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「当代記 巻一」を読む 43

(散歩道のサザンカ花盛り、11月26日)

午前中、「門出」へ渋柿を買いに行く。もう終わりなのか、一割ほど値が上がっていた。最大級の渋柿17個、1650円購入して、午後加工した。今シーズン計248個。先月、頼まれた「田沼悪口文書」悪戦苦闘したが、今日、漸く何とか解読した。完璧とはいかないが、95%ほどは解読出来たと思う。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

(元亀四年)同四月、信州駒庭に於いて、武田信玄卒(年五十三)。十ヶ年に及び精進潔斎(しょうじんけっさい)たりと云えども、去る二月より、煩(わずら)いに依り、魚鳥服用さる。信玄病死を相隠し、三ヶ年、露顕せず。信玄三男、四郎勝頼、その跡を継ぐ。信甲駿、西上州の主たり。(信玄嫡子は先年謀反により生害さる。二男は盲目なり。)
※ 精進潔斎(しょうじんけっさい)➜ 肉食を断ち、行いを慎んで身を清めること。

この夏中、鉄炮の如く天鳴る。

七月廿日、三川長篠へ家康公御働き、火矢(ひや)を射させらるゝの処、城中、同丸とも、悉く焼失の間、則ち、取り詰めこれを攻めらる。
※ 火矢(ひや)➜ 火をつけて放つ矢。

同八月中旬、長篠後詰(ごづ)めのため、信甲駿、西上野(こうずけ)人数、三川、遠江両方へ出る。(武田勝頼は、この度、自身は出ず)
※ 後詰め(ごづめ)➜ 先陣の後方に待機している軍勢。

先ず鳳来寺筋へ馬場美濃守伴い、五千余人の人数を、長篠近所、内ヶ野辺まで足軽を出し、二つの山に陣取り、黒瀬に陣取る衆、武田佐馬介(信玄甥)、土屋右衛門、已下八千余なり。かの衆、作手へ相移り、さて設楽へ出で、節所(せっしょ)を前に当り、東西より通路を留(と)めば、定めて家康公、吉河筋へ退散あるべきの間、打ち果すべきの旨、相議する処、作手主(あるじ)、奥平美作守貞能男(むすこ)、九八郎信昌、家康公に属し、忠節せしむ間、信甲衆、十方(じっぽう)に迷い、を空(から)にす。(この度、奥平忠節、須弥山九牛一毛(きゅうぎゅういちもう)の由、時の人これを云う)
※ 節所(せっしょ)➜ 山道などの、通行困難な所。難所。
※ 十方(じっぽう)➜ あらゆる方角、場所。
※ 手(て)➜ 部将の配下、軍勢
※ 須弥山(しゅみせん)➜ 古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。。
※ 九牛一毛(きゅうぎゅういちもう)➜ 九頭の牛の群れにおける一本の毛。きわめて些細で取るに足りないことのたとえ。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「さむらいたちの学び」島田市史編さん委員会報告会

(散歩道のハナグルマ、11月26日撮影)

この季節にガーベラと、珍しくて写真に撮ったが、調べていくとハナグルマとあった。しかし今はガーベラとも呼ばれるとも書かれている。間違ってはいなかった。春と秋に咲くようで、季節外れでもなかった。

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(昨日の続き)
焼津を発って、報告会会場の島田市初倉公民館くららに向う。ちょうどお昼だったので、食事処を探したが、新型コロナの心配もあり、結局、コンビニでそばとおにぎりを買い、公民館に向った。断られたら車で、と話しながら、報告会の受付にゆくと、受付は1時からだといわれた。弁当を食べたいと云うと、ホールの隅のテーブルを示してくれた。本当は食事は禁止だったのだろう。最近のコンビニ食はどれも結構おいしい。

