難しかったようで、下から眺めると鉄橋の付け根辺りを、軽くカーブさせて逃げているのが判った。今までの鉄橋も記念物として一部壊さずに残されているが、観光資源としてはもう価値がないのかもしれない。


(平家落武者集落、御崎より)

余部の先から、脇へ逸れて、岬を巡る道に、次兄は車を進めた。その道の先に「御崎」という集落があり、子供たちは夏は余部小学校まで通っているが、冬場は分校が開くという。崖っぷちを怖いような道で、しばらく海沿いを進んだ。御崎は平家の落武者の集落だといわれている。壇ノ浦で敗れた平家の落武者が、隠岐の島へ逃れようと日本海を進むうちに、流されて当地へ着いた。おそらく人が住む村へ出る道もなく、その地で住み着いたものであろう。いつ頃に発見されて日本社会に組み込まれるようになったのであろう。おそらく色々な古文書も残っているのであろう。調べてみるのも面白いかも知れない。
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今夜は、故郷にいる

(新しい豊岡駅、一部完成)

今朝、電車で故郷に向った。年に2度位、101歳になるお袋に会うための帰郷であった。伊勢の長兄と京都で合流して、豊岡の駅に着いた。雪は途中にはほとんど無かったが、豊岡盆地に入ると、日陰や雪かきで積み上げた場所にまだ残っていた。豊岡駅舎は現在改装中であった。陸橋を渡り、エレベーターが出来ていたので、それに乗って降りた。今まであった駅舎は工事中で、改札口が見当たらない。そこにいた駅員に聞くと、改札は2階だという。同じエレベーターで戻ると、すぐ目の前に改札があった。改札を抜けて階段を降りようとするところへ、階段を登ってくる出迎えの次兄に会った。

お袋は寝ていることが多いが、最近は食も進み元気な様子である。意識はまだらで、どこまで判ってくれたか不明であるが、皆んなが会いに来てくれるので元気を出さねばならないと、すこぶるまともなことも言う。久しぶりに男兄弟3人がそろって、出てくる話は子供の話題である。長兄は名古屋のローカルニュースに出演した、鍵製造会社に勤めている次男の録画を見せてくれた。

食事のあと、今日は昼寝の時間がなかったから、少し横になった。兄二人は親父の8人兄弟の思い出を延々と話しているようであった。兄たちとは少し年が離れた自分には耳新しい話ではあったが、いつの間にかうたた寝してしまった。

午後11時を回って、茶の間でブログを書く自分を残して、皆んな休んでしまった。壁時計が秒を刻む音だけが聞こえる。隣のお袋も休んでいて、静かである。

昼間、豊岡市の広報を懐かしく見ていた。表紙に特急「こうのとり」の最前部の写真が出ていた。玄武岩の玄さん(豊岡市のマスコット-ちょっと怖い)が一日駅長になって、一緒に写っている。この3月のダイヤ改正で、大阪発福知山線経由の城崎行、今までの「北近畿」が新車両になって、「こうのとり」という愛称に改名された。この1月22日に打上げ成功した、日本の国際宇宙ステーション補給機「こうのとり」に続いて、わが故郷に新しい名物が出来た。こうのとりを中心に町造りを進める豊岡市では、次々にアイデアが実現されていく。

さらに広報を見ていくと、図書館では古文書講座が初級と中級、それぞれ月一回、開催されているのを見つけた。どんな古文書を教材に進められているのであろうか。受講できるわけではないが、大変興味深く思った。

豊岡市の現在の人口は、88,828人、男性42,516人、女性46,312人、世帯数32,347人である。10万人にはまだかなり足らない。静岡の島田市、掛川市いずれも10万人を越えている。市の鳥「こうのとり」、市の両生類「オオサンショウウオ」、市の石「玄武岩」、市の木「やなぎ」、市の花「チューリップ」、市の魚介「カニ」とあったが、カテゴリーの決め方がかなり強引である。
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2月23日は富士山の日というが?