受付を通り会場に入ると、席を離して、50席ほどが準備されていた。時間が経つにつれて、古文書解読で知り合った人達と、次々に出会った。自分の最初の古文書解読の先生だったKさん、御主人と一緒である。共に学んだAさん、Nさんなど。色々な会場で必ずと言ってよいほど出会うKさんも、開始少し前に駆けつけてきた。いずれもマスクをしているから、なかなか見分けにくい。見逃した人もいるかもしれない。

講師は島田市博物館外部講師、天野忍氏であった。国学院大学を卒業、県内で教員を勤めあげ、図書館長や大学の先生をしている。60歳を過ぎてから、神主の資格を取ったという。今日は、テーマに合わせてであろうか、羽織袴を着用の異形であった。

講演の内容は、明治になって、駿河と遠州は駿府藩となり、江戸から徳川幕府を支えてきた人々と、その家族が大挙して移住してきた。とはいえ、駿府藩は石高70万石で、今までの十分の一の石高であった。多くの幕臣たちは、藩から離れ、自ら稼ぎを見付けるしかなかった。その一部は、牧之原に入植して、日本一の大茶園の礎を築くことになった。そういう幕臣の一人、大草家に残る古文書が調査の対象となり、この報告会となった。

古文書は、帰農しても、武士の矜持が捨てきれなかったようで、文武両道の各種書物が多岐にわたって残されていた。

個別の書物名がその内容と共に紹介された。
  「兵要録」長沼宗敬著(関口隆一が学修)
  「中條上書 完」中條鉄太郎著(西尾文庫の印)
  「佐久間上書 完」佐久間象山著(西尾文庫の印)
  「慎機論」渡辺崋山著(西尾文庫の印)
  「闘邪小言」大橋訥庵著
  「徳川斉彬、ぶらかし策」の書
  「蒭尭論 武道篇 全」清川八郎著
  「開国兵談」林子平著
  「西尾寛一郎正恒」(西尾文庫の印)
  「二天記 完」宮本武蔵伝、山岡鉄舟蔵書
  「博物筌」勝海舟
  「文政方策誌 全」   など。
書名を見ていくと、攘夷論から開国論まで、中には発禁となった本まであり、当時の幕臣たちも、色々な考えを学ぼうとする意欲と、そんな機会をしっかり持っていたのだと思った。難民のように、江戸から限られた荷物しか許されない時に、それらの書物を携えてきたのである。

中で「西尾文庫」とあるのは、幕臣たちの師匠筋にあたる「西尾寛一郎正恒」の蔵書だったという意味である。西尾寛一郎は幕臣としては中間管理職のような地位の人であった。休憩時間に、これらの書物は漢文か和文かと聞いた所、ほとんどは漢文で書かれているとの答えを得た。多分これらの書物は、有名な本は別として、まだ内容までは読まれていないようだ。どれか一冊、読んでみたいと思った。

読書:「いすゞ鳴る」 山本一力 著
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「寺社からたどる戦国の焼津」焼津歴史民俗資料館企画展

(七五三で賑わう焼津神社)

初倉公民館で、「さむらいたちの学び」と銘打った、島田市史編さん委員会報告会があるというので、NTさんを誘って参加した。報告会は午後2時からだったが、NTさんに付き合って、9時半に出発、まず、焼津歴史民俗資料館で開催中の「寺社からたどる戦国の焼津」の企画展を見た。

駿府から見て、山西と呼ばれた旧志太郡で、戦国武将と有力社寺がどのような関係を結び、部将たちは武運長久と支配体制の確立をめざし、社寺側はその保護を受けたかということを、古文書や文物で示す企画展であった。意図は理解できたが、見学側から感想を述べると、常設展示と企画展示が同フロアでごちゃまぜの感があって、分かりにくかった。戦国武将も、時代を追って、今川➜武田➜徳川➜豊臣(中村一氏)と移っていき、それぞれが敵になったり、味方になったりと、複雑に変動した地域である。その中で各々の社寺がどのように生き残ってきたのか。あるいは堂宇を焼失し消えた社寺もあっただろう。その辺りに焦点が当たれば、理解しやすかったのかもしれない。帰りに係り員の女性から、焼津の文化遺産の資料を色々頂いた。

その後、社寺の文化財に造詣の深いNTさんに付き合って、車では焼津歴史民俗資料館からそれほど遠くない、焼津神社➜永豊寺➜海蔵寺と気になる建物を見て回った。


(焼津神社の新社務所)

焼津神社は今日、明日が七五三の最終で、氏子の人たちが出て、駐車場の警備などをして賑わっていた。最近、近代的な社務所が整備されて、鎮守の杜の様相が随分と変わったと思う。七五三が終れば、初詣に向けて、いっせいに準備が進むのだろうと思った。


(永豊寺の茅葺山門は薬医門)

永豊寺は山門が茅葺で、NTさんはそれが見たかったという。山門は薬医門で、カヤが少し草臥れていると、NT氏は云う。天然素材の茅葺は、中が空洞のヨシが最高の素材で、中が白く詰まったススキなどが続く。それでも傷みやすいので、数年に一回腐りの来た部分を差し替えるなどの補修をしていけば20年から30年くらいは持つ。ところが、補修が必要なことを、知らない管理者が見受けられることは残念だと話す。


(海蔵寺の総ケヤキ造りの本堂)

海蔵寺は駿河地蔵巡りで立ち寄った記憶がある。今日は保育園はお休みで、門は開放されていた。NTさんは海蔵寺は初めてのようで、用材がオールケヤキで造られていることに驚く。用材が幕末に川根から調達されたという案内板に、幕府直轄の御林からは、余程強力な権力者の指図が無ければ調達が出来ないはずで、海蔵寺の置かれた地位が想像できるという。あちこちに葵の御紋が見えるのも納得であるという。建物を見て、建築当時の寺格まで想像できるというのは、新しい発見であった。

この後、「さむらいたちの学び」の報告会に出席したが、その報告は明日にしよう。
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「当代記 巻一」を読む 42

(ミカン畑に紅白の花が咲く、一昨日撮影)

ミカン畑に花がさいたように見える。紅白の袋を掛けて、大晦日を先取りしている。蜜柑は小さくて、レモンのように見える。もしかしたら、門出へ並べるのかもしれない。

朝、磐田のOさんより電話。来年中には脱稿できるらしいと聞く。その案内もあって、来月二日に家へ見えることになった。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

浅井日来(にちらい)の存念は、越前平均(平定)せば、江北肝要の(ちまた)たる間、浅井も追い立てらるべきかの旨、嫌疑に及び、先年敵対しけるとかや。惣別(そうべつ)、信長公、大心(おおこころ)第一の将たる間、左様の儀これ有るまじき処、かくの如く疑い、浅井、運の窮す所かな。
※ 日来(にちらい)➜ 日頃。平生。
※ 巷(ちまた)➜ 町中(まちなか)。大ぜいの人々が生活している所。
※ 惣別(そうべつ)➜ およそ。だいたい。総じて。
※ 大心(おおこころ)➜ 人をよくうけいれる、広くゆったりした心。


九月四日、鯰江城主、佐々木右衛門督、種々懇望さるゝ間、助命され、則ち退散す。

同六日、信長岐阜へ下られ、先年千種峠にて、信長を鉄炮にて打ち奉りし、杉谷善住坊、高島に深く隠れて居たりしを、磯野丹波守捜し出し搦め取り、同十日岐阜へ進上、信長、斜めならず悦び給い、竹鋸(たけのこぎり)を以って首を引かれ、四、五日の程に命絶えたり。
※ 斜めならず(ななめならず)➜ ひととおりでない。

伊勢国西別所と云う所に、長島門徒構え有り。人数を遣わされ悉く切り捨てらる。同片岡に籠る一揆、同じく切り捨てらる。廿五日、御皈(かえ)りの砌(みぎり)、長島より相慕い、手負い数多出来(しゅったい)。林新三郎討ち死に。新三郎内、加茂次郎左衛門兄弟、追い腹を切る。