(大代川も光の春を迎え、桜が咲くまであと一月)

めっきり暖かくなって、日が長くなって、大代川の川面に弾ける光はもう春である。気温も随分暖かくなった。一昨日からスギが一斉に開花したのであろうか、花粉が全開で、花粉予報は前日まで「少ない」の表示が、一足飛びに「非常に多い」となった。ベニフウキをこの10日ほど朝夕2杯飲み続けてきたが、さっそく我がセンサーが反応して、月曜日は一日不調だった。飲む量を倍に増やしたら、昨日は症状が消えた。今日も午後ムサシを散歩させてきたが、症状は出なかった。花粉の多いときは飲む量を増やせば良いと、今回知った。いよいよスギ花粉との戦闘が開始された。あと2ヶ月の闘いである。

靜岡県では今日2月23日は「富士山の日」である。各地で色々なイベントが計画されている。川勝知事が鳴り物入りで始めたことだが、県民はもう一つ醒めている。学校や企業をすべて休みにして運動を盛り上げようとしたが、企業は休みにならず、親が休みでなければ学校も休めないと、休みになったのは県立高校位で、小中学校は東部の幾つかの町が休みにしたくらいであった。周辺各県で盛り上げて、富士山を世界文化遺産に登録することが目標である。しかし富士山周辺はずいぶん開発が進んで、いまさら世界遺産登録には、なかなか難しいのではないだろうか。

本当に世界遺産にしたいなら、美化のために、個人や会社の権利を制限して、美化を妨げている施設を排除するぐらいの覚悟が必要だと思う。富士山周辺を巡ると、バブル期などに出来た施設で、今や美化を害するだけの施設が醜怪な姿を晒している。しかし、それが個人のものである限り、行政が手を出すことは出来ない。条例を作ってそれらを排除して、自然に戻すような事業まで考えることが出来れば、世界遺産に登録も夢ではなくなるだろう。

もう一つは、このところずいぶん増加している富士登山の受け入れ体制である。各合目の小屋の質の悪さは評判である。どういう権利関係があって小屋掛けをしているのか、知らないけれども、一夏で一年分の稼ぎを上げようとする商売人ばかりで、日本アルプスの小屋のように、山を愛する人たちが経営しているようには見えない。せめて上下水は各小屋が共同で施設を作り、パイプを下界まで敷設して、上げ下げする位のことを、行政が音頭をとってやるべきであろう。

30万人の登山者が登るには、余りにも施設がお粗末である。自分も過去に4度登って、小屋の宿泊も経験した。世界から登山客を迎えるには余りにお粗末である。

富士山の観光で飯を食っている人たちが、意外と「富士山の日」の活動に冷淡であるのは、上記のように、行政が観光業のやり方に口を出して来るのではないかと、警戒しているからだと聞いた。
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恐るべし、インターネットの力

(庭のヒヤシンスが芽を出す)

チュニジアで起きた長期独裁政権の崩壊が、エジプトに飛び火し、ムバラク政権もあっけなく倒れ、現在、チュニジアとエジプトの間にある、リビアのカダフィー政権が倒れようとしている。国民に向けて銃を発砲する強硬措置に出ているカダフィー政権であるが、内部からも離反者が出て、いまや風前の灯火である。この火の手はどこまで広がるのであろうか。

思い出すのはベルリンの壁が崩れて、東欧の独裁政権が将棋倒しのように倒れて行ったときのことである。あの当時、テレビ電波は国境を越えて、政府の報道統制にも関わらず、西側の繁栄や他の東欧諸国の状勢などが、国民には筒抜けで、独裁政権打倒の流れが、東欧諸国に一気に広まったといわれた。

今回の中東諸国に起っていることをみると、時代はさらに進んで、これらの諸国の独裁政権の打倒を「インターネット革命」と呼んでいるマスメディアもある。草の根の運動が、ツイッターやソーシャルネットワークサイトなどによって、大きな力になって政権を倒すまでになる。

チュニジア、エジプト、リビアと続いて、バーレーン、ヨルダンなど、燎原の火のごとくに燃え広がっていく。今、自国に飛び火しないかと、その様子を戦々恐々として見守っているのが東南アジアの国々であろう。特に中国は天安門事件の二の舞いになることを恐れて、インターネットへの介入をさらに強めている。