天正元癸酉(1573)、同年正月、武田信玄、浜松野に於いて越年。同三日井平を通り、三川野田へ押し寄せ、相攻めらる。かの城三月十八日落居。城主、同人数引き連れ、長篠へ引き入れらる。その後、三方人質相替え、城主、同何凉吉田へ送遣(そうけん)さる。
※ 送遣(そうけん)➜ さしむけること。行かせること。派遣。

旧冬、浜松合戦の儀を、注進なき事不審の由、越前より使者を以って信玄陣へ相尋ね、朝倉喜悦と云々。
※ 浜松合戦(はままつかっせん)➜ 三方ヶ原の合戦。

三月、信玄、長篠に在陣、かの城普請これ有り。

四月、信州通り皈陣。長篠在陣中、作平へも人数を遣し、普請あり。番手(ばんて)入れらる。
※ 番手(ばんて)➜ 城にいて警護に当たる兵士。城番。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「当代記 巻一」を読む 41

(散歩道の皇帝ダリア)

一時はあちこちで見られたけれども、この頃は減って、久し振りに見た。学名 Dahlia imperialis 確かに皇帝ダリアである。日本名は「木立ダリア」これは命名で負けている。夕方で日が陰って、少し残念であった。

今年も干柿も終わりかと、昨年作った数を調べてみると、最後の購入は奇しくも今年と同じ11月25日、数は昨年が310個、今年が231個、80個ばかり少ない。まだ出るようなら、もう少し作ってみようと思った。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

信長、敦賀に三日御座、十八日府中へ移り給う。義景、大野山田庄六坊へ遁(のが)れ入る。稲葉を遣わさる処、朝倉式部大夫、義景の首を討ち、稲葉手へ渡す。義景の侍、鳥井、高橋、追腹(おいばら)を切る。越前国守護として、前波播磨守を仮に置かる。
※ 追腹(おいばら)➜ 家来が、死んだ主君のあとを追って切腹すること。

同廿六日、江北、虎御前山の城取り巻かれ、廿八日、(浅井)下野守(備前守が父)城責め落され、則(そく)切腹。鶴松大夫と云う舞々(まいまい)、介錯して腹を切る。廿九日、信長、京極つぶらの嵩(たかみ)へ上り給う。浅井備前守腹を切り、浅井石見守、赤生美作を生け捕り、さて生害される。浅井が跡職、感状を添え、木下藤吉に下さる。
※ 舞々(まいまい)➜ 曲舞(くせまい)およびそれから派生した幸若舞(こうわかまい)の異称。また、それに携わる人。
※ 京極つぶら(きょうごくつぶら)➜ 小谷城の京極丸の別称。


浅井備前守妻女は信長の妹なり。然る間、異議無く引き取らる。〔後に柴田に嫁し給い、十年余以後、越前に於いて、柴田滅亡の時、同じく焼け死に給う。この腹に浅井息女、二人これ有り。越前に於いて希有(けう)にしてこの難を逃れ出で給う。姉公は、後、秀吉公に嫁し給い、八幡殿(はちまんどの)並び秀頼御袋これなり。妹は秀吉御計らいとして、江戸秀忠に嫁し給い、男女の君達誕生し給う。備前守嫡子萬福と云うこれあり。備前へ人質として指し越し、越前平均(平定)の後、加賀国へ行きて隠れたりしが、盲人となる間、母または祖母公(信長御袋)を頼りて出でたりしを、近江国木本にて信長により誅(ちゅう)さる。〕
※ 信長の妹 ➜ お市の方。息女は三人。茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)。
※ 希有(けう)➜ 不思議なこと。
※ 八幡殿(はちまんどの)➜ 豊臣秀吉の嫡男。鶴松の名で知られているが、幼名は棄て、武運長久を祈るために、八幡太郎とも呼ばれた。三才で死亡。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「当代記 巻一」を読む 40

(この鮮やかな黄葉は? 22日撮影)

鮮やかな大きな葉っぱの黄葉だが、樹種が判らない。

午前中、女房と門出へ行き、渋柿を購入してきた。二人だったので、渋柿40個、2400円購入して、午後4時頃までかかって加工した。今シーズン計231個。さすがに草臥れ、腕は痛くなるわ、腰が痛くなるわ、往生した。今年もそろそろ終わりだろうか。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

信長より先に出る衆これ有り、夜中の事、誰々と御尋ね有り。前田又左衛門、佐々内蔵助、戸田半右衛門、下方左近、岡田助右衛門、同子助三郎、赤座七郎右衛門、高木左吉、福富半左衛門、土肥助二郎と答え申す。信長喜悦し給う。右の衆諫言(かんげん)、夜中に御(さきがけ)、如何(いかが)有るべきとの儀なり。承引(しょういん)無く相進まれ、然る処、一里先の高月に陣取り、歴々(れきれき)の衆これを知らず、休み居たり。
※ 諌言(かんげん)➜ 目上の人の過失などを指摘して忠告すること。また、その言葉。
※ 魁(さきがけ)➜ 先駆け。他の者に先んじて敵中に攻め入ること。
※ 承引(しょういん)➜ 聞き入れること。承知すること。
※ 歴々(れきれき)➜ 地位・身分などの高い人々。


北敵、山崎七郎左衛門殿なる間、刀根山峠にて、暫し防戦に及びけれども、追い崩れ、敦賀までこれを討つ間、首級三千余これ有り。この内、朝倉治部大夫、同掃部助、同権守、同土佐守、三田崎六郎、河合安芸守、青木隼人助、鳥井与七、窪田将監、侘美越後守、山崎新左衛門、同七郎左衛門、同肥後守、その弟、朱本坊、細木治部少輔、伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、同三郎兵衛、同新兵衛、長崎大乗坊、和田九郎右衛門、同清左衛門、引檀六郎三郎、小泉四郎左衛門、斎藤右兵衛大輔龍興(美濃国牢人)都合廿四人か。これ宗徒の者なり。(龍興をば、氏家左京内、宮川但馬これを討つ)
※ 宗徒(しゅうと)➜ ある宗教、宗派の信仰者。信徒。

原加左衛門という者(不破河内内)、印牧弥六左衛門を生け捕り、この者、右首、能く見知り言上す。これ武篇
の覚えこれ有る間、助命さるべくの旨、曰いけれども、申し請けて(ちゅう)る。各(おのおの)美談(びだん)、金松又四郎の首取りて参上、生足(裸足)に成りて忽(にわか)に出で、信長、太刀に(お)を付け給う、この半(はん)を下され、忝(かたじけな)き次第なり。
※ 誅す(ちゅうす)➜ 悪人や罪のある者を殺す。成敗する。
※ 美談(びだん)➜ 賛美すること。ほめそやすこと。
※ 緒(お)➜ 繊維をよった細長い線状のものの総称。糸やひもなど。裸足を見て、太刀の緒にした残りの半分を、鼻緒にするようにと、下さったのであろう。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「うらみ橋 八丁堀剣客同心 8」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 39

(散歩道から夕焼け雲)

夕方、女房と散歩にでる。散歩道からの夕焼けは鰯雲、またはうろこ雲。巻積雲といって、この雲が出ると天気が下り坂という。天気予報をみると、高気圧が東へ動いて、次の高気圧に覆われる前、一時的に雲が多くなるようだが、明日の昼には天気も回復するようだ。そして寒くなるらしい。干柿作りの秋、天気が気になる。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