世界的な小麦の不作によって、穀物価格が高騰し、食文化を小麦に頼る国々の国民の不満が、沸点に達しているといわれる。今回の「インターネット革命」にはそういう背景がある。だから今年は世界の動きに目が離せない年になったと思う。

今日、ニュージーランド南部のクライストチャーチで大地震があった。日本人観光客が多く訪れる町だというが、語学学校「キングス・エデュケーション」のビルが崩壊し、語学留学している日本人学生が巻き込まれたという。混乱する現地の状況の中で、ほとんど唯一に近い報道の元は、被災者が日本の学校や家族に送ったメールであった。マスメディアはそれを追っかけているだけで、こういう災害に対してマスメディアが全く無力であることを露呈した。

今や世界でインターネットの力は強大になってきたと思う。尖閣ビデオの漏洩やウィキリークスの活動は、国家秘密という範疇を無意味にしてしまった。さらには、ネットを制限する国にはサイバー攻撃を加えるという世界的なグループもあったり、年頭から、インターネットの力をまざまざと見せつけられている。
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「歳代記」散逸文の発見 - 古文書に親しむ

(庭に咲く数少ない花の一つ、花の名前はワスレナグサの一種)

土曜日の「古文書に親しむ」で、講師から奇跡のような話があった。かつて、この講座の教材として読み進めていた「歳代記」、幕末から明治のはじめに掛けて、世の中で起きたことが、東海道金谷宿という辺地に居て、かなり克明に記録されていた。しかし、その中に大政奉還のことが一言も触れられていないことが、講師には不思議であったという。

ところが最近、別の旧家の古文書の整理を頼まれて、整理していたところ、どこかで見たような一枚の文書を発見した。そこには大政奉還の記述があった。まさに「歳代記」の欠落した一枚の発見であった。その一枚がどうしてそこへ紛れていたのか、今となっては判らないが、この奇跡を喜びたい。この一枚を補って「歳代記」は完本となった。今日は、そのページのコピーを頂き、急遽その解読をしていただいた。以下へ、その一部を読み下し文で示す。

徳川内府宇内の形勢を察し、政権を帰し奉り候に付、朝廷において万機御裁決遊ばされ候に付いては、広く天下の公儀尽し、偏(ひとえ)に党の私なきを以って、衆心と休戚を同じうし、徳川祖先の制度を受ける事、良い法はそのまま御変更これ無き旨、仰せ出され候間、人々公明聖大の聖意を奉り、おのおの安心してその家業を営み候様、仕るべきものなり
    慶應三卯年十二月

※ 内府(ないふ)- 内大臣のこと。ここでは徳川慶喜。
※ 宇内(うだい)- 天下。
※ 万機(ばんき)- 政治上の多くの重要な事柄。また特に、帝王の政務。
※ 休戚(きゅうせき)- 喜びと悲しみ。幸と不幸。

徳川慶喜天下の形勢止むを得ずを察し、大政返上、将軍職辞退相願い候に付、断然、聞こしめされ、既往の罪問わせられず、列藩上座にも仰せ付けらるべく候、豈(あに)図らんや、大阪城へ引き取り候、旨趣、作謀に蒙りて、さる三日、麾下のものを引率、帰国にしたがうを仰せ付けられ候、会桑を先鋒として、闕下を犯し奉り候勢い、現在彼より兵端を開き候上は、慶喜反状明白、始終、朝廷を欺(あざむ)き奉り候段、大逆無道、その罪逃るべからず、この上は朝廷において、御容恕の道絶え果て、止むを得られざる御追討仰せ出され候、聊か、兵端既に開き候上は、速々賊徒誅戮、萬民塗炭の苦しみを救われ候、叡虜に候間、今般、仁和寺宮、征討将軍に候、任じ候に付、これまで愉安怠惰に相過ぎ、あるいは両端を犯し、あるいは賊徒に従いおり候者たりとも、真に悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有る輩は、寛大の思し召しにて、御採用在らせらるべく、もっともこの時節に至り、大義を弁えず、賊徒と謀(ぼう)を通じ、あるいは、潜居致され候者、朝敵同様、厳科に処さるべく候間、心得違いこれ無き様候事
   慶應四戊辰年正月