畿内置目(おきめ)、百姓ら撫育(ぶいく)し給う。七月廿六日、信長下り給う。江州、田中、木戸両城取り懸らる処、城主悃望せしめ、城を相渡す間、明智十兵衛に下さる。同廿七日、長岡兵部大夫藤孝、淀へ相働き、岩成主税助五百余の人数にて相戦い、番頭大炊助、諏訪飛騨守、岩成を立て出で、信長に属す。(これ藤吉秀吉調略(ちょうりゃく)の儀なり)兵部大夫内、下津権内、岩成を討ち、則ち江州へ首を持参す。信長感悦し給い、金子百両相添え、感状下さる。
※ 置目(おきめ)➜ 中世末期、また近世の為政者、武将あるいは惣(そう)などのつくった規定や法律の類。掟。
※ 撫育(ぶいく)➜ 常に気を配り、大切にそだてること。
※ 調略(ちょうりゃく)➜ はかりごとをめぐらすこと。もくろみ。たくらみ。計略。策略。


八月八日、岐阜へ信長、着き給う。この時、江北の阿閉淡路守、味方に属すの由、注進あり。則ち出馬、各(おのおの)休足(きゅうそく)無く出陣なり。小谷に於いて、人質男、生害す。年十才、阿閉が実子なり。八月十日夜、月ヶ瀬の城(浅井人数)の敵退散。佐久間、柴田、大嶽の北、山田山に相移りて、越前へ通路を留(とど)む。朝倉の義景これを聞き、則ち出張して、田辺山近辺に陣を屯(とん)す。高月の里、信長、宗徒の衆陣取り、浅見対馬守味方に属す。大つくの城、丁野山城、降参せしめ、味方に成る。案内者として先登せしめ、高月に陣取る。柴田、佐久間、織田市介、稲葉伊予、滝川、蜂屋、丹羽、氏家、伊賀、蒲生、その外の衆へ、信長より使者あり、敵大略(たいりゃく)夜中に退くべし。各(おのおの)油断有るべからずの儀なり。夜中に北敵陣に火の手見ゆ。信長すわやと思い、打ち出で給う。案の如く義景退散す。
※ 休足(きゅうそく)➜ 休息。のんびりとくつろぐこと。仕事や歩行などをやめて体を休めること。
※ 大略(たいりゃく)➜ おおよそ。大体。
※ すわや ➜ 急の出来事に驚いたときなどに発する語。それ。あっ。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「老骨秘剣 はぐれ長屋の用心棒 26」 鳥羽亮 著
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「当代記 巻一」を読む 38

(散歩道のヤツデの花、昨日撮影)

午後、門出大井川へ行き、渋柿20個、1500円、購入し加工した。今シーズン計191個。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

七日、二条室町御所取り巻かれ、色々懇望せしめらるゝ条、身命を助けられ、十六日、信長真木島へ発向、梶原弥三郎先陣を望み、一番に川を越し、さて稲葉伊予守河を越し、真木島へ責め入る。義昭、種々懇望せしめ給う間、河内国若江城へ退(しりぞ)け申し、この頃まで相公(しょうこう)などを討ち奉ること、如何(いかが)の由、信長思慮(しりょ)し給う。後には討ち奉らざる事、後悔し給いけると云々。(梶川一番に河を越すべき事、信長兼ねて曰いけるとなり)義昭は若江より、紀州由良へ御退き、それより中国へ移り給う。この時、摂州の池田勝政、伊丹兵庫退治(たいじ)さる。〔義昭は芸州に在国在りしが、太閤秀吉の時、出仕あり入道し給う。庶人(しょじん)の如く牢人、その後天正十八庚寅(1590)の年三月、秀吉関東発向の時、伴ない給い、また大坂に在り。一両年已後、病死せしめ給う。〕
※ 相公(しょうこう)➜ 参議の唐名。ここでは、足利義昭のこと。義昭は参議であった。
※ 庶人(しょじん)➜ 世間一般の人々。庶民。