※ 旨趣(ししゅ)- 1 事柄の意味・理由。趣旨。2 心の中で考えていること。所存。
※ 麾下 - 将軍じきじきの家来。はたもと。
※ 会桑 - 会津藩と桑名藩。
※ 闕下(けっか) - 天子の御前。
※ 容恕(ようじょ)- ゆるすこと。
※ 誅戮(ちゅうりく)- 罪ある者を殺すこと。
※ 愉安(ゆあん)- よろこびやすんずること。
※ 両端(りょうたん)- どっちつかずの態度。ふたごころ。

おそらく、宿場に官軍側から回ってきた文書を、書き写したものと思われる。幕府が出した文書は、パターンが決まっていて、それほど難しい漢語、熟語は使われなかった。たくさんの人に正しく伝えるには、平易な言葉で判りやすく書く必要があった。しかし、人々を煽る意図を持つ文書は、難しい漢語を多用して煙に巻くような文章が多かった。この文書は明らかに幕府追討の意図を持った官軍側の文書である。

筆者の松浦幸蔵さんは、淡々と書き写しただけで、何も論評を加えていないが、どんなことを思いながら、この文書を写し取ったのであろう。
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”駿河町中を加宿に”、伝馬町の企み - 駿河古文書会

(庭のクリスマスローズ)

先週金曜日の駿河古文書会、扶食米依頼の一連の文書の中に、突然のように次の文書が紛れ込んできた。以下読み下し文で示す。

一 同九日に風聞に承り候は、伝馬町問屋年寄、江戸において、当町を加宿と成らんに願い候由、風聞に付、その段、御月番様まで申し上げ、十日に町中寄合い致し、口上書、御月番様まで差し上げ申し候

その口上書は以下の通りである。

   恐れながら口上にて申し上げ候覚え
伝馬町問屋、年寄何やら御願いの義にて、さる頃、江戸へ罷り越し候、それについて昨夕風聞に承り候は、町中を加宿に御願い申し上げ候由、定めて虚説にて有るべく御座候えども、万々一、実説にて御座候えば、町中相立ち申さず候、当町段々困窮に付、先年仰せ付けられ候、三千百四拾弐人ずつ、年々伝馬町へ差し出し候人足さえ、御訴訟申し上げたく、より/\相談仕り罷り在り候ところ、右風聞承り驚き奉り候、幸い伝馬町の者は在江戸仕り候えば、何とぞ江戸御屋敷へ召し寄せられ、御尋ね遊され下さり候様に、願い奉り候、風聞
の儀申し上げ候段、はばかり多く存じ奉り候えども、万々一の儀も御座候えば、町中ひしと相立ち申さず候に付、恐れながら申し上げ候、以上
     未三月十日             年行持 印
       御月番様
右書付類、御番所御月番、市左衛門様、治部右衛門様まで差し上げ申し候、江戸へ仰せ上げられ下すべく候由、仰せ渡され候事


実は、扶食米依頼の最初の文書を御番所へ提出するときに、こういう文があった。

一 正月廿五日、会所において、町中人別書付、請け取り候節、伝馬町問屋より、役人庄兵衛を以って、断り申し越され候は、伝馬町の儀、外に御願いこれ有るに付き、今度扶食米御願いの儀は御除き下さるべく候、かくの如く申し来り候ゆえ、惣人数に除き申し候事


ここでいう、「外に御願いこれ有るに付き」というのが、つまり、「町中を加宿にして欲しいという御願いであった」という風聞である。風聞だから事実かどうかわからないのであるが、駿府の町々は真剣であった。

駿府は九十六町からなるといわれるが、扶食米の願いを出したのは、その内八十八宿であった。東海道の宿場は駿府宿ではなくて「府中宿」と呼ばれていた。府中宿として宿場町の役割を果たしてきたのは、上下伝馬町を中心に、新谷町、花陽院門前町、鋳物師町、上横田町、下横田町、院内町、猿屋町の八ヶ町であった。つまり(96-88=8)の八町が、この府中宿を構成して、扶食米願いから外れているのである。

府中宿側が、残りの八十八町も加宿にして欲しいと、どうして願うのか。「加宿」とは、江戸時代、人家が少なくて人馬を出しにくい宿駅で、地続きの一、二の隣村をこれに加えて一か宿の用を勤めさせたことである。人馬の供出については、助郷の制度もあって、近郷の村々から人馬が集められそうに思う。また、当時すでに、駿府の町々はたくさんの人足を府中宿に出している。

宿場は一般の旅人からは宿泊や食事などで金が稼げるけれども、幕府の役人や参勤交代などでは、多くの人馬を宿側に負担で出さねばならず、重荷になっていた。加宿にすれば、その費用が分担できるメリットがあるけれども、旅人の宿泊客も取られることになりはしないのだろうか。ともあれ、ここでは府中宿側では負担の軽減になり、加宿にされる側では負担がさらに増加すると考えられていた。

歴史的には加宿になった事実はない。風聞がガセだったのか、伝馬町など府中宿側の願いが通らなかったのか、あるいは、駿河町中の反論が効を奏したのか、ここでは不明である。
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ふるさとの雪の思い出 その3

(掛川初馬のシダレウメ)

ふるさとで子供の頃には、雪が降ると、どんな遊びをしたのだろう。町場でも家の前には雪がうずたかく積まれる。雪かきした雪に加えて、屋根の雪下ろしした雪が加わる。積雪が1メートルにもなると、昔の木造家屋は雪の重みで、まず、障子や襖の建具の開け立てがスムーズに出来なくなる。放っておけば部屋の中に閉じ込められかねない。だから大屋根に登り雪を下ろすことになる。落す場所は道路しかないから、道路はたちまち雪で埋まる。もちろんとっくに車は通れなくなっているから、人の通行を妨げないようにして、道路は雪の置場に変じる。屋根の雪下ろしのあとは、再び玄関口の雪かきをして、その脇に雪の山が出来る。雪は現代と違い、そのままそこで溶けてなくなるまで置かれることになる。

子供たちにはその雪山が絶好の遊び場で、衣類が濡れて寒くなるまで雪と遊ぶ。最も簡単なのは、雪山にスロープを作り、雪の滑り台を作ることである。滑り台造りに使った、雪かき用の平たいスコップがそのまま遊び道具に変じる。スコップはどの家にもあり、雪かきが楽なように、スコップには蝋が塗られ、滑りやすくしてある。だから、雪の上を良くすべる。柄を前に、スコップに乗って柄に手を掛けスロープから飛び出せば、短い距離ながらすべることが出来る。雪の上だから怪我はしないし、雪が無ければ時々通る車や自転車が危ないこともあろうが、雪に閉ざされれば安全である。何度も何度も飽きるまで遊んだ。

雪が多ければ雪穴を掘ってかまくらを作る。掘り出した雪をかまくらの上部に次々に貼り付けて雪洞を大きくしていく。中に入れるようになれば、中から見て雪の色が暗い部分が雪壁が厚いから掘って言っても壁を崩すことにはならない。明るいところは壁が薄いから、外へ出て見当をつけて雪を張り付けて補強する。そして、かまくらは段々と大きく形が整っていく。かまくらの中に色々持ち込んで遊んだ記憶はない。造り上げたことで満足して終ったようだ。そんな風に造ったかまくらは、一晩置くと外も内も表面が凍り付いて、スコップが立たないくらいに硬くなる。だからなかなか壊れずに、地面から溶けて背が低くなり、入口も小さくなって、やがて中にも入れなくなる。

小学校のグラウンド脇にはスキー場と呼ばれた20メートル足らずのスロープがあった。グラウンドはかつて湿地を埋め立てた場所で、町より少し低かったから、その落差を利用したスキー場であった。戦時中はその斜面が芋畑になったと聞いていたが、子供の頃は草の生えた荒地に過ぎなかった。しかし雪が降ると一変して小さなスキー場になった。スキーをした記憶はないが、手製のそりのようなものですべった記憶はある。自分たちが小学校を卒業して間もなく、そのスキー場には季節が間逆のプールが建設され、夏には後輩たちの嬌声が聞こえてくるようになった。

子供は遊びの発明王だから、雪の遊びはまだまだたくさんあったのだろうが、なかなか思い出せない。
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