上京(かみぎょう)炎上、不便に思(おぼ)し給い、還り住むべくの旨、曰い、條目書(じょうもくしょ)下げらる。
    定め
一 京中、地子銭(じしせん)、永代赦免せしめ畢(おわ)んぬ。若し、公家、寺社方より、地子銭の内、収納有り来たる分は、替地を相計り、以って沙汰致すべき事。
一 諸役免許の事。
一 鰥寡孤独(かんかこどく)の者見計り、扶持方、これを下行(げぎょう)せしむべき事。
一 天下一(てんかいち)号を取る者、何の道にても大切なる事なり。但し、京中諸名人として、内評議有りて相定むべき事。
一 儒道の学に心を砕き、国家を正さんと深く志を励(れい)す者、或いは忠孝烈(れつ)の者、尤も大切なる事候条、下行など、他に異なりて相計るべし。またその器の広狭(こうきょう)の尋問、これを告知すべき事。
右條々相計り、申し付くべきものなり。
  元亀四年七月吉日              信 長
      村井長門守
※ 條目書(じょうもくしょ)➜ 箇条書の文書。
※ 地子銭(じしせん)➜ 地子として納付する銭。銭納される小作料、地代。また、銭納される地税。
※ 鰥寡孤独(かんかこどく)➜ 身寄りもなく寂しいさま。また、その人のこと。▽「鰥」は老いて妻のない夫。「寡」は老いて夫のない妻。「孤」はみなしご、「独」は子のない老人のこと。
※ 下行(げぎょう)➜ 米などを下賜すること。
※ 天下一(てんかいち)➜ 近世、「天下一」を名のることを許された鋳物工・陶工・能面師などの家。また、名人を自任する者が、作品につけた銘。
※ 村井長門守(むらいながとのかみ)➜ 村井貞勝。織田氏の家臣。織田政権下の京都所司代。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「そりゃないよ よろず相談屋繁盛記 3」 野口卓 著
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「当代記 巻一」を読む 37

(散歩道の葉まで赤いケイトウ)

午後女房と散歩。あちこちに葉まで赤いケイトウがよく目立つ。

故郷の、おふくろの在所、甥にあたるHさんが亡くなられたと、在所の次兄から昨晩電話があった。自分のいとこに当る。享年90歳。両親が健在のころは、毎年のようにお盆にお墓参りに行った。木工細工が得意で、色々な木工作品を頂いた記憶がある。今は不幸があっても、飛んで帰られる時ではなく、義理を欠くことになるが、こういう時代はいつまで続くのであろう。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

元亀四癸酉(1573)正月十日、松永降参、岐阜へ参上、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差、進上せしむ。これ何(いず)れも天下無双の名物なり。これ佐久間右衛門、取り扱いを以ってなり。多門の城相渡す間、山岡対馬守を置かる。この頃、義昭将軍、信長を亡ぼすべき旨、思し召し立ち、これは去年の冬、諫言(かんげん)の書、御耳を逆らう故とぞ聞きし。
※ 不動国行(ふどうくにゆき)➜ 来派の刀工・来国行の作。裏側に不動明王の浮き彫りがあるため、この呼び名がついた。
※ 薬研藤四郎(やげんとうしろう)➜ 鎌倉時代の刀工・粟田口吉光(通称、藤四郎)作の短刀。薬研(やげん)をも貫くといわれこの名が付いた。
※ 名物(れい)➜ すぐれているもの。名器。


二月廿日、信長人数立てられ、則ち、山岡光浄院(道阿弥のこと)味方せしめ、則ち参陣、堅田の城をば責め落さる。三百余討ち捕らる。坂本に明智十兵衛を指し置かる。三月二日に、各(おのおの)美濃へ皈(かえ)らる。三月廿五日、信長出馬、廿七日、大津へ着き給う。細川兵部大夫藤孝、荒木信濃守、御迎えのため参上す。この間、義昭御謀叛の次第、具(つぶさ)に相尋ねらる。廿八日、義昭、種々悃望せしめ給う間、公、臣の礼として無事の姿なり。
※ 臣の礼(しんのれい)➜ 臣下の礼。

四月七日、信長京を出で、下り給う。丹羽五郎左衛門に舟を造るべき旨、仰せ付けらる。(元亀四年四月、信州駒場において、武田信玄病死)七月朔(ついたち)、義昭重ねて御謀叛、二条の御所には日野大納言、藤宰相残し置かれ、義昭は真木島へ楯籠(たてこも)り給う。信長、同五日出馬。去る四月、丹羽五郎左衛門に仰せ付け、揃え給う十艘舟に乗って、湖を越え給う。翌日六日、洛中洛外辺土(へんど)百八里、民屋(みんおく)、堂社、仏閣、一宇も残らず放火。この時、上京(かみぎょう)を放火有るべきや、否やと、暫し思案し給う処、三井寺の鐘、汗をかき申すの由、聞き給う。さては鐘さえ京の火事を存ずやとて、則(すなわ)ち焼き給うと云々。
※ 辺土(へんど)➜ 都の近辺の地。近郊。
※ 民屋(みんおく)➜ 一般の人々の住む家屋。民家。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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「当代記 巻一」を読む 36

(庭のアセビの花芽)

気が付けば、庭に一株植わっているアセビが、沢山の花芽を持っていた。この所、年々花芽が減って部分的に枯れる所も見えていた。今年、花が終って新芽が出たことに、小さな毛虫がいっぱい新芽を食べていた。こいつが原因かと、スプレー消毒をしたら、毛虫がバラバラと落ちた。結果、アセビの株は元気を取り戻し、沢山の花芽を付けることになった。もっともアセビの花が咲くのは、来春である。

午前、午後と「古文書に親しむ」の初心者と経験者のコースを実施した。合わせて4時間、一人でしゃべっていて、やはりぐったりと、疲れた~~。今日は皆さんに、出来たばかりの干柿を一つづつだが、進呈した。山梨県産の、「えぼ柿」を、手間をかけて干した自信作である。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

十二月、二俣城落居(らくきょ)の間、普請(ふしん)せしめ、番手(ばんて)を入る。同廿二日、信玄、都田打ち越し、味方ヶ原へ打ち上り、浜松衆、物見(ものみ)として十騎、廿騎づつ懸け来たり、取り合いの間、これを引き取るべくの由曰(い)い、家康公出馬の処、不慮(ふりょ)に合戦に及び、浜松衆敗北、千余討ち死に。(信玄人数二万、浜松衆八千ばかりなり)浜松近辺放火、但し、町中へは押し入らず。則ち、取り詰めべく、かの旨評議有り。然れども、家康公居城なり。左右(そう)無く、落居(らくきょ)難し由、談合せしめ、徒(あだ)に十日に及び、かの野に在陣なり。この時、信長より加勢の衆、佐久間右衛門、平手、水野下野守などなり。平手は討ち死ぬなり。下野守は三河岡崎まで遁(のが)れ行き、比興(ひきょう)成る躰なり。大方、信玄と一味有るべし、と云々。
※ 落居(らくきょ)➜ 物事のきまりがつくこと。落ち着くこと。
※ 番手(ばんて)➜ 城中を守る武士。城番。
※ 不慮(ふりょ)➜ 思いがけないこと。不意。
※ 左右無し(そうなし)➜ 決着がつかない。どちらとも決められない。
※ 比興(ひきょう)➜ 臆病なこと。卑怯なこと。また、そのさま。


一両年を経て、水野下野守は三川国岡崎に於いて生害(しょうがい)す。これ苅屋、小川の主なり。家康母方の伯父たるなり。下野守在所、苅屋をば、弟水野宗兵衛へ、召し寄せ下さる。近年、宗兵衛は家康へ奉公の人なり。家康、伯父たるにより、家康への懇志(こんし)として、信長、この儀に及ばるゝ儀。小川は佐久間右衛門介、(のっと)なり。
※ 生害(しょうがい)➜ 自殺すること。自害。
※ 召し寄す(めしよす)➜ 下位の人に命じて持ってこさせる。お取り寄せになる。
※ 懇志(こんし)➜ 親切で行き届いたこころざし。ねんごろな心。
※ 法る(のっとる)➜ 乗っ取る。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)
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